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山岸会(01、特講の論理)

2009年09月18日 | ヤ行
 日本最大の共同体(コミューン)として知られる山岸会の特別講習研鎖会は、一部の人々に特異な解放感を与えているようです。興味をもち、調査し、体験して考えてみました。これはその報告です。山岸会のことを知らない人のために、歴史と現状を解説した文をはじめに置きました。

1、山岸会の歴史と現状

 山岸会は山岸巳代蔵氏(1901~1961)の思想ヤマギシズムにもとづいて、全ての人が幸福になる快適社会を目指す運動体です。その「革命」は、ひとたび成就されると、その後一切の革命・変革の必要のない革命ということで、最後の革命という意味で、アルファベットの終りの字であるZを採って、「Z革命」と称されています。

 山岸会の歴史を区分した人はいないようですが、私は、前史と4期に分けて考えたらどうかと思います。

 前史(山岸会成立まで)

 山岸氏は19才から22才までの3年間に万巻の書を読み、自分の思想を確立されたそうです。しかし、それをすぐ発表・布教しようとしませんでした。

 昭和25年、ジェーン台風で周囲の稲がみな倒伏した時、氏の稲だけは倒伏せず、それが農業改良普及員の目に止まって、世に出ることとなりました。講演などに出されて有名になり、特にその養鶏法を知りたいという人が集まりましたが、その中から、氏の養鶏法はたんなる養鶏法でなく、理想社会を目指す思想と結びついていることを理解する人々が出てきました。

 第1期(会の成立から共同生活の始まり迄)

 山岸会は初めから共同生活体として発足したのではありません。昭和28年03月16日に、二十数人で発会しましたが、その時は、山岸会と山岸式養鶏普及会の二本立(昭和30年08月に一本化)で、いずれも、普通の会のように、事務所を置いて(京都府乙訓郡上植野)活動する会でした。

 この会の活動として、毎月16日に、昼間は養鶏専門の研鑽会をやり、夜は「何で腹が立つのか」といった精神的な事柄、みんなが仲良くなるための諸問題を話し合う研鑽会が開かれました。後者はたいてい徹夜になりましたので、「夜明し研鑽会」と呼ばれました。しかし、1晩では不十分だということで、1週間の特別講習研鑽会(略称「特講」)が構想され、昭和31年01月12日にその第一回が京都のお寺を借りて開かれたのです。

 なお、その前に、昭和29年12月、のちに特講のテキストとなる「ヤマギシズム社会の実態」という文章が、山岸氏によって発表されています。

 第2期(共同体化から実顕地の成立まで)

 昭和33年03月に「百万羽」と通称される構想が発表され、その結果山岸会式百万羽科学養鶏株式会社が設立され、三重県の春日山に土地を取得し、共同生活して、会の趣旨を実際に顕わすことになりました。そのため、各地方で活動していた人々がみな春日山に集められてしまい、地方会はつぶれるということにもなったようです。ですから、この百万羽構想とその実施、会のコミューン化によって山岸会は曲ってしまった、とする古い人々もいるようです。

 会はこれによって根拠地を得た形になり、昭和34年には北海道にも土地を取得して活動を拡げ、盛り上ったようです。そこから、各界の知名人を特講に呼んで人間変革し、一挙に日本を革命するという考えが出てきました。これを「急速拡大運動」、略して「急拡」と言います。しかし、その無理が出たのか故意に会の側で引起したのか、真相は不明ですが、昭和34年07月05日頃に「山岸会事件」が起き、特講の開かれている所を警官が包囲するということになりました。マスコミの総攻撃に会って特講に来る人もいなくなり、沈滞したようです。

 しかし、昭和35年08月には特講も再開されて、再び前進し始め、昭和36年01月に兵庫県の北条に第1号の実顕地(ヤマギシズムを実際に顕現して生活する所)が生まれて、新しい段階に入りました。

 第3期(実顕地誕生から実鎖地中心主義の確立まで)

 北条実顕地が出来たのをきっかけにして機構整備が行われました。その結果、二系列の組織となり、1つは、ヤマギシズム生活中央調正機関(略称「中調」)で、この下に、中央試験場(いわば中央研究所みたいなもの)、研鑽学校(生活から離れて2週間にわたり反省する学校)などが配されました。もう1つは、ヤマギシズム生活実顕地本庁で、各地の実顕地を配下にもつことになりました。

 中調と実顕地本庁の関係では、中調優位でした。つまり、中調の方に属する人は「真の革命家」か「前衛」(ヤマギシズムではそういぅ人を「ボロと水でタダ働きできる人」と言い「オールメンバー」と言います)で、実顕地に属する人々は「一般大衆」かせいぜい「党員大衆」と見られました。

 しかし、その後各地に(韓国にも)実顕地が続々と造られていく中で、小さい(数世帯で数十人から成る)実顕地では一体生活の機能を十分に発揮できないということで、昭和44年04月に豊里(三重県津市効外)に適正規模(50世帯、200人)の実顕地を造ることになりました。これを境にして、第三期は前半と後半に分けて考えられると思います。

 なお、この前期には、昭和36年05月02日に山岸氏の死去があり、昭和39年に、山岸氏の二番目の夫人で大きな影響力のあった福里ニワ氏が、多くの人と合わず、自派の人々をつれて退会し、福里哲学実顕場をつくるということがありました。

 第3期後半は豊里実顕地の造成・建設に始まりますが、この時期には、昭和45年前後に若者たちによる山岸会再発見と、昭和48年暮に始まった消費者(「活用者」という)直結路線の成立とが含まれています。以前は、農民を中心とした社会人の参画(入会のこと)が多かったようですが、それ以後は若者の参画がふえました。又、生産物を市場の仲介人に売らなくなったために、商品価格を適正に自主的に保てるようになり、経済的に安定・繁栄するようになりました。ここから、その生産物の供給所(会社の営業所に当る)が各地に作られるようになり、生産現場である実顕地の比重が重くなり、昭和50年に会内の革命があって、実顕地中心主義が確立されたようです。

 なお、第3期後半の時期には、昭和47年、いくつかの実顕地が分離独立するということが起きています。

 第4期(実顕地中心主義の確立から今日まで)

 昭和50年には、生産物の供給のための仕事を法人化してますます大規模になり、又、昭和50年夏からは「夏のこども楽園村」も始まり、これも年々盛んになり、今では会の二大対外活動となっています。そのため、特講に来て、その後参画する人も、この両ルートを通して会を知った人が多くなっているようです。

 現在(昭和56年08月)では、実顕地は、500ヘクタールもある北海道の別海実顕地から州の西海実顕地まで、全部で約30ヵ所あり、供給所は22ヵ所、参画者総数は不明ですが、子供も含めて千数百名と推定されます。山岸会の実顕地生産物の活用者は数万世帯と推定されています。
(以上の資料は、『Z革命集団山岸会』ルック社、パンフ「金のいらない仲良い楽しい村」山岸会、玉川しんめい『真人山岸巳代蔵』流動出版、新島淳良『阿Qのユートピア』晶文社、同『さらばコミューン』現代書林、その他です。そのほかに、特講を題材にした小説としては「われらユートピアン」<稲垣真美『テロリストの女』第三文明社所収>がある)

2、特講の外形とテーマ

  ① 特講の外形

 「ヤマギシズム特別講習研鎖会(略称「特講」)は、今までのように度々改変しなくてもよい、人類のある限り、われ、ひとと共に永遠に繁栄してやまない社会の在り方を理解し、真に人間向きの未来社会に住むための人間変革を目指す場である。いいかえると、人間革命にはじまって、真正世界に革命しようとするため自ら心の門戸を開くための場といってよいであろう。特講では、固定観念をはずすことから始まって、親子・夫婦・宗教・家庭・結婚・社会・経済・物・人種・国境・法律・制度等その他百般の事項について検討し、真実のあり方と、その実現について研鑽するのである」(ヤマギシズム運動誌『ボロと水』第3号93頁)。

 山岸会の側からはこのように捉えられている特講を考えるのですが、未知の人のために、まず、その外形的特徴を説明しておきましょう。

 特講は、本部のある春日山以外の所でも行れることがありますが、春日山には昭和38年に新築された特議会場があり、それが使われます。これは平家ですが、100畳の部屋と60畳の部屋があり、この2部屋が続いているのではなく、間に廊下と事務室があって隔てられています。そのほかに、広い台所とトイレがあります。風呂場は少し離れた所に別棟となっています。

