美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

宮里立士氏・沖縄の政治状況の「今」  (イザ!ブログ 2013・12・16 掲載)

2013年12月28日 05時50分07秒 | 宮里立士
沖縄の政治状況の「今」
                          宮里立士

先日、大東会館で開催された大山晋吾先生主宰の武士道研究会に参加しました。

大山先生は、昨年まで靖国神社に勤仕され、現在は沖縄一の宮である波上宮の神職を勤めておられます。私は、昨年二月、先生が波上宮に赴かれる際の壮行会に誘われたこともあり、今回も参加しました。「沖縄の現況と敬神崇祖の土壌」と題されたご講話で、古くから沖縄にも天照大神を祀る社があったことや、神道の根本精神である「敬神崇祖」の念が沖縄の人びとに昔から今に至るまで脈々と受け継がれていることを実感されたことなどが披露されました。昨年十一月に沖縄をご訪問された天皇皇后両陛下を歓迎するパレードが那覇市で行われ、七千人の人びとが行進したことも話されました(マスコミは一部を除きこのような事実は報道していません:宮里)。そして、翻って沖縄の政治社会状況についてお話がありました。

現在、沖縄の政治問題の大きなポイントのひとつに普天間基地の名護市辺野古地区への移設問題があります。中国の一方的で横暴な防空識別圏の設定で、新たな段階に入った尖閣問題も睨み、その早急な解決が心ある人びとから望まれています。それは沖縄のなかでも変わりありません。しかし、鳩山民主党政権の普天間基地移設の「最低でも県外」という空約束で、前回の名護市長選で移設反対の稲嶺進氏が容認派の現職・島袋吉和氏を僅差で破り、辺野古移設が進まなくなってしまいました。

それから四年近くが経ち、形勢はまた変わりつつあります。タテマエだけの稲嶺市政で名護市は疲弊し、来年一月十九日の市長選に向けて移設容認派が盛り返して来ているようです。その証拠に「基地統合縮小」につながる辺野古移設支持の署名が県内だけで五万名に達しているとのことでした。また、人口六万千八十人の名護市で、この署名が一万を超えたことも教えられました。

特にもともと名護市と別区域で、戦後、さまざまな事情から名護市に編入された辺野古地区では、行政や経済において、中心地から何かと不利な立場に立たされ、住民の大多数は移設容認です。これらの事情を大山先生は懇切にお話されました。たしかに、このことは米軍に好意的な辺野古地区のホームページを観ても解ります(【辺野古】-沖縄県名護市辺野古区のホームページへようこそhttp://www.henoko.uchina.jp/base.html)。マスコミが取り上げる辺野古の反対派のテント小屋は地区外、あるいは県外から来たプロ市民のアジトのようなものです。同地区の大多数の住民は迷惑に感じています。私もかつて辺野古を訪れたとき、その雰囲気を感じました。

先生のお話を伺い、沖縄の現況の変化、というか、沖縄の人間としてそのことを承知していた私も意を強くしました。しかし、とはいえ、今回、名護市長選で保守系候補の一本化に失敗し、二人の候補が立つことで共倒れが危惧されてもいます。前副市長で自民党県連推薦の県議・末松文信氏と、前市長の島袋氏のふたりです。しかも、この両人は移設問題をこじらせた当事者であるとの批判もあります。元防衛次官の守屋武昌氏は、島袋、末松両氏は辺野古移設をできるだけ、「引き延ばし」「二枚舌」を使い、時間稼ぎをして、国から取れる限りの「カネ」を搾り出そうとしたと、自著の『「普天間」交渉秘録』で批判的に描いています。もちろん、一方の立場からのもので真偽は解りません。しかし、残念ですが、基地関連の国庫補助に依存しなければ、やっていけないと、沖縄、特に中北部の、首長が思い悩んでいるのも事実です。末松氏は、仲井真知事に移設問題の下駄を預けた「アイマイ戦略」で乗り切ろうとしているようです。それに不満の島袋氏は明確に「移設賛成」を掲げて出馬しています。従来の責任を取るために、火中の栗を拾おうとする覚悟と信じたいところです。

この二十年の間、名護市長選の争点は実は「辺野古移設」の一点です。しかも市長選は前回以前にすでに三回、容認派が勝利を続けてきました。その分、四年前の鳩山民主党政権のできない「公約」は罪深かった。現在、移設反対を掲げる稲嶺市長も、その前は名護市職員として辺野古移設の行政に取り組んでいたそうです。それが前回の市長選で「風を読んで」、俄か反対派として当選した風情があるとも聞きます。

これらのことを思いあわせると、ほんとうのところ何とも気が滅入ってきます。国政が責任を持って考えるべき「国防」「安全保障」の混乱に振り回され、そのツケを「オキナワ」が払わされているように思えてならないからです。

こういう不幸な沖縄の政治状況の「今」が変わることを冀ってやみません。
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小沢昭一という映画人 (イザ!ブログ 2013・12・15 掲載)

2013年12月28日 05時45分19秒 | 映画
小沢昭一という映画人



今日私は、池袋新文芸座に行ってきました。小沢昭一が出演している映画を観るためにです。当映画館では、十二月八日(日)から一八日(水)まで「小沢昭一一周忌追善特集」を開催しています。私が行ったのは、そのうちの今日と十日(火)の二日間です。十日に上映されたのは、『お父ちゃんは大学生』(1961年、吉村廉監督)と『サムライの子』(1963年、若杉光夫監督)で、今日上映していたのは、『果てしなき欲望』(1958年、今村昌平監督)と『痴人の愛』(1967年、増村保造監督)です。

