かぶとん 江戸・東京の歴史散歩&池上本門寺

池上本門寺をベースに江戸の歴史・文化の学びと都内散策をしています。

自習(復習) 『大江戸見聞録』(テキスト)の用語

2011-06-12 | 江戸検定
ひさかたぶりに、「江戸検」の学習らしきことをのせます。まずはストレッチ。

『大江戸見聞録』(テキスト)の読み返し。
このテキストは、物語風記述に図版・イラスト・写真つきで、とっつきやすい。入門・初級用ではあるが、設問の仕方によって難易度は変ってくる。まずは用語の再確認から。

はじめに (p.2)
■江戸時代の特色 二世紀余にわたり平和がつづいた。
■経済・文化の発達
■政治の中心都市 江戸
■徳川家康の入府
■天下の総城下町
■都市基盤の整備
■城を中心とした堀割の開鑿
■低湿地の埋め立て
■都市施設の整備
■日本橋の架橋
■神田上水
■見附
■木戸
■広小路
■火の見
■時の鐘
■諸大名
■参勤交代での出府
■藩邸住まい
■諸国からやってきたさまざまな人々
■商人
■職人
■芸能者
■下町を中心に集住
■商才や技を競い合う
■18世紀初頭
■人口100万を超す巨大都市
■人々の暮らし
■四季折々の年中行事や祭り
■洗練された美意識や生活文化の形成
■寺子屋の発達
■識字率は世界の最高の水準
■出版文化の隆盛
■伝統
■継承
■江戸の文化や意識には学ぶべきものが多かった
■環境にやさしい循環型社会の知恵
■多くの災害を乗り越えた都市再生の活力
■現在の急速な社会変貌
■伝統は消滅しつつある
■江戸の見直し、将来の東京を展望するよすがとする意義
〇時代の流れ(潮流)とは さからえない(もの)? 新たな視点での見直し?

大江戸見聞録地図 (p.4)
■墨引内 朱引の内側 (例外 目黒不動) 町奉行所の支配(管轄)
     現在の山手線の内側プラス墨田・江東の隅田川側。
■朱引内 墨引の外側 御府内 (江戸の範囲)
     品川・内藤新宿・板橋宿・千住大橋から荒川の内側。
〇例の、のの字回りで(ほぼ)いきます。この一年で行ったところは緑にしました。
江戸城
日枝神社(山王権現)
神田明神
日本橋
■人形町(二丁町)
■八丁堀
愛宕山
増上寺
芝大神宮(芝神明)
三田
四谷
湯島聖堂
■湯島天神
不忍池
上野
寛永寺
浅草寺
浅草
大川(隅田川)
吾妻橋
■本所
柳橋
浅草橋
両国橋
回向院
■新大橋
森下
■永代橋
深川
■ (佐賀町)
富岡八幡宮
■佃島
東海道
高輪
泉岳寺
品川宿
■目黒川
■目黒不動
■甲州道中
新宿
神田川
■護国寺
■雑司ヶ谷鬼子母神
■石神井川
■中山道
飛鳥山
■日光道中
■千住
■千住大橋
■墨堤
■橋場
■長命寺
■木母寺
■向島百花園
■亀戸天神
〇行ったことあるよ、だいたい説明できるよ、がベターだが。全部というわけにはいかないか。よく知らないという場所・名は、いちおう要確認。

