軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

旧古河庭園のバラ(1/2)

2024-06-07 00:00:00 | 日記
 夕方からの所用で東京に出る機会があったので、少し早めに家を出て、旧古河庭園と、フジフィルム スクエアに立ち寄った。

 フジフィルム スクエアでは、富士フィルムグループ創立90周年記念コレクション展として『フジフィルム・フォトコレクションⅡ』世界の20世紀写真「人を撮る」が4月26日から5月16日まで開催されていることを知っていたからであった。

 その展示作品の中には、私も知っているW.ユージン・スミスの「楽園への歩み、1946年」が含まれていて、先日私のショップを訪ねてくださったプロ写真家の、J.E.アトウッドさんが、第1回ユージン・スミス賞を受賞しているということも関係していて、この機会にぜひ見に行ってみたいと思っていたのであった。

 
『フジフィルム・フォトコレクションⅡ』世界の20世紀写真「人を撮る」のパンフレット

 このコレクション展のパンフレットには次のように記されていて、写真の原点が人物の撮影にあることを思い出させる。

 「・・・本コレクションのテーマは『人を撮る』。
 人物写真は、写真術誕生における最大の動機であり、写真の原点であったとされています。新たな技法がいくつも生まれたその歴史の中で、人物写真は常に人々の関心の中心であり続け、それは今日においても変わりません。『人を撮る』ことは、写真の歴史の中で最も身近で、最も特別なものであり、写真の普遍的なテーマであるといえます。・・・」

 会場に展示されている21作家・全53点の写真は、すべてオリジナルプリントであるとされ、大半が、ゼラチン・シルバー・プリントによるモノクロ作品であった。

 ここでは、多くの無名の人々の写真と共に、我々がよく知っている、ウインストン・チャーチル、ジョージ・バーナード・ショー、アルベルト・アインシュタイン、ヘレン・ケラー、ジャン・シベリウス、アルベルト・シュヴァイツァー、パブロ・ピカソ、アーネスト・ヘミングウェイ、ジョアン・ミロ、マルク・シャガール、モハメド・アリ、ジャック・クストー、マリリン・モンロー、ジョン・F・ケネディーなどの生前の姿を見ることができた。

 さて、この写真展で、写真の原点は人物の撮影であるとの表現に出会ったのであるが、この日私がまず写真を撮りに出かけたのは、旧古河庭園のバラ園であった。上京前日の新聞で、この庭園のバラが見ごろを迎えているとの記事に目がとまったからであった。


旧古河庭園「春のバラフェスティバル」のパンフレット

 以前、軽井沢にあるレークニュータウンのバラ園に咲く多くのバラの中から、50種ほどを紹介したことがあった(2018.6.29 公開当ブログ)。ここも含めて、軽井沢ではまだバラの季節はもう少し先になるので、一足先にバラを見、写真を撮りたいと思って出かけたのであった。私の被写体は、人物ではなく、もっぱら自然の動植物や昆虫である。

 関東には随分長く住んでいたのに、この旧古河庭園に来るのは初めてである。この旧古河庭園のある北区西ヶ原という場所は、妻が生まれた場所であると聞いているし、東京で働いている娘が最近まで住んでいた場所にも近いのであるが。

 その旧古河庭園のバラ園、ここには約100種200株のバラが植えられているとされる。

 正門から入り、サービスセンターで入園料を支払う。65歳以上の個人入園料は70円と随分安く設定されている。それもあってか、平日のこの日の入園者には高齢者がとても多いようであった。


旧古河庭園の案内パンフレットから

 順路に従って園内に入ると正面に立派な2階建ての洋館が見える。ここは、もと明治の元勲・陸奥宗光の邸宅であって、宗光の次男が古河家の養子になった時、古河家の所有になったとされる。

 この洋館と洋風庭園の設計者は英国人建築家のジョサイア・コンドル、日本庭園の方の作庭者は小川治兵衛であり、現在は国の名勝に指定されている。

 建物はレンガ作りと思え、外壁は真鶴産の赤みを帯びた安山岩で仕上げられている。延べ414坪、地上2階・地下1階の落ち着いたたたずまいである。

 大正6年(1917年)5月竣工ということなので、関東大震災(1923年)をくぐりぬけていることになる。

 洋館等の建物は、長い間放置された状態で荒廃が進んでいたが、昭和57年(1982年)に東京都名勝の指定を受けると、それから平成元年(1989年)まで7年をかけた修復工事が行われ、現在の状態まで復元されたとされる。

芝生側から見た洋館の東面とバラ園(2024.5.8 撮影)

 バラ園は、洋館東側に少しあって、大半は南側とこれに続く斜面下側に配置されている。それぞれのバラにはA01から順に番号が付けられた樹名ラベルが添えられ、品種名、作出年、作出国名、作出者、香りなどの特徴が記されている。


洋館南面のバラ園(2024.5.8 撮影)


バラに添えられている樹名ラベル(2024.5.8 撮影)

 一通り見て回りながら、写真撮影をした。以前軽井沢のレークニュータウンで見知っていた品種名には出合わなかったように思えた。3~4万種あるとされるバラなので、当然かもしれない。

 当日、春バラの人気投票も行われていた。ちなみに昨年一位になったのはB22 「ブルー・ムーン」で、次の写真の種であった。



昨年人気投票1位の「ブルー・ムーン」

 以下に私が撮影したものを紹介するが、多くなるので、2回に分けてご紹介する。私は今回見た中では、次のA03「プリンセス・ドゥ・モナコ」が一番気に入ったのであるが、皆さんは如何だろうか。


 
A01 「青の軌跡」 2008 日本(樹番号、品種名、作出年、作出国名を示す、以下同)



A02 「イヴ・ピアッチェ」 1984 フランス


A03 「プリンセス・ドゥ・モナコ」 1981 フランス


A04 「わたらせ」 1977 日本


B03 「ディスタント・ドラムス」 1985 アメリカ




B05 「ビック・ドリーム」 1984 アメリカ



B06 「コンフィダンス」 1951 フランス



B12 「朱王」 1982 日本



B13 「ニュー・アベマリア」 1983 ドイツ



B14 「乾杯」 1984 日本



B15 「ブラック・ゴールド」 2008 フランス



B16 「紫雲」 1984 日本






B17 「デザート・ピース」 1994 フランス



B19 「パパ・メイアン」 1963 フランス


B20 「ガーデン・パーティー」 1959 アメリカ


B21 「フレンチレース」  1982 アメリカ



B22 「ブルー・ムーン」 1964 ドイツ


B23 「シャルル・ド・ゴール」 1974 フランス

B24 「エレガント・レディー」 1988 アメリカ




B25 「エグランタイン(マサコ)」 1994 イギリス




B26 「ロイヤル・プリンセス」 2002 フランス

 今回、バラ園内の数か所に、[旧古河バラコレ]という案内板があり、QRコードでスマホアプリがダウンロードできるようになっていた。これは千葉工業大学が開発したアプリということで、自身が撮影したバラの写真をこのアプリの中の所定の位置に貼り付けることで「バラ図鑑」ができるという面白い試みである。私も撮影したバラの写真の整理に使い始めた。


