軽井沢からの通信ときどき3D

移住して7年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

あんずの里と森将軍塚

2021-04-09 00:00:00 | 日記
 今は市町村合併で名前が千曲市になっているが、それ以前の旧・更埴市の「あんずの里」はとても有名で、もうずいぶん前からその名前を聞き知っていた。その後、高速道路ですぐそばをしばしば通過していたものの、下りて訪れてみる機会はなかなか来なかった。

 数年前に、何かの折に思い立って更埴ICで下りて現地に行ったことがあったが、この時は開花情報をきちんと調べて行かなかったので、花はもう終わっていた。

 今回、妻がSNSであんずの里の開花情報を得て、見ごろを迎えていることを知り、それではと急遽出かけてきた。

 軽井沢から長野方面に出る場合は、浅間サンラインを利用して東部湯の丸ICから高速に乗るようにしているが、いつもの通り途中「道の駅・雷電くるみの里」に立ち寄った。ここには「第66回あんずまつり」のパンフレットが置いてあった。期間は3/27~4/11とある。また、脇には開花情報の掲示があり、「5分咲き」となっていた。


あんずまつりのパンフレット

 このパンフレットの地図を参考に、更埴IC経由で現地に向かった。地図には絶景ポイントとして上平展望台(花さか村)という場所が書かれていて、北アルプス、戸隠連峰、善光寺平一望とあり、さらにすぐそばには樹齢300年の在来種も見られるとのことで、先ずここを目指して車を走らせた。

 現地附近に到着して、道路わきにあんずの木が見えるようになってくると、道幅も狭くなって、周辺には駐車禁止の立て札が見えるようになり、目的地の展望台脇の私設駐車場に車を停めた。周辺にはいくつもの駐車場が用意されているが、公営駐車場も含めすべて有料で1日500円である。

 この展望台周辺にもあんずの木が多く植えられているが、見るともう満開であった。土産物売り場の建物に併設されている展望台に上ると、眼下にはあんず園が広がっていて、あんずの里の全体が見通せる。この日は黄砂が激しくて空はどんよりと黄ばんだ色になり、パンフレットに書かれていた北アルプスは残念なことに望むべくもなかった。


展望台からのあんずの里(2021.3.30 撮影)

展望台周辺のあんずの木(2021.3.30 撮影)

 ここを離れて道路の反対側の緩い坂道を上るとすぐ右側に大きな木が1本あるが、これが樹齢300年という在来種であった。この木も満開状態で、花の色は白く、周りに植えられているものとは随分違ってみえる。

在来種、樹齢300年というあんずの巨木(2021.3.30 撮影)


あんずの巨木の花(2021.3.30 撮影)


巨木近くの栽培用の木に咲くあんずの花(2021.3.30 撮影)

 当地のあんず栽培の歴史は、元禄時代、伊予宇和島藩主伊達宗利の娘・豊姫が第三代松代藩主真田幸道に嫁いだ際、故郷を偲ぶ品としてあんずの種子を持参したのが始まりとする説がある。

 元禄時代というと、今から約300年前の1688年から1704年頃であるから、このあんずの大木は、当時植えられたものが今日まで生き残っていていたことになる。.

 もともとは中国の山東省、河北省などが原産地とされる「あんず」であるが、国内における歴史は古く弥生時代以降の遺跡からも出土しているという。古い産地は愛媛県、広島県などの瀬戸内地方と、青森県津軽地方とされるから、この古木も前記のように愛媛県からもたらされた種子から成長したものということになるのだろう。

 当地は日本一のあんず生産地で、長野県果樹試験場ではいくつもの品種改良品を産出しているようであり、この古木を過ぎてさらに緩い坂道を登っていくと試験畑があって、ここにはこれまでの果樹園とは一風変わった景色が見られる。次のようである。


試験場に植えられたあんずの木(2021.3.30 撮影)

 よく見ると隣り合った木の枝は曲げられて互いに融合している。これがラインダンスのように見えるのは私だけだろうか。

 しばらく周辺を散策しながらあんずの花を楽しんだ後、昼食の時間になったのでこの場所を離れ、午後にはこれも以前から一度訪ねてみたいと思っていた「森将軍塚古墳」に向かった。

 実は、今回来るまではこの森将軍塚古墳がどういったものか、予備知識はなかった。名前の響きから森氏という名の将軍に関係するものかと思っていたが、考えてみれば森というのはこの地域の名前であった。


更埴ICから「あんずの里」、「森将軍塚古墳」への地図(あんずまつりパンフレットから)

 場所は更埴ICからあんずの里に向かう途中にあり、道路案内板はすでに午前中に見ていたので、昼食後まっすぐその場所に向かった。森将軍塚古墳は小高い丘陵地の上にあるが、その麓には「千曲市森将軍塚古墳館」という施設があり、ここの駐車場に車を止めた。隣接地には別に「長野県立歴史館」というより立派な施設があるが、今回はこちらは割愛することにして、古墳館の方に向かった。

 古墳館の駐車場からさらに上の方にある古墳のある場所まで、徒歩ルートはもちろんあるが、マイカーで上って行くことができるかどうかが気になっていた。古墳館の受付で聞いてみると送迎バスはあるが、マイカーで行くことはできないという。

 古墳館の入場券とセットになっている送迎バス利用券を購入して、バス乗り場に向かった。この日は我々のほかにもう一組の同年輩の夫婦連れだけで、上の方から降りてきたバスは我々4人を乗せてすぐに発車した。2-3分で到着した丘陵の上のバス停は古墳のある場所よりはやや高い所にあり、見学時間は30分程度あれば大丈夫との運転手の言葉に、帰りのバスの発車時刻を決めて予約し、歩き出した。


森将軍塚古墳館周辺地図(同館のパンフレットから)

 目の前の「森将軍塚古墳」は、古墳館でもらったパンフレットによると、前方後円墳であり、4世紀後半、今からおよそ1650年ほど前に作られたもので全長は約100mある。尾根の形に合わせて、前方部と後円部とはやや角度を持って接しており、後円部の形状も円ではなく楕円形になっている。現在の姿は、当時と同じ材料や工法で、築造時の姿に正確に復元整備されているとのことで、古墳の形や大きさ、石の積み方なども当時と同じであるという。


森将軍塚古墳の石碑(2021.3.30 撮影)

森将軍塚古墳(2021.3.30 撮影)

森将軍塚古墳の前方部とその上に置かれている埴輪(2021.3.30 撮影)

森将軍塚古墳の前方部の上から後円部を見る(2021.3.30 撮影)

森将軍塚古墳の後円部の上から見た市街(2021.3.30 撮影)

森将軍塚古墳の後円部から前方部を振り返る(2021.3.30 撮影)

