今回は有島武郎。これまで室生犀星(2017.10.13 公開)、堀辰雄(2017.11.10 公開)、立原道造(2018.2.9 公開)、正宗白鳥(2018.6.27 公開)、津村信夫(2019.2.1 公開)と軽井沢ゆかりの作家をとりあげてきた。これらの作家は軽井沢に住み、或いは逗留するなどして、互いに交流している。
有島武郎については、前出の文士たちとの交流の話は聞かない。軽井沢との縁という点では、1916(大正5)年に父・武の死後譲り受けた軽井沢三笠の別荘に初めて訪れてからは、ほぼ毎年のように避暑に訪れている。代表作の一つとされる『生まれ出る悩み』はこの別荘で執筆された。そのほか軽井沢を舞台にした作品に『小さき影』や『信濃日記』などがある。また軽井沢の夏季大学で2度、講演を行っている。
しかし、何よりも有島武郎と軽井沢を結び付けているのは、氏が終焉の地に軽井沢を選んだことである。1923(大正12)年6月9日、別荘「浄月庵」で武郎は愛人の波多野秋子と、情死したのであった。現在、三笠の別荘跡には有島武郎終焉地の石碑があり、別荘自体は中軽井沢の軽井沢高原文庫に移築され、その一角は茶房「一房の葡萄」として現在も使用されている。

明治・大正期に生まれ活躍した文士と、その中の有島武郎(赤で示す)と、これまでに紹介した室生犀星、堀辰雄、立原道造、正宗白鳥と津村信夫(橙で示す)
妻と私が軽井沢に移住してくる前に、2年間の期間限定で鎌倉に住んでいたことがあったが、その頃、月に2度くらいのペースで、鎌倉のレストランや居酒屋に出かけていた。
あるとき、小町通りの少し裏手にある居酒屋風の店に入って飲んでいたところ、若い店主が、自分は有島生馬の孫ですと話してくれた。店の壁には、確かに有島生馬ゆかりの書などが飾られていた。
有島生馬といえば、有島武郎の弟で、画家であるが、有島武郎が軽井沢にゆかりのある人とは、当時はまだ知らなかった。軽井沢に移住してからは、様々な機会に三笠別荘地に有島武郎の終焉の地があると見聞きすることが多くなっていたが、今回初めて現地を訪れた。
石碑の場所は:旧軽井沢のロータリーを三笠通りに進み、カラマツ並木を過ぎて、旧三笠ホテルの少し手前の道を右に入るが、この入り口の角に小さな案内板がある。別荘地の中を左にカーブする道路を進むとそれ以上は車では進めなくなり、最後の別荘の前を徒歩で進むと、50mほどで、2番目の案内板が右側に目に入る。ここを右に折れて、50mほどゆるい坂道を登ったところに訪ねる石碑がある。

三笠通りからの分岐点にある案内(2019.5.21 撮影)

同拡大(2019.5.21 撮影)

2番目の案内板(2019.5.21 撮影)

緩やかな登り道を進む(2019.5.21 撮影)

登り切った平坦地に2基の石碑がある(2019.5.21 撮影)

有島武郎終焉地碑(2019.5.21 撮影)

同拡大(2019.5.21 撮影)

説明パネル(2019.5.21 撮影)
中央部に設置されている説明パネルには次のように書かれていて、石碑にはこの詩文が刻まれているとあるが、これは石碑の右側面(向かって左側)に刻まれているもので、とても分かりにくく見過ごしてしまいそうである。この詩は吹田順助著「葦の曲」の中の「混沌の沸乱」からの一節という。
『昭和28年、有島終焉の地”浄月庵”跡にこの碑が建てられました。この浄月庵とは、旧三笠ホテル近く有島武郎の別荘があったところで、大正12年6月9日、この別荘で愛人波多野秋子と共に自ら生命を絶ったのでした。
有島生馬の筆により次の詩文が刻まれています。
大いなる可能性 エラン・ヴィタル 社会の心臓(*エラン・ヴィタルとは生命の飛躍の意。)
さういふ君は 死んじゃった!運命の奴め 凄い事を しやあがったな!」
この碑の他に、「チルダへの友情の碑」が英文で同地にあります。』

石碑の右側面に刻まれている詩文(2019.5.21 撮影)

同拡大(2019.5.21 撮影)
また、石碑の裏面には長方形のくぼみがあって、ここには有島生馬による次の文章が刻まれているというが、こちらも今はほとんど読み取ることができない。
大正十二年六月九日早暁 浄月庵に滅す
武郎行年四十六才 波多野秋子三十才
昭和二十六年夏 有島生馬書

石碑の裏面(2019.5.21 撮影)
ここにあるもう一つの石碑「チルダへの友情の碑」は、有島武郎がスイスのシャフハウゼンの、ホテル・シュヴァネンの娘チルダ・ヘック嬢に宛てた手紙の内容の一部を英文で刻んだもので、次の英文が刻まれている。
Takeo to Tilda
Tokyo March 15th 1919
How is our friendship
pure+noble+deep.
Is there annother such
friendship on earth?
Tilda, let us keep it dear.
Let us carry it dear
to our tomb.
Tilda 1953

「チルダへの友情の碑」(2019.5.21 撮影)