撮影した写真でバラ図鑑をつくることができるスマホ用アプリの紹介記事

 続く。
 
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Karuizawa Foto Fest 2024(4)フォト考

2024-05-24 00:00:00 | 日記
 今年開催されたKFF 2024の上位入賞作品のひとつに、フジバカマの畑の上を飛翔するアサギマダラの写真が選ばれ、そこには背後の太陽にピッタリ重なって、アサギマダラ特有の半透明な翅を通して光が漏れて美しく輝いている姿がとらえられていた。

 この写真の選評には次のように記されていた。

 「正直最後までこの作品を選ぶべきか迷った。理由は余りに奇跡的な一枚だからだ。・・・(選者は)いかに蝶の撮影が困難か多少わかっている。この作品をもし狙って撮るならば、一体何万回シャッターを切ればよいのか想像がつかない。
 当然、真っ先にフォトショップ等での加工を疑った。いろいろ確認してもらったが、そのような形跡はないらしい。
 次に考えたのは撮影者がどこまで意図して撮ったのかという点だった。・・・最終的にはアーティストの意図や意思の結果である作品を評価したい気持ちがある。
 しかし一方、カメラという機械を用いて産み出される写真作品には、時として偶然性が映り込むし、それが写真というミディアムの魅力の一部でもある。
 色々考えた挙句、目の前の100万分の1の奇跡を、ここは素直に眺めたいと思い選んだ。(柿島 貴志)」

 続いて私の写真について。昨年のKFF 2023の入選作品のひとつに、浅間山の稜線に接するように満月を配した写真がある。

 この作品は入賞していないので、選評はない。ところが、思いがけず著名なプロの写真家氏から今回のアサギマダラの写真の場合と似たような趣旨の質問をいただくことになった。

 先々週の当ブログで紹介したことのある内容なので、詳細は割愛させていただくとして、この作品を写真絵葉書にしたものを、プロの写真家 J.E.A. さんにプレゼントするという機会に恵まれた。その時、この写真を見た彼女から、「これは実写作品ですか?」と尋ねられた。

 時系列的には、私の作品についての質問の方が先で、その後、前述のKFF 2024の入賞作品についての選評を入選作品集で読むことになったが、同じような時期にプロの写真家2氏から、写真作品に対してこうした質問あるいは疑問が提出されたことに、少し考えさせられてしまった。

 一昨年11月にChat GPTが登場して以来、生成AIに関する議論が持ち上がり、今も続いている。生成AIを用いて文章だけではなく、画像や動画も作ることができ、フェイク画像がニュースとして流され大きな社会問題になっているからである。

 私が受けたChat GPTの講習では、「夕焼け、ドラマチック」や「スケートをしている猫」といった言葉を入力して、それに近い画像を即座に作成するところを実演して見せていただいた。

 今回のKFF 2024 の応募要領にも次のように記されていて、現代は生成AIによる作品制作について言及せざるを得ない状況にあり、当然ながらそうした作品の投稿は認められていない。
 
 「軽井沢フォトフェスト2024(KFF2024)応募要領
  ご応募前に必ずご一読ください
 ■応募資格:プロ・アマチュア問わず、国籍も問わずどなたでも応募できます。
 ■撮影期間:2023年1月1日~2024年1月31日
 ■募集期間:2023年11月1日~2024年2月11日
 ■応募料:5枚まで無料 6枚目以降は5枚単位で2500円(6枚から10枚までは、1枚で
  も5枚でも2500円の追加費用が必要です。例:11枚の場合は5000円となります。)
  6枚目以降の応募は、1〜5枚目の応募と同じ様に応募をお願い致します。後日追加応
  募分の請求書を発行させていただき、指定の銀行口座への振込をお願い致します。
 ■応募作品の条件:対象撮影期間中に軽井沢町・御代田町・小諸市・東御市・嬬恋村、
  長野原町・佐久市、安中市のエリアにて撮影された作品であること。
  応募者が撮影し、一切の著作権を有しているオリジナル作品であること。

  生成AIにより作成した写真(全部、一部を含む)は応募できません。
  未発表か否かは問いません。個人のホームページやSNSに投稿された作品、写真展
  などに出品された作品も応募可能です。」

 このように、最近では、生成AIが登場したことで、日々こうした情報・状況に接する機会が多く、また写真画像の加工技術にも精通しているプロ写真家諸氏にとって、作品の制作と評価に際しては、どうしても心理的影響を与えていると思えるのであるが、写真作品が実際に撮影されたものか、あるいは何らかの加工が施されたものではないかという疑念は、必ずしも今になって始まったことではないという例もある。
  
 私の身近な人に関する話題で、もうだいぶ前の2015年のことになるが、Y新聞社の報道カメラマンである彼が撮影した満月(スーパームーン)の写真が新聞に掲載された。その写真は、画面に大きくとらえられた満月の中に、カップルが月を見上げながら、スマートフォンで自分たちを撮影している様子がシルエットになり映り込んでいるものである。

 この写真はネット上にも公開されたようで、数日後の日曜日のTV番組「サンデーモーニング」で話題になった。この時コメンテーターとして出演していたプロ写真家AS氏がこの写真を見て、「ダブリングではないんですか?」と発言した。司会の関口氏は「本物らしいですよ」と答えていたのが印象的で、今も記憶に残っている。

 この写真も、先の「アサギマダラと太陽」と同様、「若いカップルと満月」がピッタリと重なり合うように撮影されていて、こうしたシーンに出会うことは容易ではないことから、先のAS氏の発言が生まれたのであろう。

 もうひとつ、「10万分の1の偶然」という松本清張の長編小説がある。

 『週刊文春』1980年3月20日号 - 1981年2月26日号に連載されたもので、夜間、東名高速道路のカーブで、自動車が次々に大破・炎上する玉突き衝突事故が発生。この大事故を偶然撮影したというカメラマンの写真は、新聞社主催の「ニュース写真年間最高賞」を受賞するという筋書きである。

 受賞式では、この決定的瞬間の場面に撮影者が立ち会っていたことは奇蹟的、10万に1つの偶然と評された。

 しかし、この事故発生原因とその現場にカメラマンが偶然居合わせたということに疑問を持つものが現れる・・・という話である。(2021.3.12 公開当ブログ参照)

