軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

浅田次郎さん

2023-10-06 00:00:00 | 日記
 少し前になるが、浅田次郎氏の「勇気凛々ルリの色」(1999年 講談社文庫)を妻と朗読していた。もう10年近く続けている習慣で、特にジャンルを決めずに、読みやすい本を選んで、毎日少しづつ読み進めている中の1冊であった。

浅田次郎著「勇気凛々ルリの色」のカバー表紙

 この本のカバーの裏表紙には、浅田次郎氏とこの本のことが次のように紹介されている。尚、ピカレスクとは「悪党」のこと。

 「陸上自衛隊出身。ピカレスク人生経由、現在小説家。今や超多忙で絶好調、超有名とサクセスした直木賞作家が、理不尽な宿命を笑いとばす自伝的熱血エッセイ。涙あり笑いあり怒りあり哀しみあり、おのれの目標めざして突き進んだ男の、体を張った文章は、読めば思わずパワーが湧いてくる! 元気が出る一冊。」

 すでにこの本は読み終えて、次に選んだ山藤章二氏の本に移っていた頃、浅田次郎さんの講演会が軽井沢の大賀ホールで開催されることを、新聞の折り込みチラシで知った。次のようである。


軽井沢町・町制施行100周年記念の浅田次郎講演会「軽井沢の文学と私」のチラシ

 ここには、9月27日(水)14時開催とあり、「入場無料で申し込み不要でどなたでも参加できますのでお誘いあわせの上、ご来場ください」となっている。予約ができないので、参加することだけを妻と確認し、予定に入れた。

 又とない機会なので、浅田次郎氏の本をもう少し読もうということで、山藤章二氏の本を読み終えてから、再び浅田次郎氏の「勇気凛々ルリの色・福音について」(2001年 講談社文庫)を選んで読み始めた。

 じつは、1冊目の「勇気凛々ルリの色」の後に、「勇気凛々ルリの色・四十肩と恋愛について」が出版されているのであるが、本の選定と購入担当の妻はなぜかこの作品をスキップしている。

 さて、浅田次郎氏の2冊目の本の7番目のテーマは「童貞について」であった。次のように始まる。

 「先日、童貞を喪った。
 てなことを言うと、数百人の女性から袋叩きに遭うので、言葉を補足する。
 先日、スピーチ童貞というやつを喪ったのである。
 自分でもちょっと意外な気がするのだが、小説家の仕事の一部であるらしい『講演』というやつを、生まれて初めてやらかしてしまった。・・・」

 この講演会場は札幌であった・・・と続く。主催者の「日本たばこ産業」からの要請により、浅田氏が事前に決めた演題は「二足のワラジ」で、講演の予定時間は五十分であった。

 再び引用にもどる。

 「開口一番、私はこう言った。
『えー、わたくしは実は童貞であります』
 もちろんウケ狙いであった。・・・
 ザッと見渡したところ観客は圧倒的に女性であったので、とっさにウケを狙ったのであった。
 最悪であった。観客は誰ひとりとして笑わず、広大な会場はシンとシラケた。
 講演会を聞きに来る人々というのは、ものすごくマジメなのである。どのくらいマジメなのかというと、ご年配の方はまるで旗竿でも立てたように凛と背筋を伸ばしており、テープを回している青年もおり、何人かに一人は膝の上にメモ帳やノートを開いているのであった。・・・」

 「さて、その後どのような話をしたのかとんと記憶にはないのだが、ともかく私は五十分の持ち時間を大幅に超える一時間二十分の間、演壇に立ち続けていた。・・・」

 この章には氏の最初の講演の時のことが書かれていたのであった。この文章が実際に書かれたのは本の後ろにある初出誌のところに「『週刊現代』一九九六年十月一九日号より・・・」とあるので、今からもう30年近くも前のことになる。  

 妻も私も、今回のエッセイを読んだのが初めてで、浅田次郎氏の小説を読んだことはなかった。もちろん以前から直木賞受賞作の「鉄道員(ぽっぽや)」のことは知っていたし、最近も新聞で顔写真入りの近著の広告を目にする機会があったが、浅田次郎さんと軽井沢の繋がりについては全く知らなかったので、今回の講演のタイトル「軽井沢の文学と私」を見た時には、どのような関係があるのだろうか・・・と話していた。

 「勇気凛々ルリの色」の2冊にも軽井沢のことは出てこなかった。浅田次郎さんは東京生まれ、東京育ちと書かれているので、今も東京に住んでおられると思っていた。

 そうして、いよいよ9月27日の講演の日を迎えた。チラシには「軽井沢大賀ホールには駐車場がございませんので、近隣の有料駐車場をご利用ください。」とあるが、道路を挟んですぐ前に町営の大きい駐車場があることは先刻承知なので、開場の13時半少し前に車で出かけた。

 この日は水曜日で、講演開始は14時からという設定なので、一体どれほどの方が参加できるのだろうかと思っていた。実際、私にも直近になり地元区会の関係の要件が飛び込んできたが、先約があるとの理由をつけて、この区会の仕事をお断りせざるを得なかった。

