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マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

お知らせ

ながく、牧野紀之の仕事に関心を持っていただき、ありがとうございます。 牧野紀之の近況と仕事の引継ぎ、鶏鳴双書の注文受付方法の変更、ブログの整理についてお知らせします。 本ブログの記事トップにある「マキペディアの読者の皆様へ」をご覧ください。   2024年8月2日 中井浩一、東谷啓吾

日本の国富

2011年02月03日 | カ行
 国と地方自治体が抱える借金総額が、保有する道路や土地などの資産総額を2009年末で約49兆円上回っていたことが2011年01月31日、内閣府の統計で分かった。すべての資産を売り払っても借金が返せない債務超過の状態で、同種の統計のある1969年以来初めてとなる深刻な財政状況だ。

 内閣府が同日公表した2009年度国民経済計算確報によると、国と地方自治体をあわせた一般政府部門の09年末の借金総額は、08年末より35.3兆円多い1018.9兆円。税収不足を埋めるため、国が借金にあたる国債を大量に発行していることが主因で、初めて1000兆円を超えた。

 一方、政府が保有する道路やダムなどの社会資本を中心にした資産総額は、08年末より19.6兆円も減り、970.0兆円だった。物価下落が続くデフレの影響で所有地などの評価額が下がったほか、特別会計の積立金など、いわゆる「埋蔵金」を取り崩したことも原因だ。

 この結果、資産総額から借金総額を引いた正昧資産は、マイナス48.8兆円に落ち込んだ。

 財政状態が深刻なのは、政府部門だけ。家計部門の正味資産は09年末で2039.0兆円。金融機関を除く民間企業も604.7兆円の資産超過だ。

 全部門をあわせた日本全体の正味資産(国富)は前年末比3.4%減の2712.4兆円と、2年連続で減った。

 今のところ、こうした国富の大きさから、日本全体としては国際的な信用が保たれており、国債の金利が急騰するような混乱は起きていない。

(朝日、2011年02月01日)

  感想

 家計部門が2000兆円のプラスということは、所得税や相続税の累進率が低いということではないのでしょうか。金持ちに対しては増税するべきでしょう。

 企業の資産も600兆円あるそうです。これの1部も賃金のアップに回すべきではないでしょうか。

国旗・国歌法

2011年01月31日 | カ行
 数々の演劇賞を受賞した永井愛さん作・演出の喜劇「歌わせたい男たち」(2005年初演)は、卒業式の日を迎えた都立高校が舞台だ。

 教育委員会の指示通りに式を進めようと必死の校長。君が代斉唱の時、起立しないと決めている教師。そんな葛藤があることを知らぬまま、ピアノ伴奏を命じられた音楽講師……。

 根はいい人ばかりなのに、みな消耗し、傷つき、追いつめられていく。

 芝居の素材になった都立高校で働く教職員ら約400人が、君が代の際に起立斉唱したり伴奏したりする義務がないことの確認や慰謝料を求めた裁判で、東京高裁は請求をすべて退ける判決を言い渡した。「起立や伴奏を強制する都の指導は、思想・良心の自由を保障した憲法に違反する」とした一審判決は取り消された。

 極めて残念な判断だ。ピアノ伴奏を命じることの当否が争われた別の訴訟で、最高裁は2007年に合憲判決を言い渡している。高裁はこの判例をなぞり、斉唱や伴奏を命じたからといって個々の教職員の歴史観や世界観まで否定することにはならない、だから憲法に違反しないと結論づけた。

 判決理由からは、国民一人ひとりが大切にする価値や譲れぬ一線をいかに守り、なるべく許容していくかという問題意識を見いだすことはできない。

 「誰もがやっているのだから」「公務員なのだから」と理屈を並べ、忍従をただ説いているように読める。

 それでいいのだろうか。

 私たちは、式典で国旗を掲げ、国歌を歌うことに反対するものではない。ただ、処分を科してまでそれを強いるのは行き過ぎだと主張してきた。

 最後は数の力で決まる立法や行政と異なり、少数者の人権を保護することにこそ民主社会における司法の最も重要な役割がある。最高裁、高裁とも、その使命を放棄し、存在意義を自らおとしめていると言うほかない。

 近年、この問題で都の処分を受ける教職員は減っている。違反すると、罰は戒告、減給、停職と回を追って重くなるうえ、定年後の再雇用が一切認められなくなるからだ。そんな脅しと損得勘定の上に粛々と行われる式典とは何なのか。いま一度、立ち止まって考える必要があるように思う。

 国旗・国歌法が制定された1999年、当時の有馬朗人(あきと)文相は国会で「教員の職務上の責務について変更を加えるものではない」と言明し、小渕恵三首相も「国民の生活に何らの影響や変化が生ずることとはならない」と述べた。

 ところが現在、教職員ばかりか、生徒や保護者、来賓の態度をチェックする動きが各地で報告されている。

 今回の高裁判決が、こうした息苦しさを助長することのないよう、社会全体で目を凝らしていきたい。

 (朝日社説、2011年01月29日)

 感想

 国会での政府答弁は法律の条文と同じ意味を持つものではないのでしょうか。それにしても日教組が組織としてこれに取り組まなくなった(取り組めなくなった)のは本当に情けないと思います。

日本経済の進むべき方向

2011年01月19日 | カ行
      藻谷 浩介(もたに・こうすけ)(日本政策投資銀行参事役)

 「失われた20年」とか、「低下する日本の国際競争力」といった言葉を耳にします。多くの日本人が「アジア新興国との競争に負けたので、国内経済も停滞している」と考えています。

 しかし実際は、日本の輸出額はバブル後から2007年までにほぼ倍増しました。世界同時不況下の2008年、09年にも貿易黒字でしたし、昨年は円高にもかかわらず輸出額も黒字額も大きく回復しました。台頭するアジアから稼ぐ貿易黒字も増加憤向です。

 日本経済の停滞は国際競争に負けた結果ではありません。輸出の好調とは無関係に進む「内需の縮小」こそ、日本をむしばむ病気です。経済成長が実感できないのも、そのためです。

 経済の基礎代謝ともいえる内需指標は、1990年代末前後から減少に転じています。たとえば経済産業省の商業統計に見る小売り販売額は、ガソリン価格高騰の影響を除くと、1996年度をピークに減っています。国内の新車販売台数や貨物輸送量は2000年ごろから減少傾向が続き、自家用車による国内旅客輸送量も2002年度をピークに減少に転じました。国内酒類販売量も2002年度から落ち込みが続いています。

 注目すべきは、こうした傾向が、経済が成長している時期にも続いたことです。つまり景気変動とは関係ない。実は、15歳から64歳までの「生産年齢人口」の増減に連動しているのです。

 戦後ほぼ2倍に増えた日本の生産年齢人口が1996年から減少に転じました。定年退職者数が新規学卒者数より多くなったので、この時期に就業者数も減り始めます。そのため、住宅や車や家電製品など現役世代を主な市場とした商品の需要量は下がります。ところが多くの商品の生産は機械化されていますので、就業者数が減っても生産量は下がりません。こうして生まれた供給過剰が値下げ競争を恒常化させ、消費額の減少を引き起こしているのです。

 これはマクロ的な「デフレ」ではなく、ミクロ的な「値崩れ」です。団塊の世代が65歳を超える2010~15年には、日本史上最大の約450万人の生産年齢人口の減少が起きるので、過去に経験したことのない深刻な内需不振が懸念されます。

 人口減少の話をすると、「外国人労働者の受け入れ」論が必ず出てきますが、過剰な生産力を抱える日本に必要なのは、労働者ではなく消費者です。働かずに消費だけをしてくれるお金持ちの外国人観光客や短期定住者こそ受け入れるべきなのです。

 私は日本の人口減少は必然と考えています。今は、戦争前後の出産増加で1億3000万人まで増えた人口が、6000万人から8000万人あたりの適正規模に戻る過程なのではないでしょうか。「小国になれ」というのではありません。8000万人もいれば、欧州なら英仏伊を超え、ドイツ並みの大国です。中国が低迷したこの半世紀ほどは「臨時の超大国」でしたが、それをやめて「普通の大国」になればいいのです。

 今の日本には欧州などに比べみすばらしい建物が多いのですが、これは戦後の人口急増に応じて、仮設住宅のように作った臨時の街だからです。日本人の美的感覚が劣っているわけではありません。現に人口が増えなかった江戸時代後半には、各地に美しい街並みが作られました。人口が仮に6000万人になれば、住宅は半分がいらなくなります。品質や価値の高い住宅だけ残せば、ずっと美しい国が復元されます。

 人口が半分になっても、海外から資源や食糧を購入するための代金は問題なく稼げます。労働者の減少を補う機械化、自動化が、輸出企業の国際競争力を向上させ、貿易黒字はなくなりません。海外から稼ぐ金利・配当収入と海外に支払う金利・配当の差額である所得黒字も近年増加傾向です。

 また、イタリアやフランス、スイスが得意としているような、高級ブランド服飾工芸品、高級加工食品の輸出は増やせます。欧州のブランド企業の多くは、地方の伝統産業や特産品から発展しましたが、日本にも世界ブランドになり得る地方の伝統工芸や特産品のタネは数多く残っています。例えば漆器の「輪島塗」。使い込むほどいい味が出てくる輪島塗は、最近ようやく家電製品に使われ始めましたが、自動車のステアリングや内装、家具などに組み込まれる機会も増えるでしょう。

 輸出は大丈夫としても、日本経済をむしばむ、生産年齢人口の減少に伴う内需の縮小にはどう対処すればいいのでしょうか。私は、高齢富裕層から若い世代や女性への所得移転を強く促進すべきだと思います。消費性向は子育て中の世代や女性の方が高いからです。お金がなくて結婚をためらっている若者の所得を増やせば、結婚難→出生者減少→生産年齢人口減少というサイクルからの脱出にもつながります。