 最終的には、この事故は撮影者が引き起こしたものであることが判明するのである。写真そのものは実際に撮影されたものであるが、撮影対象になっている事故が、故意に引き起こされたというものである。

 普通にはありえないような状況を写し出した写真に出会うと、これを見た人には、プロの写真家でなくても、本物なのだろうかという疑問がわく。

 ここには2通りの疑問があって、写真そのものが実写されたものかどうかという疑問と、被写体が実在の物あるいは自然なものかどうかということになる。

 松本清張の小説「10万分の1の偶然」では、これが意図的に引き起こされた事故を撮影したという設定であるが、先に紹介した私のフォトコンテスト応募作品と知人の新聞報道の例は、すべて実写であることは間違いない。その経験から、今年選ばれたアサギマダラの写真も、実際の物を撮影したものに違いないとの確信を私は持っている。

 これは、プロであれアマチュアであれ、人は何のために撮影するかということと関係していると思える。

 松本清張の小説「10万分の1の偶然」の場合、このプロカメラマンには、誰にも撮ることができないような決定的瞬間を撮りたいという職業的動機が設定されているので分かりやすい。

 写真は「発見の芸術」だと、学生時代に写真部の顧問教師から教わったことがあり、それ以来私はそのことを胸に刻んで撮影してきている。自分が撮っている写真が、芸術的と思ったことはないのであるが。

 そうした撮影姿勢からは、合成写真や、生成AIを利用した写真という発想は生まれてこない。

 絵画であれば、どのように構図を決め、どのように構成要素を配置するか、どのように色をつけるかは作者の意のままである。しかし、写真はそうはいかない。望む構図があるとすれば、自らが動くか、じっとそのタイミングを待たなければならない。これが、写真が絵画と違っている点だと考えてきた。

 そういう意味で、松本清張が10万分の1という数値に込めた思いは、こうした極めて稀れな状況というものは、実際には偶然によって得られるものではなく、意図しなければ撮影できないということであろう。

 私は今年もKFF2024に浅間山と満月の写真を投稿し、選んでいただいた。この写真の場合についていえば、浅間山の山頂に満月が接する、いわゆるパール浅間の状態を、軽井沢町内(当初KFFでは撮影地を軽井沢町内に限定していたので)で撮影できるチャンスは年に12回程度の満月の日の前後2日くらいで、月の出または月の入りを狙うことになる。そして、日の出、日の入り、月の出、月の入りの暦と方位角情報を国立天文台が発表しているデータから得て、浅間山の山頂と撮影場所の関係を地図上で確認して撮影に臨むことになる。最後は天候に恵まれなければならない。

 アサギマダラの写真についていえば、アサギマダラの大群がフジバカマに集まってくる場所と日時などについての情報を得、周到に用意したうえで太陽の位置と撮影アングルを選ぶことで、一見、極めて稀にしか起きないようにみえる状況を、確実に捉えるための確率を大きく上げて撮影に臨んだ結果だと、選者も納得されたのであろうし、私にもそうした「決定的瞬間」を捉えた素晴らしい作品だと思える。



 

 

 
 

 

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Karuizawa Foto Fest 2024(3)こぼれ話

2024-05-10 00:00:00 | 日記
 さまざまな点で昨年の第1回KFF 2023からの変更があったKFF 2024であったが、中でも応募の方法と、入選作品の発表方法については戸惑うことがあり、いくつか思いがけない出来事が起きた。

 昨年、作品応募時には、先ず長辺を最大2000画素程度にリサイズした写真データを送り、第1次審査で選ばれた作品については、その後、画素数の大きい生データを送るように要請された。

 これは、審査時の利便性と、野外展示用大版のターポリンへの印刷時にも、画面の粗さが目立たないようにするためのものだと理解していた。

 今回も、はじめに応募する時には同じように、長辺の画素数を2000画素にリサイズしたものを送付していた。

 募集締め切りの後、しばらくして2月になると、私の場合応募点数が規定の無料審査対象枚数の5枚を超えて応募していたので、超過分に対する請求書が届いた。

 その後は開催月の4月が近づいてきても、事務局から生データの送付要請連絡がなく、今年は選に入らなかったのだと理解していた。

 同じころ、私の作品が入選することを楽しみにしてくれていた知人から、問い合わせのメールが届いた。彼によると、「たしか3月のある日、軽井沢フォトコンテストで検索し、ホームページを開いたところ、(入選作品の)画像がずらりと見れました。野外展示はしないとあり、あれ?と思いました。」と書かれていて、今年君はどうだったの・・とのことであった。

 このメールを見て、KFFのホームページをチェックしてみたところ、それらしい記事は見当たらず、知人には、「私のところには連絡がないので、何かの間違いではないか、今年私は入選しなかったようです・・」と伝えた。

 それきり、KFFのことは頭から消えてしまい、ガラスショップのオープンが迫っているので、慌ただしく日々を送るようになった。冬の間は、ガラス器類をショウケースから出して、梱包して箱に詰め、地震対策としていたからであった。

 4月1日には冬籠りから開けて、ショップをオープンした。4月中旬のある日、ショップに3人の外国人女性客が訪れた。中の一人の年配の女性客はガラス器やガラス製のペーパーウエイトを熱心に見ていたので、話しかけるとペーパーウエイトのコレクターだという。残念ながら気にいっていただいたその作品は非売品で、ディスプレイ用として置いてあるものであったので、その旨伝えて、諦めていただいた。

 帰りかけたその外国人客を出口まで見送っていき、傍らにあった写真絵葉書のスタンドを見せて、これは昨年開催されたKFF 2023での、自身の入選作品で作ったもので、希望者にプレゼントしているものだと説明した。

 昨年は、KFF開催を側面から支援しようと思い、あらかじめ入選作品についての連絡があったので、写真絵葉書を作り、KFF 2023の会期中ショップに来ていただいた方々に無料で配布していた。

 その残りがあったので、今年も4月1日からまた店頭に置いて、希望者に差し上げていたのであった。

 外国人客に、お好きなものをどうぞお持ちくださいというと、このときはもう2人になっていたが、スタンドからそれぞれ1点ずつ写真絵葉書を選んでいただけた。

 そして、中の若い方の外国人客が、私たちはそのKFFの関係で軽井沢に来ているのだという。さらに、2人から今選んだ写真絵葉書にサインをしてほしいと頼まれた。これまで、多くの方々にこの写真絵葉書をプレゼントしてきたが、サインをしてほしいと言われたのは今回が初めてのことであった。

