マキペディア(発行人・牧野紀之)

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池内紀著「ことばの哲学──関口存男のこと」を評す

2010年12月10日 | ア行
 池内紀(おさむ)さんが、かつて雑誌「現代思想」(青土社)に2004年の1年間連載した「ことばの哲学者」を本にまとめて出版しました。関口ドイツ文法を研究する者として一言もしないのは無責任でしょう。

 これは「伝記」ではなく「評伝」とされています。どこが違うのかと新明解国語辞典を見てみましたら、後者は「人物評を交えて書かれた伝記」とありました。人物評のない伝記があるのか、私は知りませんが、本書は「人物評」ではなく「業績評」を交えた伝記だと思います。

 この観点で本書を評価しますと、「伝記」としては60点、「業績評」としては0点です。

 伝記としてはなぜ60点なのか。ともかくも伝記を書いたからです。関口さんほどの人について、本来ならば、池内さんの言う「関口信者」、特に直弟子が伝記を書いておくべきでした。それなのに誰一人として書いていないのです。不思議な事です。池内さんはこの空白を埋めたのです。この事はとにもかくにも立派な仕事だと思います。ですから及第点の60点には達します。

 ではなぜそれ以上ではないのか。調査が不十分です。直弟子の中で今でも生きている江沢建之助さんと大岩信太郎さんの2人から取材しなかった(らしい)のは余りにもひどすぎます。そのほかでは、ヴィンクラーさん関係の取材もしなかった(よう)ですが、これも不可解です。

 関口さんの生前の挿話は主として追悼文集「関口存男の生涯と業績」から取ったようですが、その中にあるヴィンクラーさんのドイツ語で書かれた「友の死」からの引用のないのも不思議です。

 第8章は「文化村の日々」となっていますが、その頃の関口家に集まった演劇人たちの様子を描いた文章ではヴィンクラーさんのこれが最高のはずですが。又、妻の為子さんの死に際しての関口さんの悲痛な気持ちを伝えたものとしても、ヴィンクラーさんのこの文章が最良だと思いますのに、引用されていません。

 業績評としてはなぜ0点なのか。内容が何もないからです。関口さんの業績のような超一流のものを評価するには、評者の方にも超一流のものがなければ無理でしょう。「評価は評者自身をも表す」のです。

 池内さんのしたことは、ヴィトゲンシュタインとの比較、意味形態論の解説、冠詞論の説明くらいのものですが、いずれにも内容がありません。頭の好い人ですから小器用にまとめてはいますが、研究していないことは歴然としています。

 それを自覚しているので、ドイツ文学者とドイツ語学者とは「まったくの畑違いだ」という奇論を展開しています。たしかに両者は完全には一致しないでしょう。しかし、ドイツ語学をやらないドイツ文学者なんてありえません。ドイツ文学をやらない語学者ならいると思います。かく言う私自身、文学を知らない語学者だと思っています。関口さんはどうだったか。語学者であるのみならず文学者としても超一流でした。
「ファオスト」の主題を関口さんほど真正面から論じたひとがほかにいるでしょうか。池内さんの訳でも成立の歴史が少し解説されているだけです。

 池内さんは「関口信者」という語を繰り返してその種の人々を揶揄していますが、自分自身はなぜその「信者」にならなかったのか、少なくとも「真っ向から取り組まなかった」のか、説明していません。氏の関口への態度は、①東大に入った頃、関口についての「伝説めいたエピソードを耳にしていた」こと、②ドイツ語講師となってから、関口さんの書いた教科書をずっと使い続けたらしいこと、③翻訳を始めた頃、関口氏の素晴らしい訳業を知ったこと、④それと同時に冠詞論全3巻を知ったこと、⑤その後の10年くらい、「目にとまるたびに関口存男を読んでいたこと」、以上5点です。

 つまり、「目にとまるたびに」ではなく、主体的に格闘したことは1度もないようです。なぜそうしなかったのでしょうか。その説明はありません。語学者ではなく、文学者だからでしょうか。それなら文学者としての関口から学べば好かったでしょうに。

 哲学に触れるならば、何よりもまず関口さん自身が高く評価していたハイデッガーに言及するべきだったでしょう。しかし、その言及はありません。そもそも関口さんの訳注書「ハイデッゲルと新時代の局面」を読んだ形跡すらありません。

 要するに、池内さんは関口さんに入れ込んだことが1度もないのです。それなのに評伝を書いたのです。そのため「一応の伝記」は書けましたが、「評」伝は書けなかったのです。 国文法の三上章の評伝(金谷武洋著「主語を抹殺した男」講談社2006年)と比較すると、入れ込んだ後継者の書いたものとの違いが好く解ります。

 ──「語学の天才」「ドイツ語の鬼才」が通り名だった。伝説になるほどの語学力を言われていた。みずから一代で築いたドイツ文法を人は「関口文法」と称した。死後にはさまざまな人から「関口文法の発展と継承」が口にされた。/ いつしかそれが聞かれなくなり、いまやその独創的ドイツ文法学は関口存男その人とともに、俗にいう「おくら入り」 にされた感がしないでもない。(201頁)──

 こういう現状を嘆いて「外野手」の自分が「先発投手」を買って出て、勝敗はともかくとして、9回まで投げ抜いた、ということだそうです。「畑違い」の池内さんでも「自分なりの花輪を捧げたかった」のだそうです。

 かくして、ともかくも関口さんの唯一の伝記は生まれました。ありがとうございます。不満な人は足りない所を自分で足して行くべきでしょう。