十日には、麻生中高時代と早大時代の同級だった大西信行氏(劇作家・脚本家)のトークショウがありました。小沢昭一が落語の芸のレベルでフランキー堺にどうしてもかなわないのを悔しがっていたこと、後に俳優になる仲谷昇(個人的には、成瀬巳喜男『放浪記』で、高峰秀子扮する林芙美子の最初の同棲相手役が印象に残っています)が当時から水のしたたるいい男で、学徒動員先で女学生たちの人気を独り占めしていたのに対してもおおいに悔しがっていたこと、俳優になって撮った初めてのブロマイド写真の鼻の右下の大きなほくろを撮影担当者が傷と間違えて削り取ってしまったことなどを、面白おかしくなつかしそうに語っていました。場内のまばらな客に向かって「小沢のことを忘れずに、映画を観に来てくれて本当にありがとう」と頭を下げていたのが、なんとも切なかったですよ。「七十年の付き合いだよ。親よりも女房よりも長いんだからね」と感慨深く語ってもいました。ついでながら、仲谷昇は、いい男であるばかりではなくて、ケンカがめっぽう強かったそうです。けれど、勉強はあまりパッとしなかったとのこと。麻生時代の同級には、他に俳優の加藤武がいます。大西氏は、早大時代に出会った今村昌平のことは、別格の扱いをしているようでした。

今日実は、『果てしなき欲望』に出演した柳澤愼一(歌手・俳優・声優)のトークショウが予定されていたのですが、当映画館に来る途中何かにぶつかって緊急入院する旨が開始の10数分前に判明するというアクシデントがありました。大丈夫でしょうか。かつておおいに人気を博したテレビ番組『奥様は魔女』のダーリン役の吹き替えで昔の日本人の耳にしっかりと刻み込まれたあの陽気な美声が聞けなくて本当に残念でした。心より回復を祈ります。

さて、映画の話に戻りましょう。

私が観た四本それぞれに感慨深いものを感じたのですが、とりわけ心を動かされたのは、増村保造監督の『痴人の愛』(谷崎潤一郎原作)でした。浪費癖があり、手当たり次第に男たちと肉体関係を持つなど、ご乱交の限りを尽くすナオミ(安田道代)から人生をメチャクチャにされるほどに振り回されながらも、どうしても関係を断てず、彼女への執着によって頭がおかしくなりそうなダメ男の苦悩と悦びを、小沢昭一は、渾身の演技で表現しています。ラスト・シーンで、関係を修復し、ナオミを背に載せてお馬さんごっこを半狂乱で繰り広げながら、小沢昭一演じる譲治が「やっと夫婦になれたんだ。もう一生離さないぞ」と絶叫するのに応えて、ナオミが「譲治さん、愛してるわ。私もあなたしかいないの」と初めて真情を吐露し、譲治の背中にしがみついて嗚咽をこらえる姿には、エロスの真実が表現されていて、観る者の胸を打ちます。シリアスの極みの滑稽さ、不格好さ、愚かしさ。あるいは、滑稽さ、不格好さ、愚かしさとしてしか表されえないシリアスな思いの哀しさ。どう言ってもよいのですが、そういう生と性のリアリティに迫る描写になりえていると思いました。画竜点睛を欠く点があるとすれば、ナオミ役の安田道代に男を狂わせるだけの魔性があまり感じられないところです。いい女のイメージは、時代によってかなり変わる、ということでしょうか。

ある軍医が埋めた時価6000万円のモルヒネを、昔の日本兵の元同僚たちが掘り当てようとする『果てしなき欲望』では、前科者の凶暴な大男を演じる加藤武の怪演ぶりが、強烈な印象を残します。彼は、小沢演じる小男を叩きのめして青息吐息の状態に追い込むのですが、小沢から逆襲を喰らい、鉈(なた)で脳天をかち割られて息絶えます。まさに、欲望と殺意ドロドロの今村ワールドですね。渡辺美佐子の爛熟した色気もすごかったですよ。西村晃や殿山泰司の好演ぶりも印象に残ります。

今村昌平は、『サムライの子』では脚本を担当しています。この映画の舞台は北海道の小樽で、「サムライの村」は、屑屋の集落の蔑称です。「野武士」というのは、それよりもさらに下層の住民票もない人びとの蔑称です。小沢は、「サムライの村」の飲んだくれの薄汚い無精ひげの親爺役を好演しています。強烈なのは、その妻を演じた南田洋子です。彼女は、精薄で蓬髪でぼろきれのような褞袍(どてら)を身にまとって乱暴な言葉使いをする汚れ役を果敢に演じています。意外なほどの性格の良さが哀れを誘います。言われなければ、演じているのが南田洋子だとは、ふつうの人は気づきません。大した役者魂の持ち主であることを再認識いたしました。浜田光夫のいつもながらの爽やかな演技がなつかしい。

南田洋子は、『お父ちゃんは大学生』では打って変わって知的でこざっぱりとした子持ちのキャリア・ウーマンを演じています。こちらが、南田洋子という名を聞いて、自然と思い浮かべる彼女のイメージ通りの役柄でしょうね。南田洋子って、声がなんとも素敵な女優さんだったのですね。包みこむような優しい響きがあるのです。夫の長門裕之は、あれにやられたのでしょうか。小沢昭一は、大学八年生の役で、なさぬ仲の長男(新沢輝一)との友だちのような交流ぶりがなんとも心温まります。左卜全、由利徹、清川虹子と懐かしい顔が登場します。