 デスクに戻って漢字でサインをしながら、アッと気がついた。年配の女性の顔に見覚えがあったからである。この女性は、昨年のKFF2023で配布されていたパンフレットに写真が載っていた女性プロ写真家その人に間違いないと思えた。

 この時お名前は失念していたが、聞くと間違いないという。そして、若い方の女性客のすすめに従って、その女性写真家氏と私のツーショット写真を、彼女のライカと続いて手元にあった私のスマホで撮影していただいた。

 この2人がショップを立ち去る時に、昨年はこのように複数点が入選したが今年は1枚も採用されなかったので、がっかりしていると話すと、彼女は、諦めないで写真を撮り続けるようにと励ましてくれた。

 2人を見送ってから、年配の女性写真家氏の名前を調べておこうと思い、ショップのパソコンで、当ブログ記事「Karuizawa Foto Fest 2024(1)」(2023.9.22 公開)を探して、この時使用していた2023KFFイベント情報を見つけ、彼女の名前が、ジェーン・エブリン・アトウッドさんであることを確認した。

 昨年、各家庭に配布されたKFF 2023の開催案内で紹介され、私の記憶に残っていたアトウッドさんの写真は次のようであった。


KFF 2023の開催案内に紹介されていたジェーン・エブリン・アトウッドさん

 また、KFFのHPなどで紹介されている彼女のプロフィールは次のようである。

 「プロフィール:写真家 1947年ニューヨーク生まれ。『盲目の子どもたち』というテーマで、1980年に第1回W・ユージン・スミス賞を受賞。以降、ライカ社のオスカー・バルナック賞、アルフレッド・アイゼンスタット賞など権威ある賞を受賞。また報道カメラマンとして、1995年に阪神淡路大震災、2001年アメリカ同時多発テロの取材も行っている。世界各地で展覧会を行い、2022年にはシャネル・ネクサス・ホール(東京・銀座)にて日本初個展となる『Soul』を開催した。1971年からフランスに在住、現在もパリを拠点に、精力的に活動している。」

 私は、プロの写真家さんに、自分の撮影した写真絵葉書にサインをして差し上げたことになる。
 
 さらに、何となく気になって、パソコンメールを開くと、そこにKFF事務局からの次のような連絡が届いていた。


4月15日に届いたKFF事務局からのメール

 ここに記されていた「作家リスト Artist List」を開くと、私の名前もそこに並んでいた。諦めていただけに、驚き喜ぶことになった。ただ、入選作品についての情報はこの時はまだ公開されていなかった。

 さらに、このメールに添付されている昨年のKFF2023のだまし絵風のターポリン写真は、私の「浅間山と満月」の写真が写っているものであった。この写真は、先ほどジェーン・エブリン・アトウッドさんが選んだ写真絵葉書のもので、そこに私がサインしたものであった。

 サインをしてお返しする時、この写真絵葉書を見て、彼女は「実写作品ですか?」と質問をし、私は「もちろん実際に撮影したものです、私の背後からは朝日が昇ってきているところでした」と答えたのであった。

 アトウッドさんともう一人の女性客に選んでいただいた絵はがきは、次のようである。

ジェーン・エブリン・アトウッドさんが選んだ写真絵葉書


同行の若い女性が選んだ写真絵葉書
 
 帰宅後、そのことを妻に話すと、「あなたはその女性写真家さんのサインをもらわなかったの?」と聞かれたが、あの時は全く思いつかず、後になってとても残念なことをしたと、ちょっと悔しい思いがしたのでした。

 そして、4月27日に迎えたKFF 2024の開会式。そこで初めて入選作品が、入選作品集を通じて公表された。私の作品は3点選ばれていて、すべて追分公園に展示されていることがわかった。その内の1枚は、再び浅間山と満月を撮影したものであった。だが、今度は浅間山山頂に満月がくるように配していた。昨年の撮影から約1年、撮影時期と撮影場所とを計算して撮影に臨んだもので、浅間山が冠雪していないのは残念であったが、構図はほぼ予定したものであって、先週の当ブログで掲載させていただいた。

 ところで、私の知人が3月頃に見た入選作品とは何だったのだろうかという疑問はまだ残ったままであった。

 KFF 2024の開会式翌日、各家庭に軽井沢観光協会発行の広報誌「GREEN BREEZE」第55号が届けられ、その表紙には早々と「軽井沢フォトフェスト 2024」グランプリ(日高 慎一郎氏 撮影)が紹介されていた。


軽井沢観光協会の広報誌「GREEN BREEZE」第55号の表紙

 そして、裏表紙を見るとそこには「写真でつながる2023軽井沢フォトコンテスト結果発表!」とした記事が掲載されていた。

 
軽井沢観光協会の広報誌「GREEN BREEZE」第55号の裏表紙

 私は、この軽井沢フォトコンテストのことは知らないでいたのだが、ほとんど同じ時期に軽井沢観光協会では2つの写真コンテストを進めていた。

 そして、記事を見ていくと、グランプリ他5つの賞の受賞作品名が発表されていて、これらの受賞作品はHP、instagram で公開中とある。

 これで、謎が解けた気がした。私の知人が見ていたという軽井沢フォトコンテストの写真はこちらの結果発表であったのだ。
 
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年縞博物館と炭素年代測定

2024-04-26 00:00:00 | 日記
 北陸新幹線が敦賀まで延伸されたのを機会に、この新幹線を利用して福井県三方五湖のひとつ三方湖のほとりに建つ福井県年縞博物館を訪れた。

 関西に住んでいたころ、敦賀は比較的近いところだと思っていたが、関東からは遠い感じがして、三方五湖のひとつ、水月湖から採掘された年縞のことは以前から知っていたが、これまで現地に行く機会はなかった。

 この年縞の実物を展示する博物館は2018年9月に開館していて、今回、2024年3月の北陸新幹線の福井・敦賀延伸を受けて、福井県では年縞博物館を主要な観光地施設のひとつとして売り出そうとしている。

福井県年縞博物館の正面(2024.4.17 撮影)


現代から7万年前までの年縞ステンドグラスのスタート(2024.4.17 撮影)

100本に分割された実物の年縞の展示(2024.4.17 撮影)

年縞(2024.4.17 撮影)

展示室のようす 1/3(2024.4.17 撮影)

展示室のようす 2/3(2024.4.17 撮影)

展示室のようす 3/3(2024.4.17 撮影)

 年縞とは何か、年縞博物館は何を展示しているかについて、一般にはあまり知られていないと思う。この水月湖で発見された年縞がいかに貴重なものであるかについて紹介するためには、先ず「炭素年代測定」について確認しておく必要がある。