 特講はここで1週間行われます。そのあと一日の補講(実顕地参観、家庭訪問、そのあと又研鑽)がありますので、合計7泊8日です。毎月1日~8日、15日~22日に行われます。申込んでから行くのが普通ですが、1日又は15日の午後3時までに関西本線の新堂駅に下車すれば、旅館の出迎えのような幕を下げた迎えの人がいて、車で連れていって下さいます。

 特講では、朝の掃除以外は完全に雑事から解放されます。子供達れの人は、子供を預って下さいます(1万円)。そして、この広い畳敷の部屋に、車座になって、ひたすら研鑽します。日程は一応決まっていますが、ほとんど守られません。風呂は、時間がなくて入れない日もあります。研鑽は深更に及ぶことが普通で、ことによると徹夜になります。たいてい睡眠時間は5~8時間です。寝る時は、正方形のふとんに2人で寝ます。毎晩相手を替えなければなりません。男女は別に寝ますが、同じ部屋で、間についたてもありません。しかし、こんな事は気にならなくなります。

 食事は、山岸会では二食主義ですが、11時~12時頃と5時から6時頃の2回で、会の人が作って下さいます。この時間は比較的守られます。起きている時は、食事と入浴以外は研鑽で、2時間くらいすると、10~15分間の休憩が入ります。座いすもなく、運動も朝のラジオ体操以外になく、座っているのが苦痛になります。ですから、特講中便秘になったり、特講後病気になる人も出るようです。

 タバコは休憩時にのめますが、間食はとらないことになっています。酒は、6日目の夜の「懇親研鑽会」という名のコンパの時に、素晴しい料理とともに、出るだけです。この懇親研は本当に楽しいものですから、そのためだけでも、途中で逃げださないで、残って研鑽テ-マと取組むことをおすすめします。

 ② 特講のテーマと進め方

 さて、その研鑽とは何をするのかと言いますと、山岸会側から「係」の人が参加して、その係の中から交替で2名の進行係が議長というか司会を務めて、研鑽資料である山岸巳代蔵氏の『ヤマギシズム社会の実態』(通称「青本」)を読んで考え、話合ったり、それから離れて、進行係の人の出すテーマについて各自考えて答えたり、話合ったりします。

 山岸会参画者でなくても特講経験者なら係を務めることができるという所は、山岸会らしいへだてなさです。係は4名以上で、ベテラン2名、新人というか見習2名、それに+αという形で構成されているということです。私の参加した第1016回特講(昭和56年07月15日~22日)では、係5名、受講生27名でした。

 テーマは決められています。

第1日 午後、開講式、自己紹介
    夜、零位研鑽。青本のまえがきの第1節「零位よりの理解を」を読んで、話合う。

第2日 午前、宗教に非ずの研鑽。青本の「まえがき」の第二節「宗教に非ず」を読んで考える。

  午後から、怒り研鎖。まず、「腹の立たない人になりたいか?」と問う。これを確認の上、次に、「これまでで一番腹の立ったこと」ないし「最近腹の立ったこと」を各自に出させ、「なんで腹が立ったのか」と進行係が1人1人に問う。どんな理由を答えても、「なんでそれで腹が立ったのか?」と、いつまでもひたすら問うてくる。夜遅くなり、徹夜になることもあれば、少し寝てから第3日午前までかかることもある。全員が「今後絶対に腹が立たなくなった」と答えるまでやる。これが特講の第1の、そして最大のヤマ場である。
第3日、午前(ないし午後)、真実の世界の研鑽。青本の第1章「真実の世界」を読んで、話合う。

 夜、一体研鑽。「夕食に食べた物はどこから私になったか?」とか、ある人の着ている物を取りあげて、「これが作られるのにどれだけの人がかかわっているか?」とかの問いを出して、多くの人の関係、人間と自然の一体の関係を説明する。又、ある人の両親、その両親それぞれの両親……とさかのぼって行くと、30代前には十億人になることを説明し、「人間みな兄弟姉妹」ということを納得させる。

第4日、午前と午後。ひきっづ青本の第1章を読み進む。怒り研鑽をへてきているし、日もたって、みな仲良くなごやかになっているが、この日の夜、第2のヤマ場が来て又緊張する。

 夜。自由研鑽(俗称「割り切り研鑽」又「我抜き研鑽」ともいう)。たいてい「この特講が終った後、ずっとここに残れますか?」と1人1人に聞く。この質問は、時には女性に対する「今ここで裸になれますか?」という問いに代ったり、「あなたは今死ねますか?」とか「人を殺せますか?」とか、「特講終了後自分の家に帰れますか?」 となったりします。とにかく、第1の問いで説明すると、「残れません」と答えると、「そんな事聞いてない」とはねつけられる。全員が「残れます」と答えるまでやる。この頃になると迎合的な人も出てくるので、一度「残れます」と答えても、相手の弱い所を突いて、「これこれですけどいいですか?」と念を押してくる。更に、「山岸会参画申込書」という用紙に署名捺印させるという芝居までやる。

 この後平等研鑽となる。みんなの前に人数より少ないお菓子をおいて、「今ここで何が平等か?」という問いを出す。受講生は、たいてい、早合点して「これを平等に分けるにはどうしたらよいか」という風に理解して考えるが、そうではない。問いをよく聞くこと。特講では問いのことば使いに意味がある。答えは、「誰でもがこれを食べることができるという点で平等」である。そこから、「誰が食べてもいい」という結論を引出して、みんなに承認させる。そして、実際誰が食べてもいいということになって、食べたい人が取って食べるのだが、残りの人数分のお菓子が同時に持ってこられて、めでたしめでたしとなる。

第5日午前。差別、好き嫌い、劣等感について、各自の体験を出させて、それはいずれも主観的なものだとする。

  午後。所有研鑽。各自から時計などを出させ、「この時計は誰のか?」と聞く。受講生は、まず、所有者の名を挙げて「○○さんのもの」と答えるが、この頃になると、みな、すぐ、「みんなの物」という答くらいは出す。しかし、それでも正解ではない。「誰かの物であることでこの時計が変るのか?」と聞いてくる。誰かが「誰のものでもない」というと、それがみんなに伝染して終る。そして、「誰の物でもないからどう使ってもよい」⇒「それを最もよく活かして使わなければならない」ということになり、「これまで使っていた人が使うのがいいと思いますが、どうでしょうか?」という「提案」がなされて、元の人の所に戻る。

 その後、第6日午後までは青本をどんどん読みとばしていく。

 この頃までに、2つの道を書いた紙を張り出して、自分はどちらの道を行くのか答えさせる。その2つの道とは、A=みんなの考えを聞きながら自分の考えでやっていく、というのと、B=みんなの考えで自分の持ち味を生かしてやっていく、というのとである。この頃になると、たいていの人はBと答える。Aと答えると、「どうしてAなのか?」と問いつめられる。又、この辺で、「ニッコリ笑って死ねますか?」という問いに1人1人答えさせられる。

第6日夜。約4時間のコンパ(懇親研鑽会)があるが、その前に絵図研鑽がある。これは、山岸氏が自分の考えを息子の山岸純氏(画家、当時は画学生)に描かせたもの(その模写)を掲げて、各自前に出て「この絵をどう解釈するか?」「特講の感想」などを述べる。

 コンパは要するにコンパである。酔って暴れる等のことは禁ぜられるが、要するに楽しめばよい。料理はすばらしく、近年とくに財政力をつけている山岸会の底力を見せつける。先にも書いたが、文句なしに楽しい夜である。

第7日午前。会活動研鑽。特講を経た人はみな仲間と考えているので、特講後、各地の幸福研鑽会に入ることや、拡大=特講送りについて話合う。

   午後。実顕地参観。家庭訪問。実顕地のモデルというか先兵になっている豊里実顕地に行って見学し、入浴し、その立派な「一体食堂・愛和館」で夕食を食べ、その後2人1組で、参画者の家庭に行って、1時間半くらい話をしてくる。

