美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

由紀草一氏  「主権者意識と人権と」  (イザ!ブログ 2012・12・20 掲載)

2013年12月05日 22時30分34秒 | 由紀草一
対話を継続したいと考えますが、2カ月に一度の応答では、よほど奇特な人でない限りトレースしてくださらないでしょうね。(前回の美津島の投稿 http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/0c1a4820280064ac07dcb9365ee3dd30

例えば、拙文を読んで、美津島さんの、私への応答に限らず種々の発言を思い出していただき、いろいろな角度から、戦後民主主義の問題など、考えるよすがにしていただけたら幸甚です。ただ私としては、あくまで美津島さんと議論するつもりで文を綴りますので、結果として、他の人の役にも立てばいいなあ、と願うばかりです。

「教育問題については、私には由紀さんに対する異論はありません」とのことです。そんなことはないんじゃないかな、と思うんですが。いやいや、絡むような言い方はやめましょう。異論が出ていないのだから、これに関しては今回云々するのはやめます。

たった一つの話題だけは振っておきます。今度の選挙で、大方の予想通り、自民党単独で294議席、公明党と合わせると325議席の安定多数を得て、安倍晋三さんが総理として復活することが確定しました。美津島さんや小浜逸郎さんなど、私が信頼している人々が安倍支持を表明しているのだから、私も、こと経済政策については、安倍さんに期待することにします。

しかし、選挙前のTVCFを見ていたら、安倍さんが出てきて、「日本を取り戻す」なるキャッチコピーを言っていました。その三本の柱のうちの一つが、「教育を取り戻す」だそうで。そう言われると私としては、かつての安倍内閣時の「教育再生会議」を思い出して、いやな気分にならざるを得ません。

これは直接は中曽根内閣時にできた臨時教育審議会以来の「教育改革」路線を引き継ぎ、その集大成といった構えで、いろいろ学校に、つまりは教員に、余計な仕事を押しつけたものです。例えば教員免許更新制。私は、これが廃止されそうだ、というだけで、民主党政権を支持したのですが、民主党にはこの一事すら裏切られました。

その他再生会議、というよりここに集成された一連の教育改革についての批判を、私は夏木智との討議の形でまとめ、できれば出版したかったのですが、どこも引き受けてくれるところはなく、我々の同人誌『ひつじ通信』に載せただけで終わりました。それは我々の力不足というだけで、誰かを恨んだりする筋合のものではありません。

今は一番言いたかったことだけを言います。学校教育に関する基本理念が現状のままである限り、どのような改革も必ず改悪になる、そうならざるを得ないのです。安倍さんが具眼の士であるなら、これをわかっていただきたいのですが、無理かなあ。教育に関する「誤った思想」(佐伯啓思『経済学の犯罪』より)は、ある意味経済のよりタチが悪いようです。

上記は、私の生涯の目標の一つになりそうな事案なので、これからも、誰にも頼まれなくても、折にふれて申し上げていくことになるでしょう。

で、今回は、美津島さんのお題にあった「主権者意識」と、「戦後民主主義」理念のうちでも特に「人権」について述べましょう。

まず、「主権」sovereign powerという言葉の意味ですが。これには二つあることは御存知ですよね? 国家主権、というのは、ある国家が、他国の干渉を受けずに、独自に法律を決めて、統治してよい権利のことです。近代国家とは、この権利を備えた国のことです。そしてこの主権の及ぶ地理上の範囲を、その国家の「国土」と呼ぶのです。

一方、「主権者」というと、「至高の力の持ち主」ということです。絶対権力者です。なんせ、主権者は間違えることはない。というか、彼が間違っている、と判定するだけの権威が国内に存在しない。普通は、王権神授説などに基づく、絶対王制の王様が主権者であって、ただし文字通りそうであった王様は、世界史上、そんなに多くはいません。