 炭素年代測定という語は、遺跡などから発掘された木片など有機物からなる遺物がいつ頃のものであるかを知る方法として、小学校か中学校の頃に学んだ覚えがある。

 この方法は、大気中に存在する炭素には、一定割合(およそ1兆分の1)で、ごくわずかに放射性の炭素(炭素14)が含まれていて、これが生物が生きている時に、通常の炭素(炭素12)と共に、二酸化炭素の形でとりこまれていることを利用する。

 生物が死亡して活動を停止すると、そこで、外界から二酸化炭素を新たにとりこむ働きも停止し、すでに取り込まれていた放射性の炭素14が一定のスピード(半減期5730年)で、自然に崩壊して窒素に変化していくために、放射性炭素の減り具合を測定すると、その生物が死んでからの経過年数が測定できるというものである。

 小中学校の頃は、こうした説明で納得していたが、もう少しして高校や大学で物理を学ぶと、新たな疑問が湧いてくる。

 測定により、遺物中の炭素14と炭素12の比率を求めることができれば、現在の大気中に含まれる二酸化炭素における比率と比較することで、炭素14の減少量を知ることはできる。しかし、生物が死んだ時代に遡って、その時代における炭素14と炭素12の比率を知らなければ、減少量は正確に求めることができないはずである。この、過去の炭素14の割合は現在と同じとしてよいのだろうか、そもそも大気中の炭素14もまた、同じように崩壊して窒素に変化しているはずであるから、一定量に保たれる何らかのメカニズムが保証されなければならないという疑問である。

 この炭素年代測定法は、1947年、シカゴ大学化学教室の教授、ウィラード・リビーによって開発され、1960年にはその功績により、リビー博士はノーベル化学賞を受賞した。

 炭素年代測定法が有効であるためには、現在と過去の炭素12と炭素14の比率を確認しておかなければならない。

 リビー博士とその共同研究者たちは、樹齢約3000年のセコイアや、古文書等で年代が判明しているエジプトの歴史的遺物の炭素14の測定を行い、私たちが使用している暦の年代(「暦年代」)と「放射性炭素年代」の関係を示すグラフを作成し、両者が誤差の範囲内で一致していることを示し、これにより、有効性を証明した。すなわち、過去における大気中の炭素14の割合は、現在のものと測定誤差範囲内で同じと見なしても良いと考えたということになる。


リビー博士の示した「暦年代」(横軸:年)と「放射性炭素含有量」(縦軸: 現生物との比率)を示すグラフ(年縞博物館、解説書より引用)

 しかし、炭素年代測定の話はこれでは終わらない。リビー博士がノーベル賞を受賞した当時から、放射性炭素年代が暦年代と完全には一致しない可能性が論じられていた。放射性炭素年代測定法が正確であるためには、大気中の二酸化炭素に含まれる放射性炭素(炭素14)の濃度が時代によらず一定である必要がある。

 だが、その後、真の年代が明らかな資料の測定・研究が進むと、分析の誤差を考慮してもなお説明しきれない年代不一致が、次々と科学誌で報告されるようになった。すなわち、前提としていた大気中の二酸化炭素に含まれる炭素14の濃度が一定でないことが明らかになってきたのである。

 炭素14の濃度のゆらぎがどれくらいあるのかを調べないと、正確な炭素年代測定値は得られない。そこで、暦年代が明らかな資料の炭素14の残存量を測定し、そこから逆に過去における大気中の炭素14の量を求める必要がでてきた。言い換えれば、炭素年代測定が含む誤差を補正するための較正グラフの作成である。

 これに使われたのが、水月湖の湖底に堆積していた泥の層「年縞」ということになる。では、その年縞とはいったいどういうものか。これが本当に炭素年代測定の較正に使えるものかどうか見ていこうと思う。

 水月湖の湖底は水深34mの深さにある。この湖底から更に45mの深さにまである「泥」の層が年縞と呼ばれるもので、1年ごとの色変化を伴う細かい縞模様を持っている。年縞博物館の解説書には、作家であり年縞博物館の特別館長でもある山根一眞氏による次の図が掲載されていて分かりやすい。


水月湖の断面と年縞のボーリングの様子を示す図(年縞博物館の解説書より引用 作図:山根一眞氏)

 通常、湖の湖底に堆積している泥の層は、そこに棲息している生物によりかき乱されて、この図のような層状構造は持たない。ところが、水月湖の場合いくつかの要素が重なり、世界でも唯一とされる7万年=7万枚以上の連続した層が形成され、保存されていることが判った。

 水月湖にきれいな年縞が形成された第1の理由は、水月湖は隣の三方湖と水路でつながっているだけで直接そそぐ川がないので、湖底がかき乱されず年縞が残る条件になっていたということ。

 次に、水月湖は周囲を山に囲まれていて、風が入りにくく、湖底が深いために、底まで水が混ざらず淀んだ水で硫化水素濃度が高く、酸素が行き渡らないために、魚やゴカイ、貝などが生息していないために底がかき乱されることがなかったということ。

 さらに、水月湖の東には三方断層があり、水月湖のある地盤は年平均で1mm沈んでいるため、湖底に堆積物が年平均で0.7mmたまっていっても、水深が浅くなることがなかったことも挙げられる。

 水月湖の湖底に堆積している泥の層=年縞は、2006年に6週間かけて、ボーリングにより完全な形で掘削された。
  
 こうして、最上層の現在から、1枚1枚数えていくことで、どの層が何年前に形成されたものであるかは、正確に特定できる。あとは、それぞれの層に含まれる落ち葉や花粉の化石から炭素14の残存量比率を正確に測定すればよいことになる。こうした結果は、2012年に国際会議で正式に認められ、他の方法で確認されたものと合わせて、「年代の標準ものさし」である「IntCal13」に反映され、放射性炭素年代測定法が適用できる過去5万年をすべてカバーした。

最終氷期の放射性炭素年代の較正データIntCal13 を紹介するパネル(2024.4.17 撮影)

 現在、炭素年代測定と暦年代とのずれを示す最新の較正曲線は「Intcal20」であり、次のようである。


IntCal20の北半球曲線。2020年時点で最新の標準較正曲線(ウィキペディア2023年11月22日より )

 この較正曲線により、例えば炭素年代測定で3万年前とでた資料については、図の縦軸の30000年から水平線を引き、較正曲線との交点から下に線を引いて、横軸の歴年の数値を読むと、34500年と正しい数値が得られることを意味している。

 以上が、炭素年代測定に対して、水月湖の年縞が果たした役割である。

 ところで、水月湖の湖底から採掘した泥の層「年縞」は、歴史的な遺物の年代確定に利用されるだけでなく、地球で起きた様々な変化の痕跡をその中に秘めていることが明らかにされている。