この企画、後三日あります。特に、明後日の十七日(火)には、デジタル修復版の『幕末太陽傳』(1957年、川島雄三)が控えています。お暇なら、足を運ばれてみてはいかがでしょうか。私ですか?ええ、行こうかどうかちょっと迷っています。だって、今度行くとこの映画を観るのが五回目になるのですから。とはいうものの、映画館で観る映画は、格別ですからね。さて、どうしたものやら。http://www.shin-bungeiza.com/program.html
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WTO(世界貿易機関)の歴史的合意の意義について  (イザ!ブログ 2013・12・13 掲載)

2013年12月28日 02時46分10秒 | 経済
WTO(世界貿易機関)の歴史的合意の意義について

十二月七日、WTO(世界貿易機関)が、歴史的合意に達しました。

WTOは、GATT(一九四七年設立)がその前身で、自由貿易促進を主たる目的として創設された常設の国際機関です(一九九五年設立)。新多角的貿易交渉(新ラウンド,ドーハ・ラウンド)は、2001年に開始が決定されました。その後の交渉は、先進国と急速に台頭してきたBRICsなどの新興国との対立によって中断と再開を繰り返しました。その末に、ジュネーブで行われた第4回WTO閣僚会議(2011年12月17日)で「交渉を継続していくことを確認するものの、近い将来の妥結を断念する」(議長総括)とされ事実上停止状態に陥っていました。その経緯を考えれば、今回の合意は、本当に画期的なことです。奇跡的、と言っても過言ではないでしょう。

私はそんな風に考えていたので、関連の報道を心待ちにしていました。ところが、これといった記事がなかなか登場してこなかったのです。今回やっと見つけたかと思ったら、なんと英フィナンシャル・タイムズ紙の記事の翻訳だったというわけ。日本のマスコミはどうなっているんでしょうかね。下に、それを引きましょう。

バリ合意、貿易自由化交渉に新風(社説) 日経新聞
2013/12/9 (2013年12月9日付 英フィナンシャル・タイムズ紙)

10年以上の歳月を経て、世界貿易機関(WTO)の多角的通商交渉(ドーハ・ラウンド)がついに決着をみた。7日、インドネシア・バリ島で開かれていた閣僚会議で成立した部分合意は、2001年に中東カタールのドーハで交渉開始が決まったときの野心的目標とは隔たりがある。だが、その象徴的意味は決して小さくない。1947年の関税貿易一般協定(GATT)の発足以来、世界経済に寄与してきた多国間の貿易協議に、今回の成功が新風を吹き込むものと期待される。

合意の背景にはよく練られた政治的アプローチがある。途上国と先進国が農業補助金などの問題で互いの主張を譲らない中、WTOはより合意しやすい「貿易円滑化」のための一連の政策を示した。国境を越える物資を増やせば、金融危機後に鈍化した世界貿易を勢いづかせることになる。世界で最大1兆ドルの経済効果をもたらすとの試算もあり、最大の受益者は新興国となる見通しだ。

■漸進的合意が必要
今回の打開はWTOが自由貿易の仕掛け役としての威信を取り戻す一助になりそうだ。WTOは18年の歴史において加盟159カ国の合意を一度も達成していない。再び失敗すれば、WTOのもう一方の役割である国際貿易紛争の仲裁における権威はさらに傷つきかねなかった。現行ルールの執行においてこの役割は不可欠なものだ。

9月にWTO事務局長に就任したブラジル人外交官ロベルト・アゼベド氏の国際的評価も高まっている。同氏は今後、より広範な貿易自由化に向けて努力すべきだ。非現実的な「グランド・バーゲン(包括的交渉)」ではなく、今回のバリ合意のような漸進的合意を積み重ねるべきだ。

WTOの障壁となり得るのは欧米や日本などの先進国が協議している地域経済協定だ。これらは途上国との間の交易を妨げる恐れがあるため、本来は世界規模の枠組みが望ましい。だが一方で、プラスの成果を生む公算も大きい。WTO加盟国間に依然、深い亀裂があることを考えると、短期的には「広域経済連携」が世界貿易を復活させる最大の望みといえる。

こうした交渉は参加を希望するどの国にも開かれたものであるべきだ。同時に、先進諸国はWTOの交渉を諦めてはならない。「富裕国クラブ」にこもる姿勢も避けなければならない。バリでの驚きの前進は、多国間主義が依然として世界の繁栄を促進する大きな可能性を持つことを示している。


私が注目しているのは、もちろん、今回の合意とTPPなどの特定の二国間以上の貿易交渉との関係です。それについて同記事は、「WTOの障壁となり得るのは欧米や日本などの先進国が協議している地域経済協定だ」と危惧を示しています。なぜなら、TPPなどの地域経済協定は、途上国や新興国からすれば、先進国としての既得権益を確保し独り占めするための「富裕国クラブ」に映り、心理的な意味でも国際間の経済格差を広げる危険性があるからです。その対立感情は、結局WTOに持ち込まれることになり、今回のような合意の成立をますます困難にします。

英フィナンシャル・タイムズの別の記事は、今回の合意の内容とその背景について、次のように言っています。http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/39402

世界の貿易担当相らが7日に基本合意したのは、大きな構想の枠組みで見ると、企業の通関手続きを簡素化する比較的控えめなパッケージだった。バランスを取るために、合意には途上国への譲歩が含まれていた。貧困国が新たなルールに対応できるようにするための支援、政府の食糧安全保障計画を適切にカバーするために、農業に関するWTO規約の修正を優先させるという約束、貧困国が市場アクセスを得るのを助けるための対策を強化する約束などがそれだ。だが、バリで成し遂げられたことの重要性は、その象徴的な意味合いにある。

