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世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

西都原(さいとばる)古墳群

2025-05-29 08:20:43 | 古墳

先日、航空自衛隊小牧基地を離陸後墜落した練習機は、宮崎県の新田原(にゅうたばる)基地所属とのことである。西都原古墳群は一ツ瀬川を挟んで、新田原基地の対岸で指呼の間である。5月中旬に古墳群を訪れたのは、晴天で基地での発着訓練を繰り返すF15の甲高いエンジン音が耳を突いた。

西都原古墳群訪問の目的は、男狭穂塚(おさぼつか)古墳と女狭穂塚古墳を見ることと、西都原考古博物館の観覧である。男狭穂塚古墳・女狭穂塚古墳に向かって走行すると、その手前で進行方向右手に鬼の窟(206号墳)と呼ぶ、形状に特徴がある古墳があった。それは円墳で、その周囲を外堤が巡っている。古墳時代後期の6世紀後半の築墳とのことである。

鬼の窟(206号墳)

次に訪れたのがガイダンスセンター「このはな館」の対面の女狭穂塚古墳である。大木が繁茂し墳丘の様子はうかがい知れない。一説によれば木花開耶媛(このはなさくやひめ)の陵墓で宮内庁の陵墓参考地となっている。墳長176mで九州では最長の前方後円墳とのことである。

女狭穂塚古墳

そこをあとにして西都原考古博物館に向かう道の左手に男狭穂塚古墳がある。これも陵墓参考地で木花開耶媛を妻とした瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の陵墓とされている。この男狭穂塚古墳も墳長176mの帆立貝形古墳である。

男狭穂塚古墳

しかし両古墳の築造年代は、5世紀前半の16代仁徳天皇の時代とされている。そのことから男狭穂塚古墳は諸県君牛諸井(もろかたのきみうしもろい)、女狭穂塚古墳は諸県君牛諸井の娘で大鷦鷯尊(おおさざきのみこと・16代 仁徳天皇)に嫁いだ日向髪長媛(ひむかかみながひめ)に比定されている。

古事記応神段は、“日向国諸県君の女、名は髪長比売、其の顔容は麗美”・・・とある。日本書紀巻十応神天皇十一年是歳条によれば、“日向国に嬢子有り、名は髪長媛、即ち諸県君牛諸井の女なり”・・・と記している。

記紀ともにその後の動静を記していないが、髪長媛は皇后ではなかったことから、仁徳天皇の倍塚(ばいつか)に葬られたとも考えられるが、日向に帰国し、父親である諸県君牛諸井の横の古墳に眠ることになったかと考えている。

そのように考えれば、九州で最大規模の古墳であることに納得でき、古代において大王家と縁深い土地であったと理解できる。

そのような背景を考えると、記紀の日向神話は、まったくの作り話ではなかろうと考えられる。

次回は、その日向神話の信憑性について考えたい。

<了>

 


特別展「はにわ」馬形埴輪

2025-05-02 08:28:28 | 埴輪 はにわ

馬が日本列島にやってきたのは4世紀末~5世紀初で、古墳の副葬品である馬具が根拠となっている。文献上は、日本書紀・応神天皇十五年秋八月六日(425年)百済王は阿直岐を遣わして、良馬二匹を奉った・・・とある。

馬具名称については次の写真を参照願いたい。

先ずは、九博の「はにわ」展で見た埴輪から紹介する。

春日井市咲美二子山古墳出土 6世紀 春日井市教育委員会所蔵 九博にて

重文 熊谷市上中条出土 東博所蔵 九博にて

前橋市白藤古墳群V4号墳出土 6世紀 前橋市粕川歴史民俗資料館蔵

四条畷市忍が丘駅前遺跡出土 6世紀 四条畷市立歴史民俗資料館蔵

以下、『はにわ』展で見たモノ以外の埴輪から

奈良・四条1号墳出土 5世紀 橿考研所蔵

三次市緑岩古墳出土 みよし風土記の丘ミュージアム所蔵

岡山県真庭市・四ツ塚13号墳 6世紀 

和歌山大日山35号墳出土 風土記の丘資料館蔵

障泥(あおり)の文様が特殊である

馬形埴輪の数は多いが、今回はこれまでにしておく。

<了>