 会場の大賀ホールに来ると、すでにホールを取り巻くように人の列ができていて、広いので大丈夫だろうと思っていた町営駐車場にも「満車」の赤い表示が出ていた。

 まだ時間があるので、一旦帰宅してから徒歩で出直す選択肢もあったが、大賀ホールの裏手、矢ケ崎公園脇には民間の駐車場があることを妻が知っていたので、そちらに回ってみると、さすがにまだ空きがあって、ここに1日1000円也の駐車料金を払って、停めることにした。

 そして、大賀ホールから延びて矢ケ崎公園の方にまできている列の最後尾に並び、開場を待つことになった。大賀ホールの座席は全部で738席ある。こちらも十分な余裕はあると思われたが、講演開始前には次図のA,B,C席は空席が間にあるもののおおむね埋め尽くされた。2階席は解放されていなかったようで人影はなかった。

 事前にエッセイのある部分を読んでいた私たちは、会場に入ってから、1階のSL席とSR席のことで冗談を言い合っていた。浅田次郎さんは、きっと演壇に立つ姿を、ま横から見る角度になるSL席とSR席に観客が座ることを好まれないだろうね・・という話である。

 この話題の訳はエッセイを読んでいただくことにして、私たちの予想通り、SL席とSR席は主催者によって閉じられていた。私たちはC席の中央やや後方に座ることにした。


大賀ホールの座席表

開演前の様子(2023.9.27 撮影)

 この日は、講演を録音できるのではと思い、スマホの録音機能を確認し、あらかじめテストもしていた。エッセイにもあったように、講演の録音については浅田次郎さんは寛容なのではと思えたからであった。しかし、開演前の司会進行係のアナウンスで、講演中の撮影と録音はしないようにと言われたので、録音を断念せざるを得なかった。
 
 現役サラリーマンの頃、社外との打ち合わせの機会も多かったが、その際は録音などしなくても、打ち合わせの際の簡単なメモをもとに、打ち合わせ内容を思い出して、議事録を作成することには特に不自由を感じることはなかった。

 今回も講演中は話題を追いながら、帰宅後講演内容を振り返ることができるだろうと思っていたが、仕事を離れて十年余、この間の変化は大きかった。話の中身をよく思い出せないのである。

 しかし、一番聞きたかった、浅田次郎さんと軽井沢との関係については理解できた。中学生の頃からスケートの練習で軽井沢に来ていたことや、文学少年であった頃、軽井沢に縁のある川端康成などに憧れて、ひとり旅に来ていたことも紹介されたが、何よりも浅田さんは軽井沢に別荘を持っていたのであった。この別荘入手の経緯は次のようである。

 多くの人気作家の例にもれず、浅田次郎氏もまた原稿の提出期限に追われるようになってきた。その際、出版各社からホテルなどにかんづめになって、原稿を書くことを勧められたが、T社からも軽井沢の保養施設利用を勧められて、ここに滞在して原稿を書いたことがあった。

 この時の原稿はことごとくボツになったとのことであったが、後年、このT出版社が保養所を手放さざるを得なくなった時、浅田さんの手元には作品がヒットして得られた大金があった。

 こうした大金を持つと、よくないことが起きるとかねがね考えていた浅田さんは、この保養所を買い取ることを決意した。こうして、元桂侯爵の所有地に建つとされるこの別荘を購入し、以来浅田さんはここを利用し、原稿を書いてきたのだという。

 実際、講演の冒頭で、「自宅から歩いて講演会場に来るというのは初めての経験です・・」と挨拶をされていた。

 軽井沢の静かな自然の中で原稿を書くということは、浅田さんにとりとても重要なことになっているとは、講演を通じて感じたことであった。この別荘のことを紹介した後、「別荘を探さないでくださいね・・・」と言われたのも尤もなことと思われた。

 芸術は自然の模倣であり、絵画、音楽、歌、小説もまた自然との触れ合いの中でこそ誕生するものという浅田次郎さんは、東京・神宮外苑の樹木の保存活動にも参加しているという。その浅田さんから、軽井沢でも開発により自然が急速に失われているとの感想が語られた。

 軽井沢の自然は、今ここに住んでいる近隣住民だけのものではなく、軽井沢町民や長野県の人々だけの物でもないという認識は大切なものである。
 開発に際して、近隣住民を対象とした住民説明会が行われていて、やや遠方から関心を持ち意見や要望を携えて集まる人たちを敬遠する空気をしばしば経験するが、直接的な影響を受ける人たちだけではなく、こうした意識ある人々の声に真に真摯に向き合うことが大切なのだと思えるのである。

 講演は90分の予定の10分ほど前に、数名からのQ&Aの時間を残して、きちんと終わった。氏の最初の講演からの30年近い歳月が感じられるものであった。

 妻と私は、またこうした機会を設けてもらって、他の作家さんたちの講演も聞いてみたいねと話しながら、浅田さんに見送られて帰路についた。

 
会場の大賀ホール出口の案内表示板(2023.9.27 撮影)


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