  夜。補講。実顕地参観と家庭訪問の感想を言い、特講から帰ってまず何をするかを出し合う。私の時はこれが長びき、徹夜になった。

第8日の昼食(第1食)後解散となるが、しばらく残っていく人も、みな、急行停車駅の柘植(つげ)駅まで見送りにきて、別れを惜しむ。(1981年08月に執筆)

 (以下略。全文は『ヘーゲルと自然生活運動』鶏鳴出版に所収)

都立・東京港野鳥公園

2009年07月25日 | ヤ行
                  作家・加藤幸子

 春、とても晴れたある日、東京都大田区の自宅からぼど近い「東京港野鳥公園」に行ってきました。

 今年で開園20周年になるあの公園は、私が野鳥好きの人たちと一緒になってつくった都会のオアシスでもあり、北海道に生まれ、子供時代を北京で過ごし、都会で人生の多くの時間を過ごした私をナチュラリストの作家活動へといざなった原点のひとつです。

 ボランティアの人たちがつくった田にレンゲの花畑が広がっていました。豆科のレンゲソウは、昔から地味を豊かにずるとされ、「里山」の要素としては欠かせないものです。都会ではなかなかお目にかかれないキンランの黄色い花弁の鮮やかさ。クヌギやコナラの雑木林は武蔵野の再現です。

 私が特にお気に入りのスポットは、自然生態園の一角にある「4号観察小屋」。森に囲まれたこぢんまりした淡水池が見えます。こここそ、31年前の1978年、野鳥公園の前身として役所(東京都)から私たちが野鳥たちのために最初に確保した場所なのです。

 地元の親子自然観察会「小池しぜんの子」の代表だった私が、大井埋め立て地という殺伐な響きを持つ存在と渡り鳥の関係を知ったのが、1975年の02月。枯れ葦(あし)がびっしりと茂っている水辺に立ち、英国の詩人T・S・エリオットの「荒地」が頭の中をよぎったことを今でも覚えています。水上には、数千羽のカモやカモメの群れが楽しそうに浮いていました。あの瞬間からまさか十数年にわたる活動に身をおくとは想像もしませんでした。

 1970~80年代の右肩上がりの経済成長期、その先端を走っている大都会のど真ん中で市場(いちば)という食の拠点建設計画地の「荒地」が、実は、愛する野鳥たちの生息地だったとは!

 「人間のためではなく、野鳥のためですか?」。当時の役所側の反応でした。当たり前かもしれません。まさに「野鳥のため」に、「文学主婦」だった私が人生の一大決心をしたのです。

 6万人を超える署名活動を成功させても、行政や議会の方針は紆余曲折、難航の数々。行政や企業に食ってかかるのではなく、市場(しじょう)原理という経済も私や仲間たちは勉強しました。そのうえで説得を重ね、行政マンからも理解者を得たのです。公園という公的なものをつくりあげるには、政治、企業、市民のそれぞれの論理のバランスがとても大事。それは環境再生への連鎖ともつながる論理です。

 運動中の1983年、芥川賞を受賞したら、行政側の態度が急に丁寧になり、驚きました。その年に私たちの活動団体と東京都は修正案に合意、野鳥公園の基本計画は、日本野鳥の会に都港湾局から委託されました。

 野鳥公園のカイツブリたち。もうすぐ雛たちを背中におんぷして移動します。昔、全共闘の若者が同世代の警察官と激突していたころ、私も赤ん坊をおんぶしながらビートルズを聴いて、婦人雑誌投稿の賞金で映画音楽全集のLPを新橋で買ったりしました。子供のころ戦争も経験したし、つまずいたこともいろいろあったけれど、野鳥公園設立運動はほんとに劇的な想い出。

 「鳥も、人も、いつまでも」。東京港とつながっている潮入りの池でキアシシギやメダイチドリの上をジェット機が飛ぶのを見てそう願いました。

★ 加藤さんは本来、理科系の方。自然と人間への観察眼は緻密。自然と共に紡がれてくることばに豊かさと強さを感じます。

   (朝日、2009年06月13日。羽毛田弘志)

矢切の渡し

2009年06月08日 | ヤ行
★ 目次は「ブックマーク」にあります。

 縁日でにぎわう帝釈天の参道を抜け、江戸川の土手に出る。対岸に日をやると、白地に赤い文字で「矢切の渡し」と書かれた旗がひるがえっていた。運航しているしるしだ。

 シロッメクサや名残のタンポポが咲く土手を下りると、小さな桟橋のたもとでは、柳の綿毛がふわふわと舞っていた。

 「気をつけて乗ってよ」

 船頭の杉浦勉さん(52)に声をかけられながら、定員31人の小さな船に、観光客が次々と乗り込む。東京都葛飾区柴又と千葉県松戸市下矢切を結んで、川幅約150㍍を手こぎでゆったりと行き来。多い日には千人ほどが約5分の船旅を楽しむ。

 岸辺のやぶでヨシキリが、天高いところでヒバリが鳴いた。

 「手長エビやハゼ、フナ、ウナギ、何でもいるよ。地方から東京見物に来た人が、ほっとするって喜んでくれるね」

 大学を卒業した1981年、父の正雄さん(85)に頼み込まれて家業を継いだ。勉さんで4代目。「絶やしちゃいけないって、使命感でやっているようなものだよ」。約7㍍の櫓(ろ)を静かに操りながら言った。

 かつては東京にも多くの渡し船があったが、今に残るのはここだけ。江戸時代に武蔵と下総の国境だった江戸川には、関所として渡し場が設けられ、人の出入りが厳しく管理された。だが、川の両岸に田畑をもつ農民などのため、15カ所の渡しが認められた。矢切もその1つだ。

 葛飾区郷土と天文の博物館の学芸員、谷口栄さん(48)によると、矢切がはじめて文献に登場するのは14世紀後半。治承4(1180)年に源頼朝が「八切」を渡ったという記載が、『保暦聞記』にあるという。

 「江戸川の底は岩盤で浅く、舟を渡せる所は限られる。渡し場にできる地点として古くから利用されていたのでしょう」

 広くその名が知られるようになったのは、明治39(1906)年に発表された伊藤左干天の『野菊の墓』で舞台になってから。悲恋の物語の主人公、政夫と民子が最後の別れをするのが、この渡しだった。

 長らく庶民の足として親しまれてきたが、1965年にすぐ上流に新葛飾橋が架かるなど、存続が危ぶまれた時期も。それが、映画『男はつらいよ』のおかげで息を吹き返す。1969年封切りの第1作で、寅さんが渡し船で柴又に帰ってきて以降のことだ。

 「柴又が舞台になった理由のひとつに、渡しの存在があったとも聞いているよ。田舎っぽいところがね、いいんじゃないかな」。杉浦さんはそう話すと、矢切側から柴又観光に向かう家族づれを乗せ、再び船をこぎ出した。

  (朝日、2009年05月26日。田中順子)

     感想

 かつて東京に住んでいて、子供たちも小さかった頃(1970年代前半)、春になると、家族でハイキングにここを訪れたものです。総武線の市川駅で降りて、少し戻ってから土手に出て、歩き出します。

 適当な所でお昼のお弁当を食べて、この渡しを楽しんで、柴又界隈を歩き、京成電鉄で帰りました。懐かしい思い出です。


芳沢光雄・桜美林大学教授

2009年04月29日 | ヤ行
 芳沢光雄・桜美林大学教授(数学・数学教育)が朝日新聞に次の文を投稿しました。

      記〔マークシート方式の入試の悪影響〕

 ノーベル賞を受賞した益川敏英さんは、折に触れマークシート方式による入試問題に対して思い切った批判を展開している。第一線の物理学者が日本の将来を憂慮して、教育問題に発言していることを、私たちは軽視してはならないと思う。

 マークシート形式の問題は、確かに採点時間やコスト面などで優れている。しかし、それは論述力を全く育まない試験であり、プロセスは間違っていても正解を見つけられる場合が少なからずある。数学問題でも、たとえば、マークシート問題の個々の解答欄は整数になる場合が普通なので、答えが2より大で4より小になることだけをつかむと、「3」を導くプロセスは不明でも、必然的に答えの「3」がばれてしまう。

 正しく推論しなくても正解を見つけられる方法がいくつもあるという本質的な欠陥から、ものごとのプロセスを軽視して「答えさえ正しく当たっていればよい」といった風潮が、広く浸透している感がある。