では、「国民主権」とはどういう意味なのか。国民の「一般意思」を至上とする、ということでしょうか。そんなものがあるのかどうか。ルソーが「社会契約論」で述べているところは難解で、私などの理解力では及ばないので、どうぞ教えてください。今のところ、悪い頭で考えたところでは、これは純粋な理念なのであって、現実に存在している、としてはならないものなのではないでしょうか。すると現実的な意味としては、「至高の力の持ち主、つまり絶対権力者なんてものは、個人としてはもういないんだよ」ということにしかならないような。

因みに、日本国憲法の「国民主権」は、よく知られているように、前文以外では第一条にのみ登場します。「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」。まるで、国民は、天皇制存続のための「主権」だけを認められているかのようですね。

それと、「主権の存する日本国民の総意」は、「一般意思」と同じなのでしょうか、違うのでしょうか? 同じだとすると、この場合の国民の総意=一般意思はいったいどういうふうに確認されたのか。日本国憲法は、大日本帝国憲法の「改正案」として、昭和21年の第90回帝国議会で可決されたのですから、反対者はいても、議会の多数決によって定められた、それが「国民の総意」だ、でいいんでしょうか。でも、たとえ直接民主制によって、国民の大多数が賛成したことでも、それは「全体意思」であって、「一般意思」ではないのですよね?……もしかしたら私は、基本的なところで大間違いをしているかも知れず、やっぱり詳しい人に御教示願うしかないようです。

こんなていたらくなので、他人に対してエラソーに御教説を垂れるなんてこと、できるはずがないんですが、それでも、「対外的独立性・統治権という意味での主権を守ることについて、主権の存する国民が当事者としてあまり真剣に考えてこなかったということです」というお言葉には、二つの「主権」があまりに無造作に並置されていて、無用な混乱を招くんじゃないかなあ、という危惧はどうしても拭えません。

以下、念のために。「国民主権」をどういう意味にとったとしても、「対外的独立性・統治権という意味での主権を」具体的に「守る」義務なんて出てきません。つまり、例えば、これから尖閣列島に中国軍が押しよせてきたとしても、日本国民である美津島さんや私が、個人として、すぐに、それと戦うためにかの地へ出かけていく、なんてこと、やる義務はない、どころか、やってはいけないことです。たとえ徴兵制が施行されたところで、対外戦争は国権の発動なのであって、国家の決定を俟って初めてできるのですから。

もちろん美津島さんはそんなことをしろと言っているのではない。戦後の日本人は、ただ権威に逆らって、好き勝手だけを主張するようなことのみを「民主主義」の名のもとにやってきた。結果として、内側では、自分たちの好き勝手を民主的な正義のように偽装した左派勢力が政権中枢にまで入りこむことを阻止できず、外側では、他国の日本に対する好き勝手が、まるで正当な権利であるかのように国際社会で主張されるのを許してしまった。今こそ我々は、政治家や官僚任せにするのではなく、自ら主体的に、この国の運営を真剣に考えるべき時だ。大雑把には、これが美津島さんの主張なのでしょう。

大筋では異論はありません。以下に述べることはいわば老婆心です。いわゆる保守派の言論に対して私が常々感じている違和感を、かすかに、美津島さんのにも感じますので。それ以上に、保守化したと言われる日本人が見落としがちなんじゃないかと思えることを、この際言っておきたいと思います。

好き勝手、と上で申しました。それが激しくなって、他人の好き勝手を踏みにじるところまでいったら、エゴイズム、と言い換えていいでしょう。それを主張すること自体が悪なのでしょうか? 答えは、「否」です。故吉本隆明が、戦後によいところがあるとすれば、国民が好き勝手=私利私欲を大っぴらに追求できるようになったことだ、と言っていたと思います。私はそれを、個々人にとってよい、というよりは、社会にとってよいことだ、と感じているのです。

なぜか。まず忘れてはならないのは、人間には必ず欲望があり、その実現を目指して行動すること自体は自然なことだ、ということです。何時代であっても、それは変わらないでしょう。欲望はこれだけ普遍的なので、よく目につきます。そしてもちろん、自分のよりは他人のそれのほうが、よりよく目につきがちなものです。結果として、放っておいたのでは人間の集団、大は国家・社会から小は家族まで、まとまりがなくなって、成り立たなくなる、とおそらくは必要以上に思えてくるので、欲望追及を抑えるためのモラルや制度ができたのだ、と考えて大筋で、いや、一面では間違いないでしょう。