 30分足らずで古墳の見学を終え、迎えに来てくれたマイクロバスで再び古墳館に戻った。

 古墳館には古墳についての解説パネル、古墳模型、ビデオ上映、古墳から発掘された三角縁神獣鏡やヒスイの勾玉・管玉、剣・刀・矢じり・鎌、土器、ガラス小玉などの副葬品や多くの埴輪などの品々の展示と共に、2階の展示室中央には古墳後円部の竪穴式石室が実物大の精密模型で再現されている。大きさは長さ7.6 m、幅2 m、高さ2.3 mと日本最大級であるという。展示室の石室は発掘調査の時に型取りして作られたもので、大半がプラスチックで製作されているというが、とてもよくできていて、石の色や質感は実物と間違えてしまう。


竪穴式石室の実物大精密模型(2021.3.30 撮影)

 館員から、「2階の見学を終えたら、ぜひ1階の展示室もみてください。」と念を押されていたので、その通りにしたが、1階の展示室では思いがけない展示が見られた。ネタバレになるといけないので、これについてはここまでにしておく。

古墳館に展示されている森将軍塚古墳の築造模型(2021.3.30 撮影)

森将軍塚古墳発掘品のガラス小玉をつないだ装飾品(2021.3.30 撮影)

 古墳館の裏側に広がる高台には「科野の里歴史公園」があり、周辺で発掘された古墳時代中期の竪穴式住居、物置小屋、高床倉庫などが復原されていて、見学できる。

森将軍塚古墳館背後の復元された竪穴式住居など(2021.3.30 撮影)


千曲市森将軍塚古墳館と入り口付近にある石碑(2021.3.30 撮影)

 古墳館を出て振り返ると尾根の上の古墳が見える。

 ところで、この「森将軍塚古墳」の名前の「将軍」の由来が気になっていた。私自身はうかつにも「森将軍」という人物がいたと誤解していたのであったが、古墳館のパンフレットによると、地元では「森地籍」にある「偉い人のお墓」という意味で、古くから「森将軍塚」という名称を与えていたそうである。

 前出の地図に示されていたが、この森将軍塚古墳のすぐ南(300mほど)には「有明山将軍塚古墳」がある。また東方と北東方向に少し離れて、「倉科将軍塚古墳」、「土口将軍塚古墳」があってすべてに「将軍塚」の名称が使われている。これら4基の古墳は一括して埴科(はにしな)古墳群として国の史跡に指定されている。

 このほか、森将軍塚古墳の北西方向には同時代の前方後円墳「川柳(せんりゅう)将軍塚古墳」があってやはり「将軍塚」という名称が与えられているが、県内にあるその他の多くの古墳には「将軍塚」は使われていない。


長野県下の主な前方後円(方)墳(2021.3.30 撮影)

 県外はどうかと調べてみると、栃木県、埼玉県、群馬県、大阪府、和歌山県にも以下のように、「将軍塚」と呼ばれる古墳があることが分かる。

○ 栃木県宇都宮市:将軍塚古墳。直径約30m・高さ約2.4m、2段築成の円墳で周溝を備える。

○ 埼玉県東松山市:野本将軍塚古墳。東松山市内野本地区にある現存長115mを測る前方後円墳である。築造年代は、古墳時代前期の4世紀後半の築造と判明している。別名野本1号墳。

○ 群馬県高崎市:元島名(もとしまな)将軍塚古墳。高崎市元島名町にある前方後方墳。高崎市指定史跡に指定されている(指定名称は「将軍塚古墳」)。

○ 大阪府茨木市:将軍塚。この神社は鎌足古廟、将軍塚、将軍山古墳ともいわれている。神社と付いているが、鳥居と碑はあるものの本殿や社務所、摂社などの建築物はなく、石段を登りきった所に将軍塚と呼ばれる古墳だけがある。祭神は藤原鎌足。

○ 和歌山県和歌山市:将軍塚古墳。和歌山市寺内・岩橋にある古墳。形状は前方後円墳。岩橋千塚古墳群(国の特別史跡、うち前山B地区)を構成する古墳の1つ。

 という具合であり、全国に約16万基あるとされる古墳の中でも、「将軍塚」の名を与えられている古墳は極めて少ない。

 ちなみに、文化庁の資料によると各県の古墳数は次のようである( 平成24年度 周知の埋蔵文化財包蔵地より)。

 2019年、世界遺産に登録された大阪府の「百舌鳥・古市古墳群」は「仁徳天皇陵」を擁していてその存在が際立っているが、古墳の数では意外にも兵庫県が18,841基で最大である。

都道府県別の古墳数(上位20位まで、図筆者)

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青天を衝け(2/2)

2021-04-02 00:00:00 | 日記
 佐久市内山地区にある渋沢栄一の詩碑を見学したのち、その足で青木村に向かった。当地には、故小川原辰雄氏が作られ、現在は青木村の管理になっている「信州昆虫資料館」( http://www.vill.aoki.nagano.jp/koncyuu.html )があり、時々でかけて昆虫標本を見たり、関連の資料を閲覧したりしている。

 その行き帰りにはいつも青木村の道の駅にも立ち寄っているが、ここでの情報で五島慶太氏がこの村の出身であることを知っていた。

 先週、新聞の地域面に「青木村で企画展」「渋沢と五島慶太 関係を探る」という見出しの記事を見て、当地に新しく建設された「五島慶太未来創造館」で「『近代日本経済の父』などと呼ばれる渋沢栄一(1840~1931年)と東急グループ創始者、五島慶太(1882~1959年)のつながりを探る企画展『渋沢栄一と五島慶太』が始まった。」ことを知った。

 この企画展では、「70歳を迎えた渋沢が東京の過密問題を解消するために構想した『田園都市構想』に、五島が参加していくプロセスを資料とともに紹介。2人の出会いに阪急電鉄の創始者、小林一三(1873~1957年)が関わっていたことも明らかにされた。渋沢が事業を進め、五島の出身地である青木村に残る米国からの贈り物『青い目の人形シンシア・ウェーン』も展示した。」とされている。

 NHKの大河ドラマ放送開始に合わせて、渋沢の生誕地である埼玉県と深谷市では特別展などが開かれているが、関係する地方でもこうした展示が行われていた。

五島慶太未来創造館で配布されていた埼玉県での特別展のパンフレット

五島慶太未来創造館で配布されていた深谷市の大河ドラマ館のパンフレット

五島慶太未来創造館の特別展のパンフレット

 五島慶太氏本人に関する展示内容については今回は割愛するとして、渋沢と五島の交流について見ていくと、先ず五島の交友の広さが紹介されている。

渋沢栄一をはじめとする人々と五島慶太のつながり(2021.3.10 撮影)

 五島から見ると、渋沢は実業界の大先輩と位置付けられる。実際、ここに挙げられている他の7人の生没年を比較してみても、渋沢との年齢差の大きさが際立っていることが実感できる。上の写真に紹介されている方々の生没年を比較すると次のようである。