江戸時代略年表 (p.6)
災害と政治改革を中心に。『江戸諸国萬案内』の略年表も併用。
1590 天正18 徳川家康、関東に移封し、江戸に入る。
1603 慶長8  家康、征夷大将軍となる(江戸幕府始まる)。
        諸大名の普請による江戸の城下整備が着工される。
1605 慶長10 秀忠、第2代将軍となる。
1607 慶長12 家康、駿府に移る。
1623 元和9  家光、第3代将軍となる。
1635 寛永12 参勤交代を制度化する。
1642 寛永19 寛永の大飢饉。
1657 明暦3  明暦の大火(振袖火事) 江戸城本丸焼失(天守の再建されず)
1680 延宝8  綱吉、第5代将軍となる。
1682 天和2  天和の大火(お七火事) (駒込)。
1707 宝永4  宝永地震(10.4)。東海・南海沖の大地震。
        宝永大噴火(富士山) (11.23)。
1709 宝永6  正徳の治・新井白石 (6代家宣・7代家継)。
1716 享保1  享保の改革(~1745)・8代徳川吉宗。
1732 享保17  享保の大飢饉(主に西日本)。
1755 宝暦5  奥羽地方で大飢饉。
1772 安永1  田沼意次、老中となる。(10代家治期)
        江戸大火(目黒行人坂火事)。
1782 天明2  天明の大飢饉始まる(~1787)。
1783 天明3  浅間山大噴火。
1787 天明7  寛政の改革(~1793)・老中松平定信。(11代家斉の治世期)
1792 寛政4  雲仙岳大噴火(島原大変・肥後迷惑)
1806 文化3  江戸芝の大火(丙寅の大火、牛町火事)。
1833 天保4  天保の飢饉始まる(~1836)。
1841 天保12  天保の改革(~1843)・老中水野忠邦 (12代家慶の治世期)
1854 嘉永7・安政1 安政東海地震(11.4)。東海沖・南海沖の大地震。
1855 安政2  江戸大地震(安政江戸地震)。(10.2)
1858 安政5  井伊直弼、大老となる。
1866 慶応2  打ちこわし、一揆が頻発。「世直し」を求める。
1867 慶応3  「ええじゃないか」の大乱舞起こる。
        徳川慶喜、大政奉還。王政復古の大号令。
1868 明治1  戊辰戦争。江戸開城。明治に改元。
1869 明治2  東京遷都。