それもまた、人間が社会的な動物であり、必ず社会の中で生きなくてはならない以上、当然なことです。ただ、ここで難しいのは、他人の欲望追及を抑えようとすること自体が欲望の追求になってしまう、ということです。自分が得をするために、他人の得は最小限にしたい。これもとてもありがちな欲望の形です。ただ、それをむきつけの形で押し出したのでは、あからさまなエゴイズムになってしまうので、偽装が始まるわけです。このように要求するのは我私(われわたくし)のためならず、社会全体のためである、という具合に。だから当然この偽装はその時の社会に広く認められている正義に添って行われます。

戦前だと「大日本帝国の臣民」としてのモラル、代表的なのは「愛国心」でしょうね、これをやたらにふりかざした人がそうです。ただ自分が大きな顔をしたい、威張りたいだけなのに(これも私利私欲に含まれる)、当時は誰も公には批判できなかった皇民意識が看板として使われた。こういうのが偽装です。戦後は「民主主義の理想」としての「主権者意識」とか「人権」とかに、民主主義とは関係のない「平和主義」まで加えられて、主に左翼によってずいぶん勝手に使い回されました。

マンガから例を取りましょう。青木雄二プロダクション(鬼才青木雄二が他界した後も、スタッフによって創作活動を継続している)「新ナニワ金融道」に、その名も左浴田佐助(さよくだ さすけ)なる悪党が登場し、NPO活動を隠れ蓑にして、数々の悪行を働きます。例えば、コンビニに、自分の息のかかった若者を就職させる。彼らはわざとレジを打ち間違えたり、客とトラブルを起こしたりして、頸になるようにし向ける。その後、このコンビニは人権無視で弱者を虐げる経営をしていると抗議デモをかけて、営業を妨害し、廃店に追い込む。別にコンビニ経営者に金を請求したわけではないので、彼の行いは私利私欲を離れた純粋な「弱者救済」に見え、批判しづらい。が、実は裏で地上げ屋(ではなくて債権回収専門のサービサーなんですが、細かいところは元の作品に当たってください)と結託していて、経営者をこの土地から追い出すために、もちろん金をもらって、やっていたのだった。

NPO活動をしている人の全部が、さらには純正な左翼、つまり共産主義者のすべてが、こんな悪党だと言うわけではありません。中には立派な人ももちろんいるでしょう。てな言い訳が必要と感じられるだけでも、この正義の看板は有効なんですよねえ。もちろん私は、人の問題ではなく、世の中で公認されているので、反論しづらくなっている、看板の危険性を申し上げたいのです。

そもそも、人権なんて言葉自体が曲者です。主権と同様、よくわからない。それでまたしてもよくわからないままに言っちゃって、大間違いだったら諸賢の御叱正を願っておきますが、これはどうやら、発生からして、対権力関係で問題になることだと考えるのがいいようです。権力とは、「強制的に人に何かをさせる力」のことですから。ただ、なんでもやらせることができるわけではない。そこには限界があってしかるべきだ。権力を行使される側から見たら、自分を守るために、これとこれは権力側の命令があっても従わなくてもよい、そういう領域をあらかじめ決めておく。ただし逆に、こちらが無条件・無限定の権利であって、絶対だ、なんてことはありません。どちらの側にであれ、「絶対」を認めたら、人間の世の中はもたないんです。

こう考えたほうがいい、という根拠は、私たちの日常生活で、他人とつき合う上で、「人権」なんて言葉をつかわなくちゃいけない場面なんてあるのか、と思えることです。例えば、私が美津島さんの「人権を守る」なんて言ったとしたら、具体的にはいったいどういうことになるんでしょうか? およそイメージがつかめないんじゃないですか?

