先日、航空自衛隊小牧基地を離陸後墜落した練習機は、宮崎県の新田原(にゅうたばる)基地所属とのことである。西都原古墳群は一ツ瀬川を挟んで、新田原基地の対岸で指呼の間である。5月中旬に古墳群を訪れたのは、晴天で基地での発着訓練を繰り返すF15の甲高いエンジン音が耳を突いた。
西都原古墳群訪問の目的は、男狭穂塚(おさぼつか)古墳と女狭穂塚古墳を見ることと、西都原考古博物館の観覧である。男狭穂塚古墳・女狭穂塚古墳に向かって走行すると、その手前で進行方向右手に鬼の窟(206号墳)と呼ぶ、形状に特徴がある古墳があった。それは円墳で、その周囲を外堤が巡っている。古墳時代後期の6世紀後半の築墳とのことである。
鬼の窟(206号墳)
次に訪れたのがガイダンスセンター「このはな館」の対面の女狭穂塚古墳である。大木が繁茂し墳丘の様子はうかがい知れない。一説によれば木花開耶媛(このはなさくやひめ)の陵墓で宮内庁の陵墓参考地となっている。墳長176mで九州では最長の前方後円墳とのことである。
女狭穂塚古墳
そこをあとにして西都原考古博物館に向かう道の左手に男狭穂塚古墳がある。これも陵墓参考地で木花開耶媛を妻とした瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の陵墓とされている。この男狭穂塚古墳も墳長176mの帆立貝形古墳である。
男狭穂塚古墳
しかし両古墳の築造年代は、5世紀前半の16代仁徳天皇の時代とされている。そのことから男狭穂塚古墳は諸県君牛諸井(もろかたのきみうしもろい)、女狭穂塚古墳は諸県君牛諸井の娘で大鷦鷯尊(おおさざきのみこと・16代 仁徳天皇)に嫁いだ日向髪長媛(ひむかかみながひめ)に比定されている。
古事記応神段は、“日向国諸県君の女、名は髪長比売、其の顔容は麗美”・・・とある。日本書紀巻十応神天皇十一年是歳条によれば、“日向国に嬢子有り、名は髪長媛、即ち諸県君牛諸井の女なり”・・・と記している。
記紀ともにその後の動静を記していないが、髪長媛は皇后ではなかったことから、仁徳天皇の倍塚(ばいつか)に葬られたとも考えられるが、日向に帰国し、父親である諸県君牛諸井の横の古墳に眠ることになったかと考えている。
そのように考えれば、九州で最大規模の古墳であることに納得でき、古代において大王家と縁深い土地であったと理解できる。
そのような背景を考えると、記紀の日向神話は、まったくの作り話ではなかろうと考えられる。
次回は、その日向神話の信憑性について考えたい。
<了>