Uー18 W杯に日米間の野球文化の違いを見た:
昨29日は徒然なるままに、この勝って当たり前の高校生野球のW杯での日本対アメリカの試合を見ていた。いきなり観戦の感想と批評を述べてしまえば
「甲子園野球という小宇宙を形成してしまっている我が国 対 これから組織の上部に上がって行こうとする素材を養成しているアメリカとの違いが余りにも明らかに出ているという点では興味深かった」
となる。即ち、「高校野球を頂点に頂いて、そこでトーナメントを勝ち抜く為に研究され開発された細かい技が基本となって大学、実業団、プロ野球が成り立っている我が国の段階的野球の組織とその文化の前にあっては、素材を見出して育成する段階にあるし、その素材が将来野球を選んで大学なりプロなりで続けていくとは限らないアメリカとでは、単なる異文化の衝突に終わった」という感が濃厚だった。
より具体的に言えば、佐藤世那という仙台育英の投手は既に指摘した通り18歳の段階でフォークボールという変化する球(breaking ballと言うが)を中心に組み立てた投球をするある意味で「プロのように」出来上がってしまった投手なのである。一方アメリカの先発投手はアナウンサーも解説の渡辺氏(横浜高終身名誉監督)もプロがドラフト”#1に指名するだろうと指摘した素材だった。重ねて言うが「素材」乃至は「逸材になる途上」の高校生ン集団だ。
従って、このアメリカの投手は速球(もう好い加減にストレートなどという妙なカタカナ語を止めようよ)とスライダーを力一杯投げるだけで、素材としては認めるが未だ制球力(カタカナ語でコントロールだろう)も不十分で、どちらかと言えば古き良き「行く先は球に聞いてくれ」という部類に入る未完成とも言えない段階にあると見た。
話は変わるが、私が知る限りではあの広いアメリカには高校の全国大会などないのだそうだ。精々各州毎にフットボールや野球等の大会を開催する程度だと認識している。考えてもご覧なさい、面積で言えばカリフォルニア州だけも我が国よりも遙かに広いのだし、東西の海岸の間には3時間の時差がある国だ。あの州単位で統治されている国で、連邦政府が全国大会を開こうとするだろうか。そんな奇特なスポンサーがいるのだろうか。
日米間の高校生の野球の質の違いを具体的に言おう。私にはあの高校生たちが何処の州から集められてきたかは知る由もないし、テレ朝はそこに触れようともしなかった。監督をする人は50州を見て回れというのか。あり得ないだろう。その結果というか何と言うか、集まった高校生たちはティームとして纏まっていないというか阿吽の呼吸が合うまでに至っておらず、つまらないミスが多く見られた。
方や我が国の高校生の代表は甲子園に出られるまでの練習であの段階で勝てるようになる為に鍛え上げられているから、寄せ集め集団だったアメリカのような初歩的な失敗もなく、Okoyeなどの相手の隙を突く走塁などで圧倒して見せた。私にはこの質の違いを「立派な勝ちだった」と賞賛すべきか、「異文化の衝突が興味深い結果となって現れた」と、得意の文化比較論に持って行くべきか俄に判断出来ないのだ。
言葉を換えれば「既にある程度以上出来上がっていて、中には既に伸びしろがそれほど残っていない者がいる集団」と「体格と身体能力には優れているが、野球用の素材としてはこれから磨き上げねばなるまいと思わせる集団」の国際試合、しかも予選リーグでの対戦だったのである以上、「勝った、勝った」といって喜んでいたり、褒めあげる報道の仕方をするのは「文化の違い」を正しく伝えていない気がするのだが、如何か。
私が呆れ返ったのは、あの大阪の舞洲という内野に芝生がない野球場を選んで大会を開催する感覚である。それが高野連を従える朝日の決定か、高野連そのものか、スポンサー様の選択かは全く知る由もない。だが、今時甲子園の真似をしたが如きのあの野球場には、アメリカは言うに及ばず他国の高校生・監督・コーチは唖然としたのではないかと疑う。日本は内野に芝生を植えられないほど貧乏だったのかと感心されはしないか。
話は変わるが、30年ほど前にW社の本社からの木材部門の駐在者を出張者とともに神奈川県の高校のフットボールの試合に案内したことがあった。グラウンドは勿論ごく普通の高校の野球場兼用のものだった。彼は翌日本社の同僚にFAXで送った感想文を見せてくれた。そこには「驚く勿れ、日本の高校では泥(dirt)の上でフットボールをやっていた」とあった。これって、単なる文化の違いを表しているだけか。
ここまでお読み頂けばお解りかと思うが、私は心中密かにマスコミを批判したくて纏めた一文でもあるのだ。アメリカに行ってご覧。地方の小さな公立の高校でもスタンド付きのフットボール場があるよ。我が国における社会資本の不充実か教育施設の不備か、あるいは両方か。そんなことだから、国立競技場建設問題であれほど不手際が目立つのだ。