 その一つは、気候変動で、年縞中に保存されている花粉化石から、水月湖の周辺に生育していた樹種を特定することで、この地方の平均気温を推定できるという。解説書から引用すると、次のようである。

 「・・・例えば最近の1万年ほどの年縞は、現在の水月湖の周辺に見られるような、シイやカシ、スギなどの花粉を含んでいる。いっぽう2万~2万5000年前の年縞からは、今の北海道に生えているような、シラカバやモミなどの花粉が見つかる。これらの植物の現代における分布と、気象観測データを組み合わせると、当時の気温を具体的に推定することもできる。実際に計算をおこなってみると、当時の水月湖の平均気温は現在より10℃以上も低かったことがわかった。」

 「このような方法をいろいろな時代の堆積物にあてはめると、過去におこった気候変動を連続的に復元することができる。水月湖の堆積物を使って実際に復元をおこなうと、次の図のようになった。・・・」

水月湖の年縞に刻まれた、過去15万年間の気候変動を示す図(解説書から引用)

 我々が気候変化を実感するのは、四季を通じてであるが、これは太陽の周りを地球が公転していて、その公転面に対して地球の自転軸が23.4度傾いているからである。

 一方、もっと長い宇宙スケールで見ると、地球の公転軌道は約10万年の周期で、真円に近い軌道と楕円軌道との間を行き来している。また、自転軸は2万3000年の周期で首振り運動(歳差運動)をしている。

 その結果、地球が太陽に最接近した時に夏を迎える時代がおよそ10万年ごとに訪れることになる。この時代が温暖期であり、現代であるとされる。

 前掲の図には、この10万年周期での大きな変化と、2万3000年周期での小さな変化とがよく示されている。

 こうした宇宙スケールでの気候変動について理論的な考察を行ったのが、南欧セルビアの数学者ミルーティン・ミランコビッチ(1879-1958)だった。彼は1939年に完成した自らの理論を600ページを超える大著として1941年に出版した。

 年縞博物館には世界に8冊しか残されていないとされていたこの著書の9冊目が展示されている。年縞研究と年縞博物館の建設に中心的な役割を果たした中川毅・立命館大学古気候学研究センター・センター長がこの本をベオグラードの古本屋で見つけたものだという。

ミルーティン・ミランコビッチ著の「地表における太陽放射のリズムと氷河期問題への応用(1941年)」の展示(2024.4.17 撮影)


同 解説パネル(2024.4.17 撮影)

 もう一つの年縞からのデータは地磁気に関するものである。地球の北は自転軸の指し示す方向「北極」であるが、磁石の指し示す方向はこの方向とは完全に一致しておらず、「北磁極」と呼ばれる。

 現代はこの両「北」が近い位置にあるが、これが当たり前ということではなくて、過去には「北磁極」が「南極」の方向を向いていたことがあり、これまでに少なくとも11回の地磁気逆転が起きているとされる。

 こうした地磁気の変化は主に火山岩を用いた岩石磁気測定で求められてきた(2020.9.18 公開当ブログ)が、水月湖の年縞に含まれる堆積物の中には磁性を帯びた天然磁石である磁鉄鉱があり、これが過去の地磁気方向に向いたまま固着されているはずだとの考えに基づいて、測定が行われた。

 その結果、これまでも知られていた地磁気の変化(ランシャンエクスカーション)については、より詳細な変化が、またこれとは別の新しい変化(ポストランシャンエクスカーション)が発見されている。

 長時間の見学を終えて、階下に降りてきたところで学芸員がいらしたので、いくつか質問をした後で、「ところでミランコビッチさんの名著はどこにあるのですか」と聞くと、2階の展示室の最後のほうにありますよとのこと。

 迂闊にも見過ごしていたのであった。再び2階に戻り見学の後撮影したのが、先に紹介した写真である。思いのほか大判の本であった。

 1階に下りてくると、妻が、いいお土産があったので買った!と見せてくれたのは年縞模様のネクタイであった。現役のサラリーマン時代の後半は、当時の社長の考えもあり、皆ノーネクタイで過ごした。また、定年後はネクタイをする場面がなく、もうずいぶん長い間ネクタイを買うこともなかったので、少し驚いたが、なかなかいい記念になった。

 妻は、ネクタイを買った後、そのデザインの基になったという5万年前の年縞の模様を写真に撮ったのだと後で見せてくれた。

お土産の年縞ネクタイ

ネクタイのデザインの元になった5万年前の年縞(2024.4.17 妻撮影)

 ところで、まだ書いていない大切なことがある。それは、この年縞博物館の目玉ともいえる実物の「年縞」のことで、博物館が「年縞のステンドグラス」と呼んでいるものである。

 どのようにして、ボーリング採取した泥のサンプルからこうした「美しい」とも思える展示品を作成したのか、来る前から関心を持っていた。

 これについて中川 毅氏は解説書の中で次のように述べている。

 「年縞の博物館を作るからには、年縞を最高の状態で展示したかった。なにしろ、年縞に特化した博物館など世界のどこにも存在しない。・・・
 もし年縞博物館の何かが『そのために足を運ぶ』ほどの魅力を持つとすれば、それは数式でもグラフでも写真でもなく、本物の年縞以外にありえない。・・・」

 スミソニアン博物館も成しえなかった、この本物の年縞を展示可能にしたのは、ドイツのポツダム地球科学研究センターの技術者ミヒャエル・ケーラー氏であったという。

 その詳細をここで書くことは控えたいと思う。ぜひ現地の展示でその内容を確認していただきたいと思うからである。

 「年縞のステンドグラス」はその名の通り、背後からの照明を受けて透過してくる光の縞模様がとても美しい。光が透過するまで年縞は薄く加工され、2枚のガラス板の間にサンドイッチされているからであった。

 中川 毅氏の狙いは的中したようである。博物館の入り口には、次の写真に示すパネルが誇らしげに置かれていた。 

福井県年縞博物館の入り口で見た来館者25万人達成のパネル(2024.4.17 撮影)


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夢3題(1)

2024-04-19 00:00:00 | 日記
 学生時代最後の年に、大阪で万博があり世界中から未来の新技術に関する展示があって、その中には動く歩道、モノレール、リニアモーターカー、電気自転車、電気自動車、テレビ電話、携帯電話、缶コーヒー、ファミリーレストラン、ケンタッキーフライドチキンなどの製品やサービスが初めて登場した。

