軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

雷電くるみの里

2018-03-09 00:00:00 | 信州
 軽井沢から小諸・上田方面に行く時や、長野方面に出かけるため高速道路に乗るまでの間を利用するのに便利で、かつ国道18号よりも一段高い高原地帯を走っているため、とても眺望の良い道路に「浅間サンライン」がある。この道路は信濃追分の追分別去近くで国道18号から分岐し、上田市までを結んでいるバイパスで、正式名称は浅間山麓広域農道であり、1993年に全区間が開通している。

 この道路の小諸インター入口の少し先の道路沿いに、「雷電くるみの里」という道の駅があって、長野市や新潟の上越方面に出かけるときにはたいていここに立ち寄り、少し買い物をしてから東部湯の丸インターで高速道路に乗るようにしている。


道の駅「雷電くるみの里」(2018.3.4 撮影)

 この道の駅では、名称通りクルミを使った商品が多く販売されている。この辺りではクルミの木が多く、クルミの生産量が多いためである。

 先日の日曜日に、今回のブログ用の撮影に出かけた時、一人一回のだけの無料「クルミ掴み」のイベントが行われていたので挑戦してみたところ、私が12個、妻が8個掴むことができた。私達よりも先にこれに挑戦した同年齢のご婦人は8個掴むことができたのだが、そのすぐ後で私が12個掴んだものだから、「指が長くてずるい!」と叫んでいた。

 この道の駅の建物内にはクルミについて説明したボードが掲げられていて、次のように書かれている。

 --胡桃 「クルミの世界」 Walnut--
「クルミは高木性の落葉樹で、ヨーロッパ、アジア、南北アメリカの温帯地域に分布しており、およそ15種類といわれています。
 このうちオニグルミとヒメグルミは日本原産の野生種で、河川に沿って自生しているものが多く、古くから食用され、現在も料理や菓子に利用されています。
 一方、世界各国で果樹として営利栽培されているのは、ペルシャクルミとその変種です。原産地は西アジア一帯、かつてのペルシャ地方からヨーロッパ東南部までの広い範囲です。
 栽培は紀元前の古代メソポタミア文明と共に周辺に広がり、東回りはシルクロードを経て中国に伝わり、江戸時代頃日本に伝来し、テウチグルミ(カシグルミ)の名で栽培されるようになりました。
 また、西回りでヨーロッパ各地に伝わったものは、栄養価が高いことから”生命の樹”として盛んに栽培され、新大陸発見と共にアメリカへ持ち込まれ、大生産地に発展しました。
 日本へは明治時代、通商のため訪れた欧米人がペルシャクルミ(セイヨウクルミ)を持参し、避暑に訪れた軽井沢で、地元の人に与えたことが栽培の始まりです。
 これが発端となって、長野県東部で集団栽培が始まり、在来のカシグルミと交配した新種のシナノグルミ (信濃胡桃)を誕生させました。さらに苗木も全国に発送を始め、この地は日本のクルミ栽培の中心地として発展し「くるみの里」と呼ばれるようになりました。
 世界にはこの栽培種のほかにも独特のクルミがあり、各国で利用されています。」とある。


日本原産の野生種オニグルミ(2018.3.4 撮影)

 説明には「日本原産で殻の表面に溝や突起があり、ゴツゴツしていることから、オニグルミ(鬼胡桃)と言います。全国に自生していて殻果の形は多様ですが、独特の風味が喜ばれ、昔から食用されています。中には自然に殻の開く種類があり、名付けて栽培もされています。」とある。


日本原産の野生種ヒメグルミ(2018.3.4 撮影)

 説明には「日本原産で殻の表面がなめらかで、ハート形のやさしい形からヒメグルミ(姫胡桃)と言います。オニグルミと混じって自生していて、殻果の形も多様ですが、昔から食用されています。中には自然に殻の開く種類があり、改良され名付けて栽培もされています。」とある。


セイヨウクルミとカシグルミの交配種シナノグルミ(2018.3.4 撮影)

 説明には「地球を東西に分かれ伝播したカシグルミとペルシャグルミが、長野県東部でめぐりあい交配されました。その中から大粒で殻の薄い優良品種が誕生し、シナノクルミ(信濃胡桃)と名付けられました。日本生まれの栽培推奨品種で、世界に誇れるクルミです。」とある。

 さて、この「道の駅」の名称のもう一方の雷電についてであるが、「雷電」とはもちろん江戸時代の力士「雷電為右衛門」のことである。建物の入り口付近に地元東御市出身の竹内不忘作の大きな銅像が建てられていて、周りを圧している。そして、建物の一角には「雷電資料館」が設けられていて、力士雷電に関する貴重な資料が展示されている。物産販売所や食堂は混雑していたが、この資料館を訪れる人はあまりいない。

 
竹内不忘作・雷電立像(2018.3.4 撮影)


雷電資料館の入り口(2018.3.4 撮影) 