五島慶太が出会った渋沢栄一をはじめとした人々とその生没年(筆者作成)

 新聞記事でも紹介されているように、二人の出会いは70歳を迎えた栄一が、東京のまちが抱える問題を解決するための「理想の住宅地」を実現したいと考えたことに始まる。

 明治に入った東京のまちは、近代化とともに人口が集中し、工場や家が密集していった。栄一は、都市部での人口過密状態での生活は、人々の精神や健康、さらには社会に様々な害をもたらすと考え、自然を多く取り入れた住宅地が必要であると考えた。

 この構想のベースにはイギリスのハワード(エべネザー・ハワード;1850.1.29-1928.5.1)が提唱した、職場と住宅が一体となった緑豊かな街を理想とする田園都市論があったとされる。これに対して栄一は、都心から少し離れた郊外に自然豊かで便利な住宅地を作る日本式の田園都市計画を考えた。

 着想から8年後の1918(大正7)年、栄一が78歳の時に、賛同した仲間とともに田園都市株式会社を設立、自身は相談役として会社を支援することとなった。

 「農村と都会を折衷したような」理想のまちづくりの舞台として選ばれたのは、多摩川沿いに豊かな自然が残りつつも、東京都心まで1時間以内の距離にある現在の目黒区洗足や大田区田園調布周辺であった。

 この郊外の住宅地には、都心まで行き来できる交通機関が不可欠であることから、1920(大正20)年に、田園都市株式会社の鉄道部門が、大井町・調布村(現田園調布)間の鉄道敷設免許を獲得した。

 しかし、会社に鉄道の専門家がいなかったため、鉄道の工事は思うように進まなかった。困った栄一は、株主であった矢野に相談し、矢野の紹介で関西で住宅地開発と鉄道経営に成功していた小林一三を頼ったところ、小林は「鉄道院にいた五島慶太に任せてみたらどうか」と提案した。

 当時、五島慶太は、38歳で鉄道院の役人を辞め、私鉄の武蔵電気鉄道を経営していたが、資金不足のため線路の建設は進んでいなかった。

 悩んでいた慶太に、小林一三が「君の武蔵電気鉄道は規模も大きく進めるのは大変だ。まずは渋沢さんの鉄道を引き受け、線路を作り、住宅地を作りなさい。そこで得たお金で、武蔵電気鉄道をやればよい。」と助言した。

 この言葉に背中を押され、慶太は田園都市株式会社の鉄道の経営に参加することになった。1922(大正11)年には鉄道部門を分離し、目黒蒲田鉄道を設立し、鉄道会社として独立させ、自身は専務取締役に就任した。この会社が現在の東急株式会社の礎となる。 


渋沢栄一と五島慶太の略年表(展示資料を参考に筆者作成)


東京横浜鉄道開通時の写真(青木村資料から)

 今回の展示では五島慶太との出会いの他、渋沢栄一と上田市、青木村とのつながりについての展示も行われていた。

 その一つは上田市に1877(明治10)年に設立された第十九国立銀行である。栄一は明治政府で国立銀行条例の制定など日本の金融制度の基礎を築いた後、1873(明治6)年に政府を退き、第一国立銀行を開業した。そして、上田市の第十九国立銀行(後に第十九銀行)の設立計画で栄一が指導、援助したとされる。
 
 江戸末期、明治、大正と上田地域は製糸、養蚕が盛んで長野県の経済をけん引するが第十九銀行は製糸業振興に金融として大きな役割を果たした。1931(昭和6)年、第十九銀行は第六十三銀行と合併し(19+63=82)、八十二銀行となる。


上田市に残る1917(大正6)年5月15日撮影、上田市での渋沢翁講演会 記念写真 成沢別邸にて(現笠原康平様宅)。この写真に写る人物の情報を探していると、書かれている。

 この写真の下には次の説明文が記されている。

「青年時代に藍商として上田地区を訪れていた渋沢栄一。若き日の縁もあり、大正6年(1917)には、上田商工会議所が中心となり、上田劇場で『商業道徳』と題した講演会を開催しました。この写真は、講演会を記念して、上田町の成沢邸にて撮影されたものです。今でも上田地域には、渋沢の自筆の書、書簡、写真など、ゆかりの資料が数多く残されています。」

展示品の藍玉(2021.3.10 撮影)

 青木村には渋沢栄一とのつながりを示すもう一つの品があった。新聞にも紹介されていた米国からの贈り物『青い目の人形シンシア・ウェーン』と付属の『パスポート』である。

 日露戦争が終わった明治末期、日本人移民や満州の問題で日本とアメリカの関係は急速に悪化していた。この状況を心配したアメリカ人の宣教師シドニー・ギュ―リックは、両国の友情のしるしとしてアメリカ人の子供たちから日本の子供たちへ人形を贈ることを思い立ち、渋沢栄一に手紙を送った。

 日米の親善と平和を強く願っていた栄一は、ギュ―リックからの手紙に共感し、日本側の代表としてこの事業を進めていった。

 そして1927(昭和2)年3月、アメリカから約12,000体の「友情人形」(フレンドシップ・ドール)が日本に届けられた。この人形は日本各地に贈られたが、その内の1体が青木村の中学校に残されていた。

 1941(昭和16)年の太平洋戦争により日米関係はさらに悪化、友情人形の多くは敵国のものとして処分されてしまい、現在約300体が確認されるのみという。

 近隣では青木村のほか佐久市・泉小学校に1体と小諸市・東小学校に1体の「青い目の人形」が大切に保管されている。また「埼玉県立歴史と民族の博物館」で行われている展示会においても、埼玉県内に残され、小学校等で大切に保管されている12体の青い目の人形が集合、展示されているという。

アメリカから贈られた青い目の人形「シンシア・ウェーン」(2021.3.10 撮影)


青い目の人形「シンシア・ウェーン」付属のパスポート(2021.3.10 撮影)


渋沢栄一と「青い目の人形」・渋沢が願った日米親善と友情人形(2021.3.10 撮影)

 今回の企画展の会場となった「五島慶太未来創造館」は、2018(平成30)年8月14日、慶太の59回忌の命日に落雷により火災が発生し、建物が全焼したその生家のイメージを再現したものという。

 幸いなことに、生家は2014(平成26)年8月、東京都市大学工学部建築学科勝又研究室によって実測・調査・研究が行われていて、慶太が住んでいた当時の推測復元図と50分の1スケールの模型も製作されていた。     (完)

五島慶太未来創造館の外観(2021.3.10  撮影)




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青天を衝け(1/2)

2021-03-19 00:00:00 | 日記
 今年のNHK大河ドラマの主人公「渋沢栄一」が生まれたのは現在の埼玉県深谷市とされる。最近放映されたドラマでは、その故郷の血洗島村から信州に、その年は害虫被害で思うように収穫出来なかった「藍」の買い付けに行く様子が描かれていた。