 2010年から40年にかけて生産年齢人口は3割減りますが、残る7割の現役世代の所得を1人当たり1.4倍に増やせば、現役世代の内需の総量はほとんど減らない計算になります。日本の1人当たりの国民所得は、スイスやスウェーデンの6割前後です。国際競争力を維持しつつ個人所得を伸ばす余地は十分あります。

 団塊世代の定年によって浮いてくる人件費を、モノを消費しない高齢富裕層への配当には回さずに、若い世代の人件費や、子育て中の社員の福利厚生費の増額に充てませんか。若者の低賃金長時間労働は、内需を縮小させ、企業自らの利益を損なっています。賃上げ→内需拡大→売り上げ増加という好循環を生む第一歩を、それができる企業が自ら踏み出すべきです。 

   (朝日、2011年01月15日。聞き手・山口栄二)

   感想

 要するに、企業は配当を少なくして、若年労働者の賃金を上げ、労働時間を短くせよ、ということなのでしょうか。それによって、出生率は上がるでしょうから、人口の減少速度は落ちて、ゆっくりと「適正人口」になる、ということなのでしょう。

教育委員会の改革

2011年01月16日 | カ行
    穂坂 邦夫(地方自立政策研究所理事長)

 私は2001年から1期4年の埼玉県志木市長時代、全国初の25人学級の実現や、不登校児を学校外で指導するホームスタディー制の導入に取り組んだが、地方の教育改革を阻止する原因が、教育委員会制度にあることを実感した。最近のいじめによる児童・生徒の自殺の問題でも、学校や教育委員会の隠蔽体質が明るみに出た。制度の構造的な欠陥を放置したままでは同じことが繰り返されるだろう。

 今の制度は、文科省→都道府県教委→市町村教委→学校現場という、導線の長い上意下達のシステムになっている。このため、市町村の役割は、所管する小中学校が上からの「命令」通りに義務教育を行っているかどうかをチェックする受動的な「監視機関」になっている。

 また、市町村立の小中学校の教職員は、都道府県が一括採用して派遣し、国の補助を受けて人件費を負担している。任命権のない市町村にとって、校長や教員は指導官庁からの「派遣職員」であり、お仕着せ、玉突きの人事に甘んじ、教員の資質を高める研修も消極的になる。

 こうした構造は、教育の実施主体である市町村や学校現場の創造性を低下させ、双方の一体感を阻害するとともに、責任感の欠如にもつながる。

 制度の理想と現実とのギャップも目立つ。中立性を確保するため、首長は年齢・職業などに著しい偏りがないように教育委員を任命し、委員が合議で意思決定する仕組みになっている。一見理想的だが、合議制では、前例を踏襲したり、曖昧な結論になったりしやすく、大胆な施策に踏み切るのは難しいのが現状だ。

 安倍首相の諮問機関「教育再生会議」でも、教育委員会改革が焦点になっているが、制度の根幹を残したままの手直しでは、改革は一向に進まないだろう。

 国と実施主体の役割分担を明確にしたうえで、教育委員会の「必置規定」を撤廃し、現場の創造性と自己責任を担保した新たな制度を構築する改革が必要である。

 具体的には、新たな教育委員会を設置し、責任者は教育長とするが、首長を「総括的責任者」と位置づけ、教育行政にきちんと関与する仕組みにする。もちろん、中立性を確保するため、直接の指揮権がないことを条例で明確にする必要がある。さら忙、現行の5人程度の教育委員では多様な意見を集約するのは困難なので、10~20人程度の委員で構成する「地方教育審議会」を設け、合議制から審議会制にする。

 同時に、現場の自主権を確立しないといけない。市町村や校長に教職員の採用・任命権を与えれば、多様な資質の教員を確保でき、一体感も生まれる。実態に即したカリキュラムの大胆な編成も認めるべきである。そうすれば、授業に「空き教科時間」を設定し、苦手な教科を集中的に教えるなど、柔軟性のある教育が可能になる。

 国の役割は最小限にとどめ、分権型社会に合った抜本的な改革が急務である。

 (朝日、2006年12月01日。私の視点欄)

    関連項目

教員人事の真相

誤謬、der Irrtum

2011年01月12日 | カ行
 客観的な誤謬(実際に誤謬である考えないし行動)と或る人が「誤謬と思っているもの」とを区別して考えることから認識論は始まる、と思います。

 例えば、「上司の間違いに対してどう対処するか」といった問題提起を例にしますと、これは正確には、「或る人が自分の上司の或る考えなり行動なりについて『間違っている』と思った時、どうするか」と言うべきだと思うのです。

  参考

 01、誤謬とは、絶対的には存在しないものについての臆見が、自己を知り、自己主張しているものであり、その限りで積極的なものである。(大論理学第2巻56頁)

 02、真理と誤謬とは、両極的対立の中を動いている全ての思考規定と同様、極めて限られた領域に対してしか妥当しない。(マルエン全集20巻84頁)

   関連項目

  ヘーゲルの真理概念

悟性推理(理屈づけ、詭弁)、das Raisonieren, Raisonnement

2011年01月10日 | カ行
  参考

 01、形式的思考──非現実的な観念の中をあちこち理屈をこねる。質料的思考──素材の中に入り込み、表象の中で動く。(精神現象学48頁)

 02、外的反省の諸根拠からの理屈づけ(大論理学第1巻6頁)

 03、始原論は始原についての理屈づけであって、始原を持って来るためではなく、全ての暫定的なものを取り除くために述べた。(大論理学第1巻64頁)

 04、詭弁とは、人が無批判に無思慮に妥当させている「根拠なき前提からの理屈づけ」である。(大論理学第1巻92頁)

 05、根拠を探し指摘するのは悟性推理の本質であるが、それはそれ故に、終わりの無い徒労で、いかなる終局的な規定をも含まない。ソクラテスとプラトンが「詭弁」(ソフィステライ)と呼んだのはこのような根拠を挙げてする悟性推理のことである。(大論理学第2巻88頁)

 感想・小論理学の121節への付録にも詳細な説明がある。

 06、räsonierenden, dogmatischen Reflexion (大論理学第2巻169頁)
 07、理屈づけ、即ち反省的悟性的考察(法の哲学279節への注釈)
 08、理屈づけは諸根拠のまわりをあちこち動き回る。(法の哲学326節への注釈)
 09、通常の理屈づけは主としてこの反省の判断の中で起きることである。(小論理学174節への付録)

 10、一般に小ソクラテス派の諸家では実践が主となり、彼らがソクラテスの実践精神に結びつけたエレア的ないしソフィスト的議論は、既にソクラテス自らにも著しかった破邪的論法を拍車として、一般に学的理論を軽視し真理認識の可能性を疑いあるいは否定する傾向を取り、彼らの主眼とした実践倫理に対しては、これを積極的に根拠づける理論というよりは、却ってその実践から理論(即ち理屈)を捨て去らせるための論議となり、理屈ぬきの実践への奨励手段となり果てた。

 ソクラテスが新たに提出した魂やその徳の「何であるか」は彼らによっては答えられず、却って一般にものの「何であるか」を知ること(客観的・普遍的真理の認識)は不可能ないし無用とされて、そのために彼らの説き勧める実践道自身が他者を説得するに足る客観性と普遍性とを失い、遂に後には個人個人の悟りの術たるにさえ耐えなくなる。
 この場合、彼等に対して、その詭弁的・懐疑的な傾向と戦いつつ、魂の何であるかを新たに探求しその個人倫理を超越して、社会哲学を建設しようと企図したのはプラトン及びアリストテレスである。

 ついでながら、「詭弁家」という悪い意味で「ソフィスト」と呼ばれる者は、実は、主として彼等小ソクラテス派の連中であり、この悪い意味は、プラトン及びアリストテレスがこの連中の反理論的・認識否定的な態度や議論を非難し、論駁するに当たって、彼らを「ソフィスト」の名を以て呼んだのに起因する。(出隆「古代・中世哲学史」角川全書142-3頁)

 感想

 マルクス主義の運動におけるいわゆる「チンピラ左翼」あるいは「青二才左翼」はこの小ソクラテス派にそっくりですね。歴史は繰り返す。

高齢者と恋愛

2011年01月08日 | カ行
           小林照幸さん(ノンフィクション作家)

 恋は周囲をバラ色に変える。恋愛中は誰でも生きる意欲と希望がわいてくる。しかも脳で恋愛をする人間は、発情期の決まっている多くの動物と異なり、どこにでも「運命の出会い」のチャンスがある。それまでどんなにつらい人生であっても、次の瞬間にはかけがえのない人と出会い、まばゆく輝き出すかもしれないのだ。

 とはいえ「70、80歳になれば若いころのように燃え上がるような恋愛はしないし、できなくなる」と多くの人は思っているだろう。高齢の域に達していない人は特にそんなふうに想像しがちである。いわゆる「枯れる」という状態になる、と。

 私自身、高齢者の恋愛の実態を知るまではそう信じていた。

 今から12年ほど前のことだ。社会福祉を学ぶために信州大学に社会人編入した私は、介護保険の実施を前にした老人ホームに学生ボランティアとして1週間通った。新制度への対応に大わらわだろうと予想していたが、職員が抱えている最大の課題は、入所者同士のトラブル、中でも恋愛ざたにどう収拾をつけるか、だった。

 好きになった男性に告白できずにいた女性が、他の女性に彼をとられた例があった。彼女の落ち込みは尋常ではなく、うつ状態に陥り、職員も安易な慰めの言葉をかけられなかった。一方で、彼のハートを射止めた女性は、この上ない幸福感を得るに至る。表情は生
き生きとし、日常のすべての行動に積極性を見せるようになった。

 しかも、これは単なる話し相手、茶飲み友だちというレベルではなく、若い人同様の性的な接触を伴う関係を前提にしている。

 想定していた老後と異なる姿に衝撃を受けた私は取材を進め、高齢者の恋愛と性をテーマに3冊の本を書いた。またその過程で読者からのお便りやメールもいただき、高齢者の恋愛の実態をかなりの深部まで知ることができた。そして高齢者の恋象は、若い世代同様、いや、死を意識せざるを得ない分だけ若い人以上に、純粋で情熱的な部分があると確信するに至った。有史以来初めての超高齢社会を迎えつつあるニッポン。そのただ中で起こりつつある「性と恋愛観」の革命的変化は、どんな高齢者政策より根源的な福祉策になる可能性を秘めている。