2基の石碑を見る(2019.5.21 撮影)
この軽井沢・三笠の地は武郎の妹・愛の嫁ぎ先である山本家が三笠ホテルの経営者であったという縁もあって、武郎の父・武が選んだものであったようだ。
この有島武郎の心中に関して、代表作である「カインの末裔」、「惜しみなく愛は奪う」、「生れ出ずる悩み」、「一房のぶどう」などを知る身としてはとても違和感を覚えるのであるが、当時の受け止め方はどうであったか、「有島武郎集・現代日本文学大系35」(1970年 筑摩書房発行)に掲載されている、作家・広津和郎氏の「有島武郎の心中」から少し引用してみると次のようである。
「有島武郎氏の例の心中問題については、もう世間の所謂(いわゆる)論者達の議論は、大体出切ってしまったことと思う。私は一々読んでみなかったからどういう名批評があったかは知らないが、併(しか)し大体に於いては、頗(すこぶ)る評判が好かったようだった。・・・相当の知識のある連中でも、『死ぬという事はよくよくの事だ。その死を敢(あえ)て決行したのだから、生きている連中の考えるようなものではない。もっと尊敬すべきものだ』といったようなところに、結局落ちていったようだった。・・・無論その通りだ。よくよく考えたものに違いない。苦悩したに違いない。煩悶したに違いない。それは有島武郎でなくとも、新宿や吉原で心中したものでも、隅田川に飛び込んだものでも、浅間山に飛び込んだものでも、みんな『よくよく考えたものに違いない』。
けれども・・・よくよく考えて死ぬ人間もいれば、よくよく考えて生きている人間もいれば、又よくよく考えずに死ぬ人間もいれば、よくよく考えずに生きている人間もいる。
それだからこの『よくよく』などは双方から差引いてしまわないと、物事がこんがらかってくる。こんがらかって来るから、はっきりした事が解らなくなって来る。・・・
『心中』を道徳的に、又論理的に否定する連中までが、やはりその言葉の端で、有島氏の『死』が『よくよく考えた末の思い詰めたもの』であることに、変な敬意を払っている、そいつが、どうも読んでいて擽(くすぐ)ったい。・・・
僕には『心中した有島氏』が特に厳粛とも思われないし、平生生きていた時分の有島氏とそう変わったものに思われない。表面の事実は異常であっても、内面の心的意味は特に異常と思われない。・・・
やっぱり武郎は死んだって不思議はなかったのだし、武郎氏としてはその他に生きる道がなかったのだろう、と云って差支えないように思う。そういう意味は、氏の『心中』を是認したという意味ではない。僕自身の主観的な気持からいえば、僕は氏の『心中』に少しも賛成しない。・・・
恋人の良人から金をよこせと言われた時、氏は『自分は自分の恋人を金に換えることはできない』ときっぱりと言い放ったそうだ。そして『寧(むし)ろ警視庁に行って、姦通の罪を着よう』と云ったそうだ。ここに、氏の面目躍如たるものがある。氏はこんな風に真実だった。そして実にこの程度のそして段階のみの『真実』しか持合わせていなかった。それだから、結局死んだって無理はないと云うのである。・・・
平然として相手の男に金を払う。・・・そこまで氏には到底達する事が出来なかった。それは氏の生きていた間に書いたものを読めばよく解る。達することが出来なかったと云って、別に非難するわけには行かない。と同時に、賛美する気にも尊敬する気にも別段なれない。・・・
愛妻に死に別れた時、再婚を勧めた男に向って、氏は「非凡人」という嘲笑の言葉を以て突撃している。これが、氏の好んだところの「真実」だったのだ。・・・この小さな、狭い「真実」の盲信者が、「最後まで『真実』を追うために死の方へ」行ったということは、決して考えられない事ではない。・・・
僕は武郎氏の「心中」そのものからは別段何の感動も受けなかった。併(しか)し氏のような性格の人が、生きていた間絶えず感じたに違いない内心の苦しい葛藤については、同情を禁じ得ない。」(大正12年11月)
とあり、その行動の是非はともかくとして、現代では考えにくい事であるが、有島武郎の思想や文学からの必然的な帰結であるとしている。
有島武郎の思想背景については、やはり年譜を見ておくべきだろう。同じ「有島武郎集・現代日本文学大系35」からの抜粋であるが、概略を次に示す。
その前に、軽井沢高原文庫に移築された「浄月庵」にも出かけて来たので写真をご覧いただこう。現在、2階部分は有島武郎記念室として公開されていて、1階部分はライブラリーカフェ「一房の葡萄」として利用されている。ただ、この日「一房の葡萄」は閉じられていた。

「浄月庵」は軽井沢高原文庫に移築された(2019.5.21 撮影)

軽井沢高原文庫案内板の拡大(2019.5.21 撮影)

現地に設置されている説明パネル(2019.5.21 撮影)
「浄月庵」の1階部分はライブラリーカフェ「一房の葡萄」として使用されていて、2階は有島武郎記念室として資料が展示されている。

移築された「浄月庵」(2019.5.21 撮影)

有島武郎の情死を伝える当時の新聞各紙(2019.5.21 撮影)

有島武郎の情死を伝える東京日日新聞の記事の一部(2019.5.21 撮影)

有島武郎の辞世の歌の一つを収めた扁額(2019.5.21 撮影)
先日訃報が伝えられた京マチ子さんが主演を務めた映画「或る女」のポスターが貼られていた。有島武郎の長男・俳優の森雅之の名前も見える。

映画化された「或る女」のポスター(2019.5.21 撮影)