以上が、合意の内容についての言及です。貧困国や新興国が希望を見出しうるような貿易交渉の重要性が強調されている点に、私は注目したい。私は別にヒューマニストを気取っているつもりはありません。その点は、後に触れましょう。

次に、合意の背景について。記事は、二点を指摘します。まずは、一点目。

バリでの合意は何よりも、多くの新興経済大国が抱く、自分たちが取り残されるという不安から生まれたものだ。米国と欧州連合(EU)は大西洋をまたぐ巨大な貿易協定になるものに向けて交渉を開始した。米国、日本、その他10カ国の環太平洋諸国は、環太平洋経済連携協定(TPP)の最終合意に近づいており、担当閣僚がシンガポールに集い、正念場の交渉に臨んでいる。

新興大国はまだどこも、サービス貿易を統制する時代遅れのルールを刷新しようとする米国、EU主導の取り組みに参加していない。

しかし、最貧国や、ブラジル、インド、インドネシア、ナイジェリア、ロシア、南アフリカのような重要な花形新興国にとっては、WTOが今、影響力を持つ最良の望みを象徴している。地域的なクラブが形成され、貿易関係が強化される中で蚊帳の外に置かれることは、当のクラブに入っていない国々に影響を及ぼす。それに対抗する最善の方策が復活したWTOなのだ。


世界第3位の経済大国・日本は、TPPやEUとの貿易交渉ばかりに目が行きがちで、花形新興国や途上国にとってのWTOの重要性にはあまり考えが及びません。それが証拠に、日本のマスコミは、WTOの合意の世界的な意義についてはほとんど報道しませんが、TPP交渉の年内妥結についてはいやになるほど報道しています。この、日本のマスコミの致命的な視野の狭さこそは、日本人に対する愚民化政策の真犯人なのではないかとさえ私は考えています。世界的な見地からすれば、TPPなどものの数ではないのです。WTOが機能しているかどうかは、日本にとってはいまひとつピンと来ないかもしれませんが、世界の大多数を占める途上国や新興国が、世界経済に対する希望を抱きうるかどうかの大きなポイントになるのです。その視点を持ちうるかどうかは、日本の将来にとって大きな意味があると私は考えます。それについても、後に触れましょう。

その前に、合意の背景の二つ目について。

WTOの潜在的な再生の背後にある第2の理由は、個人の才覚である。バリ会議の真の立役者はアゼベド氏だった。今年、パスカル・ラミー氏の後継者として事務局長に選出された時、アゼベド氏はブラジルのWTO担当大使であり、WTOにどっぷり浸かりすぎているのではないかとの疑念があった。途上国出身の候補者だったため、アゼベド氏の立候補を公式に支持しなかったEUや米国と協調できるかとの疑問の声も出た。

だが、9月に就任して以来、アゼベド氏はWTOに活力と規律を持ち込んだ。バリでの交渉期限が迫り来る中、数週間にわたって深夜協議が行われ、異議申し立ては60秒を超えてはならないという厳格なアゼベド・ルールの下で会議が運営された。しかし、アゼベド氏は、本当の作業は今も排他的な密室会議で行われているというWTO内で長年抱かれてきた疑念を断ち切ろうと努めた。「我々は世界貿易機関に『世界』という言葉を取り戻した」。アゼベド氏は閉幕式でこう述べた。



WTO事務局長・アゼベド氏

英フィナンシャル・タイムズは、今回の歴史的合意におけるWTO事務局長アゼベド氏の功績を以上のように讃えています。さらには、今後のWTOの行方は「アゼベド氏のスタミナにかかっている」と英国人らしいユーモアを交えて彼の手腕に期待を寄せています。

ここ二年間ほど、私は日本の地デジ放送の報道番組をほとんど観ていません。なぜか報道番組に紛れ込んできた電波系バカタレントの知ったかぶりの声を聞くと瞬殺でチャンネルをほかに回します。知性のかけらもなくて色気で売ろうとする女性キャスター(とその隣りに申し訳程度にいる草食系の若い男)の脳みそ空っぽの報道ぶりにも、嫌悪の念しか抱きません。日本の報道番組でわりと観るのは、BSフジの「プライム・ニュース」くらいでしょうか。後は、もっぱらイギリスBBCワールド・ニュースかアメリカのCNNです。別に気取っているわけではありません。それらは、日本の報道番組のような致命的な視野の狭さをまぬがれているのです。日本のしみったれた報道番組にほとほと飽き飽きしている身としては、そこに惹かれてしまうことになるのですね。ちなみに私は、いわゆる欧米バンザイというタイプの人間ではありません。

もっと具体的に言えば、BBCやCNNは、新興国や途上国の紛争や政争や経済的な困窮などに、とても敏感なのです。なぜでしょうか。彼らは、国際間の格差問題が、世界にとっても自国にとっても、優先順位の筆頭に来る問題であることをよく分かっているのです。

話を経済問題に限りましょう。新興国や途上国が経済的に豊かになることは、それらの国々にとってのみならず、いわゆる「富裕国」にとっても、とてもいいことです。なぜなら、それは、世界全体の総需要(もしくは購買力)が高まることを意味するからです。それは、世界経済に新たな市場が生まれることですね。その実現の成否が、長期的には、「富裕国」の死命を制することを、覇権国の経験を持つアメリカやイギリスの人々は、よく分かっているのです。そのことが、彼らをして、おのずからなる国際的視野の獲得を可能ならしめている。彼らの代表的な報道機関が、WTOのアゼベド氏をFRBのバーナンキ議長と同等の高い扱い方をするのには、そういう深い理由があるのです。