昨29日は徒然なるままに、この勝って当たり前の高校生野球のW杯での日本対アメリカの試合を見ていた。いきなり観戦の感想と批評を述べてしまえば
「甲子園野球という小宇宙を形成してしまっている我が国 対 これから組織の上部に上がって行こうとする素材を養成しているアメリカとの違いが余りにも明らかに出ているという点では興味深かった」
となる。即ち、「高校野球を頂点に頂いて、そこでトーナメントを勝ち抜く為に研究され開発された細かい技が基本となって大学、実業団、プロ野球が成り立っている我が国の段階的野球の組織とその文化の前にあっては、素材を見出して育成する段階にあるし、その素材が将来野球を選んで大学なりプロなりで続けていくとは限らないアメリカとでは、単なる異文化の衝突に終わった」という感が濃厚だった。
より具体的に言えば、佐藤世那という仙台育英の投手は既に指摘した通り18歳の段階でフォークボールという変化する球(breaking ballと言うが)を中心に組み立てた投球をするある意味で「プロのように」出来上がってしまった投手なのである。一方アメリカの先発投手はアナウンサーも解説の渡辺氏(横浜高終身名誉監督)もプロがドラフト”#1に指名するだろうと指摘した素材だった。重ねて言うが「素材」乃至は「逸材になる途上」の高校生ン集団だ。
従って、このアメリカの投手は速球(もう好い加減にストレートなどという妙なカタカナ語を止めようよ)とスライダーを力一杯投げるだけで、素材としては認めるが未だ制球力(カタカナ語でコントロールだろう)も不十分で、どちらかと言えば古き良き「行く先は球に聞いてくれ」という部類に入る未完成とも言えない段階にあると見た。
話は変わるが、私が知る限りではあの広いアメリカには高校の全国大会などないのだそうだ。精々各州毎にフットボールや野球等の大会を開催する程度だと認識している。考えてもご覧なさい、面積で言えばカリフォルニア州だけも我が国よりも遙かに広いのだし、東西の海岸の間には3時間の時差がある国だ。あの州単位で統治されている国で、連邦政府が全国大会を開こうとするだろうか。そんな奇特なスポンサーがいるのだろうか。
日米間の高校生の野球の質の違いを具体的に言おう。私にはあの高校生たちが何処の州から集められてきたかは知る由もないし、テレ朝はそこに触れようともしなかった。監督をする人は50州を見て回れというのか。あり得ないだろう。その結果というか何と言うか、集まった高校生たちはティームとして纏まっていないというか阿吽の呼吸が合うまでに至っておらず、つまらないミスが多く見られた。
方や我が国の高校生の代表は甲子園に出られるまでの練習であの段階で勝てるようになる為に鍛え上げられているから、寄せ集め集団だったアメリカのような初歩的な失敗もなく、Okoyeなどの相手の隙を突く走塁などで圧倒して見せた。私にはこの質の違いを「立派な勝ちだった」と賞賛すべきか、「異文化の衝突が興味深い結果となって現れた」と、得意の文化比較論に持って行くべきか俄に判断出来ないのだ。
言葉を換えれば「既にある程度以上出来上がっていて、中には既に伸びしろがそれほど残っていない者がいる集団」と「体格と身体能力には優れているが、野球用の素材としてはこれから磨き上げねばなるまいと思わせる集団」の国際試合、しかも予選リーグでの対戦だったのである以上、「勝った、勝った」といって喜んでいたり、褒めあげる報道の仕方をするのは「文化の違い」を正しく伝えていない気がするのだが、如何か。
私が呆れ返ったのは、あの大阪の舞洲という内野に芝生がない野球場を選んで大会を開催する感覚である。それが高野連を従える朝日の決定か、高野連そのものか、スポンサー様の選択かは全く知る由もない。だが、今時甲子園の真似をしたが如きのあの野球場には、アメリカは言うに及ばず他国の高校生・監督・コーチは唖然としたのではないかと疑う。日本は内野に芝生を植えられないほど貧乏だったのかと感心されはしないか。
話は変わるが、30年ほど前にW社の本社からの木材部門の駐在者を出張者とともに神奈川県の高校のフットボールの試合に案内したことがあった。グラウンドは勿論ごく普通の高校の野球場兼用のものだった。彼は翌日本社の同僚にFAXで送った感想文を見せてくれた。そこには「驚く勿れ、日本の高校では泥(dirt)の上でフットボールをやっていた」とあった。これって、単なる文化の違いを表しているだけか。
ここまでお読み頂けばお解りかと思うが、私は心中密かにマスコミを批判したくて纏めた一文でもあるのだ。アメリカに行ってご覧。地方の小さな公立の高校でもスタンド付きのフットボール場があるよ。我が国における社会資本の不充実か教育施設の不備か、あるいは両方か。そんなことだから、国立競技場建設問題であれほど不手際が目立つのだ。