道を隔てた軽井沢高原文庫からみた「浄月庵」(2019.5.21 撮影)
では、年譜を見ていこう(年齢は当時の数え方による)。
有島武郎、
・1878年(明治11年)1歳
3月4日、東京市小石川区に、父・武(37歳)、母・幸(25歳)の長男として生まれた。
・1880年(明治13年)3歳
1月2日、妹・愛(長女)出生。
・1881年(明治14年)4歳
神田区表神保町(現・千代田区)に居住。東京女子師範学校付属幼稚園に通った。
・1882年(明治15年)5歳
一家は横浜市月岡町(現・中区老松町)の官舎に移る。11月26日、弟・壬生馬(二男・後に生馬と改称)出生。
・1883年(明治16年)6歳
三月から妹・愛とともに横浜山手居留地のアメリカ人の家庭で英会話を学ぶ。
・1884年(明治17年)7歳
2月27日、妹・シマ(二女)出生。八月から愛とともに山手居留地の横浜英和学校(現・成美学園)に入学。
・1885年(明治18年)8歳
7月15日、弟・隆三(三男)出生(父方の祖母の実家・佐藤家の養子となる)。
・1887年(明治20年)10歳
横浜英和学校を退き、自牧学舎に入り、学習院入学に備えた。9月、神田錦町の学習院予備科第三年級に編入学。寄宿舎に入り、毎土日曜日に横浜に帰った。
・1888年(明治21年)11歳
皇太子明宮嘉仁の学友に選ばれ、毎土曜日に吹上御殿に参上した。7月14日、弟英夫(四男、後の里見弴、山内家の養子となる)出生。
・1890年(明治23年)13歳
9月、学習院中等科に進む。
・1892年(明治25年)15歳
横浜の旧友を訪ねた時、中年寡婦の誘惑を受けて逃れたが、このことは非常な悪影響を残した。
・1893年(明治26年)16歳
父・武が大蔵大臣・渡辺国武と政案意見対立し、国債局長を辞職、鎌倉材木座に隠棲した。武郎は愛とともに麴町の家で母方の祖母・山内静の世話を受け、克己一心のきびしいしつけを受けた。
・1896年(明治29年)19歳
学習院中等科卒業。9月、札幌農学校予科5年に編入学。同校教授・新渡戸稲造の官舎に寄留。毎朝稲造の行っていたバイブル・クラスに加わる。
・1897年(明治30年)20歳
5月初旬から隔日に曹洞宗中央寺にて参禅。7月予科五年終了、本科に進む。夏季休暇に帰京、増田英一とともに内村鑑三を訪問。父・武が武郎の将来に備えて狩太の農場を入手。12月6日、妹・愛が山本直良と結婚。
・1899年(明治32年)22歳
森本厚吉と定山渓に行き、死を覚悟したが思いとどまる。これを機縁にキリスト教入信を決意、家人の反対を受ける。
・1901年(明治34年)24歳
1月、帰京して内村鑑三を訪問、3月24日、独立教会に入会。12月1日、一年志願兵として第一師団歩兵第三聯隊に入営。
・1902年(明治35年)25歳
11月30日、除隊、予備見習士官となる。
・1903年(明治36年)26歳
1月、新渡戸稲造から皇太子明宮嘉仁の輔育者に推挙の内談があったが断わる。5月21日、妹・シマが高木喜寛と結婚。7月、稲造から児玉内相の秘書官に勧められたが、これも断る。このころ稲造の姉・河野象子の娘・信子を知る。8月15日、森本厚吉とともに米国留学の途につく。9月、ペンシルヴァニア州ハ―ヴァフォド大学の大学院に入学。経済・歴史を専攻し、日本文明をテーマとする。11月、アーサー・クローウェルの家をアポンデールに訪ね、その妹・フランセスを知る。
・1904年(明治37年)27歳
2月、日露開戦、深く憂慮しキリスト教信仰を懐疑しはじめる。6月「日本文明の発展-神話時代から将軍家の滅亡まで」を提出し、M・Aの学位を得る。9月29日、ハーバード大学選科入学、歴史・経済を専攻。社会主義者金子喜一を知り、カウツキー、エンゲルスの著作を読む。
・1906年(明治39年)29歳
4月、阿部三四の恋愛事件に関わり、短銃で脅かされ極度の神経衰弱に陥る。9月1日、ニューヨーク港を発ち、13日、ナポリで壬生馬と落ち合い、二人でヨーロッパを歴訪。11月17日、スイスのシャフハウゼンに到着、ホテル・シュヴァネンの娘チルダ・ヘックを知る。
・1907年(明治40年)30歳
ひとりロンドンに行き、図書館に通う。2月、ロンドン郊外にクロポトキンを訪問、幸徳秋水への手紙を託される。8月、北海道に赴く。9月1日、予備見習士官として歩兵第三聯隊に入隊、三カ月間勤務。その間、壬生馬の友人・志賀直哉の恋愛事件の調停にあたる。自身も河野信子との結婚を父に反対され、心に痛手を受けた。10月東北帝国大学農科大学(9月昇格の札幌農学校の改称)の英語講師となる。
・1908年(明治41年)31歳
1月、学長付主事。社会主義研究会を続ける。狩太(かりぶと)の農場が武郎名義となる。4月、大学予科教授。6月、陸軍歩兵少尉(予備役)となる。8月、帰京し、9月、陸軍少尉・神尾光臣次女・安子と婚約。
・1909年(明治42年)32歳
3月、東京にて神尾安子と結婚。妹・愛の長男・山本直正の病気見舞いに自筆絵入り翻案童話「燕と王子」を書き送る。
・1910年(明治43年)33歳
4月、『白樺』創刊、弟の壬生馬、里見弴とともに同人参加。札幌独立教会を退会。
・1911年(明治44年)34歳
1月13日、長男・行光(森雅之)出生。8月20日、皇太子来道の際、北海道庁から危険人物として大学に警告あり、拝謁を拒絶された。
・1912年(明治45年/大正元年)35歳
7月17日、次男・敏行出生。
・1913年(大正2年)36歳
8月、新居に移転。12月23日、三男・行三出生。
・1914年(大正3年)37歳