だからこそ、新興国や途上国が将来に希望を見出しうるような、今回のWTO合意は、世界的大ニュースとして、日本においても扱われる必要があるのです。それが、当然のことなのではないでしょうか。「アジア新興国の成長を取り込む」などといった一見威勢の良い、しかるに実は下品なことをいつまでもうそぶいている場合ではないでしょう。

その見地からすれば、TPPの成否にかまけるいまの日本には、近視眼的な国益は見えていても、広い視野と長期的な展望から割り出された国益はほとんど見えていないことが分かります。その意味で実は、いわゆる人道的見地から正しいとされることは、長期的には、国益にかなうことが多いのです。TPPに過剰にこだわり続ける日本には、大国の風貌は感じられません。それは、経済大国としてみっともないことだと私は思います。日本は、WTOの歴史的達成を心の底から我がこととして(我がことなのだから)喜び、その今後に向けての可能性を現実のものにするよう全力で支援する姿勢を示してほしいものです。

日本が今後、大国としての風貌を具えるには、たとえば、南アフリカ共和国の元大統領マンデラ氏の葬儀に、一国の首相を当然のように送り出す国益センスが必要です。価値観外交って、そういうことではないのですか?BBCは連日、マンデラ元大統領の死を悼む南ア国民の様子を映し出しています。日本の報道番組は、どうですか?
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清水宏監督作品『有りがたうさん』  (イザ!ブログ 2013・12・11 掲載)

2013年12月28日 02時37分56秒 | 映画
清水宏監督作品『有りがたうさん』

先の日曜日は、仲間内の映画会でした。今回は常連のGさんが担当で、清水宏監督の『有りがたうさん』(川端康成原作)が上映されました。ちなみに当作品の発表は、一九三六年の二月二七日。奇しくもあの二・二六事件の翌日です。暗い世相の最中、世に送り出された作品、ということになります。そんなわけで作中に、娘の身売りや失業や不景気の話がたくさん出てきます。しかし、当作品を観終えた後に心に残るのは、決して暗いものではありません。そこが、この映画の大したところと申せましょう。

当映画はトーキーです。同じ年に、小津安二郎初のトーキー『一人息子』が、またその前年には、成瀬巳喜男初のトーキー『妻よ薔薇のやうに』が上映されています。当時はまだ映画作品の八割がサイレント映画なのでした。日本初の本格的なトーキーである五所平之助の『マダムと女房』が発表されたのが一九三一年。一気にサイレントからトーキーに変わったわけではないのです。そのあたりの事情について、映画史の専門家 Mariann Lewinsky は次のように述べています。(Wikipedia 「トーキー」より)

西洋と日本における無声映画の終焉は自然にもたらされたものではなく、業界と市場の要請によるものだった。(中略)無声映画は非常に楽しく、完成された形態だった。特に日本では活動弁士が台詞と解説を加えていたため、それで全く問題はなかった。発声映画は単に経済的だというだけで何が優れていたわけでもない。というのも、映画館側が演奏をする者や活弁士に賃金を支払わずに済むからである。特に人気の活弁士はそれに見合った賃金を受け取っていた。

つまりサイレントは、当時技術的に成熟期を迎えていたのです。小津も成瀬も、そうしてここに紹介する清水宏も、そういう高度に発達したサイレント映画を十二分に作り込むことで、自身の映像作家としての力量に磨きをかけていたのです。そのうえで、トーキーに入っていった。

当作品を観ると、そのことがよく分かります。つまり、映像自体が語りうることはなるべく映像に語らせる、という映像作家・清水のハイセンスな創作態度が、当作品において貫かれているのです。だから、小うるさい説明は極力省かれていて、表現に無駄がない。ぜい肉がない。そうして、遊び心にあふれている。それが、映像表現としていかに優れたことなのか、当作品を観ていただければよくお分かりになるものと思われます。清水監督は、映像の天使を招き寄せることの巧みなお人のようですね。

戦前の映画に特有の、ゆるやかな時の流れに馴れるまで数分間ほどの時間が必要かもしれません。それさえやり過ごすことができたならば、もうしめたもの。七〇分前後の当作品を観終えた後、極上のお酒を飲んだ後のような陶酔感や幸福感があなたの心を包みこむことをお約束いたします。それは、つらい日常を寡黙にやり過ごす名も無き庶民に対する、清水監督の慎み深いエールを感じ取ることでもあります。

え?そんな感想は抱かなかったって?それは、問題です。ささくれだった今様の時間感覚が、あなたの心を蝕んでいるのかもしれませんよ。

と、まあ、これは冗談です。ゆるやかなやさしい気持ちで当作品とおつきあいいただくことを願っているだけなので、あまり怒らないでくださいね。

〔おもなキャスト〕
有りがたうさん…上原謙
髭の紳士…石山隆嗣
黒襟の女…桑野通子
売られゆく娘…築地まゆみ
その母親…二葉かほる
朝鮮の女…久原良子

〔スタッフ〕
監督…清水宏
監督補助…沼波功雄、佐々木康、長島豊次郎
脚色…清水宏
撮影…青木勇

特筆したいのは、「黒襟の女」を演じる桑野通子の美しさです。ふつう、戦前のいわゆる「美人」とされている女優さんは、戦後の私たちからすれば、いまひとつピンとこないところがあるケースがほとんどなのですが、彼女の場合は違います。いまでも十分に通用する美人です。いわゆるクール・ビューティの部類に入るでしょう。つまり彼女の美しさは、松尾芭蕉の「流行」の域を超えて「不易」の域に達していることになります。彼女は、三一歳で逝去した佳人薄命の典型のような女性です。頭の回転が早くて、ふだんは物静かな女性だったようです。さぞかし魅力的な方だったのでしょうね。当作品に出演したのは二一歳のとき。元女優の桑野みゆきは、彼女の一人娘です。