 第一に、究極の健康増進策となる。高齢者の恋愛はまず、生きてこそ、である。若葉の芽吹くのを見、花が咲き、葉が色づくのを見るたびに、「来年の今頃は、もう……。この世で見る最後かもしれない」と思う。恋愛も命がけだ。恋人ができると、例外なく元気になるだけでなく、メタボ検診など不要なくらい、進んで節制し健康に気をつかうようになる。

 と同時に、生活の文化度が上がり、社会性が身につく。おしゃれや身だしなみに目覚め、明るくなる。部屋を整理整頓し、世間の話題に関心を向けるようにもなる。昔の肩書は役に立たない。尊大で意固地な態度では会話が弾まないから、コミュニケーションにも配慮が必要となる。連絡のために携帯電話やパソコンを使う人が増え、新しい機器を使いこなそうとする意欲も出てくる。

 ある高齢男性は、恋愛してから新聞の読者投稿欄にせっせと投書するようになった。好きな女性に自分をアピールし、元気であることを知らせるために。つまり、憲法25条に言う、すべての日本国民が権利を有するはずの「健康で文化的な最低限度の生活を営む」ために恋愛は大いに寄与するのだ。

 さらに、沈滞気味の日本経済にも活を入れる効果が期待できる。

 昨今の不況の原因の一つは、増え続ける高齢者が消費活動を控え、お金が回っていかないことにある。交際を始めると、新しい服や化粧品、装身具を買う。外出の機会も増える。食事や観劇、展覧会、旅行。限られな時を2人で過ごすためにお金を使おうとする高齢者が多い。親密な交際は、一人暮らしの高齢者が「孤独死」を防ぐセーフティーネットにもなる。

 確かに、恋愛が目の前の現実問題となった場合には、ずっしりと自己責任の重みがかかってくるだろう。自力で行動できる心身の状態を保たないといけないし、ある程度の収入が確保されていなければ関係の継続は難しい。何より、相手が先に逝った時の衝撃と苦痛は、若い時とは比べものにならず大きい。ぼんやりとテレビでも見ながら暮らしていれば、感じずにすんだ苦痛だ。そこには、肉親や周囲との関係、生きることの価値、倫理や愛の意味をどうとらえるかという、哲学的な課題さえのしかかってくる。

 しかし、これ以上に効果的なアンチエージング、癒やし、クオリティー・オブ・ライフ維持の方策はないのもまた現実だ。残念ながら人間は風船バレーや塗り絵だけでは充実感を得られない存在だ。触れ合う事のぬくもり、全人格をかけた承認が必要なのだ。

 高齢者の恋愛の実態を知るにつれ、私は、老いることへの恐れがなくなった。寂しい灰色の世界、と思っていた道には、最後の一歩まで希望の灯がともっている。

     (朝日、2011年01月04日。聞き手・鈴木繁)

   感想

 大賛成です。高齢者の恋愛を支援するために行政はどうしたら好いかを提案していないのは残念ですが。

 更に一歩を進めたらどうでしょうか。渡辺淳一さんの小説「エ・アロール」は銀座の有料老人ホームが舞台でした。その第1話は、風呂でデリヘル嬢と遊んでいる最中に心臓発作か何かで死んだ人の話でした。

 この小説は経済的にも能力的にも自分で異性と遊べる人たちの話でしたが、その点で力の無い高齢者を応援するのも行政の仕事にしていったらどうでしょうか。

 例えば、デイサービスに通っている人に、男性なら年に1回、ソープ嬢遊びやデリヘル嬢遊びが出来るようにお膳立てをし、女性にはホストと遊べるように取り計らうのです。

 障害者でも、家族に理解と財力のある場合は、その種の喜びを経験させるようにしている場合もある、というルポもあります。本人や家族の力では出来ない高齢者を応援するのは行政の仕事だと思います。

    関連項目

高齢者白書2010

コレクティブハウス

2011年01月07日 | カ行
            宮前眞理子(NPOコレクティブハウジング社(CHC)副代表理事)

 「コレクティブハウス」という新しい住まいを提案しています。

 どんな住まいなのか。各世帯がワンルームや2LDKなど独立した住居を持ちながら、高機能のキッチンや洗濯室、リビングスペースなどを共有しし、共同で運営する賃貸型の集合住宅です。現在、東京都内に4ヵ所あり、合わせて約70世帯が暮らしています。

 「未来の長屋暮らし」という人もいます。長屋といっても、プライバシーのない昔のイメージとは遠い。血縁にこだわらず、多世代が緩やかにつながりあう暮らしです。

 もともと、女性の社会進出に伴い、北欧で1970年代に「家事や育児を分かち合い、負担を軽くする住まい」として普及しました。私たちは「自分たちの手で暮らしをつくる」というところに共鳴し、日本の住まいの選択肢になると考えたのです。

 特徴の一つは、週3回程度の夕食づくりの共同化。コモンミールと呼んでいます。全員が交代で当番になりますが、食べるかどうかは自由です。そのほか、庭や菜園の水やり、掃除、戸締まりなどが当番制で、全員が協力しながらハウスを自主管理します。

 「地域とつながる共同体」でもありますので、近所の方を先生にして習字や生け花を教わったり、演奏会、演劇などのイベントを開いたり、ということもしますね。

 住人からは「独り暮らしの不安がなくなった」「家族以外との触れ合いが、子どもにもいいみたい」「共働きなので、帰ってきて夕食があって大助かり」といった声を聞きます。高齢の方は「子どもや若い人たちと話せて、生活にハリが出る」と言ってくれる。

 でも、人の価値観は多様ですから当然、意見の相違もあります。掃除をどの程度やるか、共有スペースにテレビは必要か、などを巡って。そんな時は、月1回の定例会で「気になること」として話し合ったり、ルールを再検討したりして、試行錯誤で解決策を探す。多様な人がいろいろな価値観を持つからこそ、多くの可能性にも巡りあう暮らしなんです。

 NPO法人の私たちの仕事は、事業の推進役として、「大家さん」と呼ぶ事業主や入居希望者を支援し、つなぐことです。2003年に東京・東日暮里に最初のハウスを完成させてから7年余り。建築の専門家とも協力し、ハウスを増やしてきました。

 計画段階から居住希望者が参加し、何度もワークショップを開いて、どんな暮らしにしたいのかという思いを共有する。その思いを設計者とともに形にします。住む人が入れ替わっても、私たちが大家さんと居住者組合をつなぎ、協力して快適な暮らしを継続させて
いくのです。関心を持つ人は非常に多く、見学者はすでに5000人を突破しました。「居住希望者の会」には現在、約80人が登録し、ともにハウスをつくる大家さんを探しています。

 私たちが驚いたのは、30代の単身者の入居が年々、増えたこと。この世代が「この先も自分は1人なのか」「収入を維持できるだろうか」と不安を募らせているのを感じます。孤立化、無縁化が進んだ日本の社会で、高齢者の孤独死、児童虐待、子どもや若者のコミュニケーション能力低下、といった問題が噴き出しています。人が安心してつながれる環境をどうやってつくるのか。それが大きな課題だと思いますね。

 日本の住まいのバージョン2・0を担うというような大それた夢はありませんが、暮らしへの不安が募る現状に対し、この「新しい住まい」は、解決の糸口になると思うのです。大家さん候補になるはずの人たちには、まだこの新しい住まいが浸透していません。ぜひ、多くの人と一緒にハウスを増やしたい。

(朝日、2011年01月04日。聞き手・山本晴美)

   感想

 行政の作る団地も、こういうのの集まりみたいにすると面白いと思います。

悟性、der Verstand

2011年01月06日 | カ行
 ドイツ語のVerstandの訳語として生まれた物であろう。しかし、これをどう訳すかは、この語を使っている人がどういう認識論を持っているかによって変わってくる。そこでそれを考えるために、人間の認識能力を分析してみる。

 人間の(広義の)認識能力を感覚と思考(一般)とに大別し、後者を更に低い(有限な)思考と高い(無限な)思考とに分け、更に又、この高い思考を、低い思考の限界(内在矛盾)を指摘するもの(否定的理性、弁証法的思考)と自分のものを全面的・立体的・自覚的に展開する思考(肯定的理性・思弁的思考)とに分けると、次の表が得られる。

  まず、感覚と思考一般(知性)に分ける。
  次いで、思考一般(知性)を低い思考(悟性)と高い思考(理性)に分ける。
  3番目に、高い思考(理性)を否定的理性(弁証法的)と肯定的理性(思弁的)に分ける。

 さて、Verstandという語はこの思考一般の意味で使われる時は「悟性」と訳してもよい(こういう事が分かっているなら)が、なるべく「知性」と訳すべきである。ロックの「人間知性論」の「知性」はこの「思考一般」の意味である。

 Vernunftは「理性」としか訳さないが、その意味はこの思考一般を指す場合と高い思考を指す場合とがある。「人間は理性的な動物である」という場合は前者である。この定義は「人間は思考能力を持った動物である」という意味である。

 ほとんどいつも「知性」と訳されるのはIntelligenzだが、この「知性」は、ここで言う思考一般の場合と「超感覚的(感覚を源泉としない)思考」という意味の場合とがある。

 カント以前は思考一般を悟性と理性に分ける考え方がなかったから、注意の必要なのは Intelligenzだけだったが、カント以降現代ではVerstandが問題である。

 弁証法と訳されるDialektikは、有限な思考によって固定したものと考えられている事物の中にある自己矛盾と、そこから生まれる自己運動のこと(客観的な意味での弁証法)を指す場合と、対象のそういう面を見抜いていく思考能力(主観的な意味での弁証法)を指す場合とがある。