人物生存年表 (p.6)
[政治]
■徳川家康(初代) 1543~1616(天文11.12.26~元和2.4.17)
 父母・松平広忠、於大の方(伝通院) 幼名・竹千代 東照大権現、安国院殿
■大久保彦左衛門 忠教(ただたか) 1560~1639(永禄3~寛永16)
 『三河物語』 講談「大久保政談・一心太助」 白金立行寺(大久保寺)
■金地院崇伝 1569~1633(永禄12~寛永10.1.20)
 京都・一色氏の出。以心崇伝。 臨済宗・南禅寺 「黒衣の宰相」とも。
■天海 1536~1643(天文5~寛永20.10.2)
 南光坊天海、智楽院、慈眼大師。無量寿寺北院(喜多院) 寛永元年(1624)寛永寺
 江戸の都市計画-陰陽道・風水に基づいた江戸鎮護の構想。
■沢庵 1573~1646(天正1~正保2.12.11) 沢庵宗彭(たくあん そうほう)
 臨済宗大徳寺住持 紫衣事件・出羽国上山流罪・土岐頼行 家光 萬松山東海寺住職
■徳川秀忠(2代) 1579~1632(天正7.4.7~寛永9.1.24) 在任1605~1623
 母・西郷局、乳母・大姥局(岡部局)、幼名・竹千代 台徳院殿
■林羅山 1583~1657(天正11~明暦3)
 朱子学派儒学者。林家の祖。林信勝・子信。道春。師藤原惺窩。家光の侍講
■徳川家光 (3代) 1604~1651(慶長9~慶安4) 在任1623~1651
 母・江、乳母・春日局、幼名・竹千代 大猷院
■徳川家綱 (4代) 1641~1680(寛永18~延宝8) 在任1651~1680
 母・お楽の方(宝樹院)、竹千代、左様せい様、厳有院
■徳川綱吉 (5代) 1646~1709(正保3~宝永6) 在任1680~1709 主に元禄期
 母・桂昌院(玉) 徳松(家光の四男) 上野国館林藩主 天和の治 常憲院
大石内蔵助 1659~1703.3.20(万治2~元禄16.2.4)
■徳川家宣 (6代) 1662~1712(寛文2~正徳2) 在任1709~1712
 父徳川綱重 母長昌院(お保良) 新見左近、松平虎松、徳川綱豊、甲府宰相、文昭院
 間部詮房、新井白石を登用。(正徳の治)
■徳川家継 (7代) 1709~1716(宝永6~正徳6) 在任1713~1716
 家宣の四男。母・月光院(お喜代)。世良田鍋松。有章院殿。満6歳・数え8歳没
■大岡忠相 1677~1751(延宝5~宝暦元年12.19) 能登守から越前守
 吉宗・享保の改革時の南町奉行。寺社奉行兼奏者番。三河国西大平藩初代藩主。
■徳川吉宗 (8代) 1684~1751(貞享元年~寛延4.6.20) 在位1716~1745
 越前国葛野藩主、紀州藩第5代藩主、のち宗家相続(享保元年・1716)。
 源六、新之助 米将軍・八木将軍 有徳院殿
■徳川家重 (9代) 1711~1760(正徳元年~宝暦11) 在位1745~1760
 母深徳院(お須磨の方) 幼名・長福丸、渾名・小便公方 惇信院 側近・大岡忠光
■田沼意次 1719~1788(享保4~天明8) 遠江相良藩・初代藩主、相良藩田沼家初代
 父・意行(元紀州藩足軽)、家重の西の丸小姓 御側御用取次 側用人 老中格 老中
■徳川家治 (10代) 1737~1786(元文2~天明6) 在位(1760~80)宝暦・明和・安永
 幼名・竹千代、兄弟・清水重好、養子・家斉(一橋) 田沼意次の重用。
松平定信 1758~1829(宝暦8~文政12)
徳川家斉 (11代) 1773~1841(安永2~天保12) 在位(1787~1837)
大塩平八郎 1793~1837(寛政5~天保8)
徳川家慶 (12代) 1793~1853.7.27(寛政5~嘉永6.6.22) 在位(1837~1853)
井伊直弼 1815~1860
勝海舟 1823~1899
徳川家定 (13代) 1824~1858
吉田松陰 1830~1859
坂本龍馬 1835~1867
土方歳三 1835~1869
榎本武揚 1836~1908
徳川慶喜 (15代) 1837~1913
高杉晋作 1839~1867
徳川家茂 (14代) 1846~1866
[経済・商業]
■河村瑞賢 1618 ?~1699(元和4~元禄12)
 伊勢度会郡。明暦の大火後の材木調達。東廻り航路・西廻り航路を開く。
■三井高利 1622~1694(元和8~元禄7)
 伊勢松坂。通称、八郎兵衛。江戸本町一丁目で越後屋(のちの三越)開業。
■紀伊国屋文左衛門 1669 ? ~1734(寛文9 ?~享保19)
 紀州(有田)湯浅。紀文大尽。元禄期の幕府御用達・材木商。
[学問]
■前野良沢 1723~1803
■平賀源内 1728~1779
■杉田玄白 1733~1817
■緒方洪庵 1810~1863
■福沢諭吉 1834~1901
[文化・芸能]
■猿若(中村)勘三郎 1597 ?~1658(慶長2 ?~万治元)
 中村座開祖(当初、猿若座)。座元(支配人)兼役者。
井原西鶴 1642~1693
松尾芭蕉 1644~1694
初代坂田藤十郎 1647~1709
初代市川団十郎 1660~1704
大田南畝 1749~1823
喜多川歌麿 1753 ?~1806
鶴屋南北 1755~1829
葛飾北斎 1760~1849
山東京伝 1761~1816
鍬形薫斎 1764~1824
十返舎一九 1765~1831
曲亭馬琴 1867~1848
初代歌川豊国 1769~1825
式亭三馬 1776~1822
3代中村歌右衛門 1778~1838
歌川国貞 1786~1864
歌川広重 1797~1858
歌川国芳 1797~1861