「淑女は何を忘れたか」の桑野通子(右は斉藤達雄)

上原謙についてもちょっと。当作品を観る者の目に、若かりし日の彼の鮮烈な像が焼き付きます。彼は、当時からすでに並外れた美青年だったのですが、後年のような、ポマードを塗りたくったスケこまし風はまだなくて、当作品では、彼の素の持ち味としての純朴な心優しい雰囲気がよく出ています。演技に、感情の自然な流れがあって、好感が持てるのですね。彼は、役者としての自分の作り方をどこかで間違ってしまった俳優さんなのではないかと思います。

当作品は、ぜひ拡大画面でご覧ください。いわゆるロード・ムービーの先駆けのような作品で、バスは旧天城街道を走ります。起点の港町は、おそらく下田でしょう。二つ目のトンネルは、おそらく天城トンネルで、バスは天城越えをしていることになります。その直前の、朝鮮女と「有りがたうさん」との会話やトンネル口でバスを見送る彼女の立ち姿が次第に小さくなっていくのがなんとも切なくて、こちらの胸を締め付けます。

当作品の撮影は、オール・ロケだそうです。それ自体、当時では斬新なアイデアだったに違いありません。


Mr. Thank-You / 有りがとうさん (1936) (EN/ES)
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秘密情報保護法成立は、ドラマの幕開けに過ぎない (イザ!ブログ 2013・12・8 掲載)

2013年12月28日 02時23分41秒 | 政治
秘密情報保護法成立は、ドラマの幕開けに過ぎない

小浜ブログ「特定秘密保護法案について」の当ブログへの転載をめぐって、昨日私は、小浜氏に次のメールを送りました。

私自身、参考になりそうな論考を集めて、当法案について書こうかどうか検討していた段階でした。小浜さんの論考の登場で、肩の荷が軽くなったような気がします。おっしゃりたいこと、ごもっともとうけたまわりました。当法案の必要性に関しては、まともな頭脳の持ち主ならば首肯せざるをえないものと思われます。それを受け入れたうえで、はじめて当法案の不備や危険性の防止をめぐっての踏み込んだ真摯な議論ができるのではないかと思われます。だから、当法案の不備や危険性を観念的に言挙げして、頑なに反対するという朝日新聞などの姿勢は、この法案の不備や危険性を、我が事として真剣に考えているとは到底思えません。その無責任さには、腹を据えかねています。もともと、経済政策や消費増税やTPPの議論に関して、朝日新聞などは、いつも日銀・財務省・経産省べったりのドレイ言説を垂れ流しているのですから、当法案にまつわって言論の自由をことさらに主張するなどチャンチャラおかしい。ヘソが茶を沸かします。国会を取り巻く「法案反対、ドン・ドン・ドン」の連中に至っては、バカバカしすぎて、批判の言葉さえ見つかりません。

小浜氏は、当論考のなかで「この人たち(特定秘密保護法案に反対する民主主義者たち――引用者注)は、いつもそうですが、外交・国防にかかわる政治問題を、その趣旨もわきまえずに国内問題としてしかとらえません」と言っています。私は、その言葉が脳裏にこびりついてしまいました。

では、特定秘密保護法の趣旨と何でしょうか。それをきちんと理解するには、視野を広くしなければなりません。法の枠内で判断するだけでは、当該法の真の立法趣旨は見えてこないのです。

国の安全や外交にからむ機密情報の漏洩(ろうえい)を防ぐため、というのが差し当たりの答えとなるでしょう。より具体的には、米国などから機密情報の提供を受けるために、秘密保護法制を強化するのが真の狙いなのでしょう。また、「スパイ天国」という汚名をそそぐことも、おそらく考えられていることでしょう。

ではなにゆえ、米国などから機密情報の提供を受けるために、秘密保護法制を強化する必要があるのでしょうか。

ここで私たちは、中共の覇権主義の脅威の問題に行き着きます。尖閣問題や、最近の防空識別圏問題に見られるように、中国による、わが国の領土・領空・領海に対する執拗な、手を変え品を変えての攻撃は、おさまるどころかますますはなはだしくなっています。これが短期間で止むことは差し当たり期待しない方がいいでしょう。言いかえれば、対中共においては、いわゆる非常時の常態化を、日本は覚悟しなければならないのです。

中共が執拗に仕掛けてくる軍事戦、情報戦に対処し、わが国の安全保障体制をゆるぎないものとして再構築しそれを維持するためには、現状では、アメリカの情報収集能力に多くを頼らざるをえません。日本の情報管理能力に対する、アメリカの信頼を高めて、アメリカから、より機密度の高い情報を入手する必要があるのです。そこに私は、秘密情報保護法の必要性の根拠を見ます(より機密性の高い情報を着実に積み上げていくことが、実は他日の軍事的独立の確かな礎にもなります)。

