♦️118『自然と人間の歴史・世界篇』世界宗教(キリスト教)

2017-09-19 20:06:21 | Weblog

118『自然と人間の歴史・世界篇』世界宗教(キリスト教)

 その創始者はイエス・キリスト(Jesus Christ)である。このうちの「イエス」(Jesus)は、ギリシア語「イエースース」のラテン語表現で、そのイエースースはヘブライ語「エーシューア」または「エホーシューア」に相当する、また「Jesus」の英語読みでは「ジーザス」と発音される。その意味としては、「救う者」をいう。また、「キリスト」はギリシア語で「油を注がれた者を意味しており、これらをあわせての造語名称といえる。彼は、ローマに隷属していたユダヤの国ナザレ地区に生まれる。貧しい大工の長男であったという。その地で長じて布教の旅に出ていた。行く先々で人々に対し説法を行い、しだいに信徒を増やしていくのだが、それにつれてユダヤ教の聖職者と信仰及び生活において意見が対立していった。特に『旧約聖書』におけるユダヤ教としての厳格な戒律に忠実で、日々の生活の中でこれを厳格に守っていこうというバリサイ派たちとは、事あるごとに対立するようになっていく。
 このパリサイ派の聖職者たちによる追求は執拗であった。今日に伝わっている新旧の『聖書』の大半は史実とは言えない修飾に満ちているといっても過言ではないであろう。とはいえ、在りし日のキリスト本人の言動を伝えていると考えられる事績も、そのかなりを見出すことができると考えられている。例えば、囚われの女を連れてきて「この女は罪を犯している時につかまえられたので、モーセの律法によって石を撃ち殺すことにしたいが、どう思うか」と問い、「出エジプトの」の立役者であるモーセの定めたれる律法に違背しようものなら、キリストをユダヤへの愛国心なしの不心得者として公衆の面前にて断罪するつもりであった。対応に困ったであろうキリストは、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と言って、大勢の信者を含む「ユダヤの民」の面前にて、この罠にかかるのを避けた。あるいは、「カエサルに税金をおさめてよいだろうか、いけないだろうか」と問うた。これだと、もしイエスが「おさめた方がよい」と答えるのであれば、ユダヤの「庇護者」としてのローマに税金を納めることを国辱と考えていたユダヤの群衆を欺くことになる。この時、イエスは結局「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と言って、ユダヤの大衆にも、ローマの官憲、そしてユダヤ穏健派にも反発を受けないように返答をした。
 さらに、ユダヤ教で神聖な日に数えられる「安息日」を巡っても、騒動が持ち上がった。ユダヤ教の律法(キリスト没後に『旧約聖書』としてまとめられる)においては、安息日に労働をしてはならないことになっている。これを絶対視し、いかなる場合にも遵守しなけれじならないと言い張る人々に対しては、現実の生活が大事であって、それほどこだわる必要はないんだということを述べている。これについては、次のように、キリストはパリサイ派らと意見を異にしたことになっていて、こうある。
 「2の23:ある安息日に、イエスは麦畑の中をとおって行かれた。そのとき弟子たちが、歩きながら穂をつみはじめた。2の24:すると、パリサイ人たちがイエスに言った、「いったい、彼らはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのですか」。2の25:そこで彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが食物がなくて飢えたとき、ダビデが何をしたか、まだ読んだことがないのか。2の26:すなわち、大祭司アビアタルの時、神の家にはいって、祭司たちのほか食べてはならぬ供えのパンを、自分も食べ、また供の者たちにも与えたではないか」。2の27:また彼らに言われた、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。2の28:それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである」(『マルコによる福音書』の第2章)。
 こうして、人々にとっての安息日というのは、単に労働を休む日ということではなく、その日をもって神を崇め、それを行動であらわすことに通じているのであった。
 いま一つ、この福音書は、キリストの人となりをこう伝えている。
 「3の9:イエスは群衆が自分に押し迫るのを避けるために、小舟を用意しておけと、弟子たちに命じられた。3の10:それは、多くの人をいやされたので、病苦に悩む者は皆イエスにさわろうとして、押し寄せてきたからである。3の11:また、けがれた霊どもはイエスを見るごとに、みまえにひれ伏し、叫んで、「あなたこそ神の子です」と言った。3の12:イエスは御自身のことを人にあらわさないようにと、彼らをきびしく戒められた。ー中略ーイエスが家にはいられると、3の20:群衆がまた集まってきたので、一同は食事をする暇もないほどであった。3の21:身内の者たちはこの事を聞いて、イエスを取押えに出てきた。気が狂ったと思ったからである。3の22:また、エルサレムから下ってきた律法学者たちも、「彼はベルゼブルにとりつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。
 3の23:そこでイエスは彼らを呼び寄せ、譬をもって言われた、「どうして、サタンがサタンを追い出すことができようか。3の24:もし国が内部で分れ争うなら、その国は立ち行かない。3の25:また、もし家が内わで分れ争うなら、その家は立ち行かないであろう。3の26:もしサタンが内部で対立し分争するなら、彼は立ち行けず、滅んでしまう。3の27:だれでも、まず強い人を縛りあげなければ、その人の家に押し入って家財を奪い取ることはできない。縛ってからはじめて、その家を略奪することができる。3の28:よく言い聞かせておくが、人の子らには、その犯すすべての罪も神をけがす言葉も、ゆるされる。3の29:しかし、聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」。3の30そう言われたのは、彼らが「イエスはけがれた霊につかれている」(『マルコによる福音書』の第3章)。
 それでも、当時のユダヤ社会の中で屈せずに布教を続けていたが、とうとう、キリストの反対者たちは「ユダヤ人の王」とイエスが自称しているとの噂をでっち上げ、これをネタにかれをユダヤ国家の反逆者に仕立て上げていく。ユダヤ議会はイエスに死刑を判決し、事の政治的本質を知らない一般民衆の大方もそれに呼応して「イエスに死刑を」と声高に叫ぶのであった。ローマ総督の審判に際しては「カエサルのほかに、王はありません。・・・・・もし総督がこの者をゆるすなら、あなたはカエサルを愛さないことになりますぞ」との政治的暗示で圧力をかけ、イエスを十字架にかけて処刑することを是認させたのだ、ともいわれている。
 こうしてキリストが無実の罪を着せられ、十字架を背負って死んだのを、かれの後継者たちは、キリストが全人類の罪を背負ったのたという教義にまとめあげた。ここにキリストは、古今に比類なき人類愛を貫いたのであり、その恩恵を受けた人々は、諸国民・諸民族とは別の(もった高い)次元の、全知全能の神に自分たちの「原罪」の許しを乞う存在になったのではないだろうか。
 だからこそ、キリスト教のような一神教では、人々の現実が厳しければ厳しいほどに、「なぜ神は私たちを助けてくれないのですか」という声に対して、神の側からはこたえなくていい。というのは、やがて人々は、「このような苦難が続くのは、神が自分たちを試練に置かれているのだ。なんとなれば、自分達が神に対していまだに至らない存在であることに、あらゆる苦難の根源があるのだ」との結論に落ち着くのだから。

(続く)

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