もちろん言葉はいろいろ転用されたり拡張されたりして使われますから、私人間でも、例えば、いじめている側はいじめられている側の人権(「幸福に生きる権利」かな?)を阻害しているのだ、と言ってもいいのでしょう。それでいじめ問題が解決しやすくなるなら。なぜ解決しやすくなるのかと言えば、警察など、公的な機関が介入しやすいからです。もっとも、そこまでいかなければどうにもならないと考えられる「いじめ」は、もう立派な犯罪ですので、ことさら「人権問題」と言う必要が実際上あるのかどうかの疑問は残ります。例えば、も三度目ですが、私が美津島さんの金を盗んだとして、「由紀草一は美津島明の人権を侵害した」なんて言う必要がありますか? 由紀はドロボーだ、堅い法律用語がほしければ窃盗罪だ、で十分ではないですか。

企業の場合だと、会社法人として公的な性格もありますし、雇用者側は被雇用者に対して業務上の権力も揮えますから、「人権問題」なる言葉のリアリティーも増してきます。不当な人事・給与の減額・馘首、など、被雇用者の社会的な信用や、まして生存権を直接脅かすものは、「人権侵害」と呼んでもそんなに違和感はないでしょう。そこに左浴田のような悪党がつけいる隙もまた、生じたわけです。

そこで、まず必要なのは、法律上あるいは社会通念からしてそれがどの程度に「不当な」行いであったかどうかの吟味です。最初から「人権侵害」なんてデカ過ぎる言葉を押し立てるのは、とにかく相手を黙らせてこっちの言い分を通そうというエゴイスティックな動機から出ている、とみてまず間違いないでしょう。

そう思えば、人権擁護法案のいかがわしさも簡単に理解されるのではないでしょうか。詳細は、美津島さんがおっしゃる通りでしょうが、単純に、「人権」を表に立てていること、しかも適用範囲が曖昧で、つまり限定がないこと、だけでも、もうダメだ、とみなしていい。

これがヒネた見方だと感じられるとすれば、それこそ戦後の左翼的な風潮がしからしめるものであって、私はこういうのこそが健全な庶民感覚だと思うのです。今の日本に一番必要なのは、少なくとも私には意味がよくわからない「主権者意識」より、平凡な日常生活を送る庶民の感覚のうち使えるものを拾い上げて、政治・経済上にも生かしていく智恵ではないかと思うのですが、いかがですか?

繰り返します。エゴイズムがエゴイズムとして主張されるなら、別に問題はないのです。過剰なまでに要求が通るなんてこと、ありませんから。険呑なのは、何やら美しい理想めいたものの蔭に隠されたエゴイズムです。

でも、他人を騙すよりもっと危ないことがあって、それは自分自身を騙すことです。つまり、理想に酔っぱらって、自分で自分のエゴイズムが見えなくなってしまうときです。

大正末から昭和初頭の日本陸軍には、「皇国のため」という名目で自分たちの勢力拡大を図った軍幹部がたくさんいました。「国のため」に仕事をしていると言いながら、財閥と結託して私腹を肥やすことしか頭にない政治家もいました。一部の青年将校たちがそれはインチキだ、と見抜いたまではいいのですが、そこから進んで、自分たちこそ国を救わねばならない、そのためには自ら「愛国心」の化身にならねばならぬ、とまで信じた。そして、現にそうなった、と信じたら、日本をダメにしている腐った奴らは一掃してしまうこともできる。否、是非そうすべきだ、ということになった。

彼らは純粋だったのかも知れませんけど、だからこそ危ない。私利私欲はないようなので、他人からも自分自身からも批判されず、どこまでも突っ走る。国家全体を恐慌に陥れるような残虐行為は、多くはこのような純粋な人々によって遂行されるのです。

だからここで安倍さんに、改めてお願いしたい。教育に関する我々の意見は受け入れてもらえなくてもしかたないですが、愛国心教育、なんてものだけはよしてください。戦後の日本では、愛国心は広く公認された価値観とは言えず、その分危険性は少ないとはいえ。だいたい、公権力の一部である公教育が、国民の価値観にまで具体的に立ち入ろうとするのは控えるべきなのです。憲法学者のうちの改憲論者として著名な慶大の小林節氏が、「政治家が愛国心を国民に説くなんて僭越だ。そんなことより、国民が自然に愛せるようなよい国にしていくようにするのが政治家の務めだ」とおっしゃっているのが、この場合至当だと思います。

