- 松永史談会 -

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備中国賀夜郡服織(服部)郷図写

2017年07月25日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
稲吉は在庁官人系の名主の仮名(けみょう)だ。福富・稲吉いずれも五穀豊穣をイメージさせる縁起のよい呼称(佳名・瑞称)。多分この稲吉は窪木在住の祢屋氏のご先祖だろう。


⇒服部郷図考聞書(附:備中国賀夜郡服部郷図)(KW293.4/1)を検索

岡山県立大学キャンパスおよび長良山一帯に服部(織)郷の故地がある。備中国府の膝下にある関係で、稲吉は在庁官人であっただろうと考えられている。

この図面をみると国衙の支配する公田(くでん)が、鎌倉・室町時代に服織郷という備中国衙の御膝元に当たる場所に立地する律令時代以来の行政単位内において、如何に名田または名(みょう)と呼ばれる中世的な支配・収取単位に再編成され、その名田を基礎とする支配・収取体制=名体制が当該中世郷において成立していたかを知る手掛かりが得られるのだが、稲吉というのはその名体制を支えた服織郷内最有力の名主の仮名(けみょう)という訳だ。稲吉名は名田の多さから考えて国衙の役人(在庁官人)を兼ねるような、あるいはそれを出自とした服織郷の在地領主の名(領主名)といえる特別な存在だった。名田は一定の行政単位内において一定箇所にまとまった形で存在したり、逆に散在するケースなど様々だ。

【余談】この辺りは備中足守(陣屋町)・・・・旧藩主の息子で詩人木下利玄(旧陣屋は足守小学校)とか大坂に適塾を開いた緒方洪庵の生地、鬼ノ城(未探訪)などあるようだが、神護寺領足守庄やこの服部郷、平安貴族たちの配流地とされた備中中山一帯を中心にむかし京都から日帰りでよく調査に来ていたものだ。
足守八幡にジャンボな板絵荘園図が奉納されている。
こんなところ(岡山市足守)・・・・服部の隣町だ


追記)
新納 泉・久野 修義・今津 勝紀『地理情報システムを用いた歴史的地域景観復元のための技術的検討』、2003年 - 2007年度日本学術振興会 科学研究費助成事業 特定領域研究 特定領域研究
(1)「備中国賀陽郡服部郷図」の現地比定を進め、二つの角度を異にする条里体系がひとつの整合的な条里の図に合成されたものであることを明らかにした。これによって、従来、現地比定に問題を残していた栢寺廃寺跡の位置も矛盾がなくなり、土豪「稲吉」の本拠地も現在の窪木集落であることがほぼ明らかになった。また、「服部郷図」の西寄りに空白の区画が存在することの意味についても、二つの条里体系を合成する際に生じた空白であることがわかった。
(2)上記の新しい成果が得られたため、結果を「『備中国賀陽郡服部郷図』の再検討」という報告書にまとめ刊行した。
(3)一部になお課題が残るものの、「服部郷図」の現地比定がほぼ終了し、本研究課題の目的である歴史的地域景観を復元するための、古代の定点となる「額田寺伽藍並条里図」と中世の定点となる「服部郷図」が揃ったことで、来年度の地理情報システムを用いた開発のプロセスや景観の復元を行うための基礎的データが整備されたことになる。
(4)条里を復元するために画像上に自由に方眼を描く機能を、昨年度に開発したDrawGridのプログラムに付加した。これにより、条里の検討がさらに容易になった。
(5)すでに開発しているGISmapのプログラムに、NASAが提供しているSRTMのDVD版に対応する機能や、国土地理院の5mメッシュDEMに対応する機能を付加した。
(6)地形等の三次元データを画像化し自由に影をつけて形を観察するプログラムを開発した。
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