詳しく吟味していくと先へすすめなくなるので、これはと思いながらも、あやふやな項目を中心に確認・チェックをしていきます。



池上本門寺復歴16世・日樹聖人への敬白文

2011-06-11 | 池上本門寺の歴史
昭和30年、池上本門寺第77世・石川日教上人とその一行が、本門寺貫主として正式にはじめて流地信州飯田の日樹上人の墓地を訪れた。そのときのものである。

   敬 白 文
 慎しみ敬って南無平等大慧一乗妙法蓮華経、南無久遠実成本師釈迦牟尼仏、南無本化上行高祖 日蓮 大菩薩、宗門如法弘通勲功の先師、日朗菩薩、日輪上人等長栄山歴代先聖の来臨影嚮を仰ぎ、長遠院日樹上人の報土を厳浄し奉る。
 長遠院日樹上人は両山第十四世自証院無問日詔上人の資、元和五年(1619)第十五世中正院日友上人遷化の後を承けて両山の猊座に陞る。
 寛永三年(1626)九月徳川二代将軍秀忠の夫人死し、その菩提の為め諸宗の高僧をして芝増上寺に納経 諷 誦 せしめ、将軍より回向に対し供養の事ありしも、日樹上人これを峻拒し、謗法供養不受の制法を守る。
 時に徳川幕府は開創以来日浅く切支丹宗門を禁止し踏絵の検断を行なふ等、信教を自家権勢薬籠中に収めんとの謀にあり。爰を以て、寛永七年(1630)二月廿一日官に抗する日樹上人等を江戸城内老中酒井雅樂頭の座席に於いて糾弾せしも、上人の所論堂々として悉く本経祖典に基づき、これを駁する者無く、奉行理非の決断をなす能はずして後日の文書応答に持越す。然るに上人論難書を提出するも遂に答書来らざるを以って、謗法供養不受はこれ公儀に対する違背に非ずの所断を訴えしも、四月二日幕府は理不尽にも上人を両山より除歴、流罪に処して信州に追ふ。
 嗚呼、上人は徳川幕府宗教政策の犠牲となって無実の罪を負ひ、翌寛永八年(1631)五月十九日配所信州飯田郷田中八郎右衛門尉の邸において病没す。寿五十八今を距る三百二十四年前なり。我が山先々代謙光院日慎上人この事を深く遺憾とし、先年門末一同に諮って上人を復歴す。
 老衲長栄山の法灯を継承してより戦災復興に寧日無きも、図らずも今般篤信者福田善三郎氏夫妻の招請により北信に掛錫し、本日車を駆って上人の墓前に拈香諷誦 、年来の所願を成ずることを得たり。南信伊那の峡満山紅葉今闌にして、一木一草旧に依り寂莫、上人謫居の秋を髣髴す。茲に恭しく長遠院日樹上人我不愛身命の慈恩に報酬し、その増円妙道位隣大覚を祈り奉る
 若親近法師速得菩薩道随順是師学得見恒沙仏在々諸仏土常与師倶生
  南無妙法蓮華経
   昭和三十年(1955)十一月七日
                  大本山池上本門寺 伝燈 七十七世 日教 和南

翌、昭和三十一年(1956)五月十五日、74世謙光院日慎上人の第十三回忌法要が池上で厳修された。

  出典 『池上本門寺百年史』新倉善之著  年代に、(西暦)を入れました。
 

〇日樹上人(池上復歴十六世) 天正2年(1574)~寛永8年5月19日(1631.6.18)
〇両山第十四世自証院無問日詔上人
〇第十五世中正院日友上人
〇徳川二代将軍秀忠の夫人 崇源院(浅井長政娘・お江与、江(ごう)、小督(おごう))
  天正元年(1573)~寛永3年9月15日(1626.11.3) 墓所・芝増上寺
〇日樹上人等
  日賢上人(中山法華経寺隠居) 遠州横須賀(遠地追放、以下同)
  日弘上人(平賀本土寺) 伊豆戸田
  日領上人(小西檀林能化) 佐渡のち奥州中村
  日進上人(碑文谷法華寺) 信州上田・仙石家預かり。のち妙光寺開創。
  日充上人(中村檀林能化) 奥州岩城平

