ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

 2008年10月から「第2マキペディア」として続けることにしました。

『精神現象学』

2006年12月24日 | サ行
   ヘーゲル著、牧野紀之訳、未知谷刊、2001年09月初版発行
   四六判上製箱入り、1047頁、定価 10500円(税込み)

 ヘーゲル哲学の生誕を告げる書として名高いが、難解をもって知られる原書を、多くの注解を盛り込みつつ翻訳した。

 哲学史的背景については金子武蔵氏の訳業を踏まえつつ、哲学するための翻訳を目指している。

 鶏鳴双書で3分冊として出た前半をまとめ、後半を新たに訳して全部で1巻としています。

 理解の助けになる小論を4つ付録としています。

 付録1・知識としての弁証法と能力としての弁証法
 付録2・ヘーゲルにおける意識の自己吟味の論理
 付録3・恋人の会話(精神現象学の意味)
 付録4・金子武蔵氏と哲学

 序論の冒頭の部分を掲載します。


   序 言 (科学的認識について)

 〔第1段落・哲学書の序言について〕

 著者が企図した目的や出版するに至った動機や、同じテーマを扱ったこれまでの他の諸著作と自分の本はどういう関係にあると思っているかといったことを、序言の中で予め書いておくことが習慣になっているが、そういうような説明は哲学書の場合には余計に見える。いや、それどころか、不適切で目的に反しているようにすら見える(1) 。

 というのは(2) 、哲学について序言の中で何をどのように言ったらよいのかと考えてみると、まあ〔自分の哲学の〕傾向とか立場とか、あるいはその本の概括的な内容とか結論とかを記述的に〔個条書き的に〕報告するか、真理について〔その本の〕あちこちで(3)言われている主張や断定を〔これまた箇条書き的に〕まとめるといったことくらいであろうが、そういったやり方を哲学的な真理を叙述する方法と見なすことはできないからである。

 (1) へーゲルの scheinen はほとんど常に「~と見えるが実際はそうではない」という含みをもっている。山本信氏はここを「しかしこうした説明は、哲学上の著作においてはよけいであるばかりでなく、ことがらの性質上、不適当であり、害にさえなる」と訳している。つまりへーゲルの主張のように訳している。長谷川宏氏はその著『ヘーゲル「精神現象学」入門』(講談社)の冒頭で、この単語を「思える」と訳し、ヘーゲルが実際にそう思っていると解釈した上で、後の記述との「ヘーゲルの矛盾」について長々と論じている。いずれも誤訳であり誤解である。

 (2) denn と weil の違いは関口存男(つぎお)氏の研究にくわしい。金子氏も山本氏も「なぜなら」と訳しているが、関口氏によると、 weil が「なぜなら」で、 denn は「というのは」「即ち」「つまり」である。あるいは訳さなくて好い。

(3) 金子訳は「いわれもなくあれこれと語る一連の主張や断言」としているが、我々は文脈を読んでこう取った。


 また(1) 〔なぜそれは不適当で目的に反しさえするように見えるかと言うと〕哲学というものは、本質的に、特殊を自己内に含む普遍(2) をその本来的地盤(3) としているものだから、目的あるいは最終的結論の中で事柄そのものが表現され、しかもその全き本質において表現されているのであって、それに比すれば〔その結論への〕遂行〔過程〕は元々非本質的なものなのだという間違った外観が、哲学では他の諸科学における以上に発生しやすい〔ので、序言に本論の一般的結論を書くと、本論は要らないと考えられるかもしれないからである〕。

 これに反して〔他の諸科学では〕、例えば解剖学とは生体の諸部分をその死んだあり方で観察して得られた知識である、といったような一般的観念を得たからといって、〔そういう最終結論だけで〕事柄そのもの、つまり解剖学の内容を知ったわけではなく、その上に更に特殊〔細々とした知識〕を知ろうとしなければならないことは常識になっている〔ので、他の諸科学の本でなら、序言にその本の一般的結論を書いても目的に反することはないように見えるからである〕。

 (1) この auch がどういう意味なのか分かりにくかったが、我々は、これの前の文を「余計だと言ったこと」に対する説明と取り、ここ以下を角括弧内のように取った。

 (2) 「特殊を自己内に含む普遍」というへーゲル的考え方が早くも出てきたが、ここから、「だから結論=普遍だけ知ればよい」と持ってくるのはへーゲル的ではない。だからこれは「序言における説明は不適当という間違った主張の根拠」と「仮定」されている。ヘーゲルの真意は反対である。

 (3) 「本来的地盤」と訳した Elementについては山本信氏は次のような注を付けている。「『エレメント』は、ふつうには『元素』『要素』という意味であるが、ヘーゲルが使う場合には、たいてい、『事物が、それぞれの本性上、本来そこで存在し、そこで生活をいとなむ固有の環境』といった意味合いが主になっている。慣用句としても、ヨーロッパの多くの国語において、この語が、『本領が発揮できる場面』『得意の境地』という意味になる場合がある。『水を得た魚』というが、魚にとって水がエレメントである」。

 私はかつて「エレメントという単語には、もともと『地盤、本来の活動領域』という意味があり、それは日本語で『所を得る』とか『適材適所』という時の『所』に当たる」と書いた(『ヘーゲルの目的論』 119頁)。


 更に〔解剖学のような〕知識のそのような寄せ集めにすぎないようなもの(それは科学の名に値しないものなのだが)では、〔序言での〕目的やそういった一般的な事柄についての雑談と、〔本論で〕神経、筋肉、等々といった内容自身を扱う時の記述的で没概念的な(1) やり方とが違わないのが普通なのだが、これに反して哲学では、そういったやり方を〔序言で〕使うと、〔本論での哲学的認識なり叙述方法との〕食い違いが生まれ、そのやり方では真理を捉えることができないということが哲学自身〔本論〕によって示されてしまうことになるであろう〔だから、序論の中で、一般的結論を記述的にまとめることは、内容からいっても、方法=形式からいっても、哲学書の目的に反するように見えるのである〕。

 (1) 山本訳はここにへーゲルの「概念」についての説明を付しているが、ここに「概念」の説明を付けること自体適当でないし、付けられた説明の内容も拙い。ここではここの「記述的で没概念的」とはいわゆる「実証主義的」ということであることを知っておけばそれでよい。

関連項目

『精神現象学』のサポート