とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

夏目漱石作「一夜」を読みました。

2023-05-20 16:30:01 | 夏目漱石
 夏目漱石の初期短編「一夜」を読みました。これも『吾輩は猫である』が書かれていた時期に発表された作品です。とても短い小説なのですが、一読しただけでは訳がわかりません。いや再読しても訳がわかりませんでした。

 夏目漱石自身が『吾輩は猫である』の中で次のように書いています。

(東風)「せんだっても私の友人で送籍(そうせき)と云う男が一夜という短篇をかきましたが、誰が読んでも朦朧として取り留めがつかないので、当人に逢って篤と主意のあるところを糺して見たのですが、当人もそんな事は知らないよと云って取り合わないのです。全くその辺が詩人の特色かと思います」

 自分自身で取り留めがつかないと言っているくらいなのですから、わかりっこありません。ただしここにヒントがあったのも事実です。引用した部分は現代の詩について話をしている最中に東風が言ったものです。では漱石の考える「詩」とは何か。それは「写生文」だったのでしょう。

 「写生文」とはできるだけ客観的に描写する技法だと考えられます。しかし当時の日本人には難しいことだったのだと考えられます。基本的に当時の日本語では語り手は客観的な立場に立ちにくかった。客観的な立場で書くのは報告文になります。これは漢文訓読調で書かれなければなりませんでした。言文一致の文体では客観的に書いた文章例がなかったのです。同時に、以前書いたのですが、日本語の文章では語り手は場の当事者になりやすい。だから英語などのヨーロッパ語ではできた客観的な描写が、日本語ではできにくかったのだと思われます。

 しかし漱石は別の文章で次のように言っています。

 写生文家の人事に対する態度は貴人が賤者を視るの態度ではない。賢者が愚者を視るの態度でもない。君子が小人を視るの態度でもない。男が女を視、女が男を視るの態度でもない。つまり大人が小供を視るの態度である。両親が児童に対するの態度である。

 これを読む限り、客観的な書き方ではないことがわかります。漱石は語り手の主観を大切にしながら、対象にくっつきすぎず、親が子供を見守るように書くことを実践しようとしていたことがわかります。これが日本的な小説文体につながるのではないかと考えていたように思われるのです。

そういう意味で漱石の思考過程を考えるうえで貴重な作品なのかもしれません。
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柳家喬太郎独演会に行きました。

2023-05-17 15:41:46 | 落語
 山形県の川西町フレンドリープラザで開催された「柳家喬太郎独演会」に行きました。喬太郎師匠は自分でも強調していましたがあまりメディアにはでません。そのために一般的な人気はテレビによく出る落語家さんたちよりは若干下回ります。しかし今の落語会ではトップレベルの実力です。上手いだけではなく面白い。しかも古典も新作もやる。ついでにウルトラマンも詳しい。そんな喬太郎師匠の独演会、楽しい時間をすごさせていただきました。

 川西町フレンドリープラザというのは、井上ひさしさんの生まれた川西町小松につくった施設です。井上さんから贈られた井上さんの蔵書による遅筆堂文庫と川西町図書館とホールでできた施設です。県外からいらっしゃる方にはアクセスが少し不便ですが、地域文化の拠点となっています。

 今回の演目は「普段の袴」「社食の恩返し」「品川心中」。「社食の恩返し」は新作落語。「品川心中」は前半のみ。後半は近年演じる人はほとんどいないとウィキペディアに出ていました。先日ここに書いた「子別れ」の逆のパターンですね。ぜひ通しで聞いてみたい。

 喬太郎師匠は女性を演じるのが実にうまい。笑いの中にしみじみとした情緒がある。膝を悪くしているようだが、年齢的にはこれからが落語家として一番円熟する時期です。さらに素晴らしい落語を聞かせてほしいと思います。
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立川談春独演会に行きました。

2023-05-14 06:41:27 | 落語
5月12日(金)に仙台市電力ホールで行われた「立川談春独演会」に行きました。談春師匠の語り芸を堪能するとともに、珍しい試みを楽しませていただきました。

今回の落語会の演目は「子別れ」だけ。中入りを挟んでほぼ2時間ずっとひとつの噺だったのです。「子別れ」は前に聞いたことがある噺だったのですが、そんなに長い話ではなかったはず。

調べてみると近年演じられるのは後半部分で、今回は前半部分も演じてくれたのでした。前半は酒好きで仕事に疎かになって、妻にも尊大になってしまう夫婦の別れまでの話で「強飯の女郎買い」と呼ばれることもあるそうで、後半は夫が酒を断ってまじめに働きだし、夫婦が元の鞘に収まるまでの話で、「子は鎹」とも呼ばれています。

