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晴走雨楽(せいそううがく) 風の又三郎

晴れている日は山やロードを走り、雨の日は音楽や楽器演奏しています。風の吹くまま、気の向くまま・・・。

内みのわ運動公園ウォーキング                       430

2012年03月25日 18時36分36秒 | マラソン
■本日(2012/03/25<日>)は、晴天で絶好の高宕山トレラン日和ですが、腰が痛く
マッタリとしていました。午後から内みのわ運動公園をウォーキング。


■内みのわ運動公園ウォーキング
少し運動すれば、腰の痛みも回復するかと思い、運動公園をウォーキング。

梅が満開、梅の花はそれほど匂いがないですね。
公園内の遊歩道は、ジャリ道から舗装され、ウォーキングしやすくしています。
池の東屋、北九州に帰郷した鉈目会(ナタメカイ)の山友さんがランニング後、缶ビールを
片手に、コイに餌をやっていたことを思い出しました。
桜が満開となると、桜のトンネルとなる直線道、早く桜が開花しないか、待ち遠しい。

運動公園を3周回しましたが、腰の痛みは今ひとつ。
日にち薬ですね。カテゴリの分類は「マラソン」かな?。

★:猫ひろしカンボジア五輪代表に決定!






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「マモ・ウォルデについて①」  (動画追加)       429

2012年03月25日 14時40分32秒 | マラソン
■以前、「アベベ・ビキラ」を読み、“マモ・ウォルデ”について気になっていたので書籍
やWebで資料を集め整理しましたので紹介します。

★2019.01.17:動画追加

■「マモ・ウォルデについて①」
マモ・ウォルデと言うと、「出た! エチオピアのマモ・ウォルデ~」の実況放送が
私の耳に残っています。良く分かりませんが、1968年メキシコ・オリンピック
の10000mだったのでしょうか・・・。回想にふけるのはこれくらいで。

○参考文献・Web
「ウィキペディア マモ・ウォルデ」
「アベベを覚えていますか」 著者 山田 一廣
「SR/オリンピック スポーツ」 英文
「マモ・ウォルデの試練」 ケニー・ムーア 英文
※英文は、Googleの翻訳を使用します。
(使用方法は、ブログ左側 「走る仲間リンク&代表ブログ紹介」の“海外通販サイト・ギター
検索”を参照して下さい)


●小作農の長男マモ
マモ・ウォルデ(以下、マモ)は1932年6月、エチオピアのアディスアベバから南西70
キロになるデブレゼント近郊の寒村で、小作農の長男として生まれた。
マモは、村の小学校に入学する前から、羊やヤギをユーカリの林の中で世話をしていた。
なかでも、マモは足が速く他の誰よりも多くに野うさぎやキジを手にした。他の子供たち
よりも俊敏だった。ユーカリの林をかけずりまわって腹が空くと、家に帰って新鮮なヤギ
の乳を飲み、ハチミツをなめていた。
小学校を2年でおえると、マモは父親の農作業を手伝い、16歳の時に親衛隊兵卒に
応募、試験を受けて親衛隊員となる。


●オーストラリア・メルボルンオリンピック(1956年11月~12月)
マモ(24歳)メルボルンオリンピックの中距離、800m(予選1 7位 1:58:00)
と1500m(予選1 11位 3:51:00)そして、4×400mリレー(予選1 5位
3:29:08)に出場する。


●ローマオリンピック(1960年8月~9月)
1957年5月、四軍(親衛隊、陸軍、海軍、空軍)の陸上競技大会に出場。
マラソンでは、1位がワミ、2位がアベベ(24歳)。
マモ(24歳)は、800mと1500mで1位となり、この三人を中心としたメンバー
約40名が、次回ローマオリンピックの強化選手に選ばれた。
強化選手の専任コーチはスウェーデン人のオンニ・ニスカネンである。

マモは話す「ニスカネン・コーチは長距離の選手を主体にトレーニングやっていて、短距
離とか中距離にはそれほど目を向けてくれなかった」

マラソンの代表には、アベベが選ばれた。ワミは直前に体調不良によりローマ行きを断念。
マモ(28歳)もまた、800mと1500mの代表に選ばれたが、コンゴ動乱にエチオ
ピアが出兵したため予算削減の理由から派遣中止を言い渡された。
アベベは、マラソンをはだしで走り栄光のランナーとなる。


●東京オリンピック(1964年10月)
1964年8月、オリンピック代表国内予選では、アベベは1着となり、中距離から転向した
マモ(32歳)が2着、3着のデミシュも加えられ、三人のフル・エントリーで臨んだ。

マラソンの前夜、三人はニスカネンの部屋に呼ばれた。
「アベベは10キロ地点あたりからトップを奪ってとばして、デミシュ、キミはアベベにできる
限りついていけ。マモ、怪我の方は大丈夫か、あまりとばさず、自分のペースで走れ」
マモは14日に行われた1万メートルで4位(28:31:08)に入賞したもののオースト
ラリアのクラークのけりあげたスパイクが左ヒザにつきささり、調子は万全でなかった。

10月21日午後1時、国立競技場を大歓声に送られ出発していった。
アベベは、20キロから独走態勢に入りオリンピック連勝した。
マモはアキレス腱を痛め、折り返し点近くでレースを棄権。

表彰式の後、エチオピア大使館で開かれた祝賀パーティで、アベベは「メキシコでもまた
勝ってみせるさ。マモ、今度はキミも最後まで走ってくれよ」
マモは、「自分もその時、アベベに負けてたままでいてたまるかって思いましたよ」

後に、マモは言う、「クラークにスパイクされなかったら、優勝していたと今でも思っているよ。
いや、優勝できなかったにしても2位になっていたね。そればかりじゃあない、マラソンで痛い
ところをかばうので、アキレス腱に負担がかかってしまい途中棄権した」
1万メートル、1位はアメリカのミルズ、2位はチュニジアのガムーディ、3位はオーストラ
リアのクラーク、4位マモ、6位円谷。

★You Tube 「ビリーミルズ1964金メダリスト1万メートル」 を観ると、確かにラスト
1周回前にマモは4位から3位となり、クラーク選手の直ぐ後ろを走り、ラスト1周回に
はマモは映像にありません。この直前に、スパイクされたのでしょう。

次はメキシコオリンピックに続く。

 ★長距離王国エチオピアの誕生

 

 

 

 

 

 

 


★動画追加


東京 オリンピック 1964 10,000m


 

 

 ★

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