 大学で数学を教えて30年になるが、この風潮は2000年代に入ってから一段と目立ってきた。大学入試の数学が論述式を重視する世界的な傾向の中で、日本だけマークシート形式が全盛であることに、私は強い疑念を抱かざるを得ない。

 私は、数多くの出前授業や教員研修会を通して、初等・中等教育でも事態は深刻だと痛感する。小学校の算数では、等号記号(=)を全く書かないで式変形をする者が、生徒ばかりか教員にも現れている。中学校の図形の証明問題の授業では、証明の全文を書かせるのではなく、穴埋め式のみで終わらせる場合がよくある。2007年末に発表された経済協力開発機構(OECD)の学習到達度調査(PISA)でも、日本は論述問題で白紙答案が目立って多かった。

 こうした傾向はビジネス社会にも表れている。ひたむきな努力は無視され、結果の数値だけで評価されたり、説明もないまま指示だけを受けたりして困惑する会社員が激増している。それらは、見えない努力の積み重ねがあって大輪を咲かせることや、理由なき指示では動機付けが弱くなることを忘れてしまった現象であり、プロセスの軽視が招いたものである。

 こうした事例は枚挙にいとまが無いが、マークシート問題に大きく依存している日本の大学入試制度が、原因の一つになっていることは明らかだろう。

 私は、かつて、○×式問題が、多くの識者の確固たる発言で歯止めがかかったことを思い出す。○×式がマークシート式になっても、単に選択肢が増えただけに過ぎないのだ。いまこそ、益川さんの発言を重く受け止めたいものである。
(朝日、2009年01月)(引用終わり)

 私は、芳沢光雄教授という方のことをほとんど存じ上げなかったのですが、ネットで見てみますと、数学を面白く教えることでかなり有名な方のようです。しかし、これを読むと考え方に大分問題があるように思いました。以下に疑念を表明する次第です。

 第1に、氏の主張は、益川教授のマークシート方式入試批判を重く受け止めよ、ということですが、内容を検討してみますと、氏の出発点となる事実認識は、物事のプロセスを軽視して、「答えさえ正しく当たっていればよい」といった風潮が広く浸透していて、この風潮は2000年代に入って一段と目立ってきた、ということです。そして、その「一つの原因」がマークシート方式による入試制度だから、「世界的傾向に合わせて大学入試の数学で論述式を重視せよ」と言いたいのでしょう。

 所与の社会現象を「困ったことだ」と思って発言するならば、その現象の「1つの」原因ではなく、できれば「全ての」原因、そこまで行かないならば「出来るだけ多くの」原因をさがして、それらを立体的に整理する必要があります。つまり、どれが根本原因でどれが派生的な原因か、といった具合にです。

 一般化して言いますと、学問というのは「個別的な事実の指摘で満足するものではなくて、全体としての真実を明らかにするものである」ということです。氏の態度はこれに反していると思います。

 小さいことですが、入試の世界的傾向についても、数学のそれにしか言及していないのも一面的です。結論が一般的なら、それに相応しく多くの事実を証拠として挙げるべきでしょう。

 第2は、大学入試のあり方で、学校教員や会社員の問題まで説明しようとしている点も間違っていると思います。学校教員や会社員は大学入試までの勉強だけでそうなるのではありません。大学入試と卒業(就職)の間に4年間(以上)の大学教育があります。そして、この4年間の大学教育こそ芳沢氏の直接関与している事柄なのに、それへの言及がありません。

 実際、金沢工業大学のように、中学レベルの数学も出来ない学生を受け入れても、4年間の教育で工学部卒に相応しい学力に高めて有名になった大学もあります。

 芳沢氏の勤務する桜美林大学はリベラルアーツとやらを喧伝していますが、どの程度の学力向上を保障しているのでしょうか。千葉商科大学のように、例えば「英検○級、簿記○級、その他」といった「製造物責任」を発表しているのでしょうか。

 私見によれば、リベラルアーツと言うなら、そういう教育を受けた学生は、自分の大学について「カウンターホームページ」を作って、「自著の1冊もない教授は講師に降格させよ」と、要求するようであるはずです。

 桜美林大学のホームページを見ますと、そのトップページには教員の情報へのリンクが貼ってないようです。「在校生の方へ」をクリックして、その中の「教員紹介」を開いて、「芳沢光雄」と入れて検索しますと、出てきません。広報課に電話をして聞きますと、姓と名の間を1字分空けなければならないことが分かりました。何と不親切なホームページでしょうか。

 大学の情報公開で何よりも大切な事は、所属の教員(学長を含む)の研究業績と授業内容の「詳しい説明」です。トップページに「教員情報」というリンクを貼り、そこを開くとアイウエオ順に整理されて出てくるようにするのが常識でしょう。この常識すら実行している大学が少ないのが現状です。桜美林大学も非常識大学の1つです。芳沢氏はこの非常識をどう説明するのでしょうか。これの「1つの原因」もマークシートなのでしょうか。

 芳沢氏の「情報公開」を読みますと、内容は通りいっぺんのもので、とても「説明責任を果たした」といえるものではありません。箇条書きばかりで「論述」は見当たりません。今は説明責任の時代ですから、説明していないことはやっていないと見なされても仕方ありません。

 これらを考え合わせますと、芳沢氏の言い分は、「大学もがんばっているけど、これ以上は無理だから、高校卒までの教育をレベルアップしてくれ」というのではなく、「大学教育が御粗末でどうしようもないから、せめてマークシート入試をやめて、高校卒までの教育をしっかりやってくれ」という泣き言に聞こえます。

     関連項目

小柴昌俊


山形県(01、実力)

2008年10月15日 | ヤ行
 福島駅を出た山形新幹線つばさ号は、在来線軌道に降り、奥羽山脈に分け入る。この人跡まれな山中に東海道線全通のわずか10年後(1899年)に鉄路を通した先人の努力に賛嘆しつつ、その先に広がる山形県の豊かな実りが、当時からいかに重要であったかに思い至る。

 月山、鳥海、蔵王などの名山居並ぶ県内に落ちた雨は、年間総流出量全国2位の最上川に集まり、米沢、山形、新庄の3大盆地を潤した後、庄内の沃野を経て日本海に注ぐ。

 水と平地に富むだけに、食料自給率が3位(132%、2006年度)と高いのは当然だが、さくらんば、ラフランスなどの高級果樹農業も普及、人口当たり工業出荷額19位(2005年)とものづくりでも侮れない。紅花栽培の栄えた北前船時代から商品経済が浸透した土地柄ゆえだ。

 このような県での暮らしぶりは、持ち家率4位(2003年)、3世代同居率(24.91%、2005年)や一世帯当たり人員が日本1という数字によく表れている。祖父母や隣近所の目がよく行き届くからだろう、14~19歳の少年刑法犯検挙数(2006年)は全国最低だ。

 慈愛に満ちた童話で知られる浜田廣介の故郷、高島町。「泣いた赤鬼」や「呼ぶ子鳥」を子どもに読みながら、自分が先に泣いてしまったという親御さんも多いのではないか。

 講演に出向いた際、町でお店を開く旧知の女性が「今日はありがとね。でもちょっと出かけるんで途中で失礼するわよ」。どちらまで?と問うと、照れながら「エジプトまで」。子や孫を大切にしつつ、決して息苦しくなく、実り豊かな人生を謳歌する姿に、都会で雑事に忙殺される当方の心まで温かくなった。

  (朝日、2008年06月07日)
  (地域経済アナリスト、藻谷浩介、協力・日本政策投資銀行地域振興部)

山梨県(01、実力)

2008年08月05日 | ヤ行
 甲斐とは「山峡」を意味する古語だという。富士川、相模川、多摩川、いずれを遡っても深い峡谷を経ねばたどり着けない当県は、まさに「甲斐の国」と呼ばれるにふさわしい。しかし、その先に広がる甲府盆地の豊穣、富士や八ヶ岳のすそ野の大自然には、まことに一国を成すに足る力を感じる。

 山梨県の日本一は富士山だけではない。年間日照時間2130時間も日本一だ(県庁所在地比戟、1971~2000年平均)。日中の半分近くは日が照っている計算になる。降雨日数95日は全国最低(同比戟、2006年)。清々しい気候と山岳や高原の景観にひかれ、都会から移り住む人も増えている。

