従来の説より200年遡ることでどのような変化があるかというと、実はメソアメリカ文明史における各文明同士の関わり方に大きな変化が出てくるのだという。これまでは、マヤ低地の農民が土器を使い、前1000年頃に主食のトウモロコシ農耕を基盤にした定住村落を営み始め、「オルメカ文明」を引き継ぐように一方的な影響を受けつつ、もしくは独自に発展し、前800年以降に最初の公共祭祀建築が建てられたのがマヤ文明だとする考え方が主流だった。
なおオルメカ文明(ラ・ベンタ遺跡・メキシコ)とは、紀元前1200年頃(紀元前1500年頃とする説もある)から紀元前400年頃まで続いたメソアメリカ文明の最初の文明であることから、マヤ文明の母体となったといういわれ方がされてきた。ちなみに、オルメカ文明に端を発するメソアメリカ文明は旧大陸と交流がない状態で独自に1次文明を築いている。また、インカ帝国やナスカなどのアンデス文明も1次文明だ。
確かに、祭祀建造物などのように、マヤ文明はオルメカ文明から影響を受けた美術・建築様式などが見られるのも事実だ。しかし、オルメカ文明の大きな特徴の1つに「巨石人頭像」(画像41)と呼ばれる巨大な顔の石像があるのだが、これはマヤ文明には見られない。
もしオルメカ文明の人々が移住してきてマヤ文明を作り上げたのだとしたら、非常に大きな特徴なのでそっくりそのまま引き継がれるのではないかと推測されるが、マヤ文明は、オルメカ文明の影響を色濃く採り入れたものもあれば、採り入れたがアレンジを加えているものもあるし、採り入れていないものもある。さらには、神殿ピラミッドのように独自のものもあるというわけだ。
また、翡翠や黒曜石など、メソアメリカ文明の地域内ではグアテマラ高地でしか産出されない鉱物が出土していることから、オルメカ文明以外の地域との交流もあったことが予想された(画像40)。より複雑な社会変化の過程が示唆されるのだ。
つまり、マヤの人々はマヤ低地のほかの地域、近隣のメキシコ湾岸低地南部、メキシコのチアパス高地やグアテマラ高地などの住人たちとの地域間ネットワークに参加しており、遠隔地から重要な物資を搬入したり自分たちの地域から輸出したりするだけでなく、観念体系や美術・建築様式などの知識を交換して、マヤ文明を築き上げていったと考えられるのである。
マヤには統一王朝がなく、スペイン人の侵入を受ける16世紀までは多様な王国が共存した。ただ9世紀前後にまた低地南部で多くの都市が放棄され、この時期に何が起こったかに世界の研究者が注目しています。近年脚光を浴びているのが「年縞」です。木の年輪と同じように年に一つ、湖の湖底に形成される堆積物の縞(しま)で「土地の年輪とも言われるものです。研究チームはマヤ文明のセイバル遺跡の近郊の湖で研究に利用できる年縞を見つけたのです。マヤでは初めての発見だそうです。
年功の分析で、学会で注目されていた「干ばつ説は」は退けられつつあります。欧米の学者らは干ばつが衰退を引き起こしたと唱えましたが、米延氏は「干ばつと呼べるほど著しく雨が少ないとは言い難い。雨が少ない時期は他にもあり、文明の興隆期にも見られる」と話しています。
衰退の要因には諸説ありますが、青山氏は人口過剰や環境破壊、戦争を挙げています。「文明が発達すると都市で人口が増え、農地・宅地の拡大で森林の伐採が進みます。農地が不足すると食料不足が生じ、戦争が起こりやすくなる近現代にも通じる傾向だ」と指摘しています。
なおオルメカ文明(ラ・ベンタ遺跡・メキシコ)とは、紀元前1200年頃(紀元前1500年頃とする説もある)から紀元前400年頃まで続いたメソアメリカ文明の最初の文明であることから、マヤ文明の母体となったといういわれ方がされてきた。ちなみに、オルメカ文明に端を発するメソアメリカ文明は旧大陸と交流がない状態で独自に1次文明を築いている。また、インカ帝国やナスカなどのアンデス文明も1次文明だ。
確かに、祭祀建造物などのように、マヤ文明はオルメカ文明から影響を受けた美術・建築様式などが見られるのも事実だ。しかし、オルメカ文明の大きな特徴の1つに「巨石人頭像」(画像41)と呼ばれる巨大な顔の石像があるのだが、これはマヤ文明には見られない。
もしオルメカ文明の人々が移住してきてマヤ文明を作り上げたのだとしたら、非常に大きな特徴なのでそっくりそのまま引き継がれるのではないかと推測されるが、マヤ文明は、オルメカ文明の影響を色濃く採り入れたものもあれば、採り入れたがアレンジを加えているものもあるし、採り入れていないものもある。さらには、神殿ピラミッドのように独自のものもあるというわけだ。
また、翡翠や黒曜石など、メソアメリカ文明の地域内ではグアテマラ高地でしか産出されない鉱物が出土していることから、オルメカ文明以外の地域との交流もあったことが予想された(画像40)。より複雑な社会変化の過程が示唆されるのだ。
つまり、マヤの人々はマヤ低地のほかの地域、近隣のメキシコ湾岸低地南部、メキシコのチアパス高地やグアテマラ高地などの住人たちとの地域間ネットワークに参加しており、遠隔地から重要な物資を搬入したり自分たちの地域から輸出したりするだけでなく、観念体系や美術・建築様式などの知識を交換して、マヤ文明を築き上げていったと考えられるのである。
マヤには統一王朝がなく、スペイン人の侵入を受ける16世紀までは多様な王国が共存した。ただ9世紀前後にまた低地南部で多くの都市が放棄され、この時期に何が起こったかに世界の研究者が注目しています。近年脚光を浴びているのが「年縞」です。木の年輪と同じように年に一つ、湖の湖底に形成される堆積物の縞(しま)で「土地の年輪とも言われるものです。研究チームはマヤ文明のセイバル遺跡の近郊の湖で研究に利用できる年縞を見つけたのです。マヤでは初めての発見だそうです。
年功の分析で、学会で注目されていた「干ばつ説は」は退けられつつあります。欧米の学者らは干ばつが衰退を引き起こしたと唱えましたが、米延氏は「干ばつと呼べるほど著しく雨が少ないとは言い難い。雨が少ない時期は他にもあり、文明の興隆期にも見られる」と話しています。
衰退の要因には諸説ありますが、青山氏は人口過剰や環境破壊、戦争を挙げています。「文明が発達すると都市で人口が増え、農地・宅地の拡大で森林の伐採が進みます。農地が不足すると食料不足が生じ、戦争が起こりやすくなる近現代にも通じる傾向だ」と指摘しています。