しかし、これだけではすまないのが人の世のやっかいなところですね。対外問題は? 中国はどうするんだ? と言われると。

「正義は危ない」と言った舌の根も乾かぬうちに申しますが、こんな私でも「いくらなんでも」はある。2010(平成22)年の尖閣沖での中国漁船衝突事故のときには。日本の巡視船にぶつかってきた中国の「漁船」の船長が起訴されそうになったら、中国にいたフジタの社員四名が、許可なく軍事施設を撮影したとかなんとかの理由で、身柄が拘束されましたね。人質だ、とはさすがに中国政府は言わなかったですが、そうに違いない、と日本人が思うのを止めもしなかった。

いやはやなんとも、ヤクザでもめったにやらない(日本の。チャイニーズ・マフィアや蛇頭などはどうか知らない)やり口ですな。もしも、大東亜戦争中に日本がしたことがすべて彼らの言う通りだったとしても、例えば南京陥落のとき中国の非戦闘員を三十万人だか四十万人殺したのだとしても(そんなこと、あるわけないですが)、また尖閣諸島が、これまたあちらの言う通り、あちらの領土だというのが正当だったとしても、それらとなんの関係もない日本人を捕まえる口実になんてなりっこない。北朝鮮の拉致問題と同様、この不正ぶりは、正義の味方なんてまっぴら御免と常日頃思っているこの私をも正義の怒りで焼かれそうになるすごいものです。

こんな国との領土問題が、「実務的に解決可能な案件であるはずだし、また実務的に解決可能な案件でなくてはならない」なんて、閑人の寝言にしかならない。いや、一般論なら、実務的に解決することは不可能ではないと言えます。尖閣は両国の共同統治として、付近の漁業権などはまた別に協定を作ればよい。といって、中華民国も絡んでいるので、簡単にはいかないが、その方向なら、話し合いは進められるから、暴走漁船やら、尖閣の上空に飛行機を飛ばす、なんて、大国にはあるまじきみっとみないイヤガラセはやらなくても済むはずだ(でも、やったりして……、との懸念も拭えませんが、まあやる必要はなくなるはずです)。

それができないのは中国のお家事情からです。日本にほんのちょっとでも妥協することは、敗北であり、許されないことになっているようですからね。国際司法裁判所に提訴することさえ、妥協になるんです。日本に無条件に尖閣諸島を譲渡させるのでなければ、あとはすべて敗北。するとできるのは、忘れたような顔をするか(即ち、棚上げ)、戦争しかない。

なんとも困った国です。私利私欲なら、上に述べたような妥協のしようもあるのです。情念が、少なくとも自分では正義だと信じているものへの情念が絡んでいるのが厄介なのです。「愛国有理」というやつが。中国政府は、領土拡張と、国内の自分たちへの不満を日本へ向けることでかわそうとする私利私欲は、きっとあるのでしょう。しかし国民の間に一度燃え広がった情念を、いつも自分たちの都合のいいように利用できるかどうか、はなはだ危うい。実現可能な妥協策をとれなくしているという意味では、明らかに損な道を選ばざるを得なくなっているのかも知れない。この危険は、中国政府にはどれくらい自覚されているのですかね。

もう一つ、これは美津島さんがおっしゃっていることでもありますが、この問題から見えてきたことがあります。先程私は、「エゴイズムがエゴイズムとして主張されるなら、別に問題はないのです。過剰なまでに要求が通るなんてこと、ありませんから」と申しました。しかし、衆を恃み暴力を使って、自分の好き勝手を通そうとするヤクザ者も世の中にはいます。それをどうするかって、もう警察による有形力の行使しかないでしょう。仙谷由人が、「国家は暴力装置だ」と言ったんですけど、なんのつもりだったんですかね。暴力装置を含まない国家なんて、なんの役にも立ちはしない。