 とはいえ県人口は88万人と都道府県41位に過ぎない。だが、昔から人材はパワフルだ。戦国期には武田武士団、明治期には甲州財閥が全国に名をとどろかせた。取り巻く標高千~2千㍍の峠を越えて、東西に物資を流通させてきた甲州商人の伝統が、山間にこもるのではなく各地に押し出していく文化を育んだのだ。

 笹子トンネルを抜け甲州市勝沼ぶどう郷駅を通過する時分の中央線車窓。春の一瞬の桃の花の盛期に行き当たり、桜よりもずっと濃いピンクに埋まる盆地の遠景に息をのむ。周辺は甲州ブドウの産地でもある。

 明治期より進取の気性で取り組まれたワイン醸造。すっきりとした、しかしどこか儚げな春のうつろいを思わせる味わいが和食に合い、米国進出に次いで、本場欧州での販路開拓も進みつつある。各ワイナリーの瀟洒なレストランで、地元食材とのマッチングを堪能するツアーも年々人気だ。

 高原で花や果実や美酒との一期一会を味わわれてはどうだろう。

  (朝日、2008年07月19日
 地域経済アナリスト藻谷浩介、協力・日本政策投資銀行地域振興部)

夕刊

2008年06月21日 | ヤ行
     夕刊

 そもそも夕刊はいつ誕生したのか。国内では、1877年に夕刊紙「東京毎夕」が創刊され、1885年に東京日日新聞(毎日新聞の前身)などが夕刊を出したのが皮切り。朝日新聞は1897年に「東京朝日」が始めた。だが、各紙とも長続きはしなかった。交通・通信手段が不便で、体制が整わなかった。

 本格的発行が始まるのは20世紀初頭。「日露戦争(1904~05)の戦況の速報で1日に何度も号外が出て、国民に新聞を読む習慣が広がった。これを機に夕刊が根付いた」と橋場義之上智大教授(メディア論)は話す。

 太平洋戦争終戦後の1949年、用紙の生産が増えて「夕刊風」が起きた。朝夕刊とも数が飛躍的に伸びた。

 しかし1953年にテレビ放送が始まり、1990年代にはインターネットが普及して、夕刊を取り巻く環境は変わった。

 職場からの帰宅時間が遅い人が増えたり働く女性が増えたり、といった読者の生活習慣の変化も起きた。

 各紙ともいま、より魅力的で読まれる夕刊を目指して、朝刊との差別化や、内容の工夫に取り組んでいる。

  (朝日、2008年06月15日)

山本義隆

2008年06月15日 | ヤ行
     山本義隆さんの労作

 山本義隆さんの労作『磁力と重力の発見』(みすず書房、全3巻)が評判になっています。この本は昨年、大仏次郎賞と毎日出版文化賞とパピルス賞の3つを受賞したものです。

 広告の文章によりますと、本書は「遠隔力の概念が、近代物理学の扉を開いた。古代ギリシャからニュートンとクーロンにいたる空白の一千年余を解きあかす」ものだそうです。

 〔2004年〕02月29日の広告によりますと、既に累計で9万部売れたそうです。出版された時から噂は広まっていましたが、受賞後に更に伸びたようです。

 この報に接して私の考えた事を箇条書きにまとめます。

 第1に、私は山本さんを個人的には知りませんが、山本さんにとってよかったなと思いました。それははっきり言って何よりもお金の面でのことです。これで印税が3千万円以上入ったと思うからです。今後もまだ増えるでしょう。

 第2に、この本については広告の文章にもありますが、「アカデミズムの外で生まれた」ということを考えなければならないでしょう。

 彼はかつて1960年代末の大学紛争の時、東大の全共闘(全学共闘会議)の議長として活躍され、とても有名な人でした。その後、大学をどのようにして出たのかは知りませんが、ともかく研究室には残らず(残れず?)予備校で講師をして生活してきたそうです。

 その講師の生活のかたわら、あるいはその授業の中で持った問題意識を追求して今日の成果を残したのです。

 ではこの成果を「アカデミズムの外で生まれた」と称する時、その言葉の意味は何でしょうか。「大学教員ではないために研究条件が劣悪だっただろうによくこれだけの成果を上げた」というのが普通の解釈だと思います。

 しかし、山本さんくらいの講師になるとかなりの給料を得てきたのではないでしょうか。しかも、予備校の場合は大学と違って、事務的な事はすべて事務員がしますから、講師はかえって授業に集中できます。

 逆に言いますと、大学教員の場合は大学の雑務にかなりの時間とエネルギーを取られるようです。これも真面目にやる人とうまく逃れる人とがいるようですが。

 予備校講師には身分保証がないので不安だと言うかも知れませんが、そしてそれは事実ですが、山本さんくらいの実力と熱意があれば、失職の心配は事実上なく、授業に専念できたのではないでしょうか。

 たしかに予備校講師には退職金がありません。これは困った事です。私が最初に「よかったな」と書いたのはこれと関係しています。この印税が山本さんにとって退職金の代わりになると思ったからです。

 研究費について言いますと、たしかに実験系の学問ですと、これは研究機関の外でやるのは難しいでしょう。しかし、山本さんの今回の研究のような科学史ならば、その種のお金は大してかからないと思います(かつて小倉金之助氏が数学史をテーマとされた時も、同じような理由からだと聞いています)。

 たしかに史料集めは大変だったようですが、報じられる所によりますと、教え子で大学の研究者になった人たちが、外国の図書館の史料などをコピーしたりして送って協力してくれたそうです。

 一番困るのは、予備校は年中なんだかんだと授業をしていて、長期休暇がないことです。これはやはり辛かったと思います。

 と言うわけで、大学教員でないのによくやったという考えは必ずしも当たらないと思います。長谷川宏さんなども、同じように東大の大学紛争を契機として大学に残ることを潔しとせず、連れ合いと学習塾を開いて口を糊するかたわら、研究を続けてきたようです(長谷川さんの翻訳には強い批判が出ていますが、そしてそれに答えないのも問題ですが、今はそれは言いません)。

 第3に、従って、日本の進学熱が塾とか予備校を生んだということの意義を考えました。それは文部省の干渉を一切受けないが故に、自由な学問と教育を可能にしたという面があると思います。そして、山本さんや長谷川さんのような人達に働く場を提供したということです。

 私も塾に少し関わった経験がありますが、塾とか予備校の場合どうしても免れない欠点は、先にも言いましたように、年中無休で長期休暇がないということと、やはり教えるレベルが余り高くなく、大学院レベルのことは無理だということ、その意味で授業と研究との乖離が大きいということなどです。

 第4に、最後に私の最も考えた事は、山本さんがかつて全共闘で追求した事柄はどうなったのか、そのテーマと今回の著作(研究)とどう関係するのかということです。

 全共闘は大学のあり方と学問のあり方を問うたのではないでしょうか。そうだとすると、学問のあり方についてはこれで山本さんなりの答えを出したと言えるのかもしれません。

 しかし、全共闘というのは、自分が正しい学問をすれば好いというものではなかったと思います。日本の学問を本当のものにしたいということだったと思います。

 しかるに、この本はアカデミズムの外の人達だけでなく、アカデミズムの内部の人によっても称賛されています。これはどういう事でしょうか。この本はアカデミズムにとって無害なものだということではないのでしょうか。とても気になることです。

 かつて空想的社会主義者のロバート・オーウェンも、自分の工場で労働者の福祉を考えた理想的な経営をしていた間は皆に褒められました。しかし、その考えを社会全体に適用しようとした時、排斥されました。

 山本さんが自分の研究だけを模範的なやり方でしている間は皆に好かれるだろうと思います。しかし、山本さんの目標はそういう事なのでしょうか。

 全共闘がつぶれてから30年余りたちました。そして、ここ10年くらいは少子化を背景として私立大学を中心とした改革が進んできています。又、国立大学も行政改革の中で独立行政法人になって外部評価とか競争といったことが日程に上っており、改革も少し行われてきています。

 分かりやすく言いますと、山本さんたちの抗議行動によってではなく、財政的な事情に強制されて改革が始まっているわけです。もちろんこの改革も必ずしも好い方向への改革ばかりではないようです。