 雷電為右衛門は1767年(明和4年)、信濃国小県郡大石村(現東御市滋野)に父半右衛門、母けんの長男として生まれ、幼名を太郎吉と称した。幼いころから怪力の持ち主であったが、この噂をきいた隣村・千曲川の対岸の庄屋・上原源五右衛門方が1781年(天明1年)、太郎吉14歳の時に引き取って寄宿させ、道場「石尊の辻」で学問と相撲を教えた。

 そんな折、1783年(天明3年)の浅間山の大噴火が起きた。このため全国的に大飢饉となり、ちょうど北陸巡業中の浦風一門一行の力士たちが、上原源五右衛門の元で長らく逗留することとなり、太郎吉との運命的な出会いがあった。

 翌1784年(天明4年)17歳で、浦風の門人となり、当時江戸で第一人者だった谷風梶之助の預かり弟子となり、初土俵までの6年間を谷風の元で過ごしている。

 このころの力士は各大名のお抱えであったが、太郎吉の力と技と学徳の傑出しているところを見てとり、また推挙もあって1788年(天明8年)21歳の時に雲州松江藩主、松平治郷(不昧公)に召し抱えられることとなった。そして、翌1789年(寛政元年)雲州力士の四股名を冠し「雷電為右衛門」となった。22歳の時のことである。

 ちなみに、雷電という四股名の力士は歴史上この為右衛門のほかにも8人いるとされる。雷電為右衛門はその中で7番目で、後には1790年代(寛政)の雷電灘之介(明石藩)と明治初期の雷電震右衛門がいる。

 雷電為右衛門は1790年(寛政2年)23歳の時に、江戸本場所西の関脇で初土俵し、8勝2預かりで鮮烈なデビューをしたとされる。横綱小野川を投げるも「預り」(注:物言いのついたきわどい勝負で、あえて勝敗を決めない場合に適用)となっている。

 1795年(寛政7年)には大関に昇進し、その後16年(27場所)の長きにわたり大関の地位を保持し、1811年(文化8年)45歳で引退するまでに254勝10敗14預り、9割6分2厘という勝率をあげた。資料館には大関雷電の名前の記された1797年(寛政9年)三月場所の大相撲番付が展示されている。


1797年(寛政9年)三月場所の大相撲番付(2018.3.4 撮影)

 この資料館では雲州松江藩主、松平治郷(不昧公)より拝領した雷電所用の化粧まわし(レプリカ)がまず目を引く。


松平不昧公より拝領した雷電所用の化粧まわしのレプリカ、外国製の臙脂色の別珍製生地に金糸で稲妻模様を刺繍している(2018.3.4 撮影)

 また、雷電は身長197cm、体重188kg(注:いつの体重かは不明、これとは別に初土俵時には169kgであったとの数字がある)であったとされるが、その雷電の体格を示す図や、長さが約23.5cmあったとされる手形などが展示されていて、雷電の実像を感じとることができる。

 雷電の身長と体重とを現役の力士と比べてみると次の図のようになり、現代の力士と比較しても、非常に大きいことが実感される。ちなみに、ここでは身長が2mを超えているのは琴欧州ただ一人である。


雷電の身長・体重(赤で示す)と現代の力士との比較(筆者作成) 


雷電の手形(2018.3.4 撮影、左は筆者)

 雷電にまつわる逸話は、信濃の民話集、「信州の民話伝説集成」(和田 昇編集 2006年 一草舎発行)にも2題採り上げられている。「雷電の力持ち」と「」雷電と陳景山」である。

 雷電の力持ちの話は、資料館にも絵物語として展示されているが、「ある夏、母が庭で風呂に入っていたところ、急に雷鳴をともなう激しい夕立がやってきた。太郎吉は、母を風呂桶ごとかかえて、家の中に運び込んだ」という話である。

 民話集には出ていないが、この絵物語にはもうひとつある、「細く険しい碓氷峠の山道を荷を積んだ馬をひいてきたところ、加賀百万石の殿様の行列に出会ってしまった。狭い道、よけることもできず困った太郎吉は、荷を積んだ馬の足を持って目よりも高くさしあげ、無事行列をお通しし、『あっぱれじゃ。』と殿様からお褒めにあずかった」という話である。この後者については、以前どこかで聞いたような気がするが、思い出せないでいる。


雷電と同じ滋野出身の寺島武郎氏の描いた「雷電の一生」から、③風呂桶を抱える太郎吉(2018.3.4 撮影)


雷電と同じ滋野出身の寺島武郎氏の描いた「雷電の一生」から、④馬を抱え行列を通す(2018.3.4 撮影)

 民話集に出てくるもう一つの話は、陳景山との飲み比べの話である。「長崎巡業において、中国の学者で『李白の再来』と噂された酒豪『陳景山』と飲酒対決を行った。一斗飲んで陳景山がダウンした後、雷電はさらに一斗を飲み干し、高下駄をつっかけて宿へ帰った。陳は雷電の酒豪ぶりに脱帽し、自筆の絵や書を贈ったと伝えられている」というものである。