 こういう主観的弁証法は、固定していると見られたものの否定へと結びつくので「否定的理性」とも言われる。この弁証法が単に否定的な結論で終わると懐疑論になるが、この否定の生む肯定的結論を見渡せる立場に立つと、これを肯定的理性と言う。ヘーゲルはこれを「思弁的思考」と呼んで最高位に置いている。

 以上のように、ヘーゲルの言う「思弁的」とは、一部の自称マルクス主義者が研究もしないで勝手に決めつけているような「観念論的」という意味ではない。

 その第1の特徴は、世界全体を包括的に捉える理念の立場とその能力であり、しかも否定的理性(弁証法)を止揚して内に含むものとして、その全体性は悟性の外的形式的全体性とは異なる内在的全体性である。

 第2に、その内在性はまた事物を発展的に捉える動的なものである。そこで「発展的に見る」とは単に「事物は発展するものだ」ということを知っているだけの低いものではなく、発展の「論理」を自覚し、その発展の全行程の結節点を人間の発生と人間の自覚(人間であることの自覚)に見ることである。

 以上のように、ヘーゲルの「思弁的」は本来は必ずしも観念論とは結びつかず、十分に唯物論的でありうるものだったが、ヘーゲルにおいてはそれが観念論と結びついたことも事実である。

 なお、ヘーゲルの論理の最高点が思弁的思考であるから、ヘーゲルは自分の哲学を「思弁哲学」と呼んでいるが、実際には弁証法という言葉に力点が置かれ、一般にも「ヘーゲル弁証法」と言われる。悟性的思考と思弁的思考とを結び付ける弁証法的思考を根本的に改作することで、以前からあったこれらの考え方と用語を変革したからである。これら全体における弁証法の意義が決定的に高いからである。(関口ドイツ語学の研究257頁以下)

          関連項目

悟性的認識論と理性的認識論

悟性推理

  参考

 01、悟性は思考一般であり、純粋な自我一般である。そして、悟性的なものとは既に知られたものであり、科学と非科学的意識とに共通のものであり、そこを通って非科学的意識は直ちに科学に入りこむことが出来る。(精神現象学17頁)

 02、形式的な悟性は事柄の内在的な内容に入りこむことなくつねに全体を見ている。個別的定存在について語っていながらその上に立っている。即ち、悟性は個別的定存在を少しも見ていない。(精神現象学45頁)

 03、具体物を抽象的な規定へと分解し、区別の深みを捉えるのは悟性の無限の力である。この深みこそその抽象的規定の移行を生じさせる力である。直感の持つ具体物は全体性ではあるが、感性的な全体性でしかない。それは時空間の中で相互に外在的に並存する実在的素材でしかない。(大論理学2、250-1頁)

 04、悟性は規定された概念の能力とされている。その概念は抽象〔一面化〕と普遍性の形式によってそれとして固定される。それに対して理性はその規定された概念を全体性と統一の中で定立する。(大論理学2、308頁)

 05、悟性の欠陥は、一面的な規定を唯一の最高の規定に高めてしまうことである。(法の哲学5節への付録)

 06、悟性の本質は概念規定をその抽象の中でしか捉えず、規定を一面性と有限性の中でしか捉えないことである。(小論理学第1版への序文)

 07、その際の表象には〔高低〕二つの場合があり、低いものは「法は法である」、「神は神である」という〔無意味な同語反復〕にとどまるが、高いものは、「神は世界の創造主である」とか「神は全知である」とか「神は全能である」といったように、いろいろな規定を〔述語として〕挙示したりする。しかし、この場合でも、個別化された単純な規定がいくつか並べられているという点では低いものの場合と同じで、それらの規定は同一の主語の述語とされているのだから相互に結びつきがあるのだが、それにもかかわらず相互外在的に〔無関係に〕とどまっているのである。この点で表象は悟性と一致する。悟性が表象と異なるのは、ただ、悟性は、表象がその無規定の空間内で単なる「もまた」によって結びつけるだけで並存させ孤立させている諸規定の内に、普遍と特殊とか原因と結果といった関係をつけ、それによって必然的な関連を与えるという点にすぎないのである。(小論理学20節への注釈)

 08、単に有限であるにすぎない規定しか産み出さず、有限な規定の中で動いているにすぎない思考を、(語の正確な意味で)悟性という。(小論理学25節)

 09、たしかに有限な事物については、それは有限な述語で規定しなければならないというのはその通りでして、悟性はここにその正当な活動分野を持っています。それ自身も有限者である悟性は、また有限者の本性しか認識しません。例えばある行為を捉えて、「それは盗みである」と言う場合、それによってこの行為の本質的内容が規定されるわけです。そして裁判官にとってはこういう認識で十分なのです。同様に、有限な事物があるいは「原因」と「結果」として、あるいは「カ」と「外化」として捉えられる時、それによってそれらはそのようなものとして関係しあうことになりますが、その時それらはその有限な面から認識されるので〔あり、日常生活ではそれでよいので〕す。しかし、理性的な対象はそのような有限な述語〔を外から付加するという方法〕によっては規定しえないものです。〔それなのに〕これをしようとがんばった所が昔の形而上学の欠点なのでした。(小論理学28節への付録)

 10、悟性、論理的なものの第1の形式(小論理学80節への付録)

 感想・第2の形式は「弁証法」(否定的に理性的なもの)であり、第3の形式は「思弁」(肯定的に理性的なもの)です。

 11、小論理学の第80節及びそれへの付録は悟性論として好くまとまっています。全文引くのは長すぎますので、核心的なことを箇条書きにします。

 ①悟性の働きは一般に、その内容に普遍の形式を付与することである。その普遍は悟性的普遍だから、特殊に対立しており、従ってそれ自身特殊である。
 ②悟性は対象に対して、分離し、捨象するように振舞う。具体物を〔そのまま〕取り扱う直感や感覚とは正反対である。
 ③その原理は同一性、単純な自己関係である。それは或る規定から他の規定への進行を引き起こす同一性である。
 ④悟性を客観世界に探すと、それは神の仁慈である。有限物が存在し、自分の存在に必要なものを得ているのは神の仁慈である。

 12、悟性の頑なさは、有限なものを自己同一のもの、自己内で無矛盾のものとして捉える。(小論理学113節への注釈)

 13、一般に、反省的表象が現出存在している世界を無数の現出存在者の集まりという形で捉える時、それはこのような姿で現われるものでして、現出存在者は自己内に反省すると同時に他者内にも反省しているので、互いに根拠でもあれば根拠づけられたものでもあるという相互関係で現われるのです。このような現出存在者の総和である多彩な世界の中には、一見した所ではどこにもしっかりした支点がなく、どれもこれも相対的なもので、他者に条件づけられると同時に他者を条件づけてもいるものに見えます。そこで反省的悟性はこの全面的な〔相互依存〕関係を調べ追求していこうと考えることになるので〔あり、それはそれで思考の一段階として必要なことで〕すが、そのような思考では世界の究極目的は何かという問いには答えられないのです。そこで、概念的理性の要求は論理学の理念の一層の歩みと共にこの単なる相対性〔根拠と現出存在〕の立場を越えて進むことになるのです。(小論理学123節への付録)

 14、特殊を除去して共通のものを取り出すというのが悟性が概念を捉えるやり方です。
(小論理学163節への付録)
 cf. 悟性として働く理性(小論理学226節)

 15、悟性は本質的なものと非本質的なものとを、自分が歴史考察で追求している目的を基準にして規定〔区別〕する。(歴史における理性33頁)

 16、自己内に具体的で豊かな内容を持つ対象を1つの単純な表象(大地、人間、アレクサンダー、シーザー等)にして、1語で特徴づけ、そのような表象へと解消し、そこに含まれている諸規定をその表象の中で孤立させ、そしてそれらの規定に特殊な名称を与えるのは思考の行為であり、しかも悟性の行為である。(歴史における理性172-3頁)

 17、悟性は宗教の真理を捉えない。〔だから〕悟性が自己を理性と称し(啓蒙として)、〔世界の〕主人であり親方であると自認した時には、それは過ちを犯したのであった。(ヘーゲル「ズ全集」18巻113頁)

 18、過去の事なら人々は何でも是認し、起きてしまった変化の必然性は承認するが、現在の場合への〔そういう考え方の〕適用となると、いつでも極力反抗する。そして、それはその規則の例外だと思うのである。(フォイエルバッハ「根本命題」16節)

 感想・こういう箴言的な言葉にフォイエルバッハの真骨頂があります。

 19、悟性とは、主観性と個別化の中に固定された理性のことである。(マルエン全集1巻436頁)

 20、悟性の全ての活動、即ち帰納と演繹、かくして又、抽象(リドの類概念、四足動物と二足動物)と未知の対象の分析(クルミを砕くことは既に分析の」始まりである)、そして総合(動物の狡賢いやり方)、および分析と総合を合わせたものである実験(新しい障害物や慣れない状況に出くわした時)、これらは人間と動物とが共有しているものである。(マルエン全集20巻491頁)

 21、全体を諸々の側面ないし要素にまで分析すること、分割すること、及び一つ一つの側面を固定させることが Verstand の特徴である。固定させることからすると、Verstand は verständigen 或いは zum Stehen bringen という意味をもたせて用いられている。この点はフィヒテの知識学を参照すべきである。(金子訳「精神現象学」464 頁)


起業(女性社長を4倍に)

2011年01月05日 | カ行
       コラボラボ社長、横田響子(きょうこ)

 女性社長を4倍に増やす。完全失業率5%台にあえぐ日本で、これは100万人以上の雇用創出につながると思うんです。

 いま、女性社長の数は約6万7000人。民間調査機関、帝国データバンクによると、全社長の6%に過ぎません。それを4倍に増やせるのか。

 なぜ女性社長なのか。男性だと、会社の規模や収益にこだわりがち。独立する際は、家族など周囲の説得にも時間がかかります。でも女性には固定観念やしがらみが、そんなにない。思いついたアイデアを起業に結びつけやすいのです。実際、起業したいと思っている人の中から起業する人の割合は、男性より女性の方がずっと高い。これは厚生労働省の調査でも明らかになっています。

