♦️131『自然と人間の歴史・世界篇』東ローマ帝国

2017-09-15 22:15:45 | Weblog

131『自然と人間の歴史・世界篇』東ローマ帝国

 多民族の相まみえるアジアとヨーロッパの境の地、幾多の荒波にあらわれ、それらを乗り越えて1000年余の間命脈を保った国があった。313年、ローマ帝国がミラノ勅令でキリスト教を公認する。330年、コンスタンティヌス1世がビュザンティオンに遷都し、これをコンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)と改称する。392年、ローマ帝国のテオドシウス1世がキリスト教を国教とする。395年、テオドシウス1世が没し、ローマ帝国は2人の息子に分割相続される。これを「ローマ帝国の東西分裂」という。
 410年、西ゴート人が首都ローマを占領、略奪した。これに影響されたのか、413年には、コンスタンティノープルに「テオドシウスの城壁」が建設される。420年、ササン朝ペルシャと交戦する。451年のカタラウヌムの戦いで、西ローマ・ゴート連合軍がフン族の一団を破る。468年、レオ1世がヴァンダルに海戦で敗れる。476年、ゲルマン人傭兵隊長のオドアケルが、西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを廃位させ、西ローマ帝国が滅亡する。487年、東ゴート王テオドリックが、皇帝ゼノンの命でイタリアを占領し、東ゴート王国を建国する。
 527~565年のユスティアヌス1世在位の時期には、領土が拡大していった。その勢いは、地中海を「われらが内海」とみなすほどであったともいう。532年、コンスタンティノープルでニカの乱が勃発する。それに、ササン朝ヘルシアとの間に「恒久平和条約」を締結する。555年には、東ゴート王国を滅ぼしてイタリアを支配するにいたる。ラテン文化が優勢な時期を、東ローマ帝国と呼んでいたのに対し、ギリシャ文化が優勢になるようになってから、「ビザンツ帝国」とが慣用名となっていったと考えられる。562年になると、ホスロー1世がエジプトを攻め、またビザンティン・ペルシャの間で平和条約を締結する。572~591年には、ササン朝と交戦が続く。それからユスティヌス朝の終わる610年頃までを東ローマ帝国、その後のということもあるとのこちと。

(続く)

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