 あれから54年、当時は夢の技術と思われていたこれらの技術はすべて実現し、製品化や実施運用が行われている。

 この内、リニアモーターカーについては、すでに中国で短距離の磁気浮上式が運行しているが、未だ日本での本格的な商用運転は行われていないので、その実現が期待される。

 このような、新しい技術や国家プロジェクトに関して、私が楽しみにしているものが3つある。

 リニアモーターカーと核融合発電、そして技術的なブレークスルーは特にないが、新幹線の敦賀から大阪への延伸である。この3つの話題はいわば私の夢であって、実現するのを見届けたい気がしている。

 北陸新幹線の大阪までの延伸はまだだいぶ先になるが、途中敦賀までは先月、2024年3月16日に営業が開始されたので、1か月が過ぎて、少し落ち着いたところで、乗ってみることにした。ただ新幹線に乗ったり、車窓から景色を眺めるだけではもったいないので、以前から興味を持っていた、福井県の恐竜博物館と、若狭湾・三方五湖のひとつの水月湖から採取した湖底の堆積物が展示されている年縞博物館を訪れることにした。

 実は、福井県と軽井沢町とはご縁があって、相互発展に向け、令和4年3月17日に「相互発展に向けた連携協定」を結んでいる。 次のようである。



連携協定の内容(上)と締結式に臨んだ杉本達治福井県知事〈右から2人目〉と藤巻 進軽井沢町長〈同3人目:当時〉(写真下、共に福井県HPより)

 これは、旧軽井沢にある日本人初の別荘(1893年建築)を建てた八田裕二郎氏が福井市の出身であったことと、軽井沢の観光名所の一つになっている、旧三笠ホテル(1905年建築)を建てた山本直良の父が福井県出身であったことによるものとされる。

 新幹線で福井県と軽井沢町とが直接結ばれることになるのを機に、軽井沢駅の構内で、昨年、福井フェアが行われた。この時、福井県内各地の観光案内や物産展が行われた。

 そこで配布されたパンフレットの一つに福井県の代表的な観光施設として紹介されていたのが「恐竜博物館」、「一乗谷朝倉氏遺跡博物館」、「年縞博物館」であった。一乗谷朝倉氏遺跡と現地の(旧)博物館には以前車で行ったことがあるので(2018.10.19 公開当ブログ)、今回は残る2つの博物館に行くことにした。



軽井沢駅構内で開催された福井フェアのパンフレット

 軽井沢からは敦賀行の直通も運行されているが、こちらは上下とも1日1本に限られているので、通常は「あさま」か「はくたか」で長野駅に行き、ここで「かがやき」乗り換えることになる。今回の乗り継ぎ時刻は到着が08:35で、発車が08:39と乗り継ぎ時間は4分となかなか便利である。

 今回もそのようにして、まず長野駅に向かった。指定席券の座席を見ると、「あさま」と「かがやき」の号車番号は共に同じで、駅員さんが乗り継ぎに便利なように選んでくれたのだと、その配慮に感謝していた。

 ところが、我々の乗った「あさま」は、途中佐久平で接続している小海線が遅延していたため、約3分ほど遅れて発車した。長野着は、少し遅れを取り戻して2分遅れになるとのアナウンスがあった。これでも同じ号車間の移動なので、乗り継ぎには問題はなさそうである。

 長野駅には車内アナウンス通り2分遅れで到着し、ホッとして後から追いかけてくる「かがやき」が同じホームの反対側に来るのを待った。しかし、先ほど車内でアナウンスがあった「かがやき」の発車ホーム番線を思い出して確認すると、それは隣のホームからの発車だと気がついた。一度エスカレーターで上の階に上がって、隣のホームに移動しなければならない。

 やや焦りながら、隣のホームにエスカレータで下っていくと、「かがやき」がすでに到着していて、乗客が下りてくるところであった。危ないところであったが、無事「かがやき」の座席に着くことができた。

 乗車券と特急券の発券時、駅員が選んでくれた乗り継ぎの2本の列車の号車番号が同じだったのは、移動しやすいからというよりも、エスカレータに近いものであったことに、後になって気がついたのであった。

 行きはこの「かがやき」に乗り「福井駅」で下車した。目指す「恐竜博物館」には「えちぜん鉄道」に乗り換えて行くことを事前に調べていたので、到着した福井駅ホームでこの「えちぜん鉄道」への乗り換え案内表示を探したが見当たらず、次のような手作り感のある乗り換え口案内があるのみである。


北陸新幹線「福井駅」ホームにある乗り換え口案内表示(2024.4.16 撮影)

 指示通り、ホーム前方に行って、下の階に下りるとすぐ右側に乗り換え改札口があったが、これはJR在来線へのもので、やはり周辺には「えちぜん鉄道」の案内表示はない。ホームに出ていた案内表示はこの在来線への乗り換え口のことで、「えちぜん鉄道」のことを指しているのではないことが分かった。

 職員にたずねると、えちぜん鉄道の乗り場は、改札口を出て左の方に行ってくださいとのことであった。

 JRの建物を出て、左の方に進むとに「えちぜん鉄道」の建物と高架上にあるホームと車両が見えている。改札口は、Suicaカードが使えそうにないので、乗車券売り場に行くと、「恐竜博物館」行きの列車とバスの乗車券がセットになった1日乗車券があると判ったので、これを購入して終点「勝山駅」に向かった。1両編成の車内にいた乗客のほとんどは博物館に行く観光客で、中には外国人も1組混じっていたし、車いす利用者も含まれていた。


えちぜん鉄道の駅窓口で販売している恐竜博物館行きの1日乗車券

 駅から博物館までは直通バスが運行されていて、我々が乗ってきた列車からの客で席はすべて埋まり、数名の立ち客も出た。博物館までは約12分ほどの乗車で、途中、先ほど列車内からも見えていた銀色のドーム型の大きな建物が近づいてくる。これが「恐竜博物館」のメイン会場となるものであった。


直通バスの車窓から見える「恐竜博物館」の大きなドーム(2024.4.16 撮影)

 「恐竜博物館」の詳細については別途このブログで紹介させていただく予定なので割愛するが、この立派な施設では驚くほど多くの恐竜化石の実物やレプリカ、そして精巧に作られた実物大の動く恐竜模型などを見学することができた。


「恐竜博物館」入り口付近のパノラマ写真(2024.4.16 撮影)

 恐竜博物館の見学の後、再び福井駅にもどり、この日の宿は三方五湖の一つ、水月湖湖畔に予約していたので、新幹線「つるぎ」で「敦賀駅」まで行き、ここでJR小浜線に乗り換えて「三方駅」で下車、宿に向かった。

