♦️162『自然と人間の歴史・世界篇』コンスタンチノープルの陥落

2017-09-15 23:42:14 | Weblog

162『自然と人間の歴史・世界篇』コンスタンチノープルの陥落

 1299年には、ビザンティン帝国の東方にオスマン帝国が出現する。イスラム教を国教とし、ぐんぐんと力を蓄えていく。一方、西の方では1310年、神聖ローマ帝国(いまのドイツなど)の皇帝ハインリヒ7世が、イタリアに遠征する。ローマ教皇をフランスの支配下から奪回し、ローマで自身が戴冠するためと考えた。その後、ティムール王国の出現で、オスマン帝国のバヤジット1世がティムールに敗北したことで、捕虜にされてしまう。ところが、一代の英雄ティムールが死ぬと、彼の帝国は解体に向かうのだった。そこで、オスマン帝国は復活するにいたる。1396年、ヨーロッパ諸侯軍がバルカン半島に遠征してトルコ帝国と戦う。これを「ニコポリス十字軍」という。
 それからさらに時が流れての1451年、メフメット2世が、21才の若さでオスマン帝国第7代のスルタンとなった。ここにスルタンとは、イスラーム国家において宗教的権威であるカリフから、一定地域の世俗的権力を委託された者の称号であった。セルジューク朝にはじまり、14世紀のオスマン帝国で確立したのだが、世俗の権力の肥大化に伴い、この頃からはカリフの地位も兼ねてのスルタン・カリフ制となる。
 そして迎えた1453年4月、オスマン帝国軍によるビザンティン帝国の首都コンスタンティノープルへ攻撃が始まった。約15万のオスマン帝国軍に対し、1万ばかりのキリスト教徒が守るコンスタンティノープルを包囲した。攻撃軍が目の当たりにしたのは、首都の市街の回りに三重に巡らされた「鉄壁」の壁であった。防衛側では、コンスタンティノープルが陥落すればおしまいだ。ヨーロッパのキリスト教国はおしなべてイスラム教徒の脅威に晒されると考えていたことは、想像するに難くない。
 やがて上陸させたウルバンの大砲が城壁に向けて撃たれ、その裂け目をねらって歩兵が突撃を開始した。激しい攻防が繰り返されていたが、スルタン直属の精鋭部隊が攻撃に投入されるに及んで、ついに城門の一つが突破された。なだれをうってオスマン軍が市街に入り、皇帝が戦死する。首都の陥落でビザンティン帝国(東ローマ帝国)が滅亡する。この戦争に勝利したオスマン帝国は、この地をイスタンブールと改名し、帝国の首都に定めるにいたる。
 1526年には、オスマン帝国の皇帝スレイマン1世の軍がハンガリー王国を攻撃する。さらに西へ進んで神聖ローマ帝国の首都ウィーンを包囲している間に、バルカン半島の全域を支配下に入れる。1538年のプレヴェザの海戦では、スペイン、ヴェネツィア、ローマ教皇の連合軍を破る。これにより、西地中海までのほぼ地中海全域の制海権を手に入れる。1571年のレパント沖の海戦で前と同じ編成の連合軍に敗れたものの、その制海権については譲らなかった
 
(続く)

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