 この回の放送を見た時には、いったい信州のどのあたりに、そしてどのようなルートで出かけたのだろうかと漠然と考えていたが、3月に佐久市のフクジュソウを見に出かけた折に立ち寄った「道の駅ヘルシーテラス」に置かれていた観光パンフレットで偶然その答えが得られた。

 
佐久市・佐久市観光協会発行の観光パンフレット

 栄一は現在の国道254号を通り、下仁田を経て佐久市にさらには上田市の方まで出かけていたようである。このルート上にある佐久市内山地区に、上のパンフレットにあるように「渋沢栄一の詩碑」が1940(昭和15)年に建立され今も残されている。

 この詩碑についてはパンフレットに次のように記されている。

 「群馬側から国道254号沿いに車を走らせ、ちょうど奇岩群を見終えたころ、右手に神社の鳥居が見えてきます。その阿夫利(あふり)神社の横の岩肌に、『青天を衝け』の由来となった漢詩が刻まれた詩碑がひっそりとたたずんでいます。この漢詩は渋沢が19歳のころに詠んだものとされ、全文およそ260字。比較的短く、また意味もとりやすいので、全文解読に挑戦してみましょう。なお、この詩碑は1940(昭和15)年に地元有志により建てられました。」
 
 「渋沢と佐久のつながりは、少年期までさかのぼります。13歳のころから生業を担っていた渋沢は、年に4回ほどは信州(長野県)、上州(群馬県)、武州(埼玉県)秩父の得意先を回り、藍玉代の集金や注文取りをしていました。上州から信州への玄関口であった内山峡(内山峠)とそれを越した先の佐久平(佐久盆地)が、渋沢にとって『第二の故郷』であったこともうなづけます。」
 
 ということで、次の地図が示されている。


渋沢栄一の詩碑がある佐久市内山地区の案内図(パンフレットから)



上の地図の部分


 この詩碑に刻まれている漢詩全文は次のようである。

   渋沢青淵先生内山峡之詩
   襄山蜿蜒如波浪西接信山相送
   迎奇険就中内山峡天然崔嵬如
   刓成刀陰耕夫青淵子販鬻向信
   取路程小春初八好風景蒼松紅
   楓草鞋軽三尺腰刀渉桟道一巻
   肩書攀崢嶸渉攀益深険弥酷奇
   巌怪石磊磊横勢衝青天攘臂躋
   気穿白雲唾手征日亭未牌達絶
   頂四望風色十分晴遠近細弁濃
   与淡幾青幾紅更渺茫始知壮観
   存奇険探尽真趣游子行恍惚此
   時覚有得慨然拍掌歎一声君不
   見遁世清心士吐気呑露求蓬瀛
   又不見汲汲名利客朝奔暮走趁
   浮栄不識中間存大道徒将一隅
   誤終生大道由来随処在天下万
   事成於誠父子惟親君臣義友敬
   相待弟与兄彼輩著眼不到此可
   憐自甘払人情篇成長吟澗谷応
   風捲落葉満山鳴
   昭和十五年十一月廿四日建之
      後学 木内敬篤 謹書

 佐久市発行のパンフレットには「比較的短く、また意味もとりやすいので、全文解読に挑戦してみましょう。」とあるが、浅学の私には容易ではない。そこで、渋沢栄一伝記関連資料から次の読み下し文を、また現地には現代語訳を記した説明板が設けられていたので、それぞれここに引用させていただく。

澁澤青淵先生内山峡之詩

襄山(じょうざん)蜿蜒(えんえん)として波浪の如く 西は信山に接して相送迎す
・高い山は蛇のように曲がりくねり波の様である 西は信州の山に接して互いに送迎してくれる
奇険は就中(なかんずく)内山峡 天然の崔嵬(さいかい)けずり成すが如し
・とりわけ珍しく険しいのは内山の峡 天然の高く険しい山は、えぐられてできたようだ
刀陰の耕夫青渕子 販鬻(はんいく)信に向ひて路程を取る
・刀の陰で田畑を耕す私、青淵子 商いのため、信州に向かって行程をとる
小春初八好風景 蒼松紅楓草鞋(そうあい)は軽し
・小春の八日、よい風景である 蒼い松、紅の楓、草鞋の足取りは軽く
三尺の腰刀桟道を渉り 一巻の肩書崢(そう)こうを攀(よ)づ
・三尺の刀を腰に差し、桟道を渉っていく 一巻の書を背負い、険しい山道をよじ登る
渉攀(しょうはん)益々深くして険弥々(いよいよ)酷(きび)しく
・歩き回ること、ますます深くして、険しさはいよいよ過酷となる
奇巌怪石磊々(らいらい)として横(よこた)はる
・奇妙な形をした珍しい岩々が数多く横たわっている
勢は青天を衝き臂(ひじ)を攘(かかげ)て躋(のぼ)り
・勢いは青天を突き刺すようで、うでまくりして登り
気は白雲を穿ち手に唾して征(ゆ)く
・気持ちは白雲を貫き通すようで、手に唾をして行く
日亭未牌(びはい)絶頂に達し 四望の風色十分に晴る
・日は末牌にいたり、頂上に達すれば 四方に望む風景は十分に晴れている
遠近細辧(べん)す濃と淡と 幾青幾紅更に渺茫(びょうぼう)たり
・遠近が細やかに区別できる、濃淡によってである 幾つもの青、幾つもの紅、さらに果てしなく
 広い
始めて知りぬ壮観は奇険に存するを 真趣を探り尽くして遊子行く慨然として掌(しょう)を拍(う)って歎ずること一聲(いっせい)
・初めて知った、壮観が珍しく険しいところにあることを 真の趣を探りつくす、旅人は行く心を
 奮い立たせ手のひらをたたいて感嘆の一声を上げる
君見ずや遁世清心の士 気を吐き露を呑みて蓬瀛(ほうえい)を求むるを
・君は見ないのだろうか煩わしい世間を離れて暮らす清心の士が 気を吐き、露を呑み、神仙が住
 むという蓬瀛の山を求めるのを
又見ずや名利に汲々たるの客 朝に弄り暮に走りて浮栄を趁(お)ふを
・また見ないだろうか、あくせくして名誉や利益を求める客が 朝に向かって夕暮れに走って、は
 かない栄華を追うのを
識らず中間に大道の存するを 徒らに一隅を将って終生を誤つ
・極端ではない所に人の行う正しい道があることを知らずに むなしく社会の片隅で人生をやりそ
 こなう
大道は由来随所に在り 天下万事誠に成る
・人の行う正しい道は、もともと至る所にある 天下のすべてのことは、誠からなる
父子は惟(これ)親(しん)君臣は義 友敬相待つ弟と兄と
・父子の関係は親であり、君臣の関係は義である 愛情と敬意を、互いに持つ弟と兄とは
彼の輩(はい)着眼は此に到らず 憐れむべし自ら甘んじて人情を払うを
・かの輩の着眼はここまで達していない 憐れむべきことだ、自ら人情に払いのけるのを甘んじて
 受け入れることは
篇成りて長吟すれば澗谷(かんこく)応へ 風は落葉を捲いて満山鳴る
・詩が完成し、長き吟じれば谷がそれに応じる 風は落ち葉を巻き上げて、山全体が鳴り響く