 私自身、起業しました。東京都内のマンションの一室に、私を含めて5人。あとはアルバイトや研修生が7人前後という規模です。

 6年近く大企業のリクルートで働くうちに、女性社長の支援事業を専門にやりたくなり、飛び出しました。これまで1500人以上の女性社長に出会ったと思います。

 私たちが企画するイベントに来てくれた女性社長の約300人から聞くと、従業員数は平均5人強。大半がミニ企業です。現在、女性社長と共に働く人が計算上、約40万人だとすると、女性社長を4倍にすることで120万人の雇用を新たに生み出せる可能性があります。

 女性社長の中には育児サークルを発展させ、主婦たちによるマーケティング会社を起こした人もいれば、商品パッケージや宣伝方法の刷新で、祖父がつくった老舗飲料メーカーを低迷から再生させた人もいる。授乳服の製造・販売、化粧品の輸入・小物の商品開発など、女性の身の回りに新事業のヒントは多く隠されています。

 育児や介護などのハンディがあることが逆に「都合のいい時間に、好きな場所で、得意な仕事を」「小規模でいいから着実に」などと、柔軟な企業の姿や働き方にもっながっています。

 ただ、問題もあります。起業しやすい半面、女性社長は途中で挫折しやすい。廃業率でも、男性社長を大きく上回るのです。

 何が問題なのか。やはり育児や介護の負担が直接の引き金になるようですが、結局は経営ノウハウや人脈の不足が要因になっている。つまり孤立から、資金調達や宣伝、販路開拓などに行き詰まってしまうのです。

 私たちは、孤立しがちな女性社長たちのネットワークをつくれないかと考えました。女性の会社に関する多彩な情報を捷供するウェブサイト「女性社長.net」を立上げたのは、そういう思いからです。それぞれ専門性をもつミニ企業の情報、経営ノウハウを交換し、コラボ(コラボレーション=協力・協業)することで、弱みを補い、伸びてほしい。

 ミニ企業のコラボが広がれば、閉塞感の漂う日本経済にも新しい波が訪れると期待します。「共創」という潮流です。小回りのきくミニ企業同士がコラボし、さらに大企業とも連携し、斬新な発想による新事業をスピーディーにこなしていく。そこに競争社会の一歩先を行く共創社会の姿があります。

 カギを握るのが女性社長です。私たちが毎年春、東京都内で開くイベント「J300」には女性社長が300人集まります。名刺交換だけで、すごい熱気。圧倒されます。

 この女性社長たちの情熱を官民双方で支え、広げるべきです。事業支援セミナーを開き、助言者を紹介し、ミニ企業が国や自治体の契約を受注しやすくなる制度を導入する。こうした手だてを充実させれば、私の言う「女性社長4倍」は遠い夢なんかではありません。

(朝日、2011年01月03日。聞き手・山本晴美)

根拠

2010年12月31日 | カ行
 根拠について知っておくべきことは、根拠の立場は可能性の立場であり、偶然性の立場であって、必然性の立場ではない、ということです。

 ソシュールを受け継いだ丸山圭三郎さんたちは、例えば川をどう分けて理解するかは個別言語によって異なる、即ち英語では大小で分けてstreamとriverに分けるが、フランス語では海に注ぐか他の川に注ぐかで分けて、フルーヴとリヴィエールに分ける、という事実から、「だから対象をどう分けるかは人間の勝手であって、そこには必然性はなく、何の根拠もない」と主張しています。

この考えの間違いは、必然性のないことと客観的根拠のないこととを同じと考えていることです。

 川の分け方くらいなら自由でしょうが、では山と川を一緒にして同じ単語で表現する言語があるでしょうか。ないでしょう。山と川ではあまりにも違うからです。

 ニワトリの鳴き声の表現は、日本語は「コケコッコー」で英語は「クックアドゥードゥルドゥー」です。では、ニワトリの鳴き声を「ニャーオ」と表現することも可能でしょうか。不可能です。どの言語でもニワトリの鳴き声にはネコのそれよりも長い語を使っています。それは現実にニワトリの鳴き声はネコのそれより長いからです。

 つまり、言語による対象の区分にも客観的根拠「は」あるのです。しかし、それは一義的には決まっていません。つまり、根拠の立場は可能性の立場であり、偶然性の立場なのです。

 「一義的に決まらない」という事から「必然性がない」と推論するまではともかく(不確定性原理もありますから、これも問題ですが)、そこから「客観的根拠がない」と推論するのは間違いです。

  参考

 01、根拠は同一性と区別との統一であるという時、この場合の統一を抽象的統一と解してはなりません。なぜなら、もしそれを抽象的統一とするならば、それはその思想〔内容〕上、真でないことが判明した悟性的同一性の繰り返しにすぎず、ただそれが〔形式上、根拠という〕別の名前で現われているにすぎないことになるからです。従って、そのような誤解を避けるためには、根拠は同一性と区別との統一であるのみならず、その区別でもあると言うことも必要でしょう。従って、さしあたっては矛盾の止揚として現われた根拠は、ここに〔それ自身〕新たな矛盾であることになります。ということは、しかるに、根拠は自己内に静かに止まっているものではなくして、むしろ自己を自己自身から突き放すものだということです。(小論理学121節への付録)

 02、根拠は〔何かを〕根拠づける限りで根拠なのです。しかるに、根拠から現われ出てきたもの〔帰結〕は根拠自身にすぎません。そして、これが根拠の形式主義〔同語反復性〕なのです。〔すなわち〕根拠づけられたものと根拠とは同一の内容であって、両者の区別は単純な自己関係〔根拠〕か媒介ないし定立された存在〔根拠づけられたもの〕かという形式的な区別にすぎません。〔ですから〕事物の根拠が問われる時、それは、一般的には、先に(第112節への付録で)言及しました反省の立場があるということなのです。すなわち、事物の根拠を問う時には事物をいわば二重に、まずはその直接態において、次にはその直接的なあり方ではない根拠において〔根拠から媒介された姿において〕、見ようとしているのです。そして、これが〔形式論理学で〕いうところの充足理由律の単純な意味なのでして、それによって言われていることは、事物は本来媒介されたものとして考察しなければならないということにすぎません。(小論理学121節への付録)

 03、ところで、次に、根拠は単に単純に自己同一なものであるだけではなく、〔自己内で〕区別されたものでもあります。ですから同一の内容について複数の根拠を挙げることができます。そして、この根拠の複数性は、〔差異から対立へ、更に矛盾へと進んでいく〕区別の概念に従って、たんなる差異〔たんに根拠がいくつもあるということ〕から対立〔した根拠があるということ〕へと進み、同一の内容に対してそれを肯定する根拠と否定する根拠とが挙げられるということになります。

 例としてある行為、たとえば盗みという行為を取り上げてみますと、盗みというのはいろいろな側面を持った内容です。〔第一に〕それによって所有〔権〕が犯されるということ、しかし〔第二に〕困っていた盗人は盗みによって自己の欲求充足手段を手に入れるということ、更に〔第三に〕盗まれた人はその盗まれた物を正しく使っていなかった〔だから、その物にとっても盗人が使った方がよい〕という場合もありうること、などです。

 〔これに対して〕ここでは所有〔権〕が犯されたということ〔根拠〕が決定的な点であって、他の根拠はこの根拠に劣るということは、たしかにそうでしょう。しかし、根拠の思考法則〔自身〕の中にはどの根拠を決定的とするかということは入っていないので〔あって、根拠律の立場ではどの根拠も同等なので〕す。

 〔こう言うと、それに対して更に〕この〔根拠の〕思考法則は、普通、たんなる根拠一般について語っているのではなく、十分な根拠〔充足理由〕について語っているのだと考えられていますので、上例の行為〔盗み〕においては、所有〔権〕の侵害以外の根拠は、たしかに根拠ではあるけれども「十分な」根拠ではないと言うかもしれません。しかし、それについて言っておかなければならないことは、十分な理由について云々される時、この「十分な」という述語は余計なものであるか、〔内容上は〕根拠のカテゴリー自身を超えたことが考えられているかのどちらかだということです。〔第一に〕もしその「十分な」という述語で一般に〔帰結を〕根拠づける能力が意味されているだけだとするならば、その時にはその述語は余計であり、同語反復です。なぜなら根拠というのはこの〔根拠づける〕能力を持っている限りではじめて根拠だからです。〔例えば〕ある兵士が、自分の命を守るために戦闘から脱走したとしますと、その兵士はたしかに義務に反してはいますが、だからといって、その兵士にかような行為を取らせた根拠が十分ではなかったとは言えません。なぜなら、もしその根拠が十分でなかったなら、彼は自分の部署にとどまっていたでしょうから。

 しかし、更に〔第二に〕ここで言わなければならないことは、一方では根拠はみな十分ではあるが、他方ではどの根拠も根拠である限りは十分ではないということです。その理由は、既に述べましたように、根拠はいまだ絶対的に規定された内容を持たず、従ってそれだけで働き、〔帰結を〕産み出すものではないということです。そのような絶対的に規定され、従って自立して働らく内容としては、やがて概念というものが出てきます。そして、ライプニッツが十分な根拠ということを言い、事物をこの観点から見るように要求した時問題にしていたことは、この概念のことだったのです。

