晴走雨楽(せいそううがく) 風の又三郎

晴れている日は山やロードを走り、雨の日は音楽や楽器演奏しています。風の吹くまま、気の向くまま・・・。

「マモ・ウォルデについて②」   (動画追加)    431

2012年03月28日 20時38分39秒 | マラソン
■「マモ・ウォルデについて②」

★2019.01.17:動画追加

●メキシコオリンピック (1968年10月)
海抜2,240メートルに位置するメキシコシティで開催された。
“高地民族旋風”が極に達したのである。
マモ(36歳)は陸上競技第1日目の1万メートルに出場。
ケニアのテム、エチオピアのマモ、チュニジアのガムーディ、メキシコのマルチネスと、
1位から4位までが高地民族で占められたからである。5千メートルも同様であった。

★You Tubeで 「10,000メートル男子決勝,1968 メキシコシティオリンピック」 を観ると。
テムとマモが3コーナーに突入、4コーナーでマモがテムを抜きトップとなるが、直線
でテムが抜き返し、マモは惜しくも2位となる。ゴール後のマモの無念の思い。
表彰台の金メダルは、ナフタリ・テム(4日後の5000mで銅メダルを獲得)、銅メダル
はモハメド・ガムーディ(4日後の5000mで金メダルを獲得、東京オリンピックでは
1万m銀メダル)。トラックの実力者の中での銀メダル獲得、マモの実力が光る。

こうした高地民族の活躍ぶりから、マラソンも高地民族のものか、という予想が、レース
前から高まっていた。

マラソンは、陸上競技の最終日、10月20日に行われた。
アベベは16キロ地点、たて続けに抜かれていた、突然立ち止まり、しゃがみ込んだ。
コースから忽然として姿を消し、棄権した。

マモがアベベの棄権を知ったのは、18キロ地点だった。
「沿道からニスカネン・コーチが、アベベは棄権だ、“マモ、お前しかいないだ、頑張って
くれ”」

29キロ地点からマモとテムの激しいトップ争いが展開された。
1万メートルの決勝では、自分とテムはが最後まで競り合って、結局負けたが、マラソン
ではこいつより上位に入ってやるぞって走ったよ。
この頃、日本の君原健二がマモを追い始めていた。
これはまずいと思って、またスパートをかけたんだ。「メインスタジアムが見えてきた時は、
よしこれで勝てるって思ったよ」
マモは、2時間20分27秒のタイムで優勝、2位は君原健二、3位はニュージーランドの
マイケル・ライアン、6位エチオピアのマラビがゴールインした。
参加選手の約3分の1が、暑さと酸素不足に苦しみ脱落、凄まじかったレース内容を
物語っていた。

★You Tubeで 「オリンピック ゲームズ メキシコ 1968 パート2」を観ると。
マモがトップで、エスタディオ・オリンピコのスタジアムに飛び込んで来た、
大観衆の中、マラソンランナーには珍しく、ゴールテープを手で切ってゴールイン。
そして、両手を広げ、念願の金メダルを獲得。過去のオリンピックレース、胸に去来
するものは。

エチオピアはオリンピック・マラソン三連勝という輝かしい戦績を、その歴史にとどめた
のである。

次はミュンヘン・オリンピックに続く。

長距離王国エチオピアの誕生


<10,000m>
 

 

 


★動画


メキシコ オリンピック 1968  10,000m



<マラソン>


 

 

 

★動画


メキシコ オリンピック 1968 マラソン

注:映像が途中中断しますが、そのまま観てください。



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内みのわ運動公園ウォーキング                       430

2012年03月25日 18時36分36秒 | マラソン
■本日(2012/03/25<日>)は、晴天で絶好の高宕山トレラン日和ですが、腰が痛く
マッタリとしていました。午後から内みのわ運動公園をウォーキング。


■内みのわ運動公園ウォーキング
少し運動すれば、腰の痛みも回復するかと思い、運動公園をウォーキング。

梅が満開、梅の花はそれほど匂いがないですね。
公園内の遊歩道は、ジャリ道から舗装され、ウォーキングしやすくしています。
池の東屋、北九州に帰郷した鉈目会(ナタメカイ)の山友さんがランニング後、缶ビールを
片手に、コイに餌をやっていたことを思い出しました。
桜が満開となると、桜のトンネルとなる直線道、早く桜が開花しないか、待ち遠しい。

運動公園を3周回しましたが、腰の痛みは今ひとつ。
日にち薬ですね。カテゴリの分類は「マラソン」かな?。

★:猫ひろしカンボジア五輪代表に決定!