〇謙光院日慎上人 池上第74世酒井(恵快)日慎上人


 

池上本門寺・霊宝殿 日樹聖人と不受不施

2011-06-10 | 池上本門寺の歴史
池上本門寺・霊宝殿 今月の展示 日樹聖人
~復歴16世長遠院日樹聖人と不受不施の系譜~
~第16世心性院日遠聖人ゆかりの宝物~ 他

後生大事にとっておいた(もっとゆっくり調べてからと思っていた)池上本門寺・復歴16世日樹聖人を、急遽、載せることにしました。
不受不施派のことは、なんとなく、気持ちがしっかりしてないなかでは記事にしづらかった。が、霊宝殿で取り上げているのであれば、なにも遠慮することはない。ということで。


日樹上人 略歴
天正2年 - 寛永8年5月19日 (1574 - 1631.6.18)
備中国(現岡山)黒崎村、出身。
天正19年(1591)(18) 備中仏乗寺・日英上人を師とする。
下総国の飯高檀林・中村檀林で学び、飯高檀林7世化主となる。
元和5年(1619)(46) 池上本門寺に入寺。  比企谷妙本寺両山貫主となり、池上の復興に努める。
 京都妙覚寺・日奥(不受不施派)に同調し、久遠寺・日乾、日遠、日暹(受布施派)と対立する。
寛永7年(1630)(57) 江戸城において池上(本門寺)と身延(久遠寺)との対論(身池対論)。
 不受不施派は幕府に忌避され、日樹上人は信州伊那に配流となる。池上本門寺歴世除歴。
寛永8年(1631)(58) 配流先の信州伊那で亡くなる。  墓所・飯田羽場元山白山社権現堂境内。

昭和6年(1931) 池上本門寺歴代・復歴16世となる。
 宗祖日蓮聖人六百五十遠忌。日樹上人三百遠忌の年。
 池上74世酒井日槙上人の発意による。
昭和30年(1955)   日樹上人の墓参を、77世日教上人が本門寺貫主として正式にはじめて行なう。


日樹上人の時代 池上本門寺の略年譜
1573(天正1) 日惺(12) 織田信長、足利義満を追放
1590(天正18)日惺  小田原北条氏滅亡。徳川家康江戸へ入府。
        この後12世日惺上人、比企谷から池上に移住。以後貫主は池上に常駐する。
1598(慶長3) 徳川家康より朱印地100石を賜る。
1600(慶長5) 日尊(13) 徳川家康、関ヶ原の戦いに勝利する。慶長8年、江戸幕府開く。
1608(慶長13)日詔(14) 徳川秀忠、五重塔を寄進建立。(秀忠の乳母・岡部局の発願)
        慶長年間 加藤清正、祖師堂(大堂)、石段(此経難持坂)寄進(伝)
1619(元和5) 日樹(*) 池上本門寺入寺。 (*)復歴16世
1627(寛永4) 日樹    本阿弥光悦、三堂扁額を寄進。 
1630(寛永7) 日樹    身池対論。日樹上人、除歴のうえ信州伊那に流罪となる。
              幕命により、日遠上人が身延より普山する。
1631(寛永8) 日遠(16) このころ、養珠院お万の方、杉苗1万本寄進および御霊宝の補修。
1647(正保4) 日東(17) 紀州徳川頼宣室瑤林院、梵鐘を寄進。
1674(延宝2) 日玄(22) 狩野探幽没、葬送。
   


〇不受不施・不受不施派
関心のあるかたは、Googleで検索してみてください。100万件のヒットはなんなんだ、という感じです。(何年か前は、数えるほどだった記憶ですが。)言葉・用語が独り歩きしているのか。
かぶとんのスタンス
不受不施・不受不施派のことは難しい。当時としては主流・正当であり、その思い・行動については顕彰していきたい。その受難の歴史にも心が痛む。しかし現代においては通用しない(と、思っている)。


