私は「古式ゆかしさ」に感動する日本人である:
「相撲愛好者でもない」と、つい先日言わば告白した。だが、あの全てが江戸時代から続いているのだろう伝統的な様式に基づいているのだろうと思わずにはいられない取組を進行させる様を見ていれば、「古い」等と言ったら失礼に当たるかと思ってしまう。行司たちの煌びやかにして古式ゆかしく厳かな出で立ちも「江戸時代」を偲ばせてくれる。
だが、私が最も「古式ゆかしく」と感じているのが次のようなこと。それは、立て行司が「この一番にて本日の打ち止め」と、千秋楽の結びの一番の前に、「この一番にて千秋楽に御座りまする」と宣言する時に、後方で呼び出しが二度打ち鳴らす拍子木の、何とも形容しようがないほど澄み切った美しい音色に聞き惚れるのだ。
私にはあの「綺麗」としか表現しようがない音色は、大谷君がホームランを打った時の打球音の数十倍も心に響くので「俺は矢張り日本人なのだ」とあらためて自覚させてくれる。ここまで来たのだから、もう一つ例を挙げておこう。それは20歳前後の頃だっただろう熱心なジャズファンだった時の話だ。
ラジオで(藤本)二三吉が「格子造りにご神燈下げて兄きゃ家かと姐に問えば 兄きゃ2階で木遣りの稽古」から始まる「木遣り崩し」を歌うのを聞いて、その何とも言えない粋な歌い方に訳も分からず感動した。それから、機会がある毎に二三吉の「木遣り崩し」を聞くようになった。そして自覚したことはと言えば「この古式ゆかしき歌い方と歌詞に感動している俺は、矢張り歴とした日本人なんだ」という自覚だった。
相撲から、ここまで話を持ってきたが、実は時たま見ている現在進行中の甲子園の野球の野球にも「古式ゆかしく」を感じる事がある。それは、高野連が執着しているかのような丸刈りの頭ではなく「試合開始の前と後に鳴り響く(響かせているのか)サイレンの音である。勿論、NPBも大学でも社会人野球でも鳴らしていないと思う。正直な所、けたたましくて煩いと少しだけ感じている。
確かな記憶ではないが、戦前の職業野球か六大学野球にあった風習かなと思っている。即ち、教育の一環であると主張する高野連は「古式ゆかしくすることが、日本式の野球文化を守ることだ」とでも考えて鳴らしているのかと思う。
だが、「このサイレンは『伝統』として受け継がれてきた文化であり、サイレンの音は、野球に情熱を注ぐ選手たちや観客にとって、試合への集中力を高め特別な雰囲気を醸し出す役割も果たしているのだ」という見方があるのだそうだ。即ち、ここにも「古式ゆかしくする」美しさの追求というか尊重があるようなのだ。だが、私にはどうしても、あの丸刈り頭からは「古式ゆかしさ」は見えてこないのだが。
とは言いつつも、生成AIの素晴らしさというか、便利さ、重宝さにも感激している私もいるのだ。
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