要するに、特定秘密保護法案問題の核心は、国内の法律問題・憲法問題ではなくて、外交問題なのです。

特定秘密保護法案に反対する民主主義者たちは、ことごとくそこを、意図的に、あるいは単に馬鹿であるがゆえにスルーして、やれ民主主義の危機だとか、知る権利の侵害だとか、言論の自由に対する脅威だとか、果ては憲法違反だとか、美しいけれどいつかどこかで聞いたことのあるお題目を唱えてお祭り騒ぎをするばかりです。そんな皮相的で視界狭窄の理屈が説得力を持たないのは当たり前のことです。

私は、朝日新聞の論調に関して、別に極端なことをあえて言おうとしているわけではありません。次の社説をお読みいただければ、上記の批判が妥当であることをお分かりいただけるのではないかと思われます。全文引きましょう。

(社説)秘密保護法成立 憲法を骨抜きにする愚挙
2013年12月7日

特定秘密保護法が成立した。その意味を、政治の仕組みや憲法とのかかわりという観点から、考えてみたい。

この法律では、何を秘密に指定するか、秘密を国会審議や裁判のために示すか否かを、行政機関の長が決める。行政の活動のなかに、国民と国会、裁判所の目が届かないブラックボックスをつくる。その対象と広さを行政が自在に設定できる。都合のいい道具を、行政が手に入れたということである。領域は、おのずと広がっていくだろう。憲法の根幹である国民主権と三権分立を揺るがす事態だと言わざるをえない。近代の民主主義の原則を骨抜きにし、古い政治に引き戻すことにつながる。

安倍政権がめざす集団的自衛権行使の容認と同様、手続きを省いた「実質改憲」のひとこまなのである。

■外される歯止め
これまでの第2次安倍政権の歩みと重ね合わせると、性格はさらにくっきりと浮かび上がってくる。

安倍政権はまず、集団的自衛権に反対する内閣法制局長官を容認派にすげ替え、行政府内部の異論を封じようとした。次に、NHK会長の任命権をもつ経営委員に、首相に近い顔ぶれをそろえた。メディアの異論を封じようとしたと批判されて当然のふるまいだ。そのうえ秘密保護法である。

耳障りな声を黙らせ、権力の暴走を抑えるブレーキを一つひとつ外そうとしているとしかみえない。

これでもし、来年定年を迎える最高裁長官の後任に、行政の判断に異議を唱えないだろう人物をあてれば、「行政府独裁国家」への道をひた走ることになりかねない。

衆参ねじれのもとでの「決められない政治」が批判を集めた。だが、ねじれが解消したとたん、今度は一気に歯止めを外しにかかる。はるかに危険な道である。急ぎ足でどこへ行こうとしているのだろう。

安倍政権は、憲法の精神や民主主義の原則よりも、米国とともに戦える体制づくりを優先しているのではないか。


中国が力を増していく。対抗するには、米国とがっちり手を組まなければならない。そのために、米国が攻撃されたら、ともに戦うと約束したい。米国の国家安全保障会議と緊密に情報交換できる同じ名の組織や、米国に「情報は漏れない」と胸を張れる制度も要る……。

安倍首相は党首討論で、「国民を守る」ための秘密保護法だと述べた。その言葉じたい、うそではあるまい。

■権力集中の危うさ
しかし、それは本当に「国民を守る」ことになるのか。

政府からみれば、説明や合意形成に手間をかけるより、権力を集中したほうが早く決められる、うまく国民を守れると感じるのかもしれない。けれども情報を囲い込み、歯止めを外した権力は、その意図はどうあれ、容易に道を誤る。

情報を公開し、広く議論を喚起し、その声に耳を傾ける。行政の誤りを立法府や司法がただす。その、あるべき回路を閉ざした権力者が判断を誤るのは当然の帰結なのだ。

何より歴史が証明している。戦前の日本やドイツが、その典型だ。ともに情報を統制し、異論を封じこめた。議会などの手続き抜きで、なんでも決められる仕組みをつくった。政府が立法権を持ち憲法さえ無視できるナチスの全権委任法や、幅広い権限を勅令にゆだねた日本の国家総動員法である。それがどんな結末をもたらしたか。忘れてはならない。

■国会と国民の決意を
憲法は、歴史を踏まえて三権分立を徹底し、国会に「唯一の立法機関」「国権の最高機関」という位置づけを与えた。その国会が使命を忘れ、「行政府独裁」に手を貸すのは、愚挙というほかない。

秘密保護法はいらない。国会が成立させた以上、責任をもって法の廃止をめざすべきだ。それがすぐには難しいとしても、弊害を減らす手立てを急いで講じなければならない。

国会に、秘密をチェックする機関をつくる。行政府にあらゆる記録を残すよう義務づける。情報公開を徹底する。それらは、国会がその気になれば、すぐ実現できる。

国民も問われている。こんな事態が起きたのは、政治が私たちを見くびっているからだ。国民主権だ、知る権利だといったところで、みずから声を上げ、政治に参加する有権者がどれほどいるのか。反発が強まっても、次の選挙のころには忘れているに違いない――。そんなふうに足元をみられている限り、事態は変わらない。国民みずから決意と覚悟を固め、声を上げ続けるしかない。


朝日新聞を擁護したい方は、「上記の赤字の箇所でちゃんと安全保障問題に触れているではないか」と言いたくなるのではないでしょうか。しかし、それらの言葉は、当法律の必要性を著しく矮小化していると断じざるをえません。その理由を列挙しましょう。

①誰も「中国の力が増していく」ことそれ自体を問題にしていません。中共の覇権主義的な言動や他国の主権を侵害する行動がその強度を増していることを問題にしているのです。