戦後の日本は、国内的にはともかく、対外的には、暴力なしですまそうとしてきました。でも、国際社会には警察がありません。日本に対して無茶なことをする奴がいたらどうする? そんな国はないんだ、と思わせることに、左翼的な言論人たちは多大なエネルギーを費やしてきました。でもやっぱり心配、ということなら、万が一のときには国連があるさ、アメリカも助けてくれるさ、だからよけいな気苦労はしないでね、とも言った。しかしこれではよその国の軍事力に頼っているからこそ成り立つ「平和主義」だ、結局軍事力は否定できていないんだ、という簡単な論理も意識の外に追い出せるぐらいまで一般の日本人を洗脳できたのですから、左翼的な言論及び言論人侮るべからず、ではありますね。

以上は拙著『軟弱者の戦争論』で縷々申しましたので、これ以上は申しません。つけ加えるべきこととしては、尖閣問題がこれ以上悪化して、いよいよ戦争、ということになった場合、アメリカは頼りになりますか、ということなんですが、これはけっこう怪しい。

かの国は最近、「尖閣諸島は日米安保条約の範囲内」だが、「領有権の問題については、特にどちらの味方もしないので、どうぞ両国で話し合ってくれ」というメッセージを発していますでしょう。これを中国向けとすると、こんな意味になるんじゃないかと思います。

「中国はんとは最近商いでふこうお付き合いするようになりまったさかい、あんなこまいシマのことで、それも、わてらんとこのでもないのに、揉めとうはありまへん。けど、あんまり手荒なことされたら、わてらにもメンツがありまっさかい、黙ってるわけにもいかんようになるかも知れまへんで。そこんとこ、あんじょうよろしく頼んまっさ」。これがいわゆる米軍の抑止力で、これもなかったら、中国はさっさと軍隊を送ってきていたんじゃないですか。

でも、結局のところ、有事の際、アメリカがどれくらい日本を助けてくれるのか、わかったものではありません。安保条約はあっても、理屈なんて後からいくらでもつけられますもの。まあ仕方ない、アメリカは所詮他国なんですから。必ずこっちの都合のいいように動いてくれる、なんて期待するほうが、こっちの得て勝手なんです。

すると、最終的には、自分の国は自分たちで守るしかない。そういうのが主権者意識なんだ、と言われるなら、反対する理由はありません。いざ戦争となったら、ホットな愛国心よりクールな戦略のほうが大事になると思いますが、前者が全然なしではすまない。

ただ、美津島さんがこの言葉で徴兵、つまり国民皆兵まで考えていらっしゃるとしたら、それには賛成しません。よきにつけ悪しきにつけ、専門分化の時代で、ちょっとやそっとの訓練で近代兵器を扱えるようになんてなりませんから。その部分は自衛隊、安倍さんの構想がうまくいけば国防軍になるかな、に任せるに如くはないと思います。

何も恥ずかしいことではないでしょう。家の近所でヤクザ同士のドンパチが始まったとしたら、私は体を張って家族を守ろうとするよりは(そんなことしたって屁の突っ張りにもなりません)、警察の保護を求めます。それが当然でしょう? ただ、これも美津島さんがおっしゃったように、国民の代表として、国民と国土を守るために身命を賭して働く人々への敬意を忘れなければ、それでよいのだと思います。

長々と書きました。ご返事をお待ちします。


*これに対して、私は、まだ返事を書いていません。実はご本人に対して、どうにも返事が書きにくい旨をお伝えしています。というのは、これ以上踏み込むと、論争のポイント・オブ・ノー・リターンを踏み越えるのではないかという感触が生じたのです。私は、由紀草一氏を打倒すべき論敵とはまったく思っていません。それどころか、傾聴に値する教育言説家と思っています。ほかに打倒したい論客は山ほどいるのです。で、「共食い状態は避けたい」と、由紀氏に申し出た次第です。そうなることは、私に少なからず苦痛と空虚感とをもたらすことが目に見えています。どんな場合でも議論の徹底を図るべきであるという「議論原理主義」の観点からすれば、私は情けない奴ということになりそうです。今回に関して、私は、その批判を甘受いたします。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 日本経済にとっての吉報! ... | トップ | 小浜逸郎氏 『臆病学者から... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

由紀草一」カテゴリの最新記事