新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

6月12日 その2 新宿区百人町/大久保の34年間

2022-06-12 11:37:20 | コラム
我が街の34年間の変化に思いを致すと:

ここ新宿区百人町に住むこと34年だ。その間を振り返ってみれば、昨年の9月には下記のようなことを述べて、我が街の去りにし昔を回顧していた。

「我が故中曽根首相が計画された「民活」で元はと言えば戸山練兵場だった跡地アメリカ軍キャンプを国が買い上げて、25階建てのアパート3棟が完成して入居が開始されたが1988年4月だった。この地域は建蔽率か容積率か高さの制限か知らないが、通常は11~12階建てしか認められていないのに、半官半民の事業で25階を建てられたと知らされていた。その後暫くは大久保通りから600mほど離れたこの地区は、静かで穏やかな住宅地帯だった。Koreatownもイスラム横丁など影も形もなかった。」

という具合である。

当時の大久保通りなどは長閑な所で、と言うよりは東京都内にもこんなに鄙びた場所があったのかと驚かされたほどだった。今BGMで流しているCD等は当時に大久保通りにあった小さな雑貨屋のような店の外に、ワゴンに乗せて売られていた300円の中古品である。それが北村英治のクラリネットのクアルテット(カルテットか)だったので飛び付いて買ってしまった物だ。

1988年頃には韓国料理店などは数えるほどしかなく、そこでは本場の韓国料理が食べられる貴重な存在だったのだ。当然、現在老若女が集まって繁盛しまくっているKoreatownなんて影も形もなかった。それが非正統派の韓国料理と韓国産化粧品を商う大久保通りの山手線の内側に変貌してしまったのだ。

だが、変貌はこれだけに止まらなかった。新大久保駅から我が家に向かう「文化通り」は古くからの飲み屋が一軒あったくらいで、大久保通りからの長閑な一方通行の路地だった。そこには静岡から出てきていた江崎書店があり、それこそ文化的な雰囲気を醸し出していた。それが何時の頃からかと思い出すのも忌々しい イスラム横丁などと呼ばれるような変化を遂げてしまったのだ。

即ち、韓国化に次いでイスラム化がやって来たのだった。だが、国際化はそこまででは終わらなかった。これまでに繰り返し述べてきたことで、新宿区に住民登録がある外国人は中国が最大で二番手はベトナムになり、韓国は第3位に下がったのだった。即ち、東南アジア化も進んだのだった。そうかと思えば、今やネパール料理店も急増している、だから、大久保通りを歩けば少なくとも北京語、アラビア語、ベトナム語、マレーシア語等々が聞こえてくる仕掛けになった。

大まかに言えば、韓国化の後にイスラム化と東南アジア化と西北アジア化(?)が進んだのである。ここ文化通りと新大久保駅の横の路地に入れば、イスラム教圏内と全アジアの食料品が買える中規模店が2軒も出てきてしまった。何れも、日本人向けの仕事がなくなって、業態が変わってしまったものだ。

私は繰り返して指摘して来たことで、この街は低次元の国際化を物の見事に実現してしまっているのだ。イスラム横丁でも大久保通りにでも、先ずアメリカやヨーロッパから来たと思わせる白人を見かけることはない。この界隈ではもう何年も英語が聞こえてきたことなどないのだ。

ハラルフードを売るバングラデッシュ人かパキスタン人の店では、注意して見ていなくても解ることがある。それは、店番をしている者たちの顔がしょっちゅう入れ替わっていることだ。彼らが如何なるヴィザで入国しているか知らないが、不法滞在の廉で強制送還されたか、我が街で十分に稼いだので晴れて帰国し、次の入国者と交替したのだろうなどと考えている。

何度でも言うが、私は自国で立派に成功して社会的地位もある者が、わざわざここまでやって来て稼ごうとするのかということだ。以前に大久保通りに1週間借りの店を出していたインド人に教えられたことは「バングラデシュでは増えすぎた国民を養いきれずに、国策で外国に出て行くことを奨励しているので日本に群を為してやって来ている」のだそうだ。そういう事情があっても「インバウンドを入れて云々」という政策には些か疑問を感じざるを得ない。



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