  昭和十五年十一月廿四日建立
       後学木内敬篤謹書

 詩碑では7行目に、大河ドラマのタイトルになった「青天を衝け」の出典である「衝青天」の文字が見られる。その部分の読み下し文と現代語訳を並べると次のようである。

【元漢文】勢衝青天攘臂躋
【読み下し文】勢は青天を衝き臂(ひじ)を攘(かかげ)て躋(のぼ)り
【現代語訳】勢いは青天を突き刺すようで、うでまくりして登り

 この詩碑建立の経緯については「渋沢栄一伝記資料」に以下の記述がある。

「内山峡の巌碑除幕式
【内山峡詩碑】
『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年~昭和六年 / 3部 身辺 / 14章 記念事業 / 5 内山峡詩碑 【第57巻 p.866-868】
1940(昭和15)年11月24日(没後9年)
 是日、長野県南・北佐久郡有志により、南佐久郡内山村の岩壁に鑿立せられたる、『渋沢青淵先生内山峡之詩』碑の除幕式挙行せらる。
[ 解説 ] 青年時代、家業の藍販売のため信州、上州、秩父や東京近郊等を訪れていた渋沢栄一は、19歳の折に従兄尾高惇忠(おだか・じゅんちゅう、1830-1901)と『巡信紀詩(じゅんしんきし)』を合作しました。
 栄一他界から9年後の1940(昭和15)年、『巡信紀詩』中の栄一による長詩『内山峡』に感激した信州佐久の小林義助は、地元有志らとともに現地内山峡に栄一の詩碑建立を発願、南佐久郡内山村肬水(いぼみず)の巖壁に詩碑を制作、11月24日に除幕式が挙行されました。
 栄一の嫡孫渋沢敬三は式の前日より佐久に入り、栄一と親交のあった小山邦太郎(こやま・くにたろう、1889-1981)邸に宿泊、翌日は内山峡での式に赴く途上で栄一と懇意であった木内芳軒(きうち・ほうけん、1827-1872)の生家にも立ち寄っています。
 芳軒の外孫木内敬篤は詩碑の手引石に書を寄せて、その由来について『92歳の終生を一貫せる道徳経済合一の大義が既に胚胎せるを知るべく再吟して…その功業徳望の由来するところを感得せずんばあらず因て郷人有志相謀り茲に巖碑を鑿立して仰景の意を致すと云』と記しています。
  なお、1988年刊行の『渋沢栄一碑文集』(博字堂、山口律雄・清水惣之助共編,p57-59)には『内山峡の碑』として碑の拓影、全景写真、長詩全文が紹介されています。」

 さて、詩中にある「奇険就中内山峡」はパンフレットの地図にもあるように、この地方に見られる奇岩群のことである。これらは、荒船山の火山活動によって生まれた溶岩が風化したものとされ、「高谷岩」「お姫岩」「ナポレオン岩」「屏風岩」「ローソク岩」「蓬莱岩」などと名前が見られる。

 以下、詩碑とその周辺の状況を撮影したので紹介して本稿を終わる。


国道254号沿いに建てられた案内板(2021.3.10 撮影)

詩碑が埋め込まれた巨石壁(2021.3.10 撮影)

道路側から見た詩碑(2021.3.10 撮影)

道路側から見た詩碑と詩碑建立の説明のある石碑(右)(2021.3.10 撮影)

詩碑(2021.3.10 撮影)

詩碑(2021.3.10 撮影)

詩碑の説明板(2021.3.10 撮影)

佐久市が設置した詩碑の現代語訳(2021.3.10 撮影)

途中、254号線の内山峠下から見た荒船山(2021.3.10 撮影)

内山峠から見た荒船山(2021.3.10 撮影)


奇岩群の一つの高谷岩(2021.3.10 撮影)


奇岩群の一つ、名称は不明(2021.3.10 撮影)


奇岩群の一つの屏風岩(2021.3.10 撮影後一部修正)


詩碑の横から見た屏風岩(2021.3.10 撮影)

 尚、今回佐久市の広報活動により、この詩碑のことを知ったのであったが、さらに3月9日の読売新聞の地域面記事で青木村の五島慶太未来創造館において、企画展「渋沢と五島慶太」が始まったことを知った。ここにも出かけてきたので別途紹介する。

 





 

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回転する地球儀

2021-02-12 00:00:00 | 日記
 もしガリレオ・ガリレイがこれを見ることができたら、きっと大喜びするに違いない。そんな地球儀の話。

 コロナ禍が始まる前だから、もう1年以上前のことになる。軽井沢駅南のアウトレット・プリンス・ショッピングプラザに出かけ、1軒の店に立ち寄ったときに不思議なものを見かけた。棚に置かれていて、回転する地球儀であった。

 しばらく見ていたが、どうして回転しているのか全く分からなかった。その様子は次のようであった。直径約12cmほどの球体が、3本の支柱の上で静かに回転している。

回転する地球儀  

 店でこの回転する地球儀を見て不思議に思い、帰宅後あれこれ調べてみたところ、光エネルギーと地磁気・重力を利用しているとの記述に行き当たった。

 回転力の元が光エネルギーというのは理解できるものの、地球磁場がどのように関係しているのか分からなかったが、その時はそれ以上調べることもなく、その後忘れてしまっていた。

 その回転する地球儀のビデオを今こうして撮影できるのは、もちろん手元にあるからであり、私が店で熱心にこの回転する地球儀を眺めているのを、傍で見ていた妻が覚えていて、昨年の私の誕生日祝いにプレゼントしてくれたからである。 

 改めて、手元に届いた回転する地球儀を眺めてみたが、とてもよくできている。暗い場所では回転することはないが、室内照明を受けると回転を始める。

 光エネルギーを蓄える機能は持っていないようである。照度によって回転スピードが大きく変化する様子はなく、大体一定の速さで回転しているように見える。

 無粋なこととは思いながらも、この地球儀の回転メカニズムを確認したく、ネット上で再びあれこれ探してみたところ、メーカーが公開している説明文と、購入者がこの地球儀を分解した写真を見ることができた。

 それらから得られる情報を組み合わせ、この回転地球儀の構造と回転メカニズムがようやく理解できた。開発者の中国系アメリカ人 Shaw.Y.Lin 博士が、着想を得てから完成させるまでに7年を要し、特許を取得したとされている。わかってしまえば、簡単な構造であるが、とてもよくできていて、人を驚かせる要素は十分である。

