軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

同窓会とノーベル賞

2020-01-03 00:00:00 | 日記
 同窓会はどれも大切なものであるが、中でもいつも楽しみにしている2つの同窓会がある。それは学生時代の始まりの小学校と最後の大学のものである。この二つの同窓会はこのところ、ほぼ年1回のペースで開催されている。

 今年は10月に小学校の同窓会があり、卒業時のクラスメート50人中15人が集まった。60歳の還暦を機に再開したこの同窓会であるが、その初年度の参加者は24名であった。しかし、このところ徐々に参加者が減ってきている。

 大学の方は、卒業30周年を記念して大阪で同窓会を開催した。この時の参加者は、卒業時の人数56人中30人ほどであった。その後、関東周辺在住者だけでほぼ毎年継続して同窓会を開催してきており、昨年は50周年と言うことで再び大阪での開催になった。今回の参加者は16名と少なくなっていたし、この間に2名の仲間を失っている。

 今年の同窓会は皆の希望もあり2日にわたり行われ、初日は午後から食事会、2日目は午前中からのスタートで、母校を訪問してキャンパスの見学会と、現役の教授から最近の研究についての話題を聞くことになった。

 初日の食事会は、冒頭今年亡くなったH君とN君への黙とうから始まり、各自からの近況報告などがあり3時間はまたたく間に過ぎていった。我々の年になると、どうしても健康のこととリタイア後の日々の生活のことなどが話題になる。


16名が参加した同窓会風景(2019.11.12 撮影)

 2日目の母校のキャンパス訪問では、私は都合で午前中だけの参加になったが、しばらくぶりの訪問であったので、耐震補強のため外観が大きく変化してしまった研究棟や、以前は空き地であったところをほとんど埋め尽くしてしまった新校舎や、その1階部分にオープンしているコンビニなどに、いちいち驚きながらの見学ツアーになった。

 研究棟のロビーには来客用の種々の展示物が用意されており、大型表示装置を用いた施設概要の案内も行われていた。構内の随所に全体地図と現在地を示した案内板があり、とても分かりやすいように配慮されている。

 また以前はなかった博物館も、統合された隣接地にある学校の校舎を利用してできており、大学のこれまでの研究活動のあゆみを示す様々な品が整理・展示されていた。その中には湯川秀樹博士や南部陽一郎博士などノーベル物理学賞を受賞した、大学に縁のあった先生方に関連する展示物も見られた。


色づいたイチョウ並木の下を歩く(2019.11.13 撮影)


各所に設置されている構内案内板(2019.11.13 撮影)

 見学はまず我々が学んだ基礎工学部からスタートした。当時も今もそうだと思うが、基礎工学部とはどのような学部なのか、理学部、工学部がある中で、さらに基礎工学部を設立する理由は何だったのかが話題になる。

 それについては、発足当時の学部長・正田健次郎先生の、基礎工学という新学部に寄せる考えがプレートに残されていて、次のようである。

 「科学と技術の融合による科学技術の根本的な開発 それにより人類の真の文化を創造する学部」

 我々も在学中からこの言葉を胸に刻んでいた。

 基礎工学部のロビーには正田健次郎先生のレリーフが、上の言葉と共に残されている。


正田健次郎初代学部長のレリーフ(2019.11.13 撮影)


正田健次郎初代学部長の言葉を刻んだプレート(2019.11.13 撮影)


基礎工学部の設立当時の建物模型(2019.11.13 撮影)


建物模型の説明を受ける(2019.11.13 撮影)


ロビーには大型液晶モニターを用いて情報提供がされている(2019.11.13 撮影)

 次に案内していただいた理学部の建物には、湯川秀樹博士と南部陽一郎博士ゆかりの部屋が残されていた。


理学部建物入り口(2019.11.13 撮影)


湯川秀樹博士についての解説パネル 1/2(2019.11.13 撮影)


湯川秀樹博士についての解説パネル 2/2(2019.11.13 撮影)

 1949年のノーベル賞受賞の年、湯川博士はコロンビア大学(New York, USA)の客員教授になった。その時湯川博士が居室で愛用していた黒板はその後、T.D.Lee 教授(1957年 ノーベル賞受賞)が使用していたが、2014年、建物の改修工事に伴い、コロンビア大学の協力のもと大阪大学大学院理学研究科に移設され、現在この部屋に設置されている。


湯川秀樹博士が使用した黒板(2019.11.13 撮影)

 南部陽一郎博士に関しては、博士の名前を冠したホールがある。


南部陽一郎ホールとその入り口に設けられている説明展示品とパネル(2019.11.13 撮影)


