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碧い山・青い海

趣味の山登りとか、技術とネット情報を照合し個人メモに・・

1610- ニューヨークで想ったこと 01

2016-10-08 | 旅行
 街中の大きなホテルを5泊6日で予約した。広い部屋で満足だったが、今まではテレビは日本製が韓国製に、繁華街中心のタイムズ・スケアの日本企業広告も影を潜め多くはアジア企業の広告ばかりに変わっていた。
これが絶好の観光地で示す、ひとつの国力の物差しかもしれない。半世紀前の過去の思い出では有名ホテルとか不動産が日本人所有になつていて若い日本人ても鼻高々だったが 今はそれらは全てが 二束三文で買い戻されたり、代わりにアジア系の企業が多くの不動産を購入していると聞いた。
 ホテルの部屋テレビは100チャンネルあり、日本人客向けにNHK放送が 63チャンネルのみ接続されていたのだか夜帰り、これを見ると毎日「故郷の頼りとか、人気タレントと司会者のお笑いトーク、美味しい食卓と食材の話、落語家女装のお笑い歴史・・」などで 他の外国チャンネルの内容と比べて 緩い遊び番組ばかり。激しい討論とか・報道番組・食料は広告番組にしか出てこない 英米の放送内容から比べるとこの世界の経済戦争の真っただ中なのに 日本の国は大丈夫なのか・・と不安になった。

 半世紀前のホテルのテレビは米GE製で、日本語放送は無く辛うじて解りそうなものはスペインの漫才番組だけだった。その時のそれぞれの文化の違いを感じたが、前に進む国と遅れて付いて行く国の違い・・と思っていたが 今平和が長すぎた自国の しかも国代表のNHK番組なのにと情けなくなった。

 着いた日、日本から来た若い三人組が同じ飛行機でホテル送迎マイクロバスで一緒になった。みんなスマホで今、何処を通っているのか地図ルートを皆確かめていた。私たちは、夕暮れのニューヨークの車窓風景 ばかりを見ていたのだが 帰りも同日程だったらしく一緒になったが 海外に来たのに未だ相変わらずスマホ中毒だった。一時、セントラルパークで騒ぎになったポケモンは、すっかり忘れ去られニューヨーカーには過去になっている様だった。スマホ歩きしている若者はセントラルパークでも街中でも 殆ど見かけず 通勤前のヘッドフォーンを頭につけてジョギングしている若い人たちが多かった。かって多くいた日本人観光客も、めっきり減り代わりにアジア観光客で一杯だったのもその勢いを感じとれた。

 気になった物価は、高いのか安いのか良く解らなかった。例えば、ホテルとか高級レストランの500CC水は2.5-3.5ドル、街の引き売りとかドラッグストアなら1ドル、ニューヨーク在住の方は大箱で買うと10セントで買えると言うのだ。ニューヨークの水道水は飲んでも支障ないそうだが。牛肉ロースは450g(1ポンド)が8ドルで、カルフォルニア米は10kg1ドル以下でメチャ安、シャツ一枚 20-30ドルだが、ハーレムの街では似たものが1-2ドルで売られていた。何処で買っても商品も同じで、地域を変えても駅ストアはみんな 画一的な日本からすると、やはり相当な落差を感じたが 高いお店も良く売れていた。お金持ちも貧乏人もそれらしい身の丈に合った暮らしをすれば良く 人と同じに・他人と比べる事も不要な暮らしやすい環境なのだ。

 街で歩行者信号は全く守られていないのに驚いた。高い物を買うのも自分がそれが良い、と思うば買えばよい。お金がないのなら路上の屋台でランチを買えば良いと 全て個人の意思を尊重する個人主義が 子供も大人も徹底している。
従って、赤信号で交通事故にあうのも自己責任で簡単なのだ。何処かの国の様な「誰も助けてくれなかったので私が落ちました。責任の一端は近くにいた人にもあります」と言う変な 互助精神などあり得ない。
 ダウンタウンの赤れんがの建物、映画に出てくるその裏階段と轉石の敷き詰められた石畳、そうかと思うとピカピカの近代建築とその横にある総菜量り売りの「デリカテッセン」。ティファニーの高級店の前で立つ浮浪者、街を姿勢を正して速足で行く人・・人間の五感を研ぎ澄ましていないと暮らせない刺激的な街なのだ。日本にいると、すっかり五感を使って生きてきた日本人の本来の心が 今では退化しているのかも知れない。






1403- 薩摩藩と桜島

2014-03-19 | 旅行
 先週、鹿児島に夫婦の一泊自由旅行をしてきた。一度、桜島を見てみたいと思った。鹿児島県には数回、仕事で訪ねた事があるが 確かイ草の乾燥機の制御機器の件でだったが 鹿児島もただ仕事しただけで何も見てない場所が全国にも多い。長崎は、数回行き気に入った場所の一つだが 何処でも歴史を持ってはいるが、それに誇りを持ち大切にしている地域が 好きで 鹿児島も多分・・・と期待していた。

 僅かな時間だったが、貴重な体験・見聞をした。1853年浦賀沖に米ペリー提督が黒船と呼ぶ軍艦で押しかけると 鎖国政策の最中だった幕府要人は腰を抜かして驚いたそうだ。琉球わ窓口に 欧米の技術を既に知り 銃も作くられていた薩摩藩の前後の事が、市内の維新歴史館で丁寧で 解りやすい展示がされていた。・・市内観光は、そのドラマを見せられる所から始まる。

 薩摩藩は1609年に琉球を藩下に治めていて、欧米諸国の文化科学を輸入物資から大よそは理解していたのだろう。江戸幕府の事件も、当然予測していたので鎖国政策で 武力的に出遅れた日本の状態から尊王攘夷(王を守る忠誠)を貫いたようだ。島津久光の行列を、横切った英国人を無礼打ちしたのが生麦事件1862年、幕府から賠償金を貰っても承知しない英国は翌年、鹿児島沖に軍船で賠償と犯人引渡しに訪れ 交渉が決裂し薩英戦争となったのが1863年。

 薩摩藩の近代工場で独学で準備された150ポンド砲(玉70kgで3km飛ぶ)が、活躍し軍艦三隻を沈め司令官は即死させた。幸い英軍は退却したが町と斉彬が作った工場も壊滅したと言う。その経験で、国力の差を思い知り開国は時期早尚と言う事を薩摩藩は確信し先見の明を手にしたのだ。

 その後、英軍は薩摩の交渉力と強さに感嘆し 中央幕府などより薩摩藩と交易する事になる。1965年に英グラバー商会が藩士15人と使節4人を英国に案内する、手助けをしたのも商売とは言え日本では異例だ。鎖国政策の中、琉球出張と幕府には説明して 実際は香港から英国に2年間留学させ この中から多くの偉人が生まれて明治以降も活躍する。(幕府から言わせればこれらは全員密航者なのだろう)
 
 留守を預かる西郷隆盛だが、「1.負けるな(自分に対しても) 2.嘘はむつくな 3.弱いものを苛めるな」を基本に一対一で子供たちを剣道・相撲で戦わせ相手が「参った」と言わせるまで徹底的に攻める事を教えたそうだ。薩摩の教育には郷中教育と言い年上の者が年下を教育する5歳から25歳の階層教育が徹底しているのも凄いと思う。半日観光バスだが、元気のよいバスガイドさんで車窓から丘の上に見えた東郷平八郎の銅像の説明では、直立不動の姿勢になるので、もう ひっくり返りそうになった。鹿児島の人は、西郷どんを旗印の様に扱い真面目でしかも面白い。