 構成部材と内部構造は次のようである。室内照明のもとで、1分間におよそ2回転する。

【構成部材】
1.外球・・・透明アクリル
2.内球・・・地球画像がプリントされている
3.液体・・・外球と内球の間隙を満たし、内球と等比重の潤滑液体
4.円板・・・内球内部に固定、太陽電池の基板
5.太陽電池・・・弱い外光下でも発電する
6.モーター・・・低速回転モータ、内球に固定
7.モーターの回転軸
8.方位磁石・・・モーターの回転軸に固定

【回転の機構】
 内球は、内部の部材の重量バランスを円盤が水平に、モーターの回転軸が鉛直方向になるように調整されている。 
 外光が外球、液体、内球の表面を通過して太陽電池に到達して、起電力を発生し、モーターを回転させる。内球表面には地球画像がプリントされているが、外光が一部透過するように作られている。
 モーターが(北極から見て)時計まわり方向の回転力を発生するが、方位磁石が常に地球磁場の方向に向こうとするため、モーター本体およびそれに接合している基板、内球全体を反時計方向に回転させる力に変わる。
 その結果、外球をどのように回転させても、内球は常に北極を上に保ち、反時計回りに回転する。
 といった具合である。

回転する地球儀(MOVA™)の内部構造
 
 この地球儀はゆっくりと自転する地球を再現している。

 ところで、この原稿を書き始めている今日は2月3日。本来ならば節分の日であるが、どういうわけか今年の節分は昨日2月2日とのことで、ニュースでも採り上げられていた。

 こうした日本の暦を決めているのは、国立天文台の暦計算室で、毎年2月に翌年分を発表しているという。昨年2月3日に発表された今年の暦は次の様であり、節分は2月2日になっている。


国立天文台・令和3年(2021)暦要項(2020年2月3日発表、12月4日改訂より)
 
 こうした暦に登場する二十四節気や雑節の日が年により変化するのは、地球の公転周期と自転周期の関係によるものであり、1年(太陽年)が365日ピッタリではなく、365.2422日(理科年表による)、すなわち365日5時間48分46秒だからである。

 4年に1度の閏年があり、2月が29日と1日追加されるのはよく知られているが、これは、差分の 0.2422日x4=0.9688日であり、4年でほぼ1日分の誤差ができるからである。
 100年間閏年を作り続けると、25日増えることになるが、0.2422日x100=24.22日
なので、約1日増やし過ぎた計算になることから100で割り切れる年、直近では2000年になるが、この年は閏年ではないことになる。
 400年間これをつづけると、0.2422日x400=96.88日になり、この間、96日追加してきているので、97日に近づけるために、400で割り切れる年は閏年になる。

 といった具合で、暦と実際のカレンダーとの関係は随時調節されることになる。
 節分に話を戻すと、これまでに下表のような変遷があり、前回2月2日が節分の日とされたのは1897年、124年前のことになるという。前年の1896年は閏年である。今回も前年は2020年で閏年である。また、次に2月2日が節分になるのは4年後の2025年となっている。節分の日にちが変化する理由は閏年を設ける理由と同じはずであるが、閏年のように規則的にはならないように見える。


節分の日

 さて、地球の自転と公転に話が及んだついでに、太陽系の惑星の自転と公転に関する数字についてみると次のようである。惑星の公転方向は太陽の自転と同様で(北極星の方向から見て)反時計回りの回転で揃っているが、自転方向や自転軸の向き(赤道傾斜角)は一定ではない。


太陽系の惑星の自転と公転に関する数値(理科年表昭和61年から引用、一部追加)

 数字の多くは地球基準になっていることがわかるが、オヤと思うのは地球の自転周期が1.0000日ではなく0.9973日になっていることである。
 閏年が生まれる理由に挙げた1年が365.2422日であることに関係するのかと思ったが、そうではなく、別な単純な理由であった。

 よく考えてみると、地球は1年間にほぼ366回自転をしていることに気がつく。ほぼ365回ではない。この比 365日/366回=0.9973日/回であった。
 地球は自転しながら、太陽の周りを公転しているので、実際の回転数と地球から見て太陽が地球の周りを回転しているように見える回数=日数との間には1回分の差が生じていることが原因であった。

 似たような話に、月がいつも同じ側を地球に見せているのは何故かという話がある。もちろん、公転周期と自転周期が同じであるからと説明されているのであるが。

 月が1回自転しながら地球の周りを1回公転しても、月から見た地球は同じ位置にあり、日にちは変わらない。月が1回公転する間にもし2回自転するなら、月から見た地球は月の周りを1回転する、つまり月の1日が過ぎるといった具合である。

 もう一つの話。自転の回転方向について見ると、金星と天王星は他の惑星と自転の回転方向が異なっている。しかし、表をよく見ると自転が「時計」方向となっている金星と天王星の自転軸はそれぞれ 177.3°と97.9°である。これは、自転方向は全ての惑星で反時計回りで同じであったものが、何らかの理由で金星と天王星の回転軸の向きが変化したものと考えられていることがわかる。
 太陽系のすべての惑星は、元々は同じ方向に公転し同じ方向に自転していたのである。

 我々は地球が自転し、さらに公転していることを知っている。しかし、ほんの数百年前まで、我々の先人たちは地球が自転していることを知らなかった。知っている知識人もいたが、公にそれを口に出すことができなかったというのが正しいかもしれないが、一般大衆は知らなかった。目の前で起きている現象は、宇宙の星や月、太陽が地球の周りを回っているということである。

 人々に、地球の自転を目に見える形で示したのは、フランス人のレオン・フーコーであった。パリ天文台で振り子の実験を行った1851年のことである。(2020.3.6 公開の当ブログ「フーコーの振り子」参照)

 上の表に見るように、地球は秒速約30kmで太陽の周りを回っている。自転を考えると、赤道上では秒速約0.46kmで回転していることになる。

 地球を含む太陽系は、天の川銀河の縁を秒速約240kmで移動し、その銀河は膨張する宇宙の中で秒速約600kmで移動しているとされる。

 宇宙船地球号という表現があるが、この船の巡航速度を感じることができるフーコーの振り子に代わる方法はあるのだろうか。

 次の2つの優れた映像で実感することができるかもしれない。

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犬山温泉と明治村(2/2)

2020-12-18 00:00:00 | 日記
 鵜飼見物をした翌日、犬山温泉の南東約7km、車で20分ほどの場所にある明治村に向かった。入り口でもらったパンフレットには、博物館・明治村とあり、ここが明治期の建物を移築して保存している野外博物館であることを改めて認識した。