 こういった事も踏まえて、山本さんは最近の大学と学問のあり方をどう考えているのでしょうか。そして、それに対して今回の大著によってどう対処したつもりなのでしょうか。又、今後どうするつもりなのでしょうか。私の聞きたいのはこの事です。

 お金というのは、違法な手段によって稼ぐのでない限り、パチンコで儲けても株で儲けても立派な本で儲けても、大した問題ではない、と私は思っています。一番の問題は、儲けたお金をどう使うかだと思います。

 私がこれまでの乏しい経験から得た結論は「お金の使い方の中にその人が出る」というものです。

 山本さんはこれで得た知名度とお金と可能性をどう使うのでしょうか。

  (2004年03月03日発行)


「雪解け道」(青木陽子著)

2008年05月28日 | ヤ行
     「雪解け道」(青木陽子著)

 この小説は2007年03月19日~10月10日に共産党の機関紙「しんぶん赤旗」に連載されたもののようです。それが今年(2008年)01月に新日本出版社から単行本として出版されたようです。私が読んだのも後者です。

 内容は、主人公である生駒道子(筆者と重なる人物なのでしょう)が東北地方のK市のK大学に入学してから卒業するまでの4年間、つまり1967年04月から1971年03月までの4年間の学生生活を克明に描いたものですが、その学生生活が、時代背景もありますが、主人公の態度から当時の学生運動と深く係わることになりました。それが克明に描かれているのです。なかなかの力作だと思いました。

形としては2007年に或るきっかけで40年前を思い出して回想したということになっていますし、最後は又2007年の現実に少し戻っていますが、これは形にすぎません。

一言で評するならば「理論は低いが事実はよく調べるという共産党の特徴の好く出た小説」だと思います。まず、その理論の低さから指摘しますが、私は元々共産党に理論を期待していませんから、非難しているのではありません。事実として確認しておくだけです。

 1969年01月に東大安田講堂の籠城とそれを解除する機動隊との戦いとやらがありました。この直後の政治学の授業でのやりとりが描かれています。

──その日、教官は安田講堂の事件から話をはじめた。「革命を豪語していた人間が、放水ごときで逮捕されていく。何という言葉と行動の落差かと思いましたねえ。まじめに革命を考えていたというのを信じたとしてもね。現実の歴史の流れと噛み合うことの難しさでしょうか」/ Sが手を上げた。「東大闘争は学生運動の新たな地平を切り開きました。あの闘争は勝利です」/ 「勝利ですか」教官は唸った。/ ナンセンス!/ 揶揄するような低い叫びと、失笑が机の間を這い回った。/

 「あの結末を勝利とするのは、一般的にはなかなか難しいことですね」/ 当然だ、馬鹿じゃないかといった呟きが聞こえた。/ 「あなたの言う新たな地平ですが、僕の言葉に直すと、新しい段階ということでいいのだろうと思いますが、それはどのような段階なのですか」/ 「新たな質を持った階級闘争が展開され始めたということです」/ 「その質とは何ですか」/ 「まず、国家権力の本質が、残忍な暴力であることを暴露しました。これは教訓化されるでしょう。個別改良闘争主義者の闘争の破産が明らかになりました。これが二番目です」/

 ざわめきが起こった。個別改良闘争主義者って何だ、破産って何のことだ、と言う声がまたも机の間を行き交っている。Sはそれを無視して続けた。/ 「東大闘争支援の街頭闘争が神田・御茶ノ水一帯で展開され、労働者大衆・市民との結合が実現しました。これが三番目です」/ 何か言わねばと青山〔生駒道子の男友達でこの話を伝えた人〕が思ったその時、隣に座っていた学生が手を挙げて立ちあがると同時に声を出した。/

 「何が勝利だ。お前たちの自己満足のために、どれだけの人間を翻弄したら気が済むんだ」/ 教官が穏やかに制した。/ 「勝利という言葉一つとっても、定義ができないくらいの考え方の差がある今は、ここまでとしましょう。何十年もしてから、一度話し合ってみたいものです。もっとも、僕は生きていないかもしれないが」/ 教室中が笑い声に沸いてその話は終わりになった。(引用終わり)

 作家やこれを伝えた人は、全共闘系の主張が学生大衆に受け入れられなかったことで満足しているのかもしれませんが、ここはもう少し考える必要があると思います。

 そもそも60年代後半の学園紛争はこういうお粗末授業を改革してほしいという願いが1つの出発点ではなかったのか、ということです。

 この願いは根本的には歴史的な背景があるようです。つまり、後で分かったことですが、当時、大学進学率が20%を越えて、大学が大衆化したのです(竹内洋「学歴貴族の栄光と挫折」中央公論新社)。それなのに、大学のあり方が全然改革されなかったのです。学生の不満にはこういう客観的な背景があったと思います。

 これは当事者にどれだけ意識されていたかとは別です。歴史は直接的には当事者の意識で動きますが、その意識は当事者には意識されない歴史的背景に規定されています。この場合はその典型的な例だと思います。

 そのように根深い背景があったのですが、表面的にはこういう授業を改革してほしいと主張していたはずです。それなのに、この授業のどこがどう間違っているか、どう改革したら好いのか、指摘されないのです。これは理論の低さです。

 これはついでと言ってもいいのですが、第2に、ここで発言している全共闘系の学生S君の言葉や他の箇所に出てくる「安田講堂の攻防戦は全人民に衝撃を与えた」といった言葉は、小林多喜二の「蟹工船」の信仰告白とそっくりです。

 「蟹工船」の終わり近くには「いくら漁夫達でも、今度という今度は、「誰が敵」であるか、そしてそれ等が(全く意外にも!)どういう風に、お互いが繋がり合っているか、ということが身をもって知らされた」とあり、そして、その「付記」の4番目には「「組織」「闘争」-この初めて知った偉大な経験をになって、漁夫、年若い雑夫等が警察の門から色々な労働の層へ、それぞれ入り込んで行ったということ」とあります。

 両方共、事実の調査に基づいた研究ではなく、信仰告白でしかありません。そして、今からみれば明らかなように、内容的にも間違っていました。

 ここから分かりますように、新左翼というのは共産党の昔の姿を受け継いだものなのです。というより、左翼運動に関わり始めた人はたいてい誰でもこういう青二才左翼になるのです。それなのに作家はこれに気づいていないようです。ネットで作家が最近の「蟹工船」の人気について発言しているのを読みましたが、肯定的な発言だけでした。

 では今の共産党はと言うと、それは官僚化左翼と評することができるでしょう。

 第3に、民青に入ることを勧められた時、主人公は「赤旗も民青新聞も書いてある内容は正しいと思います」と述べています。

 そして、その後民青に入るようですが、この考え方は考え方として学問的に間違いだと思います。書いてある事が正しいかどうかは本当の問題ではないのです。もしそうなら、役所の発行する広報誌はみな「書いてある事は正しい」ですから(間違った事を書いてはいけないことになっているはずです)、問題ないということになります。

 学問というのは、部分的事実ではなく全体的真実を追求するものです。書いてある事が正しいとしても、書くべき重要な事が書いてなかったら、それは「全体としては虚偽」です。

 こういう考え方を教えるのが「学問の府」たる大学の第1の任務なのですが、それを実行しいる所はほとんどなくなったようです。東大ですら今では「専門学校の複合体」でしかないと私は考えています。

 ですから、作家やまして学生の責任ではないのですが、ともかく間違っていると思います。

 学問と言えば、主人公もマルクス主義の古典は読んだような事が書いてありますが、自分の勉強の様子も仲間で読書会をした様子も出てきません。徳永直の「静かなる山々」との大きな違いでしょう。

 後者はあまり知られていないようですが、私は敗戦直後の日本社会、特に農村とその地方に移転していた大工場の人々の様子を描いた貴重な記録だと思っています。それが共産党の立場に立って、共産党を中心とする人々がいかに戦ったか、周囲の人々とどういう事があったか、自分たちの間でどういう議論が交わされたかを克明に描いてくれた大作だと思います。