 ライプニッツが十分な根拠ということを主張した時、彼はまず、当時まだ多くの人に使われていたたんなる機械的な物の見方を念頭において、それは不十分なものだと言ったのであって、これは正しいことでした。例えば、血液循環という有機体の過程を心臓の収縮に還元してすますような考え方はたんなる機械的な考え方ですし、刑罰の目的を〔罪によってなされた〕損害を取り戻すこととか恐怖の念を起させ〔て、犯罪を思いとどまらせ〕ることとかその他の外的根拠と見るような刑法理論も、やはり機械的です。〔そして、ライプニッツは、このような機械的な物の見方に対抗して、十分な根拠ということを主張したのでした。ですから〕ライプニッツは形式論理学の根拠律のような内容の貧弱なもので満足していたのだと考えるとしたら、それはライプニッツを侮辱するものです。ライプニッツが主張した考え方は、概念的に認識することが求められている所でたんなる根拠を持ち出して事足れりとするような形式主義の正反対のものです。これについては、ライプニッツは作用因と目的因とを対置し、作用因にとどまっていないで目的因にまでつき進めと主張しました。この区別で考えると、例えば、光、暖かさ、湿りけは植物の成長の作用因ではあるが、目的因と見なすべきではなく、この目的因は植物の概念自身にほかならないというようなことです。(小論理学121節への付録)

 04、この根拠のことでもうーつ言っておきたいことは、ことに法や人倫の事柄に関してたんなる根拠にとどまることは、一般的に言って、ソフィストの立場であり原理であるということです。ソフィスト的思考について云々される時、それは、正しいことや真理をねじ曲げること、一般的に言うと、事物を歪めることを狙った思考法だと理解されることが多いようです。しかし、こういう傾向はそのままの形ではソフィスト的思考の中にはありません。ソフィスト的思考の立場はさしあたっては悟性推理〔理屈づけないし屁理屈〕の立場にすぎません。

 〔それなのになぜ、そこから、先に述べたような事物の歪んだ把握と取られるようになったかと言いますと〕ソフィストがギリシャ人たちの間に登場した時代は、ギリシャ人たちが宗教や習俗の分野でたんなる権威や伝統にもはや満足しなくなり、自分たちを律するものを思考によって媒介された内容として意識したいという欲求を感じた時代なのです。しかるにソフィストはこの要求に対して、事物を考察する様々な観点を探し出せという指示を与えるという形で答えましたが、その様々な観点とはさしあたっては根拠のことにほかなりませんでした〔その限りでソフィストは時代の要求に応えた進歩的な面もあったのです〕。

 さて、先にも述べましたように、根拠というのはいまだ絶対的に規定された内容を持っていませんから、人倫に合わないことや正しくないことに対しても、人倫に適った正しいことに対してと同様、いくつかの根拠を見出すことができますから、どの根拠を主張するかということは主観〔一人一人の人間〕に属することになり、どっちに賛成するかということは個人の志向や意図に左右されるということになるのです。従って、絶対的に妥当することや万人に承認されたことの客観的な基礎が掘り崩されることになります。かくして、ソフィスト的思考の中にあるこういう否定的な側面のために、それが先に述べたような悪い評判を受けることになったのは止むをえないことでした。

 周知のように、ソクラテスはソフィストとあらゆる分野で戦いました。しかし、それはソフィストの屁理屈に対してやみくもに権威と伝統を対置したのではなく、むしろたんなる根拠の立場には〔絶対的な〕支点がないということを弁証法的に〔問答法によって内在的に〕示し、正義と善、一般的に言うと意志の普遍ないし意志の概念を対置することによって戦ったのでした。今日、世俗的な事柄についての説明の中でも〔超世俗的な〕説教の中でも、もっぱら理屈づけの態度で事を処するのがよく見受けられます。例えば、神に対してなぜ感謝しなければならないかについて、考えうる限りのあらゆる根拠を持出すというようなことがあります。もしソクラテスやプラトンが生きていてこういう論法を聞いたならば〔たとえそれが善意にもとづいて正しい事を主張しようとするものだとしても〕、その論法はソフィスト的思考法だとすることに何の抵抗も感じないでしょう。なぜなら、先に述べたように、ソフィスト的思考法では、そこで直接問題になることは内容ではなく根拠という形式であり、内容ならばともかく真実な内容〔絶対的に規定された内容=概念的内容〕である場合もあるのですが、根拠という形式はどんなことでも守ることもできれば攻撃することもできるものであって、決して真実なものではありえないものだからです。(小論理学121節への付録)

 05、根拠はそれ自身現出存在であり、現出存在するものも同様に多くの面から見て根拠でもあれば根拠づけられたものでもある。(小論理学123節)

 06、こんな風に可能性について云々する時に、上に述べたように〔周囲の諸関係から切り離して〕使われているのは主として根拠の思考法則であり、従って何らかの根拠が示されうる事は可能だと言われているのです。(小論理学143節への付録)

 07、すべての事物は対立・矛盾をつうじて自分の根拠へ帰る、という法則である。たとえば、マルクスの商品論の例でいえば、諸商品は相対立し矛盾した交換関係(交換過程)をつうじて自分の根拠へ帰る(つまり貨幣を形成する)、ということになるであろう。ヘーゲルにとっては、還帰作用(反省作用)はつねに措定作用(形成作用)でもあるのだから、いまや、矛盾の解決として形成されたものこそ、真の根拠としての意義をもつことになるのである。あるいは逆にいえば、ヘーゲルのいう「根拠」とは「解決された矛盾」にほかならない、といえるであろう。(許萬元『ヘーゲルにおける現実性と概念的把握の論理』大月書店、第6章)


白熱教室は50点

2010年12月28日 | カ行
 「称賛の嵐」と言っても好い「白熱教室」の放送を6回見ました。横浜市立大学の上村雄彦(たけひこ)准教授の授業を4回とハーバード大学の教授のサンデルさんの東大での2回の特別講義とです。サンデルさんのハーバード大学での講義は視聴していません。

 結論として「50点」を付けました。それは大学の授業として及第点には達していないが、多くの授業が20点や30点であるから、これでも「好い授業」と喜ばれるのだろう、という意味です。

 その判断の理由を箇条書き的にまとめます。

 まず第1に、授業の目的は何か、ということがはっきりしません。

 上村さんは第4回で、「考えさせ、議論をさせてから知識を与えると、学生の頭にズバッと入る」と言っていました。そして、実際、まるで問題の正解か授業の結論を出すような態度で、「デンマークがその目標を実現している」と言い、「デンマークがそうなったのは教育の力による」といった話をしていました(この考えは内容的に間違っていると思います)。

 朝日(2010年12月15日)によると、「貧困や紛争など世界規模の問題に挑戦する人材の育成を目指す上村雄彦准教授」とあった。それなら、「正解」を与えるのではなく、「皆さんの目標と考える国は例えばデンマークです」と言い、「ではデンマークはどのようにしてそういう国になったのでしょうか。興味のある人は自分で調べて見るといいでしょう」と結べば好かったと思います。

 サンデル教授の場合は、第1回の講義の目的は、正義についての考え方は3つあることを具体例での学生の意見を通して証明することのようで、強引にそこへと持って行っていましたが、なぜこの目的を立てるのか分かりません。

 2回目では、「過去の、で悪ければ、現在も生きている政治思想のいくつかを理解させることが目的で、そのために現実の問題についての議論をさせる」と取れる発言をしていましたが、実際には、逆に現実の問題を考える力を涵養することが目的で、歴史上の考え方を理解することはその手段のように思えました。後者なら賛成ですが、この点が不明確です。

 第2に、出した問題が適当でないと思います。上村さんの課題は、世界の貧困をどう解決するかとか、2050年の日本の首相になったらどういう日本を作るかとかで、問題が大きすぎます。横浜市立大学のホームページはどう作るべきかといった本当の問題にどうして気づかないのでしょうか。実際、横浜市立大学のホームページは滅茶苦茶です。

 サンデルさんの場合は、1回目の具体例は、難破した4人が仲間の少年を殺して食べて生き延びて助かったという歴史上の実例、イチローの年俸などであったり、又、学力試験では東大に入れないが親に財産があり寄付の申し出があれば、入れた方が「善」であるかという問題で、上村教授の問題よりは小さい。生徒に合わせたということは分かるけれど、どうにでも考えられることで、実際に生徒は自分の仮定を付け加えて考えていました。

 2回目の問題(親族の犯罪の責任を自分も負うべきか、オバマ大統領は広島への原爆投下を謝罪すべきか、等)も、その他の条件を加えて考えるべき問題で、適当でないと思います。

 なぜこうなるかと言いますと、学生の知識及び経験と問題の難しさとが対応していないからだと思います。私は、学生の知っていることを取り上げています。特に学校や教育のことを取り上げることが多いのはそのためです。しかも、新聞に載った事例をそのまま取り上げるとかします。
 もちろん生徒の知らない事を取り上げることもありますが、その時には事前にVTRを見せるとか、物を読ませるとかして、皆が同じ知識を持って考えられるようにします。

 第3として言いたい事は、これが50点とする最大の理由ですが、大学はもちろんのこと、一般に学校は「書き言葉の府」であって、「話し言葉の府」ではない、ということです。発展途上国の子どもなどが、よく「学校へ行けて、字が読め書けるようになって嬉しい」と言いますが、日本でも学校での勉強を「読み書きそろばん」と言いました。この通りです。

 本を読ませ、文章を書かせる、そして教科通信を出す。これが学校と大学の授業の主たる作業です。議論も悪いとは言いませんが、話し言葉での議論の他に書き言葉での議論のあることを忘れてもらっては困ります。

 本を物凄く読ませる授業ないしゼミでは、たまたま知っただけですが、東大の苅部直(かるべ・ただし)さんのゼミと明治学院大学の原武史さんのゼミには驚きました。あれについて行けるのかな、と思いました。読書量を半分にして、教科通信を作らせた方が好いと思いました。

 第4に、特に上村さんの講義について言うならば、この講義の市立大学の講義全体に占める位置と役割が分かりません。学校教育とは個々の教師が行うものではなくて、校長(学長)を中心とする教師集団が行うものです。

 具体的に言うと、こういう議論のある授業を考えてみますと、その訓練の出来ていない学生を相手にこういう授業をするならば、その基礎訓練の授業と大学に相応しい内容についての議論型授業とを全体として配分しなければならないでしょう。上村さんの授業はこの両方を1つの授業でやろうとしたことに無理があったと思います。

