過日、『日本民俗文化大系3・稲と鉄』なる大書を読んでいると、考古学者である瀬川芳則氏の、次の一文が眼に入ってきた。以下、その部分を引用する。
『出雲国東部の意宇平野は意宇川を主たる水源としている。出雲大社の前身も、この川の上流の水源付近にあった水神であった可能性が強い(注:これは氏が初出ではなく従来から云われており、ほぼ定説である)。この意宇川下流域の耕地化を物語るのが「出雲国風土記」に記された国引神話である。
物語の最後に意宇の杜(もり)に八束水臣津野命が御杖(みつえ)を突きたてて、国引き事業が完了する。この意宇の杜周辺の耕地は、国引神話に仮託された干拓事業であろうか、それとも意宇川からの流砂が堆積したものであろうか(注:出雲国風土記によれば、国引きしてきたのは、島根半島の国々であり、意宇の平地は意宇川の沖積平野である)。いずれにしても稲作に適した耕地となった。その御杖を突き立てた意宇の杜が、田ノ神を祀る場所となった。
(意宇川の上流域に熊野大社が鎮座する。この上流の水源が発祥地と云われている)
(手持ちの写真が見当たらないのでGoogle Eartより借用した意宇の杜)
意宇の杜とは、郡家の東北の田の中にある周囲八歩(15m)ばかりの樹木の茂る小丘であった。それは聖林と思われる。民俗学的には山の中の水源の神すなわち山ノ神でもある農耕神が、田のある低地におりてきて田ノ神となり、収穫の終わるまで、とどまる杜ということになる。
インドシナ山地のアカ族は、新しい土地に移住するに際し、居住地を決定するより先に、土地神である森の神が依る一本の樹木(聖樹)に小さな祭壇をとりつけ、この樹木と祭壇を囲む垣を設けて、そこに集落や焼畑を営むこのへの許しを得た。
(過去に聖樹と祭壇を囲む垣の写真を見た記憶があるが、現在は覚えていない)
このアカ族と八束水臣津野命の国引き神話ダイレクトに結び付けることはできないが、古代日本においても、意宇の杜にみられるような土地神(山ノ神、田ノ神)のイメージが存在したものと考えられる。』以上である。
ここで、瀬川氏は「古代日本においても、意宇の杜にみられるような土地神(山ノ神、田ノ神)のイメージが存在したものと考えられる。」としておられるが、考えられるのではなく存在した。氏も記されているが、アカ族の習俗と出雲・意宇の杜の故事は直接的には繋がらないであろう。但し、国引きが終わるということは国土が創生されたことであり、その中心に御杖を立てたとある。御杖とは北タイで云うラック・バーン(ムラの祖柱)にほかならず、古の習俗が似ていることは事実である。
これらの北タイにおける少数民族の習俗をもっと知りたいが、COVID-19騒ぎで行けない。一度自分の目でみたいものだ。
<了>