 宿までは、バスの便もあるが、本数が限られているため、夕食や入浴時間のことを考えるとタクシー利用になる。あらかじめ宿に問い合わせて教えていただいていたので、敦賀駅を出るとすぐにタクシーの予約は済ませておいた。

 翌日は、先ず宿のすぐそばから出る水月湖の遊覧船に乗り、水月湖と、これにつながる菅湖の遊覧と周囲の山に咲くヤマザクラの花や春の芽吹きなどの美しい景色を楽しんだ。


朝の水月湖(2024.4.17 撮影)

 船が走り出すと、2階席で受ける風は思いのほか冷たく、船員が操舵室のすぐ後ろの風の来ない場所に折りたたみ椅子を用意して、そこに座るようにと勧めてくれた。


遊覧船から見える湖岸の木々(湖の傍にはこの地方の産品である梅の木が見える 2024.4.17 撮影)
 
 途中、この後行く「年縞博物館」に展示されているはずの年縞をボーリング掘削した地点近くを通過した。この辺りが水月湖の水深が一番深い場所であるという。 


水月湖遊覧船のルートと、年縞採取位置などを示す地図(遊覧船HPより)
 
 遊覧船を下りて宿にもどり、宿の主人の好意で年縞博物館まで車で送っていただいた。前日フロントでバスの便を確認していたところ、本数が少なく不便をかけるとして、宿の車で年縞博物館まで送ってもらえることになっていたのであった。

 訪ねた年縞博物館の展示は予想以上に素晴らしいものであった。特に7万年分45mに及ぶ実物サンプルは、一体どのようにして作ったのだろうかと、来る前から興味を持っていたのであったが、現地で説明パネルを読み、納得するとともにその努力と技術に感心した。

 この年縞博物館の詳細についても、また別途紹介させていただこうと思う。

 博物館見学の後、少し離れた場所にある食堂で昼食を済ませて敦賀駅に向かった。実は、年縞博物館には併設のカフェがあり、ここで特別なランチやデザートが提供されることとを事前に知っていたので、期待していたのであったが、この日カフェは休業であった。博物館そのものはオープンしているのに何故と思うのだが仕方ない。平日は入場者数が少ないからだろう。



 旅の疲れもあり、昼食後はこの食堂でタクシーを呼んでもらおうとしたが、車は出払っていて1時間ほど待たなければならないと判り、食堂の主人が三方駅まで車で送ってくださることになった。この日2回目の地元の方のご好意であった。

 敦賀には、若いころ大阪に住んでいたので、海水浴に来たことがあった。しかし、市と市街地についてはほとんど何も知らないでいた。

 今回、北陸新幹線のターミナル駅ができた敦賀市街地を見てみようと思い、敦賀駅から徒歩圏内にある「氣比(けひ)神宮」に行くことにして歩き始めた。駅前からまっすぐに延びる無電柱化された道路はとても道幅が広い。これはしばらく行って、右に曲がってからも同様で、神宮まで続く道の両側にはアーケードのある商店街が続き、その前には駐車スペースが設けられている。このような配置はこれまで見たことが無かった。

氣比神宮に続く道路の両側の商店街とその前の駐車スペース(2024.4.17 撮影)


氣比神宮とその前の広い道路のパノラマ写真(2024.4.17 撮影)


氣比神宮1/2(2024.4.17 撮影)

氣比神宮2/2(2024.4.17 撮影)

 道路からも目立っているこの氣比神宮の大鳥居は、江戸時代前期の正保2年(1645年)の造営で、高さ36尺(10.93メートル)・柱間24尺(7.29メートル)である。これは、佐渡の旧神領地の鳥居ケ原から奉納された榁(むろ)の大木を使用して、建てられたと伝えられる。

 社殿のほとんどは第二次世界大戦中の空襲で焼失したため、現在の主要社殿は戦後の再建になるが、この鳥居は空襲の被害を免れており、国の重要文化財に指定されていて、奈良の春日大社・広島の厳島神社の大鳥居とともに「日本三大鳥居」にも数えられているという。

 境内社の角鹿(つぬが)神社は「敦賀」の地名の由来であるとされ、祭神の都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)像は敦賀駅前に見られる。

氣比神宮境内社の角鹿(つぬが)神社と解説板(2024.4.17 撮影)

敦賀駅前に立つ都怒我阿羅斯等命〈つぬがあらしとのみこと〉像(2024.4.17撮影)

 また、駅前から氣比神宮に続く道路沿いには松本零士氏の漫画作品をモチーフにしたブロンズ像が多数配置されていて目についていた。

 これらは、敦賀港開港100周年を記念して、市のイメージである「科学都市」「港」「駅」と敦賀市の将来像を重ね合わせて「宇宙戦艦ヤマト」「銀河鉄道999」のモニュメントを1999年に設置したものという。

松本零士モニュメントMAPと解説板(2024.4.17 撮影)

 
駅から続く道路沿いに設置された松本零士モニュメントのひとつ(2024.4.17 撮影)

 これらの解説板やモニュメントは、かつてこの敦賀がヨーロッパへの玄関口であったことを思い出させてくれてる。

 「時刻表歴史館」のホームページには敦賀について、次のような記述がある。この最短ルートを利用して、与謝野晶子やオリンピック選手の金栗四三もフランスに渡っている。

 「欧州への旅路の序章・欧亜連絡列車 
 鉄道も国際化した20世紀『毎週金曜午後8時25分東京発金ヶ崎(現・敦賀港)ゆき』
 船会社の代理店発行のこの時刻表には、こんな列車が紹介されています。正確には、神戸行き急行に一等寝台車を併結し、米原でこの車両を分離して敦賀に向かいました。乗客は、敦賀からの大阪商船ウラジオストック航路に乗り継ぎ、遥か欧州を目指す旅行客。大戦前の国際連絡華やかなりし時代を象徴する列車です。・・・
 
 欧亜連絡国際列車は、1912年(明45)に運転開始。その後第一次世界大戦やロシア革命で、欧亜連絡が途絶状態になったことで一時期消滅しましたが、昭和戦前に復活し、再び激動の時代を走りました。 」

 近年、敦賀は先の解説板にあるように、科学都市としても発展を遂げようとしている。駅前にある敦賀市観光図には、敦賀半島の先端部にある「敦賀原子力発電所」と「美浜原子力発電所」の名前は見当たらないが、3つの原子力関連施設、「日本原子力発電(株)敦賀原子力館」、「ふげん」、「もんじゅ」の名前が見られる。


敦賀駅前に設置された敦賀市観光図の一部(北が下に描かれている。 2024.4.17 撮影)

 さて、北陸新幹線のターミナルとなった敦賀、これからどのような未来が待ち受けているのであろうか。
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