 未完であり、第3部も、ひょっとすると第4部も予定していたのに、徳永の早すぎる死で未完のままで終わってしまったのは返す返す残念です。

 第4に、ベトナム戦争反対運動との関係で次の記述があります。

 「ベトナムや沖縄に起こっている事柄について、おずおずと話し合っていたクラスの議論は、いつか、そうした政治課題に対して闘うのは学生として当たり前で、今の問題はいかに闘うのかだと、闘争の戦術論議に移っていた」。

 私が聞いた限りでも、学生運動のあり方についてこういう「感想」なり「感じ」を持つ人は少なくないようです。しかし、この「感じ」を「感じ」に止めないで、本質論と戦術論、本質論主義と戦術論主義といった問題として意識化し、考え進め、本質論主義の大衆運動を理論化して実践し、更に発展させた人はいないようです。共産党と言わず、どこの運動団体でも同じだと思います。

 第5に、この作家は愛知県で共産党系の活動を現在も続けているようですが、小説の中で、1969年には、「安保条約の固定期限終了を半年後に控えたこの選挙で、共産党は解散前の4議席を14議席に増やして躍進した」と書いているのに、終章で、つまり2007年の時点では、「あの時の若者たちの社会への目配りの仕方が変わってしまった訳ではない。それぞれに誠実に生きているのだと思うけれど、ではこの国は納得のいく発展を遂げてきたか」と書いています。

 ここから分かる事は、第1に、「納得のいく発展を遂げてきていない」原因の1つとしてこの間の共産党の消長に触れていないということです。その理由についてもこれからの展望も自分では何も出せないのでしょう。

 第2に、「若者たちの社会への目配りの仕方が変わってしまった訳ではない」と断定していますが、どれだけ調査したのでしょうか。最近、小林多喜二の「蟹工船」が読まれていることでも念頭においているのでしょうか。こういう安易な信仰告白は役立たないと思います。

 これは「理論的低さ」ではありませんが、小さな事実誤認を指摘しておきましょう。

 小説の中で「全学連指導部は60年安保の時過激な方針をとった。やがて全学連は主流派と反主流派に分裂した」と書いていますが、これは不正確すぎます。

 主流派と反主流派を構成する流派の変化も含めて大変化の起きたのは1959年11月27日のいわゆる国会突入事件がきっかけです。詳しいことは「歴史のために」の中に書いておきました。

 さて、この小説はこのように理論水準は極めて低いのですが、それにも拘らずと言うか、ひょっとすると、だからこそ、下らない理論に邪魔されることなく、当時の特に学生運動に係わった学生たちの生活とそこで交わされたであろう会話を最高の正確さで記録しています。もちろん作家の人柄の誠実さもあるのでしょう、とにかく貴重な記録だと思います。

 新左翼系の人々はこれでも「これは民青系の本だ」と言って見向きもしないかもしれませんが、旧左翼からも新左翼からも敵視されている私の見るところ、極めて公正な叙述だと思います。その意味でこの小説は、歴史に残るのではないかと思います。ともかく私は高く評価しますし、このような記録を残してくれた事に対して作家に心から深く感謝します。

 公正な記録と言えば、当時、東大の美学科に在学していたAさんが全共闘のお粗末理論(と行動)と闘った思い出話を2年くらい前に JanJan (インターネット新聞)に書いていました。これは小説ではなく、広義の自伝(の1部)でしょうが、東大の研究室の内部でのやりとりですから、貴重だと思います。紙媒体になっていないのが残念です。

 最近、私はつくづく、小説の意義ということを考えます。文学としての意義にはあまり関心はありませんが、歴史にとっての意義です。

 例えば、1928年の共同印刷の大争議が歴史に残ったのは徳永直が「太陽のない街」を書いたからではないでしょうか。同じ年、浜松日本楽器でも歴史的な大争議がありましたが、これは誰も小説に書かなかったので、今では知っている人の方が少ないでしょう。私の知っている限りでは、長谷川保の自伝的小説「夜もひるのように輝く」(講談社)の中に少し出てくるくらいです。

 60年安保も小説にはならなかったようです。

 そう考えれば、60年代末の大学紛争について、全共闘系では(小説は出ていないと思いますが)いくつかの文章が出ていますが、民青系(といってもそれほど党派的ではないと思います)からこのような長編小説が出たことはとても好い事だと思います。

 内容も形式も、柴田翔の「されど、我らが日々」など問題にしない作品だと思います(柴田の小説も1955年頃の学生党員の事を書いた小説がほかにない以上、無いよりは好いと評価はできますが)。

 石川達三の「人間の壁」は大作家の力作ですから、さすがに内容豊かで、1956年当時(敗戦から約10年後)の日本の様子と(日教組の)組合運動の中で交わされた会話(様々な考え方)を克明に記録してくれました。しかし、これは1956年03月から翌年の春までの1年間が対象です。「雪解け道」は最初の1年が詳しく、後は短くまとまったものを載せていますが、それでもやはり4年間全部をカバーしています。

 「人間の壁」に出てくる会話は内容的に整っていますが、「雪解け道」の学生運動家の会話は観念を弄んだと言うか、消化していない言葉を並べただけのようなものが多いです。しかし、これは現実に彼らの言葉がそうだったのですから、むしろ「こんな意味不明で覚えにくい言葉を好く覚えていたな」と感心するくらいです。覚えるには内容を理解していなければならないと思うからです。そういう意味でも運動の渦中にいたからというだけでなく、作家の能力が素晴らしいのだと思います。

 「学生時代のアカなんて、ハシカみたいなものだ」とは好く言われたものですが、1960年代末におけるそのハシカの様々な症状を詳しく描いた作品としてこれ以上のものはないのではないでしょうか。


八ツ場ダム

2008年04月05日 | ヤ行
     八ツ場ダム

 草津温泉から流れ込む強酸性水を中和するため、1日に60トンの石灰が投入されている群馬県草津町の品木ダム。その下流に、首都圏
最後の巨大ダム「八ツ場ダム」計画がある。

 1952年に計画ができたころは、まだ品木ダムはなかった。温泉水が八ツ場ダムのコンクリートを溶かすという理由で計画はいったん止
まった。だが、品木ダムの完成で計画は息を吹き返した。八ツ場ダムを造るために、死の川をよみがえらせたとも言える。

 だが、その八ツ場ダム本体は計画立案から半世紀を経過したいまも着工できていない。2010年度の完成予定を5年間延長する計画変更
案が昨年末、関係する1都5県に示された。水利用だけでなく、治水の面からも不必要とする根強い批判がある。最近になって、群馬県議会や東京都
議会でも、反対が増えてきた。民主党は、3年前の総選挙のマニフェストで計画中止を求めた。

 品木ダムは環境に手を加え始めるときりがなくなるいい例だ。この上八ツ場ダムをつくったら問題はさらに複雑になる。ダムの関連
事業には道路特定財源も組み込まれている。八ツ場ダムの予定地は福田首相のおひざ元。道路特定財源だけでなく、この計画の見直し
にも期待したい。

  (朝日、2008年04月02日、編集委員・石井徹)

ユースホステル

2007年11月14日 | ヤ行
     ユースホステル(その2)

 会員制の宿泊施設「ユースホステル」は、青少年が安全かつ経済的に旅行ができるようにと、1909年にドイツで始まった。

 日本では1951年に誕生し、当時の会員数は944人。高度成長期を迎えると、2食付き1泊1000円程度の手頃な値段が人気となり、1972年には63万人を超えた。

 大人数で騒ぐより1~2人で訪れ、見知らぬ人との出会いに連帯感を求めるような人々が集った。夜は若者のスタッフが音頭をとってフォークギターをかき鳴らし、人生を語り合った。

 「相部屋だから一人旅の寂しさが紛れたし、友情や恋愛が芽生えることもあった」と60代の男性は回顧する。

 しかし、その後は「旅行以外の楽しみが増え、相部屋が敬遠された」(日本ユースホステル協会)ため、減少の一途をたどり、昨年の会員は約7万5000人という。

 そんな中で個性を打ち出し、今む宿泊客でにぎわう施設もある。

 毎晩2時間以上、歌って踊るという北海道・礼文島の「桃岩荘」が代表例だ。かつて桃岩荘に泊まったという30代女性は語る。「知らない人と肩を組んで歌うなんて初めて。興味本位だったが、一生の思い出になった」。

