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哲学演習の構成要素、加藤尚武のヘーゲルの読み方

2012年10月11日 | タ行
 或るきっかけでヘーゲルの「自然哲学」の序論を読みかつ訳しています。久しぶりにヘーゲルに帰ってきて、懐かしい感じがします。やはり難解な所もあります。

 他の人の翻訳も参照したいと思い、調べて見ると、長谷川宏のもの(作品社)と加藤尚武のもの(上下巻。岩波書店)とがあります。かつては速見敬二のものが上巻だけですが、出ていたはずですが、いまではこれは古書にもないようです。

 長谷川宏のものは全然価値のないことは分かり切っていますので、加藤尚武のものを取り寄せて参照する事にしました。考えて見ると、加藤はヘーゲル研究でかつて山崎哲学奨励賞をもらったことがあるはずです。つまりヘーゲル研究は彼の主戦場のはずです。しかし、ヘーゲルの訳書はこの自然哲学だけだと思います。今まで加藤の翻訳を読んだ事の無いのに気づきました。

 少し読んで見て驚きました。「加藤のヘーゲル読解って、こんなにレベルが低かったのか」と、初めは信じられない程でした。もちろん私よりはるかに博識ですから、個々の事実については学ぶこともありました。しかし、ヘーゲルこそ「論理的文脈を読まなければ何も分からない」はずなのに、それが全然ないのです。文脈を読むという意識すらあまり感じられません。関口存男はその訳注書『ファオスト抄』の「序」の中で「この原文と対照させた意訳は原文には忠実でない。原『文』に忠実ではないが、それだけに原『意』と原『色』と原『勢』には忠実だったつもりである」と書いていますが、加藤の訳は原文には(ほぼ)忠実かもしれませんが、原意と原色と原勢には忠実でないどころか、それを追求する姿勢すら感じられません。その点では寺沢恒信訳『大論理学』(以文社)の方がずっと上だと思います。

 「どうしてこうなるのだろう」と考えていましたら、下巻にある「あとがき」を読んで納得できたように思いました。そこにはこう書いてあります。「本書は、私一人の力ではなく、多くの人々の助力によって、完成することができた。作業の主要な部分は、ズールカンプ版テキストのワン・センテンスごとに対訳で作成した基本ファイルである。ここにはペトリの英訳を引用した箇所もある。文法的に難解な文章には文法的な構文の分析も書き込んである。この対訳データベースから、和文を切り出して、多少の変更を加えて、本書が成立した。今後、多くの訂正や、必要な注釈などは、適宜、この対訳データベースに記入して、つねに最新・最善のデータを提供できるようにしたい。私の誤りについて御叱正を賜れば、お名前を対訳データベースに記録して永遠に改善を続けていきたいと思う。どうか、間違いにお気づきの方は、訳者までお知らせいただきたい。将来は、この対訳データベースを、長島隆氏、北沢恒人民、伊坂青司氏などが主催する自然哲学研究会に委ね、共同利用の道を開きたいと思う」。

 「今後、多くの訂正や、必要な注釈などは云々」以下の文は無視してよいでしょう。重要な点は「ワン・センテンスごとに対訳で作成した基本ファイル」であり、「この対訳データベースから、和文を切り出して、多少の変更を加えて、本書が成立した」という点でしょう。要するに、一文ずつ別々に読んで訳したということでしょう。「文脈は意識せず、ましてや論理的文脈などは眼中になかった」ということです。「原意と原色と原勢」など考えた事もない、ということでしょう。

 実を言うと、加藤と長谷川と私の3人は東大の哲学科で同学年でした(年齢は少し違います)。期せずして同学年からヘーゲルを訳す人が3人出たわけですが、我々の前の学年からも後の学年からも、今のところ、出ていないようです。不思議な事です。

 さて、加藤と長谷川は東大の大学院へ進みました。長谷川のヘーゲル訳と解釈については既に2回、批判的な文章を発表してあります。今回加藤の訳を見て、「東大ではどういうヘーゲル演習をしているのだろうか」と改めて考えてみました。そもそもヘーゲルの読み方を指導できる教授がいたのだろうかと考えました。当時の教授は岩崎武雄、桂寿一、斎藤忍随、山本信の4氏だったはずです。なるほどこのメンバーではこうなるのも仕方なかったな、と納得しました。金子武蔵はまだ倫理学科で「精神現象学」の原書講読をしていたのではないでしょうか。東大では、少なくとも当時は哲学科と倫理学科は別れていましたが、金子のそのゼミに出ていたら、もう少しましな読み方が出来るようになったのではないでしょうか。