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「マモ・ウォルデについて①」  (動画追加)       429

2012年03月25日 14時40分32秒 | マラソン
■以前、「アベベ・ビキラ」を読み、“マモ・ウォルデ”について気になっていたので書籍
やWebで資料を集め整理しましたので紹介します。

★2019.01.17:動画追加

■「マモ・ウォルデについて①」
マモ・ウォルデと言うと、「出た! エチオピアのマモ・ウォルデ~」の実況放送が
私の耳に残っています。良く分かりませんが、1968年メキシコ・オリンピック
の10000mだったのでしょうか・・・。回想にふけるのはこれくらいで。

○参考文献・Web
「ウィキペディア マモ・ウォルデ」
「アベベを覚えていますか」 著者 山田 一廣
「SR/オリンピック スポーツ」 英文
「マモ・ウォルデの試練」 ケニー・ムーア 英文
※英文は、Googleの翻訳を使用します。
(使用方法は、ブログ左側 「走る仲間リンク&代表ブログ紹介」の“海外通販サイト・ギター
検索”を参照して下さい)


●小作農の長男マモ
マモ・ウォルデ(以下、マモ)は1932年6月、エチオピアのアディスアベバから南西70
キロになるデブレゼント近郊の寒村で、小作農の長男として生まれた。
マモは、村の小学校に入学する前から、羊やヤギをユーカリの林の中で世話をしていた。
なかでも、マモは足が速く他の誰よりも多くに野うさぎやキジを手にした。他の子供たち
よりも俊敏だった。ユーカリの林をかけずりまわって腹が空くと、家に帰って新鮮なヤギ
の乳を飲み、ハチミツをなめていた。
小学校を2年でおえると、マモは父親の農作業を手伝い、16歳の時に親衛隊兵卒に
応募、試験を受けて親衛隊員となる。


●オーストラリア・メルボルンオリンピック(1956年11月~12月)
マモ(24歳)メルボルンオリンピックの中距離、800m(予選1 7位 1:58:00)
と1500m(予選1 11位 3:51:00)そして、4×400mリレー(予選1 5位
3:29:08)に出場する。


●ローマオリンピック(1960年8月~9月)
1957年5月、四軍(親衛隊、陸軍、海軍、空軍)の陸上競技大会に出場。
マラソンでは、1位がワミ、2位がアベベ(24歳)。
マモ(24歳)は、800mと1500mで1位となり、この三人を中心としたメンバー
約40名が、次回ローマオリンピックの強化選手に選ばれた。
強化選手の専任コーチはスウェーデン人のオンニ・ニスカネンである。

マモは話す「ニスカネン・コーチは長距離の選手を主体にトレーニングやっていて、短距
離とか中距離にはそれほど目を向けてくれなかった」

マラソンの代表には、アベベが選ばれた。ワミは直前に体調不良によりローマ行きを断念。
マモ(28歳)もまた、800mと1500mの代表に選ばれたが、コンゴ動乱にエチオ
ピアが出兵したため予算削減の理由から派遣中止を言い渡された。
アベベは、マラソンをはだしで走り栄光のランナーとなる。


●東京オリンピック(1964年10月)
1964年8月、オリンピック代表国内予選では、アベベは1着となり、中距離から転向した
マモ(32歳)が2着、3着のデミシュも加えられ、三人のフル・エントリーで臨んだ。

マラソンの前夜、三人はニスカネンの部屋に呼ばれた。
「アベベは10キロ地点あたりからトップを奪ってとばして、デミシュ、キミはアベベにできる
限りついていけ。マモ、怪我の方は大丈夫か、あまりとばさず、自分のペースで走れ」
マモは14日に行われた1万メートルで4位(28:31:08)に入賞したもののオースト
ラリアのクラークのけりあげたスパイクが左ヒザにつきささり、調子は万全でなかった。

10月21日午後1時、国立競技場を大歓声に送られ出発していった。
アベベは、20キロから独走態勢に入りオリンピック連勝した。
マモはアキレス腱を痛め、折り返し点近くでレースを棄権。

表彰式の後、エチオピア大使館で開かれた祝賀パーティで、アベベは「メキシコでもまた
勝ってみせるさ。マモ、今度はキミも最後まで走ってくれよ」
マモは、「自分もその時、アベベに負けてたままでいてたまるかって思いましたよ」