4月、狩太の94町歩の土地(第二農場と呼称)を買収、農場総面積は439町歩となる。9月下旬、妻・安子肺結核発病。11月下旬、一家帰京し、安子を鎌倉に転地させた。
・1915年(大正4年)38歳
2月、安子を平塚の杏雲堂病院に入院させた。3月下旬、札幌に行き、農科大学に辞表提出。休職扱い、となる。
・1916年(大正5年)39歳
8月、妻・安子死去(享年28歳)。12月4日、父・武が胃癌のため死去(享年)75歳。父と妻の死が転機となり、本格的に文学の道に打ちこむようになる。与謝野晶子を知る。
・1917年(大正6年)40歳
6月、「惜しみなく愛は奪う」、7月、「カインの末裔」、などを次々に発表し、文名にわかに挙がる。8月、「クララの出家」などを続いて発表。4月、有島武郎著作集第一輯『死』を新潮社から出版。12月、著作集第二輯『宣言』を新潮社から出版。同月23日、遺産の一部を弟妹に分配。このころ、神近市子と交際あり。父の遺志として、鹿児島平佐村の田地八反余、畑地五反を平佐村に贈った。
・1918年(大正7年)41歳
1月、「小さき者へ」を発表。2月、著作集第三輯『カインの末裔』を新潮社から出版。3月、「生まれ出づる悩み」を『大阪毎日新聞』に連載したが病気のため中絶。4月、著作集第四輯『反逆者』を、6月、著作集第五輯『迷路』を新潮社から出版。著作集第六輯『生まれ出づる悩み』を叢文閣から出版。10月、三日から五日間、牛込横寺町の芸術倶楽部にて芸術座研究劇として島村抱月・松井須磨子により「死と其の前後」上演。著作集第七輯『小さき者へ』を叢文閣から刊行。
・1919年(大正8年)42歳
2月、「松井須磨子の死」を発表。3月、著作集第八輯『或る女』前編を叢文閣から出版。5月、朝日新聞社入社を断る。6月、著作集第九輯『或る女』後編を叢文閣から出版。8月7日、軽井沢の夏季大学課外講演でホイットマンを講じた。12月、著作集第十輯『三部曲』を叢文閣から出版。
・1920年(大正9年)43歳
6月、著作集第十一輯『惜しみなく愛は奪ふ』を叢文閣から出版。このころ河上肇、倉田百三を知る。同月「信濃日記」を、八月「一房の葡萄」を発表。11月、著作集第十二輯『旅する心』を叢文閣から出版。12月、「運命の訴へ」を書いたが未完、創作力衰える。
・1921年(大正10年)44歳
4月、著作集第十三輯『小さな灯』を叢文閣から出版。年末、秋田雨雀・藤森成吉・宮島資夫とともに大阪での露国飢饉救済募金講演会に加わったが、官憲の妨害にあって帰京。この時のことを書いた「旅」を『中央公論』に送ったが掲載されなかった。
・1922年(大正11年)45歳
4月、このころ牛込区原町(現・新宿区)の借家に移り、生活革命の実行に踏み切る。5月、著作集第十四輯『星座』を叢文閣から出版。6月、童話集「一房の葡萄」を叢文閣から出版。7月中旬、北海道に赴き、狩太の有島農場の解放を宣言する(同地の有島農場解放記念碑建立は大正13年9月12日、「有限責任狩太共生農団」の発足は13年7月15日)。このころから『婦人公論』記者・波多野秋子と親しくなる。著作集第十五輯『芸術と生活』を叢文閣から出版。12月12日、所蔵する書籍・書画を公売に付した。
・1923年(大正12年)46歳
新聞に麴町下六番町の千二百坪の邸宅の売却広告を出す。3月、四谷南寺町の借家に移る。6月7日、波多野秋子との関係を足助素一に告白、9日早暁、軽井沢三笠山の別荘浄月庵にて秋子と心中。7月7日、遺体発見。9日、麹町の本邸で告別式、青山墓地に埋葬(後に多摩墓地に改葬)された。11月、著作集第十六輯『ドモ又の死』が叢文閣から出版された。」(山田昭夫編より抜粋)
年譜を見ていると、有島武郎と北海道とのつながりの深さがわかる。北海道のニセコ町(1964年に狩太から町名変更)には、現在有島記念館が建てられているが、そのHPの概要の項を見ると、記念館建設の経緯が次のように記されている。
「武郎は自身の思想から農場所有に疑問を抱いており、父の没後の1922年(大正11年)、農場を小作人全員の共有として無償解放することを宣言した。それは、武郎の没する前年であった。・・・しかし、1949年(昭和24年)、占領軍による農地改革の対象となり、農団は解散し、農地はそれぞれの持ち分に従って私有地となった。後に、旧場主の恩に報いるために『有島謝恩会』が設立され、旧農場事務所に武郎や旧農場の資料を保存・展示した。しかし昭和32年(1957年)5月失火による火災により旧農場事務所とともにこの記念館は焼失。幸いなことに収蔵品の殆どは無事搬出され、昭和38年(1963年)7月、有島謝恩会が中心となり、再建運動がおこり、募金により、1階がレンガ造、2階が木造の2階建ての有島記念館が再建された。やがて、管理上の問題や会館の老朽化に伴い、有島武郎生誕百年を記念して町による新しい記念館が建設されることになり、有島謝恩会が保存していた農場の資料の収蔵品が町建設の新記念館に寄託され、昭和53年(1978年)4月、その資料を継承し、設立されたのが有島記念館である。」
有島記念館とその周辺の写真を見ると、軽井沢とは異なり、背後に羊蹄山が見える明るく開けた立地である。地元の人たちが有島武郎に寄せる思いもまた軽井沢のそれとは随分違っているだろうと思う。
しかし、この農地を小作人に開放するといった自らの思想を実践する姿勢や潔さには、軽井沢での心中とつながるものを感じる。
武郎の文学忌は作品「星座」にちなんで星座忌と名づけられていて、6月9日の武郎の命日には、今年も有島記念館で星座忌コンサートが企画されている。