 しかも、4回で完結ということはTV放映のための特別の授業だったようで(板書する人が別にいたのも違和感を覚えました)、こんな事までするのは間違っているでしょう。普段の授業を放映するべきです。

 第5に、TV放映と言いますと、それの弊害で悪ければ、その「偏り」を考えなければなりません。どういうことかと言いますと、TV放映されるのは必ずしも本当に好い授業ではなく、絵に成る授業だということです。

 義務教育の授業でも、例えばかつてNHKは杉並区立和田中学校での藤原和博さんの「世の中科」の授業を放映しましたが、私の知る範囲では愛知県犬山市の「学び合いの授業」は放映しませんでした。
 書き言葉での議論型授業は絵に成らないので放映しないが、話し言葉での議論は絵に成るから放映した、そしてその視聴率を高めるために「白熱教室」と銘打って宣伝したのでしょう。学問とは関係のない事柄です。

 学問とは無関係どころか非学問的な事の象徴は、サンデルさんの講義の最後の異常な興奮です。会場全体を興奮状態に持って行くような運営は政治集会か宣教師の伝道集会です。学問的情熱は内に向かい持続するものです。

 白熱教室への称賛の嵐は、「こんな授業でも称賛される」ということで、全体のレベルがいかに低いかということを証明しただけでしょう。

  参考

「天タマ」
「哲学の授業」
「哲学の授業」のレヴュー
議論の認識論

カルヴァン

2010年12月27日 | カ行
 16世紀の西欧は宗教改革の時代。ルターに続く改革の代表者がジャン・カルヴァン(1509~64年)だ。

彼の教説の根幹は「予定説」だ。天国に行けるか地獄に落ちるかは、信仰の深さや善行などとは無関係に、神によって前もって決められている。まったく信徒を突き放した教説である。

 職業観も独特だ。職業は、神が自らの栄光を実現するために人間に与えた責務なのだ。ここから天職という言葉も生まれた。英語のCalllng、独語のBeruf。共に「呼ぶ、命ずる」という動詞が名詞に転化した。命令の主舞は無論、神である。

 神の与えた天職を禁欲的かつ勤勉に遂行した結果、財を成すのは神の意思に添うものだと解釈された。商工業者に受け入れられ、近代資本主義の精神基盤となった。現代にこれほど大きな影響を与えている考えはほかになかろう。

 実践の場はスイスのジュネーブだった。事実上の独裁者として、「教皇主義による悪影響」から町を浄化し、市民を教化するため厳格な道徳的規律を強いた。宗教法院が全市民の行動を審査・監督し、礼拝の義務づけは当たり前で、過度な飲酒、ダンス、演劇などは禁止。衣類の色や髪形まで決められた。子供に聖人の名をつけるのもカトリック的だと御法度。生活は質素に、辛くても不満を漏らさない勤労精神が奨励された。

 教義と道徳と規律を守るため、彼の約20年の治世で58人が死刑、76人が追放された。

 世界同時不況を招いた強欲資本主義が自らの教義を淵源としていると知ったら、カルヴァンはどんな顔をするだろうか。
(朝日、2010年12月25日。河合塾講師・青木裕司)

 感想

ルターは1483~1546年です。

事柄(事と物)

2010年12月25日 | カ行
  参考

 01、事柄はその目的〔たる結果〕の中で尽きているのではない。その遂行過程の中で尽きているのである。結果は真の全体ではなく、その生成過程と一緒に成って初めて全体なのである。(精神現象学11頁)

 02、感性的確信や知覚の「物」が〔ここで再び〕自己意識の対象になるのだが、それが自己意識に対して〔事柄としての〕意味を持つのは、それがただ自己意識の生み出したものである限りである。ここに「物」と「事柄」との違いがある。(『精神現象学』牧野訳585頁)

 03、この「純粋な事柄」そのものとは、先に「カテゴリー」とされたもののことである。カテゴリーは自我でもある存在であり、存在でもある自我であるが、それはそこではまだ現実的な自己意識とは区別された思考であった。しかし、ここでは現実的な自己意識の諸契機は、~単純なカテゴリーそのものと同じものとして定立されることになった。それによってそのカテゴリーも同時に全ての内容でもあることになったのである。(『精神現象学』牧野訳594頁)

 04、〔神々の掟と人間の掟という〕習俗的な権力は事柄そのものの本当の内容なのである。(『精神現象学』牧野訳643頁)

 05、良心の段階で初めてこの事柄そのものは主語になる。……良心は中身のある事柄そのものを掴むのであり、その中身は良心が自分で事柄そのものに与えるものなのである。(『精神現象学』牧野訳836頁)

 06、事柄そのものとは次の事を意味する。即ち、事柄の概念はその概念自身の否定的統一〔自己を否定する中で自己同一を貫徹するもの〕だから自己の概念の普遍性を否定して個別性の持つ外面性の中に身を置くという事である。(大論理学2、305頁)

 07、事柄には客観的な物と同様、対立した2つの意味がある。1つは、「それが〔問題になっている〕事だ」と言う時の意味である。そこでは人物は問題ではなく、事柄が問題になっている。つまり、実体的な物という意味である。もう1つは人物(つまり、特殊な主体)に対すると事柄ではなく、実体的な物と対立した事柄である。つまり外面的な物という意味である。(法の哲学42節への注釈)

 08、その規定〔使命〕において捉えられた理性にして初めて事柄である。(歴史における理性49頁)

 09、「事柄」ということばは、すでに第1編第3章Cの「b 絶対的な無制約的なもの」において「事柄自体そのもの」という形で使われた。そこにつけた訳者注で述べたように、「絶対的な無制約的なもの」が「事柄自体そのもの」とよばれるのは、「全体」とか「総体性」とか言い表わすほかには表現しにくいものの実質を、その正体がまだ明らかにされないままで、何とか表現しようとするためにであった。

 事情はここでも同様である。内のものと外のものとの同一性が「絶対的な事柄」とよばれており、そしてそれはこれら両者の「内容にみちた基礎」であるといわれているが、しかしそれだけでは「絶対的な事柄」とは何であるか、その実質はまだ明らかにされていない。しかしそれにもかかわらず、それはきわめて重みのあるもの・今後の展開において中核的な役割をはたすことが予想されるものである。

 このような、総体性であるがその実質がまだ明らかでないものを表現したい場合に、ヘーゲルは「事柄」ということばを使うのである。(寺沢恒信訳「大論理学2」以文社377頁)

 感想・場当たり的な説明で終わらせる寺沢氏の特徴が好く出ていると思います。一生を「精神現象学」の翻訳に捧げた金子武蔵氏との違いが好く出ています。

 10、われわれは本書の第1部で、「こと」と「もの」との共生関係ということを見てきた。純粋無垢の「こと」それ自身は意識を超えている。意識は志向作用によって「こと」に「もの」的な対象性と個別性を与え、それによって、「もの」と「こと」とのあいだの緊張をはらんだ共生関係を作りだすことをもってその職分としている。意識されたかぎりにおいて、「こと」はすでに「もの」による汚染を被っている。(木村敏『時間と自己』 p.135)

 11、人間的意識において、「こと」が対自構造をもった「自己」として現れなくてはならないということは、人間存在の、そして人間的意識の「有限性」の徴候である。神のごとき無限の意識にとっては、「こと」はいっさいの「もの」に汚染されることなく、純粋無垢な「こと」それ自体として永遠に成立していることだろう。つまり、無限な存在にとっての「こと」は、即自的なありかたをもっていることだろう。しかしそのような即自としての「こと」は、もはや「こと」とすら言えないものでしかないだろう。(木村敏『時間と自己』 p.176)

国家

2010年12月22日 | カ行
 国家の概念を論ずるには、まずその語の対象を確定しなければ無意味でしょう。そもそも日本語の「国家」という語の中には、それを「家を拡大したもの」という理解が入っていると思います。これでは冷静な議論はできません。

 家を取って「国」だけにすればそういう含意は無くなります。この漢字は漢和辞典によると、「武器を以て守られた一定の区切られた土地」のことのようです。(参考32を参照)

 両者を比べますと、「国」は外に対する防衛に力点があり、「国家」は内部の親しい関係を表していると言えそうです。

 ヘーゲルの説は後者を更に美化したような考えと言えるでしょう。マルクス主義の国家暴力説(国家=暴力機関と考える説)は、「外的に対した備えであったものが内部の住民を抑圧する機関になってしまっている」と考えるものでしょう。事実としてこうなっているという指摘は根拠があると思いますが、それを本来の姿と見るか、それとも本来の姿の疎外態と見るかまで検討する必要があるでしょう。

  参考

 01、国家が市民社会と混同されて、国家の使命が財産の保全、保護、人格の保護となると、「個人としての個人の利益」が最終目的とされることになり、多くの個人が団結しているのはそのためにであって、国家の成員であるかないかは任意な事になる。(法の哲学258節への注釈)

 02、自己関係する有機体としての個体的な国家が国家体制(Verfassung)であり、国内法である。(法の哲学259節)

 03、主体的意志と普遍者との統一である本質的なものは人倫的全体であり、その具体的な形態が国家である。(歴史における理性111頁)

 04、国家の中で自由は対象的に実現されている。(歴史における理性111頁)

 05、国家は市民のために存在するのではない。国家が目的で市民が国家の道具である、と言うことはできる。しかし、目的と手段という関係は一般的に言ってここでは不適当である。なぜなら、国家は市民に対立する抽象物ではないからである。そこにはいかなる目的も手段もなく、有機的生命におけるように、市民は国家の契機なのである。(歴史における理性112頁)

 06、精神的個体、自己内で肢体に分かれている限りでの民族、有機的全体、これを国家と呼ぶ。(歴史における理性114頁)

 07、〔国家の〕普遍的原理を絶対的に権利づけるということは、その原理が神の本性自身の契機規定だと知ることである。(歴史における理性128頁)

 08、国家は、人間の意志と自由が外面に現れた姿での精神的理念である。(歴史における理性143頁)

