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道祖神とアカ族の男女交合像

2020-01-02 06:15:21 | 道祖神・賽の神・勧請縄・山の神

新年ということで、豊穣に関する話題をひとつ。最近、興味があり怨念や祟りについて調べている。長年分かったようで分からないことがあることによる。そのことは後に綴ることにして、先ず怨念や祟りについて記すことにする。

従来、怨念や祟りをなす霊を鎮め、神として祀れば『御霊』として霊は鎮護の神となる・・・との御霊信仰に遡れるのは、平安時代までと云われていた。

平安時代・菅原道真の怨霊は凄まじかった。道真は大宰府配流後不遇の死を遂げる。京の都は道真の怨霊が暴れまくり、死の数年後には配流の首謀者の一人、藤原菅根が54歳で亡くなり、その後配流の張本人・藤原時平は病死することになった。これが道真の祟りと云われ、その霊魂を鎮めるために北野天満宮が造営された・・・とのことである。

(北野天満宮 Wikipediaより)

ところが飛鳥時代から奈良時代にかけての長屋王の事例はどうであろうか?・・ 藤原不比等の息子である四兄弟が相次いで病死したのは、不遇の死を遂げた長屋王の祟りと云われている。長屋王は高市皇子の長男で、天皇方の重鎮となったが、対立する藤原四兄弟の陰謀といわれる長屋王の変で自殺に追い込まれた。その長屋王の祟りで、四兄弟が相次いで病死したと云うのである。

しかしながら怨霊・祟りは、漠然ながらも更に時代が遡るのではないか・・・との思いで種々検索すると、十数年前の著述でやや古いものの、『呪いと祟りの日本古代史・関裕二著』なる書籍がヒットした。下に述べる著述内容の多くは、『呪いと祟りの日本古代史』を参考にしている。

関裕二氏によれば、呪いと祟りは縄文時代以来とのニュアンスである。やや長文であるが、関裕二氏の記述を転載する。

“縄文時代以来、日本列島の住民は山、川、草木、路傍の石、生きとし生けるもの、雷、嵐、すべての現象の中に『精霊』が宿ると信じていた。これをアニミズムといい、のちに多神教につながっていく。すなわち『物』と精霊は不可分の関係にあった。また大自然は、人間に恵みをもたらすとともに、災害や疫病などの災難をもたらす。このため、人智のおよばぬ大きな力を神とみなし、その神には、両面性があると信じられた。すなわち、これが『神』と『鬼』の二面性であり、一神の中に『和魂・にぎみたま』と『荒魂・あらみたま』という、ふたつの顏があると信じられていた。

古代人にとっての神とは、むしろ『鬼』の属性の方が強かったと云えるかもしれない。『さわらぬ神に祟りなし』と云うように、人々は神の怒りを怖れ、暴れ回ることを必死に抑えようとした。これが後に祭りとなるが、荒々しい神をなだめることで、恵みがもたらされると信じたのである。“・・・このように記述されている。

更に井沢元彦氏の『逆説の日本史・古代黎明編』によれば、“大和朝廷は、なぜ丁重に大国主命を祀ったか。それは怨霊信仰による。大和朝廷が誕生するのは五世紀、周建国(周は殷を亡ぼした。亡ぼした殷の霊が祟るのを怖れ祭祀を行った。それが怨霊信仰の始まりだと、井沢元彦氏は記している)の千五百年後である。この間に中国の怨霊信仰は、確実に日本へ伝わったであろう。”・・・としている。

 

う~ん。読んでいると北タイ山岳部に居住する、山岳少数民族の霊(ピー・พี)や魂(クワン・ขวัญ)と重なってくる。じつはこれが今回の主題と繋がるのだが、それは先に述べるとして、関裕二氏の著述内容を続けてレビューする。

以下の一文が、大和岩男著「神々の考古学」から引用する形で掲載されている。“中部地方の縄文中部遺跡には、亀頭状の石棒が立つと云う。その石棒の伝統は弥生時代にも継承されている。信州で見られる道祖神は、縄文時代と同じ男根状の石棒、石柱をそのまま使用していると云う。男性や男女の性器が境の神になっているのは、境界が相反するものが結びつく結界だからであり、その結びつきが新しい生命の創造、豊穣を約束するからである。性交は相反する性器をもつ男女の結びつきであり、結界をしめしていることになる。”・・・とある。

(出典:WikiPedia 長野県南佐久郡佐久穂町を流れる北沢川から出土し、同町高野町上北沢1433に保存されている石棒が道祖神とされている。縄文時代中期後半に作られたものが、道祖神として崇められている。)

更に“『柱』は男根とともに太陽神の依代で、三内丸山遺跡の6本の巨大な木柱や、縄文信仰の名残りを留めると云われる諏訪の御柱祭りの『御柱』も同じであろう”・・・とも記されている。

つまり、太古の信仰形態は、本来男女ペアで豊穣をもたらすものとされたと記されている。

噺は飛ぶ。縄文期の男根が、新しい生命の創造や豊穣を表しているであろう・・・ことは何となく理解できる。上北沢の男根状道祖神以外にも多くの男根が、道祖神として祀られている。下の写真はWikipedia掲載の宮城県遠田郡美里町北浦に近年奉納され鎮座している道祖神である。男根が三柱鎮座する道祖神である。