 同時に、私が都立大学の大学院に進んで寺沢ゼミに出たことはとても幸運な事だったのだと、改めて気付きました。絶対的な水準はともかく、相対的には当時の最高のヘーゲル講読を習ったのだからです。もちろん許萬元氏と一緒になったことも幸いでした。

 しかし、それにしても、東大を出て山形大学から東北大学に栄転し、そこから千葉大学を経て最後は京都大学の哲学教授になり、日本哲学会の会長を務めた「ヘーゲル研究の大家」の加藤尚武の読み方がこれほどお粗末だという事は、日本の哲学教育のレベルがこの程度のものだということでしょう。これは大問題です。一体誰が本当のヘーゲルの読み方を教え、引き継いで行くのでしょうか。

 そのような事を考えていたら、「哲学演習の構成要素は何か」という問題にたどり着きました。実際に行われているゼミは横文字を読んで訳すだけなのがほとんどですが、理想としては、哲学の演習ではどういう修業をさせるべきかということです。私は大学の哲学科でゼミを担当した経験がありませんが、私塾(鶏鳴学園)では事実上のゼミを開いていましたので、それを反省する事にもなりました。

 第1の要素、と言うより、哲学演習の出発点にしてかつ到達点は「哲学すること」の練習でしょう。哲学演習なのですから当たり前です。しかし、これがほとんど行われていません。「哲学とは何かを考えることが哲学だ」といった愚論で哲学概論は哲学史の説明にすり替えられ、哲学演習は原書講読でお茶を濁しています。

 つまり現実の問題を日本語で哲学的に考えるということです。しかし、鶏鳴学園でかつて「現実と格闘する時間」というのを設けていましたが、大した問題提起はありませんでした。この歳まで生きて来てつくづく思う事は、「権力と戦う」ことの難しさです。野(や)にある時は偉そうな事を言っていた人も大学教授に成り安定すると、戦う姿勢を無くしてしまいます。そういう例が多すぎます。組織に入ると、その組織で実権を握っている人に対して無批判的になります。そして、それらは自分への無批判的な態度と結びつきます。これは人間の性が悪であるという性悪説を証明していると思います。

 つまり哲学と言わないでも、学問の大前提は「全てを疑う」ことなのですが、それが出来なくなるのです。そして、本人がそれに気付かなくなるのです。救いようがないと思います。従って、根本的に言って、「本当の哲学演習」は不可能に近いのですが、これは確認するだけで第2要素以下に進みます。

 哲学修業の第2の要素としては、哲学史の勉強が考えられます。哲学の勉強と哲学史の勉強を混同したり、すりかえたりするのは間違いですが、歴史をしっかり学ばずして本当の学問はありえません。ではこの要素は「哲学演習」の中でどう扱ったらよいか。私にはまだ最終的な回答はありませんが、波多野精一の『西洋哲学史要』を通読するだけでなく、事あるごとに該当箇所を繰り返し読むことは前提でしょう。教師はこのように指導するべきです。そして、この前提に立って、哲学史研究の本(和書、翻訳書、洋書)を皆で読んでその方法なり内容なりについて考え、レポートを書き、「教科通信」のようなものにまとめるという事をすると好いでしょう。

 第3の要素が原書講読です。一般化して好いか異論はあるでしょうが、ヘーゲルの原書の読み方を教え、練習させるべきです。私の知っている範囲などは狭いものですが、やはりヘーゲル程「論理的文脈を読む」必要があり、又その苦労のしがいもあり、従ってその練習に適当なテキストはほかにないと思います。

 しかるにヘーゲルの本はドイツ語で書かれていますから、ドイツ語を勉強する必要があります。しかも、ドイツがただ「読めればよい」程度ではなく、「文法的に読め」なくてはならないということになります。つまり、第4の要素として、関口ドイツ文法を勉強する必要が出てきます。

 この考えは加藤の翻訳を見て一層強まりました。加藤は高校時代からドイツ語を学んでいて、ドイツ語の好く出来る人です。私よりはるかに出来ます。自分でも相当の自信を持っていると思われます。現に上に引用した所にも「文法的に難解な文章には文法的な構文の分析も書き込んである」という句があります。しかし、はっきり申し上げますが、加藤のドイツ語学は私よりは上ですが関口に比べるならば限りなくにゼロに近いです。関口の語学はそれほども高い、あるいは深いものなのです。しかし、それ以上に問題な事は、多分、加藤が自分の語学力を「これでいいのだ」と思い込んで慢心している事でしょう。私の加藤と違う所は、私は自分の語学力が低い事を自覚して、少しでも関口から学ぼうとしてきたことでしょう。つまり、ソクラテスの「無知の知」です。

