新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

世界で最も難しいスポーツは

2024-03-03 07:39:52 | コラム
水谷隼は「卓球即ちピンポンである」と言いたいようだ:

先月下旬には、韓国の釜山で開催されたピンポンの世界選手権(だったかな?)で、男女の日本代表選手たちの大活躍を何日か続けてみていた。選手たちの「凄いな」としか言う以外にないような反射神経、打球の速さと目にも見えない変化、駆け引きに唯々感嘆させられていた。今回程集中してこの競技を見たことがなかったので、選手たちには申し訳ないが、その難しさと奥の深さに圧倒されていた。

そこに偶々週刊新潮が水谷隼を取り上げていて、彼が小林信也との対談(なのか)で「ピンポンという競技の難しさを解りやすく語った」辺りを取り上げていた。水谷隼は世界のあらゆる競技種目の中で「最も難しい」とは言わなかったが、私の印象ではそう言ったのと同じだと思った程強烈な語りだったと受け止めていたのだった。

あの数日間続いた手に汗握らざるを得なかった熱戦と、水谷隼の解説のお陰で今頃になって漸く「その昔は温泉場で浴衣の袖をまくって遊ぶ物」程度の認識だった卓球は、全世界にあそこまで普及している、上達が極めて難しい競技である」と十分に認識させられた。

実は、その時までの私の認識では「世界で最も難しい種目はテニスで、2番手が他ならぬサッカーである」だったのだ。この考え方は、大学在学中にサッカー部からテニスに転向した同期生が「テニスこそが世界で最難関の競技で、その駆け引きの奥の深さは単に技術を習得しただけではこなせないのがその特徴である。そして2番手は君が没頭しているサッカーであると知れ」と物知り顔で告げたことに基づいているだけだ。

サッカーが2番目であることが適切かどうかの議論は措くとして、マスコミは世界4大タイトル戦がどうのと囃し立て、IMG出身の錦織圭君があの体格で世界のランキングの上位に進出し、大坂なおみさんの2大タイトル(でしたっけ)制覇が達成されたことで、我が国でもマスコミがテニスを華々しく取り上げるようになった。そのお陰で単純なようでいて奥が深い難しさが見えてくるようになった。

この「テニス」と「テーブルテニス」に共通していると思わせられた点が多々ある。それはフットボールのように決まったフォーメイションがあるのではなく、その場その場で相手が打ってきた球の回転等の変化の性質、速さ、高さ、コース等々の要素を瞬時に読み切って、相手の立ち位置を読み、どのコースにどのような球を打ち返すかを決めて対応せねばならないのだ。しかも、相手に意図を読まれないようにフェイントもかける必要がある時がある。

しかも、その打ち込んだ球を相手が打ち返し損ねて、予期せぬ方向に返ってくることがあっても、それに対応せねばならないし、時にはネットインやエッジボールになって返ってくることもあるのだ。世界選手権に出てくるような次元に達している選手たちは、その手の球にも反応する。でも、テニス界の用語かも知れないunforced error(どうやら、自滅的な失敗のことのようだ)で相手コートを外してしまうこともあるのが卓球でありテニスだ。

ここまでお読み頂いても「何が言いたいのかサッパリだ」と言われそうだが、要点は非常に優れた運動神経、人並み外れた反射神経、駆け引き、技術、判断力、身体能力が求められている競技だと思う。妙な表現になるが、これだけの能力を備えていたら、アメリカであればフットボールかバスケットボールを選ぶだろうし、ヨーロッパならばサッカーに志向するだろう。だから、卓球には中々人材が揃わなかった時代が長かったのだと思っている。

上記の駆け引きというか「読み」の点では、アメリカが発祥の地であると聞いたヴァレーボールでも要求されるのだと、某大手印刷会社のヴァレーボール部長だった購買部長さんから教えられた。彼は「君らは何で相手が待ち構えているところに向かってスパイクを打ち込むのか。空いている所くらい狙いないのかと思うだろう。それはヴァレーボールを知らないからそう思うだけだ」と言われた。彼は言葉を継いで、

「我々は相手のコートに打ち込む時には、相手の陣形、即ち何処にどのように散っているのかを瞬時に読み切り、自分たちのディフェンスの形も完全に頭の中に入れて、何処にトスを上げて何処を狙うかは決めて攻撃に出て行くのだ。相手も同じように考えているから、何処で待っているかを瞬時に決めている。だから、多くの場合に待っているところに打ってしまう。故に、どのやってその読みを外すかを瞬間的に決めるのが駆け引きの難しさである」

と、解説された。

要するに「単純のようでありながら、お互いに自陣の形を弁えた上で、相手の読みをどうやって外してみせるかが勝負の分かれ目になる競技である」という事だった。だが、スポーツの観戦というものは、このように深読みして見ていると、そこを読もうとしていてはかえって疲れてしまうし、試合(競技)そのものの見せ場である得点を取り合うことを見て楽しめなくなってしまう嫌いがあるとは解っている。

私は「物知りを気取ってと言うか、通ぶることなどしないで、純粋に選手たちの凄さや上手さや、得点する場面を感心して観て楽しんでいれば良いのだと解ってはいる」のだ。だが、「ついつい評論家を気取って解ったような事を言って講釈したくなるのは宜しくないのでは」と思って反省はしている。


コメントを投稿