かぶとん 江戸・東京の歴史散歩&池上本門寺

池上本門寺をベースに江戸の歴史・文化の学びと都内散策をしています。

「韃靼の歌 - 忘れ得ぬ人々 - 」を読んで 

2011-12-13 | 韃靼の馬
『韃靼の馬』は、日経連載が完結して単行本としても出ている。自身の感想としては、完結してはいるのだが、物語は終わっていない、というところか。
置いたままにしていた日経の切抜き、辻原さんの文を、今一度、読み返してみました。その感想です。

韃靼の歌 -忘れ得ぬ人々(上) 物語のリアル 歴史に融合

新井白石や雨森芳州は歴史上の人物であり、阿比留克人や柳成一は作者・辻原登(さん)はの創作である。辻原さんはいう。思い入れが強くなれば、それは「現実(リアル)」となる、と。シェイクスピアの「ハムレット」を引き合いにし「「歴史」というのは、史的事実と呼ばれるものと、この現実(リアル)の混合・融合によって成立する」とも言っている。
そう、阿比留克人は、思い入れのある人にとっては「現実(リアル)」なのだ。
それと後半に書かれている日本と朝鮮半島との行き来について。北朝鮮から木造船で脱出し、九月三十日、能登半島沖で発見された人たちのことにも触れている。「ソーセージを受け取った女性は子供に与えたあと手を合わせた」、この女性にとって、この一瞬、が人生のすべてなのだ。(その後、彼ら、彼女らがどうなっているのかわからない。)
そして、辻原さんは北朝鮮に拉致された人々にも言及している。「忘れ得ぬ人々の名前」として、いまだ北朝鮮にいるであろう人たちの名をあげている。
決死の思いで、使命を遂行した阿比留克人はフィクションだ。
話がだいぶ飛んでしまうが、絶対出てこないとみられたルバング島の小野田寛郎さん。彼を説得した鈴木紀夫は、実在の人物だった。ひそかに、ひそかに思う。現在(いま))、克人出でよ、と。

韃靼の歌 -忘れ得ぬ人々(下) 幸と不幸、拮抗してこそ人生

読者からの手紙の引用で始まる。克人の仲間たちとの信頼関係を、好ましいものとして大いに評価している。しかし物語のラスト、小百合と克人(この場面では金次東)が一瞬たりとも目を合わさず、エンディングに入っていったことを嘆いている。これに対し、作者・辻原さんは、溢れんばかりのコップの水に例え、「この二人は立派に自制してみせた」のである。「ひとつの思いを遂げることは、他の思いを諦めることでもある。幸と不幸が拮抗し、ないまぜになってこその人生」である、ともいっている。けれど読者にとって(かぶとん(自分)にとって)は、自制ありき、など望んでいなかった。一瞬、目が合う、コップの水がこぼれる。ここで「自制」を働かせてもよかったのではないか。作者の力量ならば、たやすいことだったのではないか。日経側の、そろそろ締めろ、の圧力に作者抗しきれず手仕舞いにした、とも見えなくもない(けなしているようで、どうもすみませぬ)。
記事の後半には、妻の恵淑(ヘスク)と石窟の如来像のことが書かれている。もちろん感激の再会であってほしい。ただ、マウル(村)が波乱含みであったのが、どうも気になるが。辻原さんは、「小百合の行く末を見届けなければ、作者として公正さを欠く」ともいっている。「この先は、読者の皆さんそれぞれに、物語の展開の自由を委ねたい」、とゲタを預けたかっこうだ。ゆえに、物語は終わったのだが、終わっていない、ともいえる。

切り抜き記事
韃靼の歌 -忘れ得ぬ人々 上 物語のリアル 歴史に融合 2011年10月2日(日)掲載
韃靼の歌 -忘れ得ぬ人々 下 幸と不幸、拮抗してこそ人生 2011年10月9日(日)掲載



府中 大國魂神社の鼓楼

2011-12-13 | 都内散策


案内板 大國魂神社鼓楼
    府中市指定文化財 大國魂神社鼓楼
 鼓楼は太鼓を懸け時刻を知らせるための建物で、元来中国で発達し、わが国へは鎌倉時代に移入され、主として寺院に設けられました。そして江戸時代になると鐘楼と相対して造られることが多く、宇治の万福寺や日光東照宮のものがよく知られています。
 大國魂神社では慶長年間の造営の際に、三重塔と相対して造られましたが、正保三年(一六四六)の大火で焼失、二〇〇年余たった嘉永七年(一八五四)に再建されました。(以下 略)
  平成二二年三月                      府中市教育委員会
 
今はなき、池上本門寺の鼓楼を思いつつ、参考にするため撮りました。




案内板 武蔵総社 大國魂神社

石碑 府中小学校発祥之地
こちらは府中市役所の中庭。