説明パネル(2019.11.13 撮影)


ノーベル賞関連の記念メダルなどの品々(2019.11.13 撮影)


大阪大学との繋がりについて書かれた説明パネル(2019.11.13 撮影)

 南部博士が使用していた部屋は保存されていて、今回特別に中に入れていただけた。部屋にはデスク、本棚、テーブル、ホワイトボードなどが博士がここにいらした当時そのままの様子で残されていた。


南部陽一郎博士の部屋を示すプレート(2019.11.13 撮影)


南部陽一郎博士の居室に特別にいれていただいた(2019.11.13 撮影)


南部陽一郎博士のデスク(2019.11.13 撮影)
 

南部陽一郎博士の部屋にあるホワイトボード(2019.11.13 撮影)


廊下にあったコロキウムの案内掲示(2019.11.13 撮影)


廊下の掲示されていた南部陽一郎博士のノーベル賞についての解説パネル(2019.11.13 撮影)

 いかにも理学部らしいフーコーの振り子がロビーに設置されていた。これはご存知の通り、フーコーがガリレオの唱えた地動説を目に見える形で示したものである。


理学部のロビーに設置されているフーコーの振り子(2019.11.13 撮影)

 理学部の前から、緩やかな坂道を登りながら経済学部、文学部の裏を通る道を進んだ。在学当時はまだ整備されていなかったこの道であるが、右側には以前はなかった石碑が2基目にとまった。最初の石碑は、正田健次郎先生の記念植樹時のもので、もう一基は新学部設立の趣意文を刻んだものであった。


記念の石碑:正田健次郎先生記念の梅(2019.11.13 撮影)

 基礎工学部校舎のロビーで見た初代学部長の正田健次郎先生の学部設立の趣意文が、ここにも石碑に刻まれていた。ちなみに、正田健次郎先生は美智子上皇后の叔父に当たる。在学中は指導教授から折に触れてそのことが話されていたことを思い起こした。


記念の石碑:基礎工学部設立の趣意文(2019.11.13 撮影)

 校舎の中を通り抜け、クラブ活動の拠点となっていた部室が並ぶ建物を懐かしく見ながら、教養時代の講義室があったイ号館に向かった。この建物は現在「大阪大学会館」になっている。
 

教養時代の講義室があったイ号館は大阪大学会館になっている(2019.11.13 撮影)

 通学路を駅に向かって逆方向に歩いて行くと、見慣れない青年の像が目に入る。傍らの説明文によるとこの像は2010年に夢童由里子氏により制作されたブロンズ製で、「旧制浪速高等学校学生像『友よ我らぞ光よと』」と名付けられているものであった。


青年の像(2019.11.13 撮影)


青年の像の説明パネル(2019.11.13 撮影)


青年の像の説明パネル(2019.11.13 撮影)

 この像を過ぎて少し先に行くと脇道に通じる分岐があり、雑木林の中を進むことができる。これも以前にはなかったものであり、隣接地にかつてあって、現在は大阪大学に統合されている看護学校の敷地につながっている。林を過ぎたところには「大阪大学総合学術博物館」があった。建物は看護学校のものを利用しているものであった。


新たに博物館ができていた(2019.11.13 撮影)


博物館の玄関ホールには「待兼ワニ」のレプリカが出迎える(2019.11.13 撮影)

 館内には、大阪大学の歴史に関する展示と、大阪大学で行われた学術研究の歴史にまつわる展示が行われていた。内部は撮影が禁止されていたので、ロビーの写真だけの紹介である。

 当日は、特別展として卒業生の一人である元サントリー社長の佐治敬三氏に関する展示が行われており、ロビーにはその関連で、同社開発品の「青いバラ」が展示されていた。


卒業生の佐治敬三さんの特別展にちなむサントリーが開発した青いバラ(2019.11.13 撮影)

 この日の見学会は午後にも予定されていたが、別な予定があり、私だけ一足先にみんなと別れて帰ることになっていた。ランチに向かう仲間に見送られながら帰途についた。


友人に見送られて一足先に帰路についた(2019.11.12 撮影)