2019.6.9 星座忌コンサートの案内(有島記念館HPより)
有島武郎については、前出の文士たちとの交流の話は聞かない。軽井沢との縁という点では、1916(大正5)年に父・武の死後譲り受けた軽井沢三笠の別荘に初めて訪れてからは、ほぼ毎年のように避暑に訪れている。代表作の一つとされる『生まれ出る悩み』はこの別荘で執筆された。そのほか軽井沢を舞台にした作品に『小さき影』や『信濃日記』などがある。また軽井沢の夏季大学で2度、講演を行っている。
しかし、何よりも有島武郎と軽井沢を結び付けているのは、氏が終焉の地に軽井沢を選んだことである。1923(大正12)年6月9日、別荘「浄月庵」で武郎は愛人の波多野秋子と、情死したのであった。現在、三笠の別荘跡には有島武郎終焉地の石碑があり、別荘自体は中軽井沢の軽井沢高原文庫に移築され、その一角は茶房「一房の葡萄」として現在も使用されている。

明治・大正期に生まれ活躍した文士と、その中の有島武郎(赤で示す)と、これまでに紹介した室生犀星、堀辰雄、立原道造、正宗白鳥と津村信夫(橙で示す)
妻と私が軽井沢に移住してくる前に、2年間の期間限定で鎌倉に住んでいたことがあったが、その頃、月に2度くらいのペースで、鎌倉のレストランや居酒屋に出かけていた。
あるとき、小町通りの少し裏手にある居酒屋風の店に入って飲んでいたところ、若い店主が、自分は有島生馬の孫ですと話してくれた。店の壁には、確かに有島生馬ゆかりの書などが飾られていた。
有島生馬といえば、有島武郎の弟で、画家であるが、有島武郎が軽井沢にゆかりのある人とは、当時はまだ知らなかった。軽井沢に移住してからは、様々な機会に三笠別荘地に有島武郎の終焉の地があると見聞きすることが多くなっていたが、今回初めて現地を訪れた。
石碑の場所は:旧軽井沢のロータリーを三笠通りに進み、カラマツ並木を過ぎて、旧三笠ホテルの少し手前の道を右に入るが、この入り口の角に小さな案内板がある。別荘地の中を左にカーブする道路を進むとそれ以上は車では進めなくなり、最後の別荘の前を徒歩で進むと、50mほどで、2番目の案内板が右側に目に入る。ここを右に折れて、50mほどゆるい坂道を登ったところに訪ねる石碑がある。

三笠通りからの分岐点にある案内(2019.5.21 撮影)

同拡大(2019.5.21 撮影)

2番目の案内板(2019.5.21 撮影)

緩やかな登り道を進む(2019.5.21 撮影)

登り切った平坦地に2基の石碑がある(2019.5.21 撮影)

有島武郎終焉地碑(2019.5.21 撮影)

同拡大(2019.5.21 撮影)

説明パネル(2019.5.21 撮影)
中央部に設置されている説明パネルには次のように書かれていて、石碑にはこの詩文が刻まれているとあるが、これは石碑の右側面(向かって左側)に刻まれているもので、とても分かりにくく見過ごしてしまいそうである。この詩は吹田順助著「葦の曲」の中の「混沌の沸乱」からの一節という。
『昭和28年、有島終焉の地”浄月庵”跡にこの碑が建てられました。この浄月庵とは、旧三笠ホテル近く有島武郎の別荘があったところで、大正12年6月9日、この別荘で愛人波多野秋子と共に自ら生命を絶ったのでした。
有島生馬の筆により次の詩文が刻まれています。
大いなる可能性 エラン・ヴィタル 社会の心臓(*エラン・ヴィタルとは生命の飛躍の意。)
さういふ君は 死んじゃった!運命の奴め 凄い事を しやあがったな!」
この碑の他に、「チルダへの友情の碑」が英文で同地にあります。』

石碑の右側面に刻まれている詩文(2019.5.21 撮影)

同拡大(2019.5.21 撮影)
また、石碑の裏面には長方形のくぼみがあって、ここには有島生馬による次の文章が刻まれているというが、こちらも今はほとんど読み取ることができない。
大正十二年六月九日早暁 浄月庵に滅す
武郎行年四十六才 波多野秋子三十才
昭和二十六年夏 有島生馬書

石碑の裏面(2019.5.21 撮影)
ここにあるもう一つの石碑「チルダへの友情の碑」は、有島武郎がスイスのシャフハウゼンの、ホテル・シュヴァネンの娘チルダ・ヘック嬢に宛てた手紙の内容の一部を英文で刻んだもので、次の英文が刻まれている。
Takeo to Tilda
Tokyo March 15th 1919
How is our friendship
pure+noble+deep.
Is there annother such
friendship on earth?
Tilda, let us keep it dear.
Let us carry it dear
to our tomb.
Tilda 1953

「チルダへの友情の碑」(2019.5.21 撮影)