前半と後半がまるで違う話のようにも聞こえます。しかし人情噺というのはもともと長いものが多かったようです。今回の談春師匠の挑戦は歌舞伎の通し狂言のようなものと言ってもいいのでしょう。

なるほど、全体の構成がよくわかるし、前半の滑稽噺のようなおもしろさと、後半の人情噺のおもしろさがしっかりと味わうことができました。

今年、談春師匠は三三師匠と圓朝の「牡丹燈籠」のリレー落語を行っているそうです。とても興味があります。可能ならば聞きにいきたいと考えています。チャレンジを続ける談春師匠を応援したいと思います。
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近代文学と日本語の特質

2023-05-12 17:20:32 | どう思いますか
 論文を書くために考えていることの粗案を書き残す。これを発展させられればと思っている。

 日本語の主語の概念は英語をはじめとする西洋語の主語の概念とはちがうものである。学者によっては日本語に主語はないと言う。たしかに英語のような主語を日本語に当てはめるのはむずかしい。しかし日本語にも、事態の主となる名詞は存在する。日本語の主語とはそういうものであろう。つまり主語の概念が違うのである。

 この言語の違いが、明治期の近代文学の生成に大きく影響を与えた。近代文学は基本的に書かれた小説であり、そこには定点となる客観的視点を持った「語り手」が必要だった。それが江戸時代までの日本語にはなかったのである。
 ないならばないでいいではないかと思われるかもしれない。確かにそれでも悪くはない。しかし「近代」は個人の時代であり、個人とは独立した存在である。だから客観的な視点で描かれる必要がある。と少なくとも当時の文学者は考えた。そこで客観的に描くための文体を手に入れなければならなかった。
 事情はそこからもう一段階複雑になる。例えば英語では語り手は話題とされている場の中には存在しない。英語の文の主語はそもそも客観的な視点の中にいる。それに対して日本語は話題とする場の中に「語り手」は存在しているのだ。そのために「語り手」は事態の当事者になってしまうのだ。
 日本の近代文学において困難だったのは、日本語の特質として主観的な立場に立つことが当たり前だった「語り手」が、西洋的な客観的に立場に立たなければいけないと考えたことによるものだった。
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夏目漱石作「琴のそら音」を読みました。

2023-05-09 18:32:47 | 夏目漱石
夏目漱石の初期の短編「琴のそら音」を読みました。明治38年(1905年)5月に発表された小説です。これは『吾輩は猫である』の連載中です。初期の作品は登場人物が勝手に想像を大きくしていき大事のように思われるのにも関わらず、実はたいしたことがなかったという内容のものが多くあるのですが、これもそのうちの一つです。小山内薫の主宰する雑誌「七人」に掲載され、明治39年5月、『倫敦塔』、『幻影の盾』『趣味の遺伝』とともに『漾虚集』に収録され出版されました。この小説は小説としてはどうとらえていいのかわかりません。私が言うと失礼なのは承知で言いますが、決して優れた作品ではないと思います。しかし、この時期の夏目漱石がどういう意図で小説を書いていたのかを考える上でとても重要な作品だと思います。

語り手は「余」で、一人称小説です。「余」に内的焦点化がなされています。つまり「余」の内面の心理は描かれていますが、「余」以外の人物は「余」の視点から描かれるので心理はわかりません。

「余」は自分の家を持ち、婚約者の母親が選んだ迷信好きの婆さんに世話されて住んでいます。心理学者の友人のところで、出征している夫が持っていった鏡に妻の姿が映って、夫が問い合わせるとその日はインフルエンザにかかっていた妻が死んだその時だったという話を聞かされます。

ここで「鏡」が出てくることに注目です。『吾輩は猫である』にも、「幻影の盾」にも鏡が出てきます。「鏡」は漱石にとってどういう記号だったのでしょうか。考えてみる必要があります。

実は約者はインフルエンザにかかっていました。「余」は友人の部屋を出ると、夜道を帰ると雨は降り出し、葬式の一行にも出会います。なんだか不吉です。婆さんが迎えに出て、今夜は犬の遠吠えが違っていると言い張ります。不吉さが頂点に達します。不安な気持ちで翌朝早朝から、婚約者の家を訪ねます。すると婚約者の風邪はとっくに治っていたのです。チャンチャンと言ったところでしょうか。

漱石は『文学論』という文学書を書いています。書いたというよりも東大の講義録と言ったほうがいいのかもしれません。この中で有名な「F+f」というものがでます。Fは焦点的印象又は観念を意味し、fはこれに附着する情緒を意味します。漱石は初期にこのfの暴走を描こうとしていたのだと思われます。それはなぜなのか。今の私の探求テーマです。
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