「渡辺淳一と短歌」
昨日、6月8日朝日俳壇歌壇のコラムに渡辺淳一が取りあげられていた。4月30日に亡くなられた渡辺淳一は、日本だけでなく中国でも人気があり、村上春樹と同様に中国語に翻訳されているらしい。夭折の歌人・中城ふみ子をモデルにした小説『冬の花火』を書いた渡辺淳一が、短歌を詠んだことは知っていた。でも私は渡辺淳一の歌は知らなかった。
「昭和二十六年四月、雪が残る札幌から修学旅行で京都へ来た高校生の渡辺淳一は、平安神宮の枝垂れ桜に声を失った。蝦夷山桜しか知らない十七歳には「造花」にさえ見えた。同じ日本に冬と短い夏だけの「季語のない国」があるとは、差別に似た苛立たしさを覚えた」
文芸ジャーナリスト・重金敦之のコラムの最初の段落である。渡辺淳一は桜が好きだったことは知っていた。その桜が終わった頃に世を去ったのかと思ったが、北海道では、桜が咲き始める頃だったかもしれない。もっともっと書きたかったであろう、書けたであろうに。
中学時代の国語の教師、中山周三は歌誌「原始林」の主宰だった。渡辺淳一を文芸に導いたのは中山先生なのだ。歌誌「原始林」に掲載されている中学3年の渡辺淳一の初詠は
✿ わら窓の雪小屋の夜は忘れがたし赤き焔に照らされてありし
中山先生はこの歌を「甘美な感傷にはしらず、実感を着実に生かしているところがある」と評したと、、。渡辺淳一の「はじめての歌」を重金敦之により私は知ることができた。渡辺は医師になり、作家になり直木賞を受賞した。経済的に安定していたから、じっくり小説が書けた、シアワセな作家だ、お利口で、しっかり稼いでいる作家だと私はイジワルな見方をしていたが、彼は文学が好きで好きで小説を書きまくったのかもしれない。赤き焔は燃え続けるだろう。天気予報を見ながら北海道と関東の気温の著しい差にあらためて気づく。
高層の森のはずれに暮らす私は『リラ冷え』の札幌はあこがれの地です。
6月9日 松井多絵子
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