2基の石碑を見る(2019.5.21 撮影)
この軽井沢・三笠の地は武郎の妹・愛の嫁ぎ先である山本家が三笠ホテルの経営者であったという縁もあって、武郎の父・武が選んだものであったようだ。
この有島武郎の心中に関して、代表作である「カインの末裔」、「惜しみなく愛は奪う」、「生れ出ずる悩み」、「一房のぶどう」などを知る身としてはとても違和感を覚えるのであるが、当時の受け止め方はどうであったか、「有島武郎集・現代日本文学大系35」(1970年 筑摩書房発行)に掲載されている、作家・広津和郎氏の「有島武郎の心中」から少し引用してみると次のようである。
「有島武郎氏の例の心中問題については、もう世間の所謂(いわゆる)論者達の議論は、大体出切ってしまったことと思う。私は一々読んでみなかったからどういう名批評があったかは知らないが、併(しか)し大体に於いては、頗(すこぶ)る評判が好かったようだった。・・・相当の知識のある連中でも、『死ぬという事はよくよくの事だ。その死を敢(あえ)て決行したのだから、生きている連中の考えるようなものではない。もっと尊敬すべきものだ』といったようなところに、結局落ちていったようだった。・・・無論その通りだ。よくよく考えたものに違いない。苦悩したに違いない。煩悶したに違いない。それは有島武郎でなくとも、新宿や吉原で心中したものでも、隅田川に飛び込んだものでも、浅間山に飛び込んだものでも、みんな『よくよく考えたものに違いない』。
けれども・・・よくよく考えて死ぬ人間もいれば、よくよく考えて生きている人間もいれば、又よくよく考えずに死ぬ人間もいれば、よくよく考えずに生きている人間もいる。
それだからこの『よくよく』などは双方から差引いてしまわないと、物事がこんがらかってくる。こんがらかって来るから、はっきりした事が解らなくなって来る。・・・
『心中』を道徳的に、又論理的に否定する連中までが、やはりその言葉の端で、有島氏の『死』が『よくよく考えた末の思い詰めたもの』であることに、変な敬意を払っている、そいつが、どうも読んでいて擽(くすぐ)ったい。・・・
僕には『心中した有島氏』が特に厳粛とも思われないし、平生生きていた時分の有島氏とそう変わったものに思われない。表面の事実は異常であっても、内面の心的意味は特に異常と思われない。・・・
やっぱり武郎は死んだって不思議はなかったのだし、武郎氏としてはその他に生きる道がなかったのだろう、と云って差支えないように思う。そういう意味は、氏の『心中』を是認したという意味ではない。僕自身の主観的な気持からいえば、僕は氏の『心中』に少しも賛成しない。・・・
恋人の良人から金をよこせと言われた時、氏は『自分は自分の恋人を金に換えることはできない』ときっぱりと言い放ったそうだ。そして『寧(むし)ろ警視庁に行って、姦通の罪を着よう』と云ったそうだ。ここに、氏の面目躍如たるものがある。氏はこんな風に真実だった。そして実にこの程度のそして段階のみの『真実』しか持合わせていなかった。それだから、結局死んだって無理はないと云うのである。・・・
平然として相手の男に金を払う。・・・そこまで氏には到底達する事が出来なかった。それは氏の生きていた間に書いたものを読めばよく解る。達することが出来なかったと云って、別に非難するわけには行かない。と同時に、賛美する気にも尊敬する気にも別段なれない。・・・
愛妻に死に別れた時、再婚を勧めた男に向って、氏は「非凡人」という嘲笑の言葉を以て突撃している。これが、氏の好んだところの「真実」だったのだ。・・・この小さな、狭い「真実」の盲信者が、「最後まで『真実』を追うために死の方へ」行ったということは、決して考えられない事ではない。・・・
僕は武郎氏の「心中」そのものからは別段何の感動も受けなかった。併(しか)し氏のような性格の人が、生きていた間絶えず感じたに違いない内心の苦しい葛藤については、同情を禁じ得ない。」(大正12年11月)
とあり、その行動の是非はともかくとして、現代では考えにくい事であるが、有島武郎の思想や文学からの必然的な帰結であるとしている。
有島武郎の思想背景については、やはり年譜を見ておくべきだろう。同じ「有島武郎集・現代日本文学大系35」からの抜粋であるが、概略を次に示す。
その前に、軽井沢高原文庫に移築された「浄月庵」にも出かけて来たので写真をご覧いただこう。現在、2階部分は有島武郎記念室として公開されていて、1階部分はライブラリーカフェ「一房の葡萄」として利用されている。ただ、この日「一房の葡萄」は閉じられていた。

「浄月庵」は軽井沢高原文庫に移築された(2019.5.21 撮影)

軽井沢高原文庫案内板の拡大(2019.5.21 撮影)

現地に設置されている説明パネル(2019.5.21 撮影)
「浄月庵」の1階部分はライブラリーカフェ「一房の葡萄」として使用されていて、2階は有島武郎記念室として資料が展示されている。

移築された「浄月庵」(2019.5.21 撮影)

有島武郎の情死を伝える当時の新聞各紙(2019.5.21 撮影)

有島武郎の情死を伝える東京日日新聞の記事の一部(2019.5.21 撮影)

有島武郎の辞世の歌の一つを収めた扁額(2019.5.21 撮影)
先日訃報が伝えられた京マチ子さんが主演を務めた映画「或る女」のポスターが貼られていた。有島武郎の長男・俳優の森雅之の名前も見える。

映画化された「或る女」のポスター(2019.5.21 撮影)