噺が連想ゲームのように飛躍して恐縮である。この男根柱は天御柱(あめのみはしら)ではないかとの想いが頭を過ぎる。伊邪那岐命と伊邪那美命は、天浮橋に立ち、天沼矛(あめのぬぼこ)で渾沌とした地上を掻き混ぜる。矛から滴り落ちたものが淤能碁呂島(おのごろじま)となる。二神は淤能碁呂島に降り『天御柱』と『八尋殿』を建て、天御柱を巡り国産み、神産みにおいて日本の国土を形作る多数の子をもうけた・・・との伝承である。この『天御柱』は男根柱に他ならないと考える。

更に噺は飛躍する。森幹男氏は、その論文『タイ系諸族の「クニの柱」祭祀をめぐって(2)』で以下のように記しておられる。“自然木の樹幹を円柱状に加工彫像した「クニの柱(หลักเมือง・ラックムアン)」の形状は、しばしば男根の相似形として認識される。そしてここから「クニの柱」の範形をSivalingaに求める見解が成立する。外観的な類似に加えて、その機能も通じるとして、それは王権と結合し、最高権威を象徴している”・・・と記されている。

(写真はチェンマイ県チェンダオのパローン族・クニの柱である)

『天御柱』と「ラックムアン」は、その奥深い底流で何か繋がっているように思えなくもない。

噺が飛躍しているが、もう30年以上前の噺で記憶がやや曖昧である。台湾・日月潭の九族文化村で少数民族の家屋を巡っている時、その家屋間は離れており、その中間点で男根柱を見た記憶がある。現在どうなっているか知る由もないが、ネット検索していると存在はしているようだ。

(九族文化村・パイワン族の男根柱 Wikipediaより)

記憶にある男根柱と写真のそれは異なっており、離れた家屋と家屋の境で見た覚えがあり、それは上掲写真より小形であった。

次の事も記憶は飛んでいるが、パイワン族の家屋には、2本の祖柱があり『男柱』、『女柱』もしくは、2本1体で『男女柱』と呼ぶそうである。

噺が飛びまくったが本題に戻る。道祖神は、新しい生命の創造・豊穣の象徴で結界であるという。なるほど道祖神は村落の境界や峠(才ノ峠神=道祖神)に立っている。結界であるからには、邪悪なモノの村落への侵入を阻止する役目も持っていることになる。

(写真は旧・岩見国安濃郡大田南村と吉永村を隔てる才ノ峠に鎮座する才ノ峠神社の才ノ神、すなわち道祖神である。まさに結界の役割を果たしていることになる。)

そこで道祖神であるが、Wikipediaによると、その起源はよく分からないと、以下のように記す。8世紀半ばの『続日本紀』天平勝宝8年(756)道祖王なる表現があると云う。そして道祖神は路傍の神、集落の境や村の中心、村内と村外の境界や道の辻に石碑や石像の形態で祀られる神、厄災の侵入防止や子孫繁栄を祈願するために村の守り神とされている。五穀豊穣のほか夫婦和合・子孫繁栄・縁結びなど『性の神』として信仰を集めた・・・とある。まさに何でもありだ。

また出雲神話の故地・出雲には道祖神が少ないと記しているが、それなりに見ることができる。先ず、それを紹介しておく。

(出典:島根県HP)

旧・出雲国の道祖神で、出雲市口宇賀町の宇賀神社境内に鎮座している。宇賀とは出雲国風土記(733年)に出雲郡宇賀郷と記されている、その入り口である口宇賀にある道祖神なので、村落の境界に立つ結界と理解してもよさそうである。

宇賀神社境内に鎮座する道祖神は双体道祖神が3つ、男神の道祖神が1つであった。結界と夫婦和合、ひいては豊穣をもたらす存在であろう。これと似た噺が北タイに存在する。本題のアカ(哈尼・ハニ)族の結界と男女交合像である。先ず写真を御覧願いたい。

二本の柱に笠木が横たわる鳥居状の構造物はアカ族集落の入口に立つ結界である。笠木の上にはカササギと思われる木製の鳥やターレオ(鬼の眼)が並んでいる。エイリアンや邪悪なピー(พี)の侵入を監視する鳥と鬼の眼である。

更には白抜きの丸で囲った男女の交合像が鎮座している。下の拡大写真を御覧願いたい。

この交合像の意味は、豊穣や子孫繁栄を願ってのものと勝手に理解し、分かったようにしていたが、どうやらそれと共に道祖神と同じように、結界の役割も担っていたものと思えてきた。このように従来は漠然と、その役割を理解していたが、縄文以来の男根柱を道祖神とした古代人の想いと、アカ族の習俗が似かよっていたであろうと考える次第である。

そのアカ族であるが、アカ族と弥生遺跡から出土した倭人の人骨のDNAや骨格が、一致または極似しているとWikipediaは云うが、出典がハッキリしないものの、揚子江中流域から下流にかけての地がアカ族や倭族本貫の地との説もあり、此の事も上述の内容を肉付けていると云えなくもない。

北タイの少数民族は現代化の波にのまれ、その風俗や習慣、人々の口承伝承が失われるのは時間の問題である。一人でも多くの若き研究者が、その保存に注力されることを望んでいる。

 

<了>

 


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