 ドイツ語の出来る人でも、自信が災いして関口を研究せず、そのためにとんでもない誤解をして平気でいるのですから、ドイツ語以外の言語の研究家が関口研究の必要性を感じないのは当たり前でしょう。しかし、これは好い事ではありません。私は先に「北原保雄の辞書と文法」という論文を発表しましたが、それの準備で北原の本や論文を読んでいる時も「関口を研究していれば好かったのに」と何度も思ったことでした。

 敢えて申し上げます。およそ語学をやる人は何語を専門とするかに関係なく、すべからく、関口文法を研究した方が身のためですよ、と。なぜか、その理由を書きます。海底の深さで譬えますと、地球上の海底の一番深いところは水深1万メートル超のようですから、そう前提します。どの地点でも、即ち何語の場合でも、一番深い所は水深1万メートル超だとします。ドイツ語という場所で海に潜った関口は水深約1万メートルまで達しました(つまり海底までは達しなかったが海底まであと少しという所まで潜りました)が、英語とかフランス語とか日本語とかの地点で潜った人々は、せいぜい3000メートルか、大甘に見てもせいぜい5000メートルくらいまでしか潜っていないのです。ですから、1万メートルの深さまで潜るとどんな景色が見えてくるかを知らないで、「群盲象をなでる」の譬え話にあるような議論をしているのです。

 こういう風に言いますと、「お前はどこまで分かっているつもりか」と言われそうですが、この歳になると嫌われるのもそれほど怖くなくなりましたので、申し上げます。私は、語学の才能があると思っていません。まとめる力ならヘーゲルのお蔭でかなりあると思っています。ですから、私は、関口の知識を使いやすい形でまとめようとしているのです。ヘーゲルの言うように「体系の無い知は学問ではありえない」と思うからです。実際、あるがままの関口文法では使えません。「この点について関口さんは何か言っていたかなあ」と思った時、探して調べられるような文法書を作っているだけです。その中に引いている知識を皆身につけているとも、全部正しく理解しているとも思っていません。

 第5の要素として、ドイツ語で論文を書く練習をするべきでしょうし、ゼミにはそういう要素なり時間を設けるべきです。英語の威張り過ぎの目立つ現代でも哲学の言葉は依然としてドイツ語だと思うからです。論文は原則として和文と独文とで発表するべきでしょう。従ってゼミの中にもその練習を入れるべきです。

 以上の観点からこれまでの自分のしてきた事を振り返ってみます。

 第1要素については、『哲学の授業』及び『哲学の演習』です。が、『理論と実践の統一』や『マルクスの《空想的》社会主義』といった「現実的なテーマ」について、これまでの説を検討し、自説を出しておきました。また、今ではブログ「マキペディア」で様々な問題について自説を述べています。ですから、哲学したい人は、こういったものを手がかりにし、材料にして、自分の考えをまとめて発表してみるといいと思います。

 なお、『哲学の演習』は特に第3部は読み下してすらっと分かるようには出来ていないので、出来れば何か補助になるようなものを提供できると好いと思っています。

 第2要素の哲学史研究については上に述べた通りです。

 第3要素の原書講読こそ今回特に反省したものです。考えて見れば、私は『ヘーゲル研究入門』というものを出しているのですが、レベルが低すぎますし、今から見れば問題提起も不十分すぎます。文法的な問題もほとんどありません。採用したテキストは悪くないと思いますので、何か好い案があれば改善したいと思っています。

 そのほか、訳書にこの目的に役立つような注解を増やすようにしたいと思います。

 第4要素は関口文法の勉強ですが、これこそここ十数年間心血を注いできたものです。『関口ドイツ文法』が出ればかなりお役にたつだろうと思います。

 文法書などというものは「完成」ということはあり得ないものですが、幸いネット時代です。「『関口ドイツ文法』のサポート」というブログを作って、その後に集めた用例などを追加して、補充したり、間違いと判明した点は訂正して行きたいと思います。

 第5要素のドイツ語での論文発表では、人に教える前に自分でやって見せなければなりません。論文のドイツ語への翻訳自体はいくつか試みているので、それをブログ上に発表することをして、それを増やしてゆくという風にしようと考えています。

 付記・加藤の翻訳の大きな問題点(看過しえない点)をいくつか近いうちに発表するつもりです。


        関連項目

加藤尚武訳「自然哲学」と関口文法

北原保雄の辞書と文法
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