陳景山が贈ったとされる掛け軸(レプリカ)、雷電の生家(再建)に飾られている(2018.3.4 撮影)

 ところで、現役時代の雷電の輝かしい成績にもかかわらず、横綱になることはなかった。当時の相撲番付の最高位は大関で、横綱の地位は強豪力士への称号として肥後熊本藩の細川家に仕える吉田司家から与えられた。同時代の横綱には谷風梶之助(第四代横綱 仙台藩)と小野川喜三郎(第五代横綱 久留米藩)がいた。

 この二人の横綱に続いて現われ、強さにおいては二人を凌駕していたとされる雷電に横綱が与えられなかったのは、不思議というほかないのであるが、その背景には、当時の大名家の関係があったのではとされる。「吉田司家を抱える細川公と雷電を抱える松平不昧公の相撲をめぐる確執を考えると、薄々想像がつく」との話が紹介されている(両国大相撲殺人事件 風野真知雄著 大和書房発行)。

 第七代横綱稲妻雷五郎は雲州藩のお抱えであったが、吉田司家から正式に横綱を授与されたのは、松平不昧公(1751年~1818年)没後の1830年のことであった。また、第八代横綱不知火諾右衛門は雲州藩から肥後藩に、第九代横綱秀ノ山雷五郎は雲州藩から盛岡藩に転向後横綱免許を授与されている。

 同じ雲州藩であった雷電と稲妻のことをうたった次の川柳がある。

 ・・・雷電と稲妻雲の抱えなり・・・

 大関を引退した後の雷電は松江藩相撲頭取に任ぜられ、引退後も巡業では相撲を取っていたとされる。晩年の雷電は妻八重の生地、下総国臼井(現千葉県佐倉市)で永く暮らしていたが、1825年(文政8年)2月に江戸四ツ谷伝馬町本宅で妻にみとられながら59歳の生涯を閉じた。遺骨は、江戸赤坂三分坂の松江藩ゆかりの報土寺に葬られ、遺髪は、故郷の大石村、松江市西光寺に分葬されたと伝わる。また、妻・八重の郷土である千葉県佐倉市臼井台の浄行寺跡地には、雷電自身と妻子の墓があるとされる。

 雷電くるみの里からほど近い場所に、再建された雷電の生家や墓、石碑を見ることができる。


東御市教育委員会監修によるパンフレット記載の「雷電ゆかりの地マップ」


雷電の生家(2018.3.4 撮影)

 出世した雷電は、1798年(寛政十年)に生家を改築しているが、その後183年が経過し老朽化したため、1982年(昭和57年)に復元し永く保存しようとの気運が盛り上がり、地元および同郷の寄付により1984年(昭和59年)12月に復元を完成している。内部の土間には稽古土俵があり二階の桟敷席から相撲ぶりが観覧できるようになっている。


生家内の稽古土俵(2018.3.4 撮影)


故郷大石村の関家墓地の雷電の墓(2018.3.4 撮影) 

 雷電の法名は雷聲院釋関高為輪信士である。雷電の墓の右手前にあるのは、こよなく酒を愛した父半右衛門のために雷電が建てたもので、台座には枡、本体が酒樽に盃を伏せた独特の形状をしている。ここには雷電の力にあやかろうという参詣者が絶えないという。
 

雷電の石碑、正面の南面するものが新碑、右にある西面するものが旧碑(2018.3.4 撮影)

 雷電の没後、旧北国街道牧家一里塚のかたわらに、雷電の徳をしのんで建てられたという石碑を今も見ることができる。この碑は雷電の妹の子・関義行の求めに応じた松代藩士・佐久間象山が碑文を自らしたため、1861年(文久元年)に建立された。

 碑を欠き取り身に付けると、立身出世するとか勝負事に勝つとか強い子が授かるというような俗信により、碑面が全体に欠き取られ、碑文が読めなくなってしまったため、象山の未亡人と象山門下の勝海舟・山岡鉄舟や多くの関係者により、1895年(明治28年)に新碑が建てられ、その後道路工事に伴い現在の場所に移されたとされる。

 碑文には、雷電が禁じられたという手が三つあったことが記されている。「張り手」「かんぬき」「突っ張り」のことである。これを使えば必ず相手に怪我をさせるからというので封じられた。それでも雷電は今なお破られることのない、歴代最高の記録を残している。

 碑文全文は次のとおりである。


石碑・雷電顕彰碑の碑文拓本(2018.3.4 雷電資料館にて撮影)


石碑・雷電顕彰碑の碑文現代語訳(2018.3.4 雷電資料館にて撮影) 


自ら雷電のために文を選び字を書いた佐久間象山(2018.3.4 雷電資料館にて撮影)
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