 09、宗教を前提している国家はまだ本当の国家ではない。……宗教があることは国家が国家として完成していることと矛盾しない。しかし、宗教があるということは、何らかの欠陥があるということで、この欠陥の元はやはり国家自身の本質の中に求めるしかない。(マルエン全集第1巻350,352頁)

 感想
・マルクスとエンゲルスの宗教論の根本的欠陥は、宗教の定義をしていないこと、あるいはその前提している定義が間違っていることです。

 10、完成された政治的国家〔宗教の自由を認め、財産による選挙権の差別などのない国家〕は、その本質から見て、人間の類的生活が物質的生活〔世俗的生活〕に対置されて現れた姿である。(マルエン全集第1巻354頁)

 11、古代国家が奴隷制を自然的土台としていたように、近代国家は市民社会〔ブルジョア社会〕を自然的土台としている。……近代国家は普遍的人権という形でこの自然的土台をそのようなものとして〔私的利益を追求する独立した個人から成るものとして〕承認している。(マルエン全集第2巻120頁)

 12、そしてまさに特殊利害と共同利害とのこの矛盾に基づいて、共同利害は、個別及び全体の現実的な利害から切り離されて国家として独立した姿を取る。そしてそれは同時に又、幻想的な共同性としてである。しかし、いsつでもそれが実在的な土台としているのは、あらゆる家族集合体及び種族集合体の内にある紐帯、例えば血肉、言語、比較的大規模な分業及びその他の利害であり、特に分業に制約されている階級、1つが他を支配するような関係にある階級である。(「ドイツ・イデオロギー」古在訳44頁。。マルエン全集第3巻33頁)

 13、国家は、支配階級の諸個人が自分達の共通の利害を主張する形態である。そこには所与の時代の市民社会〔経済社会〕全体が集約されている。その結果、共同の制度は全て国家に媒介されて政治的な形を取ることになる。従って、法律がその実在的土台〔である経済関係〕から切り離された意志、即ち自由な意志に基づくかのような幻想が生まれる。かくして、法〔正義、Recht〕も法律〔Gesetz〕に帰着されてしまうのである。(「ドイツ・イデオロギー」古在訳94頁。マルエン全集第3巻62頁)

 14、政治権力とは正確には市民社会における敵対関係の公的要約である。(哲学の貧困。マルエン全集第4巻179頁)

 15、近代の国家権力はブルジョア階級全体の共同の仕事を司る委員会にうぎない。(「共産党宣言」。マルエン全集第4巻464頁)

 16、国家は、同一種族に属する諸共同体の自然発生的な諸グループが、さしあたっては単に共通の利害(例えば東洋における灌漑)の世話と外的に対する防御のためにその諸グループから発展して生まれたものだが、その国家が〔分配上の差に基づく階級的な違いが出てくるようになった〕時以来、それまでの目的以外に、支配階級が被支配階級を力を以て支配して自分の生活を守るという目的も持つようになった。(「反ヂューリング論」。マルエン全集第20巻138頁)

 17、共同体には初めから共通の利害がある。争いを解決し、個人の越権行為を抑制し、特に暑い国では水を管理し、森の中での原始的な生活では宗教的行事を取り行うといったことである。そして、それの管理を何人かの人に任せるということがある。たとえ共同体の成員全員がそれを監視するにしてもやはりそうである。……それらの職務には言うまでもなく全権が与えられており、これが国家権力の端緒である。(「反ヂューリング論」。マルエン全集第20巻166頁)

 18、とにかくいずれの方法でも、封建的な生産様式を資本主義的なそれに転換するのを早め、その時間を短縮するために国家権力を利用した。国家権力というのは集中化され組織化された暴力である。それは新しい社会を孕んだ古い社会の助産婦であり、それ自身が1つの経済的な力である。(「資本論」第1巻24節)

 19、今日の国家には、住宅難を救済することもできなければ、救済する気もないことは、火を見るように明白である。国家とは、被搾取階級すなわち農民と労働者にたいする有産階級すなわち地主と資本家の組織された総体的権力にほかならない。個々の資本家(そして、ここでは資本家だけが問題なのである。なぜなら、この問題では、関係者たる地主も、さしあたって資本家としての資格で登場するからである)が望まないことは、彼らの国家も望まない。だから、個々の資本家が、なるほど住宅難を嘆いていても、住宅難の最も恐るべき結果を表面的に糊塗するためにさえ、腰を上げることがほとんどない状態だとすれば、総資本家である国家もまた、それ以上大した事はしないであろう。国家は、表面を糊塗する事が世間の慣習になった程度に応じて、その程度の事がどこでも一様に行なわれるように取りはからうのが、関の山であろう。そして、これが実状だということは、われわれがすでに見てきたことである。(エンゲルス『住宅問題』村田陽一訳、国民文庫、101頁)

 20、国家は人間に対するイデオロギー的な威力の最初のものである。社会は内外からの攻撃に対して自分達の共同の利害を守るための器官を作りだす。これが国家権力である。それは発生するや否や社会から自立し始める。しかもそれが特定の階級の器官になり、その階級の支配を直接追求するようになればなるほど、それは社会から自立し始める。……しかし、国家はひとたび社会から独立した勢力になると、直ちに一層進んだイデオロギーを生み出す。即ち、職業政治家や国法の理論家や私法の法律家たちには、経済的事実との関連が、当然の事ながら、見失われるのである。(エンゲルス「フォイエルバッハ論」)

 感想・ここでのイデオロギー概念についてはマキペディアの「イデオロギー」を見よ。

 21、国家の本質的な特徴は、人民大衆から区別された公的暴力であるということにある。(エンゲルス「家族・私有財産・国家の起源」)

 22、国家とは、時の関係者の総体から分離した特殊な公的暴力を前提する。(エンゲルス「家族・私有財産・国家の起源」)

 23、国家は階級対立を抑制しておく必要から生まれたものであり、同時に諸階級の衝突の真っただ中から生まれたものだから、経済的に支配する最も力のある階級の国家となるのが普通である。(エンゲルス「家族・私有財産・国家の起源」)

 24、プロレタリアートがまだ国家を使用する間は、それは自由のためではなくて敵を征服するためである。自由が問題になるや否や国家自体は存在しなくなる。従って我々は〔綱領の中では〕どこでも「国家」の代わりに「共同体」という語を使うように提案したい。(「エンゲルスからベーベル宛ての手紙」1875年3月18-28日)

 25、間近に迫った社会革命の結果として政治的国家が消滅し、それとともに政治的権威が消滅するということ、即ち、公的諸機関はその政治的性格を失って社会の真の利益を守る単なる行政的機関に変るだろうという点については、社会主義者はみな一致しています。(エンゲルス「権威論」)

 26、全ての成員が順番に「秩序の組織体」を管理しているような共同体は、誰も「国家」と呼ぶことは出来ない。(レーニン「ナロードニキ主義の経済的内容」)

 27、われわれには、プロレタリアートには、すべての勤労者には、どのような民兵が必要であろうか? 真に人民的な民兵、即ち、第1には全国民から、男女を問わずすべての成人市民から成り、第2には人民軍隊の機能と、警察の機能、国家秩序および国家行政の主要な基本的機関の機能とを一つにあわせた民兵である。……このような民兵は、民主主義を、資本家による人民の奴隷化と人民の愚弄とをおおいかくす美しい看板から、あらゆる国務に大衆を参加させるための真の大衆教育にならせるであろう。(レーニン邦訳全集第23巻360-2頁)

 28、国家は、階級対立の非和解性の産物であり、その現れである。国家は階級対立が客観的に和解させることができないところに、またそのときに、その限りで、発生する。逆にまた、国家の存在は、階級対立が和解できないものであることを証明している。……マルクスによれば、国家は階級支配の機関であり、一階級が他の階級を抑圧する機関であり、階級の衝突を緩和させながら、この抑圧を法律化し強固なものにする「秩序」を創出することである。……もし国家が階級対立の非和解性の産物であるなら、また国家が社会の上に立ち、「社会に対してますます外的な物に成って行く」権力であるなら、明らかに、被抑圧階級の解放は、暴力革命なしには不可能なばかりでなく、更に支配階級によって作り出され、この疎外を体現している国家権力機関を破壊することなしには不可能である。(レーニン「国家と革命」、邦訳全集第25巻417-9頁)

 29、エンゲルスは、国家と呼ばれる「権力」、すなわち、社会から生まれながら、社会のうえに立ち、社会に対してますます外的なものとなっていく権力の概念を展開している。この権力は、主としてなんにあるのか? それは、監獄等を自由に使うことのできる武装した人間の特殊な部隊にある。……常備軍と警察とは、国家権力の暴力行使の主要な道具である。(レーニン「国家と革命」、邦訳全集第25巻419-20頁)
 30、国家機関という言葉で我々が指すのは何よりも常備軍と警察と官僚である。((レーニン邦訳全集第26巻91頁)

 31、主として「抑圧的な」機関のほかに、銀行やシンジケートととくに緊密に結びついた一つの機関が、こう言って好ければ、たくさんの記帳=記録活動をはたす機関がある。この機関を打ちくだくことはできないし、また打ちくだいてはならない。この機関を資本家への従属から引きはなさなければならない。……資本主義は、銀行、シンジケート、郵便、消費組合、職員組合のような、記帳機関をつくりだした。大銀行がなければ、社会主義は実現できないであろう。……問題の「眼目」は、資本家の財産を没収することなどではなく、資本家と、彼らのありうべき味方とに対して、全人民的な、すべてを包括する労働者による統制を実施することであろう。没収しただけでは、なんにもならない。なぜなら、没収ということには、組織や、記帳や、正しい分配という要素は、なに一つ含まれていないからである。((レーニン邦訳全集第26巻95-8頁)

 32、春秋時代(紀元前770~473年)においては……社会の基本単位は「国」と名付けられる都市(ポリス)国家であって……/「国」以外の地方を「鄙(ひ)」と称した。「鄙」の絶対多数は農民である。(新島淳良「歴史のなかの毛沢東」野草社16-8頁)