インターネットがこれほど発達していても、半世紀もの海外との事業交流があり 一般市民も海外交流も盛んになったと思っていたが まだ遠いと言うのが実感だった。先ずはいつまでたっても「英語が習得できない日本人」 これがある、頭が悪いわけではないが 既存枠から飛び出すことができないのがその理由だろう。 同じように、異文化環境には憧れてはいるのだが 慎重で細かなことに拘りを持つ民族には直ぐには受け入れられないのかも知れない。
今回、在住する日本人ガイドにダウンタウンの東のブルックリン橋を渡っダブルックリンも紹介していただいた。
鉄の橋は 1883年に作ったと言うから驚くが今から140年前。日本から明治初期、岩倉具視使節団107名を米国に送ったその10年後辺りだが 大量の鉄とコンクリートを使い 幅26m長さ1800m 高さ84mで当時、イギリスで使われ始めた大規模橋桁技術ニューマチック・ケーソン工法を採用し初めて実現したのだ。

この技術は1923年〈大正13年)に日本にも導入され東京墨田川の永代橋・清州橋にも採用され現在も健在らしい。明治時代の1871年、岩倉具視使節団には政府関係者のほかに、大久保利通、伊藤博文、木戸多孝充もいて米国の巨大が工業と国力を約三年間学んだらしいから、語学も学び 入国時のチョンマゲも切り落として帰国した。江戸時代の鎖国のおかげで欧米の植民地化を逃れられた全員が 幸運に胸を撫でおろしたそうだ。
その交流から暫く、日米の友好関係も出来たのかも知れない。秋晴れのブルックリン橋と右マンハッタン橋が眺められ海辺には波が打ち寄せていた
1946年、真珠湾攻撃で名を馳せた山本五十六司令官も、海軍大学卒業後 米大使館勤務で1918年に渡米し、米軍の軍事力とか欧州にも大使館員として何度か行き来している。1939年連合艦隊司令長官任命された後も、米英国と戦ってはならないと一人反対をしていたが、アジア大陸制覇の勢いを持つ陸軍の勢いに流され 太平洋戦争に突入する羽目になった。それでも山本五十六が立てた奇襲作戦は、奇襲でなく宣戦布告してから実行するが成功しても、一週間は耐えられるが後は多分 負けるしかないだろう・・と言っていたそうだ。
何故か、宣戦布告は外務省の手違いで遅れ世界から「卑怯な奇襲作戦」の烙印を押され、しかも真珠湾は老朽軍艦しか停泊して肝心の空母は一隻もいなかったのだから不思議だ。日本軍のアジア侵略を拡大を懸念する英米が初めから暗号は既に解読されて結果的に 五十六も利用され 宣戦布告の遅れも何か妨害され 結局は世界中から叩かれた・・もし、これが本当なら他国の良さを認めない 自分本位でしか物事を考えない 悪い国民性がこれにも災いしたのかもしれない。
米国本土には、今でも未開拓の資源が山ほどあるが 世界から調達するほうが安く済むのだろうが この国の資産は 底が知れない。
大都市の真ん中にあるセントラルパーク。これはニューヨーク映画に、いつも登場するが公園と言うより 森と湖の広大な場所だ。東西800m、南北4000mと言う広さの中に、馬車が通リ美術館・動物園・遊園地があり 喧騒の中の街中からここにくると ほっとする場所だ。日本には見かけない、ドックウォーカーと言う留守番犬を預かる人達、子守りをアルバイトに公園を手押し車で散歩する人・・とても長閑なのだ。芝生には時折、リスが走り頭上の大木には いろいろな小鳥の声がいっぱいだ。
そんな中にいると、ひどく遠く離れた地球の裏側に来たのだと思う。日本の良さと有難みも 人間の可能性の奥深さに希望も感じのだが・・でも私には既に遅いのだが、黒人ハーレム文化に惚れ込み「これを是非、多くの日本人に知って欲しい」とか、NYの生活と歴史を体験する教育を日本の学校に提案していると言う二人の40代のガイドをして頂いた若者たちの心意気は十分に感じ取れたのは良かったと思う。


今回、在住する日本人ガイドにダウンタウンの東のブルックリン橋を渡っダブルックリンも紹介していただいた。
鉄の橋は 1883年に作ったと言うから驚くが今から140年前。日本から明治初期、岩倉具視使節団107名を米国に送ったその10年後辺りだが 大量の鉄とコンクリートを使い 幅26m長さ1800m 高さ84mで当時、イギリスで使われ始めた大規模橋桁技術ニューマチック・ケーソン工法を採用し初めて実現したのだ。

この技術は1923年〈大正13年)に日本にも導入され東京墨田川の永代橋・清州橋にも採用され現在も健在らしい。明治時代の1871年、岩倉具視使節団には政府関係者のほかに、大久保利通、伊藤博文、木戸多孝充もいて米国の巨大が工業と国力を約三年間学んだらしいから、語学も学び 入国時のチョンマゲも切り落として帰国した。江戸時代の鎖国のおかげで欧米の植民地化を逃れられた全員が 幸運に胸を撫でおろしたそうだ。
その交流から暫く、日米の友好関係も出来たのかも知れない。秋晴れのブルックリン橋と右マンハッタン橋が眺められ海辺には波が打ち寄せていた
1946年、真珠湾攻撃で名を馳せた山本五十六司令官も、海軍大学卒業後 米大使館勤務で1918年に渡米し、米軍の軍事力とか欧州にも大使館員として何度か行き来している。1939年連合艦隊司令長官任命された後も、米英国と戦ってはならないと一人反対をしていたが、アジア大陸制覇の勢いを持つ陸軍の勢いに流され 太平洋戦争に突入する羽目になった。それでも山本五十六が立てた奇襲作戦は、奇襲でなく宣戦布告してから実行するが成功しても、一週間は耐えられるが後は多分 負けるしかないだろう・・と言っていたそうだ。
何故か、宣戦布告は外務省の手違いで遅れ世界から「卑怯な奇襲作戦」の烙印を押され、しかも真珠湾は老朽軍艦しか停泊して肝心の空母は一隻もいなかったのだから不思議だ。日本軍のアジア侵略を拡大を懸念する英米が初めから暗号は既に解読されて結果的に 五十六も利用され 宣戦布告の遅れも何か妨害され 結局は世界中から叩かれた・・もし、これが本当なら他国の良さを認めない 自分本位でしか物事を考えない 悪い国民性がこれにも災いしたのかもしれない。
米国本土には、今でも未開拓の資源が山ほどあるが 世界から調達するほうが安く済むのだろうが この国の資産は 底が知れない。
大都市の真ん中にあるセントラルパーク。これはニューヨーク映画に、いつも登場するが公園と言うより 森と湖の広大な場所だ。東西800m、南北4000mと言う広さの中に、馬車が通リ美術館・動物園・遊園地があり 喧騒の中の街中からここにくると ほっとする場所だ。日本には見かけない、ドックウォーカーと言う留守番犬を預かる人達、子守りをアルバイトに公園を手押し車で散歩する人・・とても長閑なのだ。芝生には時折、リスが走り頭上の大木には いろいろな小鳥の声がいっぱいだ。
そんな中にいると、ひどく遠く離れた地球の裏側に来たのだと思う。日本の良さと有難みも 人間の可能性の奥深さに希望も感じのだが・・でも私には既に遅いのだが、黒人ハーレム文化に惚れ込み「これを是非、多くの日本人に知って欲しい」とか、NYの生活と歴史を体験する教育を日本の学校に提案していると言う二人の40代のガイドをして頂いた若者たちの心意気は十分に感じ取れたのは良かったと思う。