道を隔てた軽井沢高原文庫からみた「浄月庵」(2019.5.21 撮影)
では、年譜を見ていこう(年齢は当時の数え方による)。
有島武郎、
・1878年(明治11年)1歳
3月4日、東京市小石川区に、父・武(37歳)、母・幸(25歳)の長男として生まれた。
・1880年(明治13年)3歳
1月2日、妹・愛(長女)出生。
・1881年(明治14年)4歳
神田区表神保町(現・千代田区)に居住。東京女子師範学校付属幼稚園に通った。
・1882年(明治15年)5歳
一家は横浜市月岡町(現・中区老松町)の官舎に移る。11月26日、弟・壬生馬(二男・後に生馬と改称)出生。
・1883年(明治16年)6歳
三月から妹・愛とともに横浜山手居留地のアメリカ人の家庭で英会話を学ぶ。
・1884年(明治17年)7歳
2月27日、妹・シマ(二女)出生。八月から愛とともに山手居留地の横浜英和学校(現・成美学園)に入学。
・1885年(明治18年)8歳
7月15日、弟・隆三(三男)出生(父方の祖母の実家・佐藤家の養子となる)。
・1887年(明治20年)10歳
横浜英和学校を退き、自牧学舎に入り、学習院入学に備えた。9月、神田錦町の学習院予備科第三年級に編入学。寄宿舎に入り、毎土日曜日に横浜に帰った。
・1888年(明治21年)11歳
皇太子明宮嘉仁の学友に選ばれ、毎土曜日に吹上御殿に参上した。7月14日、弟英夫(四男、後の里見弴、山内家の養子となる)出生。
・1890年(明治23年)13歳
9月、学習院中等科に進む。
・1892年(明治25年)15歳
横浜の旧友を訪ねた時、中年寡婦の誘惑を受けて逃れたが、このことは非常な悪影響を残した。
・1893年(明治26年)16歳
父・武が大蔵大臣・渡辺国武と政案意見対立し、国債局長を辞職、鎌倉材木座に隠棲した。武郎は愛とともに麴町の家で母方の祖母・山内静の世話を受け、克己一心のきびしいしつけを受けた。
・1896年(明治29年)19歳
学習院中等科卒業。9月、札幌農学校予科5年に編入学。同校教授・新渡戸稲造の官舎に寄留。毎朝稲造の行っていたバイブル・クラスに加わる。
・1897年(明治30年)20歳
5月初旬から隔日に曹洞宗中央寺にて参禅。7月予科五年終了、本科に進む。夏季休暇に帰京、増田英一とともに内村鑑三を訪問。父・武が武郎の将来に備えて狩太の農場を入手。12月6日、妹・愛が山本直良と結婚。
・1899年(明治32年)22歳
森本厚吉と定山渓に行き、死を覚悟したが思いとどまる。これを機縁にキリスト教入信を決意、家人の反対を受ける。
・1901年(明治34年)24歳
1月、帰京して内村鑑三を訪問、3月24日、独立教会に入会。12月1日、一年志願兵として第一師団歩兵第三聯隊に入営。
・1902年(明治35年)25歳
11月30日、除隊、予備見習士官となる。
・1903年(明治36年)26歳
1月、新渡戸稲造から皇太子明宮嘉仁の輔育者に推挙の内談があったが断わる。5月21日、妹・シマが高木喜寛と結婚。7月、稲造から児玉内相の秘書官に勧められたが、これも断る。このころ稲造の姉・河野象子の娘・信子を知る。8月15日、森本厚吉とともに米国留学の途につく。9月、ペンシルヴァニア州ハ―ヴァフォド大学の大学院に入学。経済・歴史を専攻し、日本文明をテーマとする。11月、アーサー・クローウェルの家をアポンデールに訪ね、その妹・フランセスを知る。
・1904年(明治37年)27歳
2月、日露開戦、深く憂慮しキリスト教信仰を懐疑しはじめる。6月「日本文明の発展-神話時代から将軍家の滅亡まで」を提出し、M・Aの学位を得る。9月29日、ハーバード大学選科入学、歴史・経済を専攻。社会主義者金子喜一を知り、カウツキー、エンゲルスの著作を読む。
・1906年(明治39年)29歳
4月、阿部三四の恋愛事件に関わり、短銃で脅かされ極度の神経衰弱に陥る。9月1日、ニューヨーク港を発ち、13日、ナポリで壬生馬と落ち合い、二人でヨーロッパを歴訪。11月17日、スイスのシャフハウゼンに到着、ホテル・シュヴァネンの娘チルダ・ヘックを知る。
・1907年(明治40年)30歳
ひとりロンドンに行き、図書館に通う。2月、ロンドン郊外にクロポトキンを訪問、幸徳秋水への手紙を託される。8月、北海道に赴く。9月1日、予備見習士官として歩兵第三聯隊に入隊、三カ月間勤務。その間、壬生馬の友人・志賀直哉の恋愛事件の調停にあたる。自身も河野信子との結婚を父に反対され、心に痛手を受けた。10月東北帝国大学農科大学(9月昇格の札幌農学校の改称)の英語講師となる。
・1908年(明治41年)31歳
1月、学長付主事。社会主義研究会を続ける。狩太(かりぶと)の農場が武郎名義となる。4月、大学予科教授。6月、陸軍歩兵少尉(予備役)となる。8月、帰京し、9月、陸軍少尉・神尾光臣次女・安子と婚約。
・1909年(明治42年)32歳
3月、東京にて神尾安子と結婚。妹・愛の長男・山本直正の病気見舞いに自筆絵入り翻案童話「燕と王子」を書き送る。
・1910年(明治43年)33歳
4月、『白樺』創刊、弟の壬生馬、里見弴とともに同人参加。札幌独立教会を退会。
・1911年(明治44年)34歳
1月13日、長男・行光(森雅之)出生。8月20日、皇太子来道の際、北海道庁から危険人物として大学に警告あり、拝謁を拒絶された。
・1912年(明治45年/大正元年)35歳
7月17日、次男・敏行出生。
・1913年(大正2年)36歳
8月、新居に移転。12月23日、三男・行三出生。
・1914年(大正3年)37歳
4月、狩太の94町歩の土地(第二農場と呼称)を買収、農場総面積は439町歩となる。9月下旬、妻・安子肺結核発病。11月下旬、一家帰京し、安子を鎌倉に転地させた。