②「対抗」というのは、穏当ではありませんね。中共の一方的な攻撃に、日本側はやむをえず冷静に対処しようとしているだけです。

③「米国が攻撃されたら、ともに戦う」とは、ちょっとズレていませんか。私は、中共による日本の主権侵害の言動を問題にし、それを脅威として認識すべきだと言っているだけです。ここで集団的自衛権の議論を持ち出すのは、いわゆる「まぜっかえし」というやつで、ものごとの本質を考察する邪魔になるだけです。「夫婦喧嘩論法」を差し挟むなよって。

日本政府の姿勢を矮小化・危険視するための、これだけの印象操作を施したならば、これを読んだ者はだれでも「特定秘密保護法は、過剰で不当な措置だ」と思うに決まっていますね。それは、当法案の必要性にまともに触れていないのと同じことです。だから私は、″特定秘密保護法案に反対する民主主義者たちは、ことごとく当法案の必要性の直視をスルーしている″と言っているのです。芸能関係者の反対声明なんて、雰囲気だけでものを言っているだけ。ひどすぎて、読んだ者の目が潰れそうです。よせばいいのに。

それに付け加えてちょっとだけ原理的なお話をすれば、国家主権という現実と、国民主権という憲法の理念とは、元来、あっち立てばこっち立たずの拮抗関係にある、という側面があります。国民主権を貫き通せばそれで万事オーケーというほどに政治は簡単なものではないのです。特に、安全保障という国民主権の現実的土台を揺るがす事態が生じた場合、国民主権原理主義は明らかに無効であります。

私見はこれくらいにしておいて、以下に、主に安全保障との関連から特定秘密保護法を論じた鍛冶俊樹氏の論考を引いておきます。今のところ私は、中国情勢に関しては、石平氏と鍛冶氏の論考をすりあわせれば、おおよそ妥当な見解を得られるのではないかと思っています。

軍事ジャーナル【12月3日号】特定秘密保護法案
鍛冶俊樹

現在、審議中の特定秘密保護法案について、国連人権高等弁務官のピレイ女史が反対の意向を示したという。国会で審議中の法案について、国会議員でも日本国民でもない国際機関の職員が、国会に招致されたわけでもないのに反対するのは、日本国民の権利と民主主義を蹂躙する暴挙であろう。

ピレイ女史は日本の人権状況を批判しても中国や北朝鮮の人権状況は批判しないという奇妙な人権高等弁務官である。国連人権高等弁務官は国連人権理事会の事実上の事務局長であるが、この人権理事会は発足当初から中国が理事国入りしており、ロビー活動を繰り広げている。今回のピレイ発言の背後にも中国ロビイストがいると見て間違いあるまい。

中国が水面下で特定秘密保護法阻止に動いているのは確実で、その証左が11月24日に在日中国大使館が在日中国人に緊急連絡先を呼び掛けた件であろう。マスコミなどでは前日に中国が防空識別圏の設定を宣言した事との関連が云々されているが、むしろ翌日に衆院特別委員会を通過した同法案を意識したものと見た方がいい。

つまりこの呼び掛けは「もしこの法案が成立したら、在日中国人もいつ何どきスパイとして逮捕されるかもしれない。そうした危険がある場合、大使館から直ちに連絡をするから、連絡先を登録せよ」という趣旨であろう。

もちろん同法案はスパイ防止法ではないので、実はその可能性はないのだが、中国ではスパイと疑われた段階で逮捕されるのが普通だから、「日本でもそんな法律が成立するに違いない」と信じてしまう。「ならば同法案の成立を何とか阻止しなくてはならない」とスパイでもない普通の在日中国人が一層阻止活動に力を入れる訳である。
                *
さてこの法案の本当の狙いは大臣からの情報流出を防ぐことである。一般の公務員は情報を漏らせば罰せられるのだが、現在の法制では大臣や国会議員はほとんど罰せられない。「大臣や国会議員のような立派な人は国家機密を外国に売るような真似をする筈がない」との性善説に基づいている。

だが実際の国会議員の中には、「日本の国家機密を中国に積極的に知らせた方が日中友好上、いい」と信じて疑わない親中派が少なくない。また大臣になるような大物政治家には「何でも腹蔵なく話すのが人徳だ」と勘違いしている人もままいる。

スノーデン事件は米国が通信傍受をしていることを改めて世界に知らしめたが、インターネットでは通信傍受は容易なので、米国に限らずサイバー軍を持つ国は大抵やっている。当然、在日中国大使館と中国本土との通信を米国は傍受している。

通信内容は暗号化されているが、米国は優秀な暗号技術をもっているから、解読してみると何とそこには、昨日米国政府が日本政府に伝えた極秘情報が記されているではないか。これで「日米共同して尖閣を守りましょう」などと日本政府が提案しても米国にしてみれば危なっかしくて乗れたものではない。

かくして大臣の情報漏洩の特権を制限するために同法案が提出されたわけだが、永田町周辺では反対運動が過熱しているらしい。大臣の特権を擁護する市民運動というのも奇妙なものである。


今回の秘密情報保護法成立は、中共との安全保障をめぐる長い長い過酷なドラマの幕開けに過ぎないのです。 「気分は反権力」をやっていられるような余裕はないのです。

*念のために申し上げておきます。私は、当法の成立を是認する立場で発言しておりますが、そこには、安倍政権擁護のモチベーションはまったくありません。いまの私は、安倍政権に対して是々非々のスタンスで臨んでいます。政治の世界に関して、いまいちばん望んでいるのは、骨太の現実認識に立脚し、経世済民のハートにあふれた健全野党の登場です。
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