  (朝日、2007年10月11日。朴順梨)


     ユースホステル(その1)

 旅に出た若者たちに、安くて安全な宿を提供してきたユースホステルの利用者が、落ち込む一方である。

 ピーク時の1970年代初頭には、登録会員は60万人を超え、年間宿泊者は340万人前後だった。それが、昨年の登録会員は15万8000人、宿泊者は82万人に減った。

 民宿やペンションが増えたことが原因だという。いろんな規則や決まりが、いまの若者のスタイルにあわなくなったからだという経営者もいる。

 滞在中の過ごし方も、変わってきた。ほとんどが個室に閉じこもる。ミーティングやイベントにも参加しない。宿泊者同士の交流も少なくなった。

 ユースホステル運動は1909年、ドイツで始まり、日本では1951年に協会ができた。

 自分のことは自分でする。見知らぬ土地で、未知の人と交流して、見聞を広める。これが利用者の心得だった。

 食事は、宿泊者全員のミーティングの後、一斉に食べた。飲酒は厳禁。使った食器は、自分たちで洗って片づけた。

 夜は、二段ベッドを並べた大部屋で雑魚寝。男女は、夫婦といえども別の部屋。自分専用の袋状になったシーツを持参し、出発前に、寝室の掃除をするのも決まりごとだった。

 だが、時代は変わり、規則は次々に取り払われた。個室が増え、男女同室も可能になった。飲酒も認められた。食器を片づける義務もなくなった。

 それでも、利用者は減り続ける。ある大学での調査では、ユースホステルの存在すら知らない学生が九割もいたそうだ。

 若者はもう、自分を鍛え、自分を見つめるための旅に出なくなったのか。

 それとも、便利になり、ぜいたくにもなって、旅の持つそんな役割が忘れられてしまったのだろうか。(石)

  (朝日新聞、1999年09月03日、論説委員室から)

用例

2007年03月04日 | ヤ行
     辞書の用例

 1996年03月16日の朝日新聞の「日本語よ」というコラムに「新明解国語辞典」の編集委員の一人である倉持保男氏が「実例と用例」という題で一文を寄せています。

 氏はまず、単語の「実例」を「実際に使われた例」とし、「作例」を「編集者が作った例」としています。そして、多くの小型国語辞典が単語の説明に作例を掲げることが多いのは、実例を載せると作例を載せる場合より用例の占めるスペースが大きくなり効率的でなくなるからだとしています。

 逆に「新明解国語辞典」はなるべく実例を掲げるようにしているのは、「編集者の言葉についての経験や知識は意外に狭いもので、作例に甘んじていると、現実の用法を見落としたり、現実から離れた虚構の産物になりかねないのを恐れるためだ」としています。

 私はこれは本当にそうだと思います。言葉の研究では絶対に実例主義で行くべきだと思います。

 私はドイツ文法を教えようとした時、自分には適当な文例を挙げる能力がないのに気がつきました。そこで、それぞれの品詞の使い方の項目を箇条書きにして、その一項目ごとに「実例」を集めはじめました。ワープロがあったことがこの作業を大いに助けてくれました。

 初めは1枚のフロッピーディスクでしたが、その1つ1つの項目が膨らんで、今や20枚以上のものになっています。しかしこの点は今は触れないことにします。

 ともかく実例を集めはじめました。すると、同じ事柄にもいろいろな表現があることに気づきました。考えてみれば当たり前です。英作文をしていた時でも、特にネイティヴの先生は1つの作文題に対して複数の英文を示してくれていたではないか。

 今でもよく覚えていますが、かつて『罪と罰』の英訳がいくつも出ていることに気づいて書店でその冒頭の訳し方を比べてみた経験があります。その時も「訳者によって随分違うものだな」と思ったものです。

 実例を集めていると、「こんな使い方もあるのか」「こんな場合もあるのか」とびっくりするような使い方に沢山出会いました。何かを表現しようと思ってとっさに思いついたり熟考のはてに考え出したりした言い回しには、或る単語の使い方を説明しようと思ってその場で作りだした場合には絶対に思いつかないような言い回しがあるものです。これがネイティヴの底力というものです。事実は小説よりも奇なのです。

 他者の作った本の用例も気になるようになりました。ドイツ語を研究し教えるのに英語との比較を使っている人がいます。この人の本を見ると、1つの事柄を表現するのに1つの表現方法しかないかのような印象を受けます。常に1つの日本文に1つの英文と1つの独文しか載っていないのです。実際には1つの事でも複数の表現方法があるものです。

 又、ドイツ語にも英語にもとても堪能でネイティヴと同じくらいよく出来る方がいます。しかし、その方の本を見てみると、やはり1つの事柄については1つの表現方法しかないかのような印象を受けます。

 私は、これはやはり違うと思います。

 そういうわけで「マキペディア」に載っている用例はみな実例です。そもそも「単語の使用例」を表す言葉に、用例と実例と作例とがありますが、私の考えでは用例と実例は同じです。作例などという言葉は知りませんでした。しかしこれはあるようです。「新明解国語辞典」に載っています。その意味は「説明などのために、その人が適当に作った用例」とあります。すると、やはり用例は実例と作例を包括する上位概念らしいです。しかし、この「マキペディア」の「用例」はみな実例です。

 最後にもう1つ。そうして始まった私の文法研究は、これまでの文法の枠を認めてその例文を集めることに止まりませんでした。これまでの文法の枠もその中の分類も個々の分類項目も考え直すことになりました。なぜなら、これまでのものには収まりきれない実例
が集まってきたからです。実際の言葉の使い方は現存する文法よりも豊かで複雑である。学問は現実に追いつかなければならない。

 いつの日か私の独文法を世に問いたいと思います。

よろしくどうぞ

2007年02月26日 | ヤ行
 1、「どうぞ宜しくお願い〔いた〕します」というのはよく使う挨拶です。何をどうして欲しいのかを具体的に言わないで、ただ漠然と宜しくと言うだけで済ます、いかにも日本的ではあります。しかし、今はそういう日本人の心のあり方は論じません。

 2、この表現が少し省略されると「どうぞ宜しく」だけになります。ここまでは問題はありません。しかし、特にビジネスの世界などで人々がどういう風に言っているかを観察してみますと、「どうぞ宜しく」よりは圧倒的に「宜しくどうぞ」の方が多く使われています。私が取り上げたいのはこの後者なのです。

 3、「宜しくどうぞ」という言い方は昔からあったとは思われません。戦後も大分たってからではないでしょうか。いや、時期の問題はいい。どういう心理からこういう表現が使われるようになったのでしょうか。

 思うに、「どうぞ宜しく」の更なる省略として「宜しく」というのがありますが、「宜しく」と言った後に、これだけでは少し端折り過ぎたかなという気持ちが起きて、後から「どうぞ」を付け加えて、丁寧さの不足を補ったのだと思います。

 4、私は、「宜しくどうぞ」はこの言い方だけに限られていて、「宜しくどうぞお願いします」とは使われないものと思ってきました。しかし、昨夜、NHKのラジオ深夜便を聞いていて、N氏がそれを使うのを聞きました。今や、「宜しくどうぞ」は「どうぞ宜しく」と同格の表現と意識されてきているのでしょうか。
 (1994,05,30)

奴(やつ)

2006年10月28日 | ヤ行
 (1) 「新明解国語辞典」は「口頭語」とした上で、「人(物・事)を第三者的に突き放して言う言葉。文脈により、親愛、敬愛の意を含めて言うこともある」と説明しています。

 いい奴(人、存在)だった、よくある奴(手・物)だ。

 (2) かつては男性が使い、女性はあまり使わなかったのではないかと思います。しかし、最近は女性でも使うし、ものすごく広く多くの事について使われるようになったと思います。

 例えば、「徹子の部屋」で黒柳徹子さんが野球のスパイクのことを「スパイクって言うんですか、あの足に履く奴」と言っていました。女子学生でも今や当たり前みたいに使います。例えば、VTRについて、名前が分からない時、「あの学生寮の奴(学生寮を描いたVTR、という意味)」といったようにです。

 (3) 又、私の考えでは、複数として使う「奴ら」は人間のことにしか使わないと思います。そして、その時はたいてい軽蔑的なニュアンスがあると思います。