新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

3月10日 その2 どれが本当の石原慎太郎君なのか

2022-03-10 15:27:09 | コラム
こういうのを「毀誉褒貶相半ばする」というのか:

つい先日、級友(中学以来のクラス会の仲間という意味)と「石原慎太郎君が亡くなってから、マスメデイアは一斉に大作家にして大政治家を失ったかの如くに惜しみ始めたのは一体どうことか」と語り合ったばかりだった。そこに、彼から選択出版社が発行する「選択」に“石原慎太郎なる「幻影」作家も政治家も二流の人”という記事があると教えて貰った。小見出しには「権力・出世への子供じみた執着」と「未熟さ、不器用さ故に愛された」とあった。

記事は第1節に“都知事在任中に元都職員や都議らが口々に褒めそやす異様な作りだった。例えば、毎日新聞は「裏表がない正直な人柄」「ぶれない信念と実行力」「物事を怖れないチャレンジ精神」「好奇心旺盛で少年のような面もある魅力的な人」のように褒めそやす新聞論調を「死者に鞭打たないのが作法とはいえ、これでは実像とかけ離れすぎている」と指摘している。

2節目には“政治家・石原慎太郎とは何者だったか。作家との二足の草鞋を履いていたため生前、政治家としての暴言・無作法・失敗は「作家だから」でウヤムヤにし、作家としての低評価は」、は「政治家になったせい」と言い訳したが、「どちらも二流の人」だった実相と向き合う時が来た。二つの仮面を都合よく付け替えてきたことに。ごまかされない。華麗な人脈と常に話題を振りまく演出をはぎ取る。そうして政治家としての実力を評価し「慎太郎なる幻影」に気づけば、そこに戦後政治の一断面が浮かび上がるに違いない。”とある。

手厳しいなんてもんじゃない。この先には彼の金銭感覚も痛烈に批判している。だが、もうこれ以上昭和20年4月に同じ中学に入学し、蹴球部で共に全国制覇を目指して3年間を過ごしてきた同期生を扱き下ろしている記事からの引用を、これ以上続ける勇気は無い。

彼石原慎太郎君がサッカー部に変わっていた蹴球部を辞めた翌年の昭和23年の福岡国体では決勝戦で負けてしまった往年の仲間が集まって、新型コロナウイルスの襲来前ではフットサルを楽しみ、昼食会を続けてきた。その仲間内には彼と小学校から一緒だった者もいる。彼は「あの頃からの彼を知る者としては、あの変身振りは予想もできなかった」と言うが、全員が同意見だった。それほど穏やかで温和しく青白き秀才だったのだ。

私だって彼とは全く異なる道に進んだのだから、社会人になってから有名人の石原慎太郎君に会い言葉を交わしたのは精々3回ほどだったか、あの頃の石原の儘だった。

それにしても、同じジャーナリズムの世界にあると思う人たちの石原慎太郎君の評価が何故これほど違うのだろう。選択の記事を教えてくれた級友も「マスコミって言うのはどういう視点で彼を見ていれば、こうまでも両極端な記事になるのだろうか。人はそれほど変われるものなのだろうか」と、不思議がっていた。

即ち、一方では「死者を鞭打たない」のに対して、選択は「遠慮会釈なく鞭打っている」のである。私は確かに生前の彼の金銭感覚のことは聞き及んでいたし、彼が所有していたサッカーのテイームとの対戦相手の助っ人で一戦を交えたこともあった。そういうことは「思い出」として残して置くだけだ。



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