世界の街角

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ดอกงิ้ว(ドーク・ギウ)の咲く処・雲南タイ族の世界(2)

2021-06-04 07:50:23 | 古代の東南アジア

【村の中心ツァイマンと祖霊信仰】

 

今回は、表記テーマで記す。以下、古島さんの文章である。

”孟連から南進すると芒信(マンシン)に至る。そこにはツァイマンと呼ぶ村の中心があり、照葉樹の木を植え、竹垣と石垣で囲ってある。村はずれの田畑の隅にはターレオを掛けた竹竿が何本も立っている。樹木が茂る森の入口の藪が村の祭祀場であった。

雲南タイ族の伝説によると、タイ族の祖先のあいだにサンムーティという聡明な若者が現れた。彼は人々を引き連れて山に登り、材木を伐りだしてきた。それから敷地の中央に尖った赤い石柱を立て、十本の木柱で囲み、その周囲に家を建ててムラを作った。ムラを作ったタイ族の祖先は農耕生活を開始し、やがて幾つかのムラを統合してムオン(ムアン)すなわちクニを作り、サンムーティは王と呼ばれるようになったと云う。

ムラの中央に立てた柱を“ツァイマン”といった。雲南のタイ族では、ツァイは中心、マンは村、つまり村の中心という意味であり、中国語で“寨心”と呼ぶ。ツァイマンは目印の柱であったが、人口の増加とムラ繁栄を願い、生殖を象徴する形であった。後にそれは最初にムラを作った指導者を祀る場ともなり、村人の結合の象徴ともなった。タイ族の村には必ずツァイマンがあり、タイ族の村はツァイマンを中心とした集合型集落である。

ツァイマンの原形は、木柱または石で作った生殖器の形であらわす。木柱は上部を尖らせて赤く染め、地面に立てる。高さは1m以上のものもある。草葺きの小屋を建てて蔽う。石の場合は先の尖ったガチョウの卵大の石を置き、そのかたわらに卵形の小石を二つ埋める場合もある。

耿馬県孟定のタイ族村のツァイマンは、集落の中央あたりに草葺きの小屋があり、そのなかに生殖器のシンボルの木柱と木が一本植わっていた。囲いの竹垣には、小さく切った瓜や芋などを藁に通し、輪にしたものがたくさんかけてある。豊作を感謝して村人が供えたものである。”・・・以上である。これらの記事と共に写真が掲げてあった。借用して以下に示す。

掲げられていたのはモノクロ写真。上端の色が濃いので、これが赤色であったと思われる。これは北タイのタイ人(コンムアン:シャム族)や少数民族がラック・ムアンと呼ぶ村の祖柱と同じである。何度も掲げて恐縮であるが、下の写真はチェンダオのパローン族村の村の祖柱である。成程先端がとがっている。

パローン族村の柱は、写真のように東屋風建物に収まっているが、先の耿馬県孟定のタイ族村のツァイマンは、集落の中央あたりに草葺きの小屋がありそこに収まっているという。その写真も拝借してかかげておく。

見ると高床式建物の床面にあたる建物の外面に、古島さんが記述する”小さく切った瓜や芋などを藁に通し、輪にしたものがたくさんかけてある。豊作を感謝して村人が供えたもの”である。成程、タイヤイ族はこのような方法で供物を捧げるのであろう。この供物を捧げる方法に拘るが、これはチェンマイでも見かけた覚えがある。

それは、チェンマイ旧市街の北東の濠の外側のWat Pa Paoのオークパンサー(出安居)で特別につくられた紙製の仏塔に、これらの供物が供えられていたのを見ていたのである。僧侶は、3カ月前のカオパンサーから寺籠りの修行に入るが、新暦10月の満月の日に寺籠りが明ける、それをオークパンサーと云い、その籠り明けの行事をテオロハナ行事と呼ぶ。チェンマイではタイヤイ(シャン)族の寺院、ワット・パーパオが著名である。下の紙製の仏塔の周囲に取り付けられている。

チェンマイに住いするタイ・ヤイ族はこのような形で、村の祖柱(すなわち祖霊にほかならないが)やオークパンサーに供物を供えるようだ。オークパンサーは新暦10月の満月の日に祝うが、これは稲作の収穫を祝う時期とも重なる。

日本人は三方に供え物を盛るが、タイヤイ族は紐に通して掲げるように供えるようだ。民族によるちがいをみるのも楽しからずや。

 

<了>