- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

岡本山路氏(忠平・熊太郎父子)が建造した「王城楽土」の今

2018年12月16日 | 断想および雑談

今日は近くに行ったついでに岡本山路氏(忠平・熊太郎父子)が建造した誠にささやかだった「王城楽土」の今を訪ねてみた。この親子は京都などで勉強をし、沼隈郡内では並ぶものなしの豪農の子弟として、教養と共に散財することも覚えてしまったのか、文化交流(道楽・社交/信仰)の場を盛んに藤江の地に移植・建造し、近在近郷の村々に対しても様々の施設や物材等を奉納・寄進(ある種のheroic consumption /英雄的消費)した。

テレビのアンテナ(山路一雄の夫人が平成3年まで居住)。念仏院跡。




背後から見た山路家墓地・・・山路家の系図との照合作業を行うと何かが判ってくるかもしれない(わたし?当面予定なし)。
幼児死亡率高さが判る風景だ。


おやおや手向けられた菊が・・・打ち捨てられているぞ こりゃ烏の仕業だぁ?! 地元には山路家ゆ・かりの家筋の人がたくさんいて、山路のことに関しても一切沈黙を守るというのがこの部落の暗黙の了解事項のようだ。地域活性化のためにとか、何とかいう理由ではなく、唯々後世の為に、文化財とか文化資源のたゆまぬ保存発掘の努力を期待するばかりだ。町つくり協議会名で阿弥陀寺には啓蒙所(1872-1882)という石柱(2003年建立)が建てられていたが、廃墟がすっかり整理された栁見堂跡には山路家の個人のものとみなされたのかそれを記した標注は不在


山路一雄一家は東京より、疎開で、念仏院脇の小さな建物に住んでいた。この一雄氏が寄贈した山路機谷家資料は尾道市立図書館にある。数量的にはかなり少ない。『未開牡丹詩』関係のものとか森田節斎監修の史記研究書などが主なところ。なお、この方面での、わたしの山路機谷研究はすでに終了している。


巨大な山路機谷夫婦墓の墓誌。岡本山路家墓地の中心に自分たちのジャンボな墓石を配置。これは機谷の考え方とか人柄を反映したものだろうと思う。なお、夫人ミチは多くの文化人を輩出した旧沼隈郡山南村の名門・何鹿桑田氏(桑田次郎兵衛遜学の妹、広島に嫁いでいたが、離縁し(一説には離縁させられ)山路機谷=熊太郎重済と再婚したもの)。慶応2年11月はミチの外にも親族の不幸が相次いだ。
書字は宮原潜叟(節庵)

亡き友機谷の死を悼んで作った坂谷朗蘆の漢詩(屏風写真の向かって左端)を今津町のMさん宅で見たことがある。


機谷処士夫婦碑(生前墓)

意地悪く福澤諭吉(旧旧福山藩阿部家家令岡田吉顕の青年時代からの知人)のと比較しておこう。諭吉の墓は本堂脇。明治30年代のものとしては普通サイズ。
柳見堂(やなみどう)。こういうものは世話人「松兵衛」名義で山路機谷が建立した。現在は再建された荒神さんだけ。数年前まで廃墟状態のお堂が立っていた。このお堂から北側に大神社(だいじんしゃ)。僧侶の墓が4,5基(安永の年号が彫られたものがあった)


柳見堂跡地より見た太田神社&之保社の社叢林。




阿弥陀寺(安芸国海田の出身の僧侶:蘆萩が開基)境内の石塔。隣の神社(荒神さん)には新しい注連縄が張られ、この石塔には菊が手向けられていた。おなじような菊はこちらにも


阿弥陀寺は管理人を務めてきた神原さんが高齢でリタイア。いまは今津・蓮花寺(広田さん)が管理。


阿弥陀寺@御堂山
山路家の番頭:松兵衛の墓所・・数年前に墓じまい。あり。在りし日の生田(松兵衛)家墓地


中央に之保神社の祭神:山路之保墓・・・岡本山路家家の墓石はサイズ的には福山藩の家老クラス。尾道辺りの豪商の墓石など舟形光背墓だが相当にジャンボ。


之保墓の墓誌、塩田開発・帆布生産の奨励など民生面で尽力した人物だったのだろう。今日地元住民が20人くらいが「之保社」の祠に注連縄を掛けていた。新年に備え町内の注連縄をすべて架け替えるとか。但し太田神社はしないらしかった。之保という人物は桑田家の出らしい。あとで『沼隈郡誌』で墓誌銘全文を確認しておこう。写真の正面の大きな拝殿が太田神社(旧黄幡社)、向かって左側の小さな社が山路之保を祀った之保社。