 実際に来てみると、事前に見学を予定していた帝国ホテルと品川硝子工場の他、北里柴三郎ゆかりの建物も移築されていることがわかり、新型コロナ騒動に悩まされている中、日本の細菌学の父とされる北里柴三郎博士の業績に触れることができ、タイムリーな訪問になった。

 村内にはこの明治村建設の発案者であるお二人に関連した建物もあって、そこには詳しい説明もあったが、先ずここでそのお二人のことを明治村のHPから引用して紹介しておくと、次のようである。

 「明治時代は、我が国が門戸を世界に開いて欧米の文物と制度を取り入れ、それを同化して近代日本の基盤を築いた時代で、飛鳥・奈良と並んで、我が国の文化史上極めて重要な位置を占めている。明治建築も従って江戸時代から継承した優れた木造建築の伝統と蓄積の上に、新たに欧米の様式・技術・材料を取り入れ、石造・煉瓦造の洋風建築を導入し、産業革命の進行に伴って鉄・セメント・ガラスを用いる近代建築の素地を築いた。これらの建築のうち、芸術上、歴史上価値あるものも、震災・戦災などで多く失われ、ことに戦後の産業の高度成長によって生じた、大小の公私開発事業により、少なからず姿を消していった。取り壊されてゆくこれらの文化財を惜しんで、その保存を計るため、今は二人とも故人となられたが旧制第四高等学校同窓生であった谷口吉郎博士(博物館明治村初代館長)と土川元夫氏(元名古屋鉄道株式会社会長)とが共に語り合い、二人の協力のもとに明治村が創設されたのである。」

 明治村はこのようにお二人の崇高な理念により企図され建設されたものであることを知った。

 また、博物館明治村には上記の館長のほかに村長がいる。歴代の村長は第一代 徳川夢声氏(1965-1971)、第二代 森繁久彌氏(1990-2004)、第三代 小沢正一氏(2004-2012)であり、一時空白の時期もあったようであるが、2015年の開村50周年を機に四代目村長に作家・エッセイストの阿川佐和子氏が就任している。次はHPに紹介されている阿川氏の就任式のスピーチである。

 「歴代の村長は亡くなられて交代していましたので、山本社長から初めて就任の打診を受けた時は、私もそんな年かとびっくりしました。
 村長就任に関しては、『何で引き受けちゃったのだろう』というのが率直な感想です。
 私はよく、『一体君は何をやりたいのだ?何が専門なのだ?』と言われることが多く、不安になることもあるのですが、かつてある方に『世の中のさまざまな人の話をつなぐことこそが君の専門職だ』ということを言われました。それ以降、私はさまざまな物事に対して、接着剤の役割を果たすことができると感じるようになりました。
 明治村には、明治時代以来の日本人の知恵・伝統と外国からの新しい技術を融合したものが残されています。その裏には、たくさんの人の力や技、知恵があります。私は、できる限り多くの人に楽しく伝えていく役割を、村長の任として果たしていきたいと考えています。
 私が村長に就任したからには、全国の子どもたちに『明治村まだいってないの?だせーっ。』と言われるくらい面白い村にしていきたいと思っています。」

 私も、子どもではないが、創設者お二人の想いを知らない「だせーっ」一人だったようである。

 この博物館・明治村の地図はパンフレットに次のように描かれていて、広さは約100万m²、南北約1100m・東西約620mである。ここに、展示建造物件数67件(重要文化財11件、愛知県指定文化財1件)が全国各地から移築されている。 

博物館明治村・村内地図

 私達は広い駐車場のある北口から入場した。上の地図では左上にある。歩き始めて地下通路を抜けると、最初の目的である帝国ホテル(地図の67番)はすぐ目に入ってきた。

帝国ホテル 1/3(2020.9.23 撮影)

帝国ホテル 2/3(2020.9.23 撮影)

帝国ホテル 3/3(2020.9.23 撮影)

 明治村に移築されているのは当時の本館「ライト館」の玄関部分の一部だけであるが、建築様式を感じることができる。旧帝国ホテルの壮大な全体像は、東武ワールドスクエアに1/25模型があるので見ることができる。

 左右対称のシンメトリー構造、深い軒などは京都宇治の平等院鳳凰堂をモチーフとしているとされる。設計はもちろんフランク・ロイド・ライト(1867.6.8-1959.4.9 アメリカ人)である。
 1923年(大正12年)7月、4年間の工事期間を経て二代目の帝国ホテルが竣工した。この大正12年といえば、9月1日に関東大震災が東京を襲った年として記憶されるが、まさに落成記念披露宴の宴が準備されている時に地震が起きた。

 周辺の多くの建物が、倒壊したり火災に見舞われる中、加工しやすく燃えにくい大谷石で作られた帝国ホテルライト館は、ほとんど無傷であったという


帝国ホテルの外壁(2020.9.23 撮影)

 しかし、開業から40年余りの短さで、老朽化や地盤沈下、270室という客室の少なさを理由に1968年春ごろまでに取り壊された。明治村への移築再建には十数年を要したとされる。


帝国ホテルの玄関(2020.9.23 撮影)

 村内の建物のいくつかは売店、カフェ、喫茶室、食堂、バーなどとして利用されていて、帝国ホテルの2階部分にも喫茶室があったが、この時はまだ開いておらず、ホール内部だけを見て、次の工部省品川硝子製造所(地図の45番)に向かった。

品川硝子製造所 1/3(2020.9.23 撮影)

品川硝子製造所 2/3(2020.9.23 撮影)

品川硝子製造所 3/3(2020.9.23 撮影)

 建物内では「品川硝子ショップ」として各種ガラス製の土産物が販売されており、傍らには浅草の神谷バーで有名なデンキブランが飲める「デンキブラン 汐留バー」が開設されていた。

 建物入り口脇に設置されている説明パネルには次のように記されている。

「旧所在地   東京都品川区北品川
 建設年    明治10年頃
 解体年    昭和43年
 移築年    昭和44年
 建築面積   37.1坪
 構造     煉瓦造平屋建
 寄贈者    三共株式会社
  
 明治6(1873)年に、民間のガラス工場としてイギリス人技術者を雇い入れた品川興業社が開設した。明治9年頃に、工部省が買上げ、拡張・整備の一環として、明治10年ごろ窯場に隣接して建てられた。ここでは建築材料として需要の多い板ガラスなどの国産化に向けて各種実験を試みたが、成功しなかった。
 その後、この工場は再び民間へ払い下げられ、後に三共合資会社製薬場となった。ここで高峰譲吉や鈴木梅太郎の創製による薬品も製造された。
 当時の洋式工場に多く見られたように煉瓦造であり、棟の上に載せられている越屋根は換気用に取り付けられたものである。」
 
品川硝子製造所の説明板(2020.9.23 撮影)

 説明板にあるように、明治村に移設されているこの建物は、建築面積37.1坪と小さなもので、事前に想像していたものとは異なっていた。実際、窯場に隣接して建てられたものとのことで、硝子の製造場ではなく、各種実験を試みていた場所のようである。