・1915年(大正4年)38歳
2月、安子を平塚の杏雲堂病院に入院させた。3月下旬、札幌に行き、農科大学に辞表提出。休職扱い、となる。
・1916年(大正5年)39歳
8月、妻・安子死去(享年28歳)。12月4日、父・武が胃癌のため死去(享年)75歳。父と妻の死が転機となり、本格的に文学の道に打ちこむようになる。与謝野晶子を知る。
・1917年(大正6年)40歳
6月、「惜しみなく愛は奪う」、7月、「カインの末裔」、などを次々に発表し、文名にわかに挙がる。8月、「クララの出家」などを続いて発表。4月、有島武郎著作集第一輯『死』を新潮社から出版。12月、著作集第二輯『宣言』を新潮社から出版。同月23日、遺産の一部を弟妹に分配。このころ、神近市子と交際あり。父の遺志として、鹿児島平佐村の田地八反余、畑地五反を平佐村に贈った。
・1918年(大正7年)41歳
1月、「小さき者へ」を発表。2月、著作集第三輯『カインの末裔』を新潮社から出版。3月、「生まれ出づる悩み」を『大阪毎日新聞』に連載したが病気のため中絶。4月、著作集第四輯『反逆者』を、6月、著作集第五輯『迷路』を新潮社から出版。著作集第六輯『生まれ出づる悩み』を叢文閣から出版。10月、三日から五日間、牛込横寺町の芸術倶楽部にて芸術座研究劇として島村抱月・松井須磨子により「死と其の前後」上演。著作集第七輯『小さき者へ』を叢文閣から刊行。
・1919年(大正8年)42歳
2月、「松井須磨子の死」を発表。3月、著作集第八輯『或る女』前編を叢文閣から出版。5月、朝日新聞社入社を断る。6月、著作集第九輯『或る女』後編を叢文閣から出版。8月7日、軽井沢の夏季大学課外講演でホイットマンを講じた。12月、著作集第十輯『三部曲』を叢文閣から出版。
・1920年(大正9年)43歳
6月、著作集第十一輯『惜しみなく愛は奪ふ』を叢文閣から出版。このころ河上肇、倉田百三を知る。同月「信濃日記」を、八月「一房の葡萄」を発表。11月、著作集第十二輯『旅する心』を叢文閣から出版。12月、「運命の訴へ」を書いたが未完、創作力衰える。
・1921年(大正10年)44歳
4月、著作集第十三輯『小さな灯』を叢文閣から出版。年末、秋田雨雀・藤森成吉・宮島資夫とともに大阪での露国飢饉救済募金講演会に加わったが、官憲の妨害にあって帰京。この時のことを書いた「旅」を『中央公論』に送ったが掲載されなかった。
・1922年(大正11年)45歳
4月、このころ牛込区原町(現・新宿区)の借家に移り、生活革命の実行に踏み切る。5月、著作集第十四輯『星座』を叢文閣から出版。6月、童話集「一房の葡萄」を叢文閣から出版。7月中旬、北海道に赴き、狩太の有島農場の解放を宣言する(同地の有島農場解放記念碑建立は大正13年9月12日、「有限責任狩太共生農団」の発足は13年7月15日)。このころから『婦人公論』記者・波多野秋子と親しくなる。著作集第十五輯『芸術と生活』を叢文閣から出版。12月12日、所蔵する書籍・書画を公売に付した。
・1923年(大正12年)46歳
新聞に麴町下六番町の千二百坪の邸宅の売却広告を出す。3月、四谷南寺町の借家に移る。6月7日、波多野秋子との関係を足助素一に告白、9日早暁、軽井沢三笠山の別荘浄月庵にて秋子と心中。7月7日、遺体発見。9日、麹町の本邸で告別式、青山墓地に埋葬(後に多摩墓地に改葬)された。11月、著作集第十六輯『ドモ又の死』が叢文閣から出版された。」(山田昭夫編より抜粋)
年譜を見ていると、有島武郎と北海道とのつながりの深さがわかる。北海道のニセコ町(1964年に狩太から町名変更)には、現在有島記念館が建てられているが、そのHPの概要の項を見ると、記念館建設の経緯が次のように記されている。
「武郎は自身の思想から農場所有に疑問を抱いており、父の没後の1922年(大正11年)、農場を小作人全員の共有として無償解放することを宣言した。それは、武郎の没する前年であった。・・・しかし、1949年(昭和24年)、占領軍による農地改革の対象となり、農団は解散し、農地はそれぞれの持ち分に従って私有地となった。後に、旧場主の恩に報いるために『有島謝恩会』が設立され、旧農場事務所に武郎や旧農場の資料を保存・展示した。しかし昭和32年(1957年)5月失火による火災により旧農場事務所とともにこの記念館は焼失。幸いなことに収蔵品の殆どは無事搬出され、昭和38年(1963年)7月、有島謝恩会が中心となり、再建運動がおこり、募金により、1階がレンガ造、2階が木造の2階建ての有島記念館が再建された。やがて、管理上の問題や会館の老朽化に伴い、有島武郎生誕百年を記念して町による新しい記念館が建設されることになり、有島謝恩会が保存していた農場の資料の収蔵品が町建設の新記念館に寄託され、昭和53年(1978年)4月、その資料を継承し、設立されたのが有島記念館である。」
有島記念館とその周辺の写真を見ると、軽井沢とは異なり、背後に羊蹄山が見える明るく開けた立地である。地元の人たちが有島武郎に寄せる思いもまた軽井沢のそれとは随分違っているだろうと思う。
しかし、この農地を小作人に開放するといった自らの思想を実践する姿勢や潔さには、軽井沢での心中とつながるものを感じる。
武郎の文学忌は作品「星座」にちなんで星座忌と名づけられていて、6月9日の武郎の命日には、今年も有島記念館で星座忌コンサートが企画されている。

2019.6.9 星座忌コンサートの案内(有島記念館HPより)
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