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証明、der Beweis, das Demonstrieren

2011年02月19日 | サ行
  参考

 01、数学的認識の際にも又、証明の本質的な点は結果自身の契機であるという意味と本性を持たず、結果の中で過ぎ去り消え去っている。(精神現象学35頁)

 02、数学的証明の運動は対象の本質に属さず、事柄にとって外的な行為である。(精神現象学35頁)

 03、証明とは一般に、媒介された認識である。(大論理学第2巻102-3頁)

 04、証明(Demonstrieren)は、概念に沿って、即ちただ規定に沿ってしか進行しない限りは、没概念的概念の能力としての悟性に属する。従って、概念に沿ってのそのような進行は有限性と必然性を越えることはない。その最高の点はせいぜい最高存在という抽象であって、その最高存在自身も無規定性という規定性である。(大論理学第2巻249頁)

 05、ユークリッドの体系では後の証明や作図に必要な物は前に証明されている。この事は形式的な合目的性であって、概念と理念の区別には関係しない。(大論理学第2巻467頁)

 06、証明は定理の中で結びついているものと言明されたものの媒介を含んでいる。この媒介によってこの結びつきは初めて必然的な結びつきとして現れることになる。(大論理学第2巻470-1頁)

 07、補助作図がそれだけでは概念の主体性を欠いているように、〔数学上の〕証明は客観性を欠いた主観的な行為である。(大論理学第2巻471頁)

 08、〔幾何学の〕証明は、定理の内容をなしている関係の「生成」ではない。そこでの必然性とは、ただ洞察にとっての必然性にすぎず、全証明は認識の主観的助けのためである。(大論理学第2巻471頁)

 感想・ユークリッドの幾何学を手本にしたスピノザに対する批判です。

 09、〔概念の定義の形式的な方法では〕、定義はいくつかの特殊な場合から取りだされるのだが、その時〔何を取り出し何を捨てるかを考える〕根拠としておかれものは、人人の感情や観念なのである。その時、その定義の正しさとは、その定義と眼の前にある観念とが一致することだとされる。……しかし、哲学的認識にあってはむしろ概念の必然性が主要な事柄であり、〔その概念が〕結果として生成してくる歩みがその概念の証明であり演繹なのである。(法の哲学第2節への付録)

 感想・牧野「弁証法の弁証法的理解」参照

 10、理念の体系的導出──これは普通、人々が「証明」という言葉で理解しているものであって、科学的な哲学には不可欠のものである。(小論理学、第1版への序文)

 11、思想の内容の必然性を示すこと、即ちその対象の存在と諸規定を証明すること。(小論理学第1節)

 12、理性の考える証明というのは悟性の考えるそれとは全く異なったもので、それは良識の考えと一致しています。たしかに理性的な証明の場合でもその出発点は神以外のものですが、その証明が進む中で、この〔出発点とされた〕他者の方は直接的なもの、〔端的に〕存在するものではなく、むしろ媒介されたもの、定立されたものであることが示されます。それによって神は、この媒介を止揚されたものとして自己内に含みもつ真の直接的存在者、根源的なもの、自己に立脚するものと見なさなければならないことも明らかとなるのです。

 〔良識による神の存在証明について見ると〕「自然を見よ、すると自然は君を神へと導き、君は絶対的な究極目的を見出すだろう」と言われていますが、ここで意味されていることは、神が〔自然によって〕媒介されたものであるということではありません。我々人間だけが神以外のものから神へと歩むのであり、その時、その歩みは帰結としての神は同時に前者〔自然〕の絶対的な根拠でもあるということなのです。かくして、立場は逆転され、帰結であるものが根拠でもあり、初め根拠とされたものが帰結に引下げられるのです。そして、これはまた理性的な証明の歩みでもあるのです。(小論理学第36節への付録)

 13、哲学では、証明するとは、対象がいかにして自己自身から自己を自己の本質へと作り上げて行くかを示すことである。(小論理学第83節への付録)

 14、すでに実証され、または論証されている理論との一致不一致を争うのが論争であり、論争にも意義がある。しかし、それが思考の真理性を測る唯一の基準でもなけれは最後の基準でもない。だからといって、「実践による検証」を振り回していいということでもない。これは大きな問題であるが、その基本点はマルクスの「フォイエルバッハに関するテーゼ・第八」に与えられている。(牧野「労働と社会」39頁)
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