 工場全体の様子や製造工場がどのようなものであったかが気になるところであるが、それについての詳しい情報はここでは得られなかった。

 先に紹介した佐藤潤四郎氏の著書「硝子の旅」にはこの品川硝子製造所について次のように記されている。

 「ガラス工業発祥の地
 昭和四十年(1965)十二月十八日に、日本最初の洋式ガラス工場として発足した興業社の設置された場所に『品川硝子製作所記念碑設立』の除幕式が挙行された。
 現在は三共製薬株式会社として、沢山の建物の集合で昔日の俤はみられない。その工場の敷地の一部を品川区に寄付され、そこに記念碑が建設されている。・・・
   碑 文
 『此ノ地ハ本邦最初の洋式硝子工場興業社ノ跡デアル、同社ハ明治六年時ノ太政大臣三条實美ノ家令丹羽正庸等の発起ニヨリ我ガ国ニ初メテ英国ノ最新技術機械施設等ヲ導入シ外人指導ノ下ニ広大ナ規模ト組織ニ依ツテ創立サレタルモノデアル。
 然ルニ最初ハ技術至難ノタメ経営困難ニ陥リ同九年政府ノ買上ゲル所トナリ官営ノ品川硝子製作所トシテ事業ヲ再開シタ、・・・』」

 当時の工場の建物についての記述はと「ガラスの旅」をさらに読み進むと、司馬遼太郎の「翔ぶが如く」に用いられた風間完画伯の挿絵「品川ガラス製造場」が紹介されていて次のようである。


翔ぶが如くの挿絵として使用された風間完画伯の絵

 しかし、これは実際には後年の「品川白煉瓦製造所」へと発展した時期の工場全景と考えられると書かれているので、品川硝子製作所の工場はその一部とみられ、話はややこしい。

 日本ガラス工芸学会の会誌「GLASS」の第6号と第7号(共に1979年発行)には、井上暁子氏の品川硝子に関する2篇の報告が見られ、このうち第6号には、取りこわし前の品川硝子の建物(部分)として、現在明治村に移築された建物の写真が示されている。これを見ると、現地でみた建物そのものであると判る。ただ、ここではこの建物がどのような目的で使用されていたかについての解説はない。

 第7号には「化学実験所として、窯場に隣接して建坪五十六坪の平屋建ての薬品庫が完成しているので、これが化学実験所として使用されていた可能性がある」と指摘している。この建物は状況としては前記の説明板の内容と似通っているが、建坪が異なっているので、別の建物のことかもしれない。

 このように、今回は残念ながら品川硝子製造所の全様、そして移設された建物がその中でどのような役割を担っていたかについて、確かな情報は得られなかった。

 ここから順番にいくつもの建物や内部の展示品を見ながら進み、次の目的である北里研究所本館・医学部前に出た(地図の25番)。中には常設展示として、「北里柴三郎記念室」と「結核との闘いの歴史」がある。


北里研究所本館・医学部(2020.9.23 撮影)

 内部に入るとすぐ若き日の北里柴三郎の銅像(複製)が目に入る、これは明治27(1894)年5月、香港でペストが発生し、北里柴三郎や青山胤通ら数人が調査に派遣され、到着後短期間でペスト菌を発見したことを受けて、同年東大図書館で行われた慰労歓迎会の席上、歓迎会長近衛篤麿から贈られたものである。

 このほか、奥の部屋には関連の研究道具、業績を記した解説パネルが多数設置されていた。

 新型コロナ騒動の真っ最中、COVID-19 感染症治療の候補薬として期待され、治験が行われているイベルメクチンの開発者で、ノーベル賞受賞者の北里大学の大村 智博士と、「日本の細菌学の父」と呼ばれている北里柴三郎ゆかりの建物や関連した品々を見ることができたことは感動的であった。


ペスト菌発見を記念して贈られた銅像(複製)(2020.9.23 撮影)

銅像の横に設置された説明板(2020.9.23 撮影)

 この建物を出て、現在の村長である阿川佐和子さんのパネルなどがある煉瓦通りを奥の方に歩いて行くと、第四高等学校・物理化学教室の建物があった。第四高等学校は現在の金沢大学である。

 中に入ってみると、ここにこの明治村建設の発案者である同校同窓生の2人の肖像と関連展示がされていた。

第四高等学校・物理化学教室建物内の谷口吉郎・土川元夫 顕彰室(2020.9.23 撮影)


谷口吉郎・土川元夫 両氏の肖像の下に設置されている説明板(2020.9.23 撮影)


谷口吉郎氏(1904.6.24-1979.2.2)の肖像(2020.9.23 撮影)

土川元夫氏(1903.6.20-1974.1.27)の肖像(2020.9.23 撮影)

 明治村という素晴らしい施設の建設を行ったお二人に想いを致しつつこの場所を後にして、今回のわれわれの見学コースの終点であり、明治村の正門でもある場所に着いた。

 ここからは村営バスに乗り、出発地点の帝国ホテル脇まで戻ることになる。正門近くには、次のような「明治村の沿革」と「明治村からの言葉」という、来村者に宛てた心のこもったメッセージが刻まれていた。



帰路乗車した村内をめぐる村営バス(2020.9.23 撮影)

 この後、帝国ホテル前でバスを降りて、近くの明治の洋食屋(地図のN)で昼食にしたが、食事の後、もと来た北口に向かって歩いていると、「小熊写真館」(地図の65番)という表示が目に入った。この小熊写真館は私が以前赴任していたことのある上越高田に今もある写真館である。その古い建物がここに移築されていた。

 懐かしく、近くに行ってみると、見覚えのある「レルヒ大佐」の写真が玄関脇に飾られていた。レルヒ大佐は日本にスポーツスキーを伝えたとされる人で、オーストリア人である。これにより、上越は日本のスキー発祥の地とされている。
 
新潟県高田(現上越市)の小熊写真館(2020.9.23 撮影)

新潟県高田(現上越市)の小熊写真館、レルヒ大佐の写真が見える(2020.9.23 撮影)

 私が上越に赴任したことを知って、あるとき研究所時代の後輩のTさんが「スキーの誕生」(中野 理著 1964年金剛出版発行)という本をプレゼントしてくれた。レルヒ大佐のことを綴った内容の本である。
 読み終えたら返すという私に、「もういらないから」ということでこの本は今私の本棚にある。


Tさんからプレゼントされた「スキーの誕生」の表カバー

 Tさんはスキーが得意で、上越市からも近い火打山にヘリコプターで行き、春スキーを楽しむことがあると言っていた。

 そのTさんが冬山で遭難したという新聞記事を見つけて、同僚のEさんが知らせてくれたのは、それから数年後のことで、私がまだ上越に勤務している時であった。


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