後に、マモは言う、「クラークにスパイクされなかったら、優勝していたと今でも思っているよ。
いや、優勝できなかったにしても2位になっていたね。そればかりじゃあない、マラソンで痛い
ところをかばうので、アキレス腱に負担がかかってしまい途中棄権した」
1万メートル、1位はアメリカのミルズ、2位はチュニジアのガムーディ、3位はオーストラ
リアのクラーク、4位マモ、6位円谷。

★You Tube 「ビリーミルズ1964金メダリスト1万メートル」 を観ると、確かにラスト
1周回前にマモは4位から3位となり、クラーク選手の直ぐ後ろを走り、ラスト1周回に
はマモは映像にありません。この直前に、スパイクされたのでしょう。

次はメキシコオリンピックに続く。

長距離王国エチオピアの誕生

 

 

 

 

 

 

 


★動画追加


東京 オリンピック 1964 10,000m


 

 



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「富津ふれあい公園」クロカン                 428

2012年03月24日 18時22分25秒 | マラソン
■本日(2012/03/24<土>)は、午後から”富津ふれあい公園(千葉県君津市)“
でクロカンをしました。


■「富津ふれあい公園」クロカン
富津ふれあい公園に到着、曇り空で気温が少し低い。
13:30スタート、公園内には舗装道の遊歩道がありますが、とにかく芝や土のうえ
を走ります。
梅が咲いています、そろそろ桜にバトンタッチかな。
野球場のグランドを突っ切る、日本庭園の横も走る。
陸上競技場の全天候トラックでは高校の陸上部が練習していました。
小高い東屋まで駆け上がる。桜の莟が、次回桜が開花の時に走ろう。
テニスコートでは、中学・高校の試合が行われていました。
パークゴルフ練習場の横を抜けると、折り返し点の高架橋。

復路は道に迷わず、15:00にゴール。
丁度、雨がポツポツと降り出しました。以前は2周回していましたが、本日はこれ
にて終了。


5月に走った“ふれあい公園クロカン”

千葉県富津市市民ふれあい公園クロカン



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「Jシマブクロと巡るハワイ・ウクレレの旅」を観て            427

2012年03月24日 11時39分49秒 | 音楽・楽器
■本日(2012/03/24<土>)は、3/17に放映があった「Jシマブクロと巡るハワイ・
ウクレレの旅」を再生したので、紹介します。


■「Jシマブクロと巡るハワイ・ウクレレの旅」を観て
○ハワイ
心地良い波の音、♪~ウクレレの軽やかな音が流れてきました。
オアフ島のワイキキビーチからダイヤモンドヘッドの構図は、絵ハガキや旅行パンフレ
ットに掲載されています。
ホノルル・マラソンの翌日、ダイヤモンドヘッドに走って登ってことを思い出します。

○ジェイク・シマブクロ
36歳 ウクレレ・プレーヤー、日系五世とのこと。島袋なのでルーツは沖縄から移住
したのでしょう。
ケン・コスギのようなアクセントのある話し方、日本の映画「フラガール」テーマ音楽を
担当した。インストゥルメンタル(通称、インスト<歌が入らないでウクレレ演奏のみ>)
作品で全米ワールドミュージックチャート2位を記録。

○カマカ ウクレレ
ウクレレといえば、カマカ(アコースッテクギターのマーチンのように)、ジェイクが高校生
の時から顔を出しているので顔見知りのようです。
クリス・カマカ(3代目)工場を取り仕切っている人物。弟のケイシー・カマカ、カスタム
(特注)セクション担当。もちろんジェイクの特注ウクレレも担当しています。

カマカ ウクレレは、サミュエル・K・カマカが1916年設立。
1800年代後期、ハワイにウクレレの原器(ブラギーニャ)を持ち込んだというポルトガ
ル移民のマヌエル・ヌネス。カマカはヌネスやクマラエにウクレレ製作を学んだ。
構えているのはスタンダードのパイナップル・モデル(隣人の画家が絵を書いた)
パイナップル・デカールのついたモデル。

工場見学、職人さんたちが、各工程を担当、ベテランの職人さんは世代交代している
ようです。クリス・カマカによる最終チェック、厳しくもあり作り出されたウクレレに愛情
を感じる眼差し。
工場内で職人さんやミュージシャンと即席のセッション、曲は“ウリリエ” バックには
ハイビスカスやワイキキビーチの砂浜が。コアの軽く明るいウクレレの音が~。

○ウクレレ ブック
1999年8月4日発行の「ウクレレ・ブック」
メガネを掛けた 野球部風の ジェイク島袋(22歳)やカマカ工場と若いクリス・カマカ。
オールドのウクレレ。カマカのウクレレも欲しいな。
夏はウクレレの軽い音が良いですね。




コメント (1)
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