こちらは機谷のお墓に比べるとかなり小ぶりの山路機谷の親父山路忠平(重信,鳳鳴)墓。山路家墓地ではご先祖を敬うというよりも万事、自分(=機谷)が中心で、それは間違いなくこの人物の意識の反映とみられる。なお、親父山路忠平の墓誌は彼の恩師、江戸後期に活躍した儒学者篠崎小竹(大坂在住)


山路機谷の息子:延太郎墓墓誌は森田節斎撰



矢印辺りが作田高太郎家の旧墓地

森田節斎夫婦が滞在した居宅は岡本山路屋敷の東にある溜池脇付近だった。


讃岐地方の名族・山路(山地)氏のルーツに関しては香川県多度津町内、(旧)白方村史編集委員会 編『白方村史』第三章、1955に詳しい。白方は丸亀平野西端・弘田川河口部/屏風ヶ浦一帯に立地。

「山地氏は系図によれば、敏達天皇より出る橘姓楠木氏流楠木正成の三世孫正則は十津川に居ること十余年、後ここを出て讃岐に来たり香川と氏を改め、後細川管領に属して氏を山地と改め、延徳元年三月廿一目卒した。その子元弘は山地左衛門督と称し、後土御門天皇の御宇、将軍足利義尚の文明年間讃岐に生れ、多度郡東白方に住し、細川管領に侍るその子元正は山地右京進と称し、文亀年中東白方邑に住し、細川管領家に侍り澄元の一字を賜い、多度郡東西奥三白方、那珂郡今津津森中府、三野郡庄内八箇村及び豊田郡伊吹島を領した。」→讃岐守護細川氏被官(守護代香川氏)。応仁の乱頃、伊予国弓削島荘に乱入した記録あり。

すなわち、東寺百合文書 『日本塩業大系史料編』古代・中世一 〔弓削島庄押領人交名案〕に
一、弓削島押領人事、①小早川小泉方、③能島方、②山路方此三人押領也、此三人内小泉専押領也、以永尊口説記之、寛正三年(1462)五十七。
橋爪茂「室町期讃岐国における港津支配」四国中世史研究(2)、1992
別伝では南朝方の北畠氏一族の子孫だというもの。菅茶山は藤江山路氏を「南朝ノ遺民」と詠っているが両伝承共にそれに合致した内容ではある。



本日の収穫
藤江一番・賀佐屋大本家の井戸、藤江の井戸はすべてお金のかかるこんな感じの石井筒。






金江の「樋之堂跡」


山路之保らによって造成された藤江新涯、の樋門




才戸川の樋門


才戸川の潮留(河床の段差部分・・・海水の遡行終点はこの潮止より100メートル程度上流側)




山路理解の面では中山富広『近世の経済発展と地方社会』、清文堂、2005が参考になる。
山路鳳鳴・機谷らは「敬神崇拝の念が篤く、藩主には忠誠、庶民には仁恵を尽くした」(中山、70頁)といえるのであろうか。

 

 

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1 コメント

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Unknown (通りすがりの山路家末裔)
2019-01-27 21:58:44
はじめまして。明治生まれの祖父の家のことで検索しておりましたらヒットし、拝見いたしました。郷土史の深い研究について、頭の下がる思いです。
私は東京に在住しておりますが、今や祖父、祖母をはじめ両親も亡くし、山路家のことを知る由もありません。
ただ、小さい頃に祖父は福山のほうの大きな家の出身で次男坊のため祖母の家に婿養子に入ったと聞いておりました。
祖父のお兄さんは戦前東京の警視庁か、お役所に勤めていたと聞いておりました。
最後に残った祖母のお葬式を出した時、戸籍を取り寄せましたら、祖父は藤江村1544番地、山路○○の次男とあり、藤江、山路で検索しておりましたら此方に行きつきました。
数年前には以前の記事にも紹介頂いている念仏院を訪れてみました。地元の方に聞きながら、ようやくたどり着いた山上の先祖一族のお墓には万感の思いでした。
ただの感想めいたコメントで申し訳ありません。とても貴重な研究成果の公開を感謝したく一筆とらせて頂きました。
ありがとうございました。

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