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象徴

2011年02月13日 | サ行
 言語(あるいは名詞でもいい)を(事物の)象徴とする考えがありますが、これは拙いのではないかと思います。

 象徴は、日本の象徴が富士山であるとか、女性の象徴が乳房であるとか、平和の象徴が鳩であるとか、象徴されるものとの間に「自然的な」あるいは「歴史的な」根拠があるからです。それに対して対象との関係の恣意性を本質とする言語にはそのような根拠は不必要だからです。

 「誰それは何々の象徴的存在」といった表現になると「代表」に近い感じがします。代表とか典型については拙稿「昭和元禄と哲学」(『生活のなかの哲学』に所収)にまとめました。

  参考

 01、哲学はその概念規定を表すのに数字や象徴などの助けを必要としていない。……概念規定は自分自身を言い表している。これを表示することだけが正しく適当な表示である。象徴などを使うことは概念規定を把握し、決定し、根拠づけることを省くための安易な手段でしかない。(大論理学第1巻334-5頁)

 02、比喩(Vergleichung)は〔それによって説明されるはずの〕考えと完全には一致しない。それはいつもそれ以上のものを含んでいる。(ズ全集第18巻109頁)

 03、象徴の中に観念を隠そうとする人は、観念を持っていないのである。(ズ全集第18巻109頁)

 04、精神哲学の第401節への付録

 05、礼儀上の所作は多分、それ自体として、或る表意を持っている。これは多分、或る象徴なのだ。(ソシュール「言語学序説」山内訳、勁草書房189頁注18)

 06、「シュンボロン」は文字通りには「合わせもの」であり、1つの品を2つに割って、2人の人間がその片方ずつを持ち、証拠の必要な場合に両方を合わせてみるのに使う「割符」が、その具体的なもとの意味である。
 しかし、証拠として使われるのは割符だけではない。「シュンボロン」という語は、この原義をはなれて、たとえば裁判官が裁判官席に入るためのシュンボロンを渡されるというような場合をはじめ、預かり証・領収証・入場券などについても用いられるような、一般に証拠のしるし・約束のしるしという意味をもつようになる。(藤沢令夫、『哲学のすすめ』筑摩書房 126頁)

  07、シュンボロン(シンボル)としての言葉の場合は、言葉と事物とのあいだに想念や観念が介在して、言葉と事物とは直結しない。言葉を聞いてわれわれが理解するのは、直接には事物そのものではなく、お互いの考えである。

 これに対して、セーマ(サイン)としての言葉の場合には、言葉は直接事物や、あるいはその事物への対処・反応としての行動を指示する。

 シュンボロン(シンボル)が、「ことば」──「こころ」──「こと」の三項関係であるのに対して、セーマ(サイン)は、「ことば」──「こと」の二項関係である。(藤沢令夫、『哲学のすすめ』筑摩書房 127-8頁)

08、象徴の用は、之が助を藉りて詩人の感想に類似したる一の心状を読者に与ふるに在りて、必ずしも同一の概念を伝へむと勉むるに非らず。(上田敏「海潮音」序)

  用例

 01、数多くの団体が存在する今の格闘技界。(略)プロボクシング世界王者、モハメド・アリとの異種格闘技戦などで早くから話題を集めた猪木氏は、その象徴として最適の存在。(朝日、2003,01,11)

 02、上海は急成長する中国を象徴する都市です。(NHKTV )