高島の任期は明治17年9月~明治20年3月。明治20年3月8日より広島師範付属小学校へ転勤。
参考までに大正3-10年当時の校長山本真太郎(福山市今津町)は8月6日平和公園で演奏される「広島平和の歌」の作曲者:山本秀(みのる、広島大学教授)の親父。
高島平三郎の金見村小学校訓導兼校長時代のことは『高島先生教育報国60年』に教え子の小林篤の文章から、その一端を浮かびあがらせることができる。
明治19-20年ごろの「教育時論」に投稿した小論文に関しては加登田恵子:解説「教育に応用したる児童研究」として書かれた「わが国における児童学の誕生と高島平三郎」(日本児童問題文献・1,423-437頁、2005)が逐一レポしている。本雑誌にいろんな名前を使って登場する高島だが、実は加登田の場合高島の号/ペンネームであった「蜻蛉子」名義の投稿分を見落としている。
「教育時論57号(以下、教育時論は省略)」(明治19年):禁酒論・・・・・金見小学校勤務時代
61号(明治19年12月:稚経松ノ説
63号(明治20年1月):新体心理学の歌(蜻蛉子の筆名で)
66号:百尺ノ教育竿頭ニ一歩ヲ進メタルヲ見ヨ・・・・・・広島師範勤務時代
72号:酸素ノ話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東京高等師範転勤後
74号:未来ハ己ニ定マレリ現在ハ如何セントスルヤ/標品採集ノ一法
77号(明治21年4月):我国従来ノ婦女教育ハ狂花一朝ノ観ノミ
84号(明治21年11月):理科教育論・・・・・・・・・・・・・・学習院雇教師として転勤
88号:歴史教授法一班
61号と88号掲載の文章は教育時論中「学術」という欄に掲載されたものだ。いずれも教育への心理学的観点の重要性とか発達論を視野に置いた教育論構築を提案した画期的なもの。また77号は高島の女子教育論だ。
57号・61号が金見小学校勤務時代のもの。
わたしとしては観音堂脇に立てられた高島の詩碑の内容が少し理解できかけてきたところだ。
安易な転載を防止るため画像に一部加工を施した。これが実際の「教育時論」61号(明治19年)の表紙だ。
加登田恵子が学習院から長野県師範転勤時に使っていた我が国における児童研究の概説書の嚆矢(こうし)といわれるのが「小児研究」だと指摘し、この原稿執筆段階には未見だとしたものの草稿がこれだ。
ところで冒頭にあげたおさななじみの内田の文章には私的には2つの点で興味を持った。
一つは福山藩の裕福な人間は現在の東京大学が設立されたとき、そこへ進学すべく東京西片(目の前が東京帝大・赤門)に転居したこと。今一つは高島は沼隈郡での小学校教員時代、キリスト教に関心を持ち友人知人をその信者にした。内田がそうであり、河本亀之助がそうであったことだ。ただし、自らは仏教徒(日蓮宗にご執心)を貫いた
小林の文章を読んで驚いた点は明治19年当時すでにダーウィン・スペンサーの話を小学生たちにしていたらしいことだ。
歴史にはもしもといった仮定は禁物だが、もしも高島が東京帝大を出ていたらどうなっていただろ。参考までに、高島は東京帝大出の夏目漱石とは同世代の人間だった。周知のように漱石夫人は旧福山藩士の娘。
広島県の片田舎の小学校教師が弱冠19歳時より中央の教育情報誌に投稿を重ね。その内容は実に先進的で素晴らしいものだった。それが認められ、教育者として最高クラスの栄誉である大正天皇などを含む皇族の初等教育講師団(22歳のとき学習院幼年舎取締に就任)に組み込まれていった。
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