 帰りの新幹線の車中、50年前の学生時代のことをあれこれ思い出していた。今回の母校訪問で、2人のノーベル物理学賞受賞者が母校と縁があったことを確認したのであったが、我が同窓生の中には、学生当時、将来ノーベル賞を取るんだと言っていたNさんがいたことを思い出した。今でこそ、多くの日本人ノーベル賞受賞者を輩出するに至っているが、当時はといえば物理学賞の湯川秀樹、朝永振一郎両博士と文学賞の川端康成氏がいただけで、ノーベル賞は全く雲の上の夢のような話、大学で物理学を学んでいても、ノーベル賞が目標になるなどという考えを持ったことはまるで無かったので、当時友人のその言葉を聞いた時にはいささか驚いたのであった。

 しかし、湯川博士と朝永博士に続いたその後のノーベル物理学賞、あるいは化学賞の受賞理由を見ていると、我々が学んだ物性物理学に縁の深い内容が次第に見られるようになってきていることに気がつく。

 古くは、1973年の江崎玲於奈博士の物理学賞受賞があるが、その受賞理由は「半導体におけるトンネル効果の実験的発見」であった。新しいところでは、2014年の中村修二、赤崎勇、天野浩ら3博士の物理学賞受賞があり、その受賞理由は「高輝度で省電力の白色光源を可能にした青色発光ダイオードの発明」であった。また、今年2019年の吉野彰博士の化学賞受賞理由は「リチウムイオン二次電池の開発」であった。

 ノーベル賞は目指して得られるようなものではもちろんないが、Nさんがそうした目標を持ち、研究開発に取り組んでいたことは素晴らしいことだと今は思える。

 今年、他の2名と共にノーベル化学賞を受賞した吉野彰博士の受賞を知り、その受賞の理由を新聞紙上で読み取ろうとしたが、「リチウムイオン二次電池の負極材料の開発」とあるだけで、実態がよく把握できなかった。そこで、ノーベル財団のプレスリリースを探しそれを読んでようやく理解できた。

 その受賞理由には次のように書かれていた。文章の後に示されている3つの図は、今回共同受賞した3人がそれぞれ開発したリチウムイオン電池の構造を示している。

 「They created a rechargeable world

The Nobel Prize in Chemistry 2019 rewards the development of the lithium-ion battery. This lightweight, rechargeable and powerful battery is now used in everything from mobile phones to laptops and electric vehicles. It can also store significant amounts of energy from solar and wind power, making possible a fossil fuel-free society.

Lithium-ion batteries are used globally to power the portable electronics that we use to communicate, work, study, listen to music and search for knowledge. Lithiumion batteries have also enabled the development of long-range electric cars and the storage of energy from renewable sources, such as solar and wind power.

The foundation of the lithium-ion battery was laid during the oil crisis in the 1970s. Stanley Whittingham worked on developing methods that could lead to fossil fuel-free energy technologies. He started to research superconductors and discovered an extremely energy-rich material, which he used to create an innovative cathode in a lithium battery. This was made from titanium disulphide which, at a molecular level, has spaces that can house – intercalate – lithium ions.

The battery’s anode was partially made from metallic lithium, which has a strong drive to release electrons. This resulted in a battery that literally had great potential, just over two volts. However, metallic lithium is reactive and the battery was too explosive to be viable.

John Goodenough predicted that the cathode would have even greater potential if it was made using a metal oxide instead of a metal sulphide. After a systematic search, in 1980 he demonstrated that cobalt oxide with intercalated lithium ions can produce as much as four volts. This was an important breakthrough and would lead to much more powerful batteries.

With Goodenough’s cathode as a basis, Akira Yoshino created the first commercially viable lithium-ion battery in 1985. Rather than using reactive lithium in the anode, he used petroleum coke, a carbon material that, like the cathode’s cobalt oxide, can intercalate lithium ions.
The result was a lightweight, hardwearing battery that could be charged hundreds of times before its performance deteriorated. The advantage of lithium-ion batteries is that they are not based upon chemical reactions that break down the electrodes, but upon lithium ions flowing back and forth between the anode and cathode.

Lithium-ion batteries have revolutionised our lives since they first entered the market in 1991. They have laid the foundation of a wireless, fossil fuel-free society, and are of the greatest benefit to humankind.」 


WhittinghamsBattery(ウィッティンガム博士の発明したリチウムイオン電池の構造)


GoodenoughsBattery(グッドイナフ博士の発明したリチウムイオン電池の構造)


YoshinosBattery(吉野博士の発明したリチウムイオン電池の構造)

 ノーベル賞の対象となる研究開発が、我々が大学で学んでいた物性物理学ととても近いところにあることを実感できる内容であり、正田健次郎先生の次の言葉を改めて思いおこした一日であった。

 『科学と技術の融合による科学技術の根本的な開発 それにより人類の真の文化を創造する学部』


 

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