追記
「霊宝殿 今月の展示」、といっても5月の話ですので、日樹聖人の曼荼羅本尊や書状は、もう拝観できませんです(すみません)。次回の展示はいつになることやら。
さらに
〇尊称である「聖人」・「上人」、のつけかた・呼び方が難しい。(我が、かぶとん)まったくわかっていない。ゆえに、「聖人」・「上人」については、出典元・参考元の呼称に合わせていますので混在します。それと通常の歴史上の出来事に登場する場合は、敬称略とします。
さらに、さらに
お万の方(養珠院)が帰依した、日遠上人(身延から池上16世へ)のことも。日樹上人に肩入れしているように見えるかもしれぬ当ブログだが、そういうことでもない。日遠上人のこともそのうちに。


参考 日樹上人について書かれた HP、ブログもろもろ。
    『霊寶殿 池上本門寺の御霊宝と文化遺産』
    『池上本門寺 百年史』 新倉善之著



池上市民大学 5期・第8回講座 「唱題行」の感想

2011-06-07 | 池上本門寺・池上市民大学
2011年 5月
第五期 池上市民大学 第8回講座 「唱題行・講義」
受講してきました。

今日は、最初に本殿内で「唱題行」。
本殿の中に入るのが初めてならば、「唱題行」も初体験。最初に感想を言ってしまいますが、とても感動しました。「写経」のときもそうでしたが、より精神集中・精神統一が自然とできて、終わった後のすがすがしさは、なんともいえないものがありました。
もとい。集合場所の「長栄の間」から本殿へ。堂内はひんやりとしていた。受講生はおおよそ2~30人。慣れた方だろうか、前の場で正座を選ばれた人が10名位。あとの受講生は後方の椅子席。(正座でいこうと思ったが、様子がわからないので遠慮した。)
導師の方の説明を聞く。法界定印の結び方、輪をつくった両手親指の先がつかず離れず。それと呼吸法を教わる。ゆっくりとお腹のなかの空気を出しきる。吸う。出しきる。吸う、を、静かに何度もくり返す。心が落ちつく。それから、軽く目を閉じたまま合掌。おもむろに始まる。最初はごくゆっくりと、導師のあとについて「南無妙法蓮華経」を唱和する。繰り返す。(堂内の灯りが徐々に消えていき、暗くなっていったようだ。)だんだんと早くなりリズミカルになる。どれくらいの時間だったのだろう。だんだんとゆっくりになり、まわりも明るくなっていく気配。導師のあとについて祈願文、誓願文を唱えました。最後に一礼をして「唱題行」をおえた。

小休憩ののち、講義。
講師 小野先生  池上本門寺のガイドコース作りについて
グループに分かれ、それぞれ、先月来のガイドコースの内容の話し合いがされました。

霊宝殿(霊寶殿) 拝観
学芸員の安藤さんが不在のため、もうひとりの方が、展示品の説明をされてました。
内容は、日蓮聖人御真筆の大曼荼羅本尊、御消息の書。
今月の展示として、日樹聖人、日遠聖人等の曼荼羅本尊、書状。
江戸初期の池上本門寺の歴史、最も関心のあるところですが、じっくりと見ることができませんでした。残念。



スナップ写真 横浜

2011-06-06 | 横浜
「横浜開港資料館」に出かけたとき、撮ったスナップ写真です。


横浜貿易協会


開港資料館前・交差点からのランドマークタワー


横浜開港資料館 「たますくの木が見た横浜の157年」展



郵船日本丸


日本丸の帆をひろげる日・次回6月12日(日)


インターコンチネンタルとコスモワールド


横浜公園での大道芸。曲芸をやってました。途中から見たのですが、椅子を10段位も積み重ね、その上での演技。なかなかの迫力でハラハラ、ドキドキ。見物の人たちからは拍手喝采でした。