かぶとん 江戸・東京の歴史散歩&池上本門寺

池上本門寺をベースに江戸の歴史・文化の学びと都内散策をしています。

シュリーマン 幕末の横浜・江戸観光

2010-05-25 | 幕末

シュリーマン 幕末の横浜・江戸滞在を、時系列で追ってみます。

「上海から東洋蒸気船会社所属の蒸気船北京号に乗り、日本の横浜に向かった。・・・」
  『シュリーマン旅行記 清国・日本』(注1) 第4章 江戸上陸、の冒頭部

1865年6月1日
  朝6時 東シナ海 日本で最初の小さな岩ばかりの島が見える地点
   「私は心躍る思いでこの島に挨拶した。・・・私はかねてから、この国(日本)を訪れたい
   という思いに身をこがしていたのである。」
  朝10時 噴火中の硫黄島(鳥島)近海を通過
  正午から午後7時 九州沿海を航行
6月3日
  富士山の見える地点
  午後4時 相模(三浦半島) 江戸湾に入る
  夜10時 横浜港に投錨
1865年6月4日(日) (慶応元年(乙丑 きのと・うし)(五月小)5月11日
  小船に乗換え、横浜上陸
  税関での検査 居留地のホテルへ 横浜の町の見学(この当時の人口 4000人)(?)
6月7日・8日
  (横浜の外国新聞、および道路上の立て札に)
  大君(14代家茂)、帝を訪ねるため、10日に東海道を通る旨の通告が出る
  (実は長州再征、3回目の上洛)
6月9日
  横浜の英国領事の発表 外国人が行列を見物できるよう、許可を得る
6月10日 (慶応元年5月17日
  大君の行列見物(程ヶ谷(現 保土ヶ谷)の集合所)(注2)
  土地柄を観察するために、歩いて行った(4マイル 6km強)
  外国人 100人くらい、警備の役人 30人くらい、が集まっていた
  大君の行列は1700人ほどであった
6月11日
  東海道を散歩
  行列を見たあたりの道で、3人の死体(前日の事件のあと、放置されたまま)を見つける

6月18日(日)
  午後3時15分 絹の生産地・八王子を目指して出発 イギリス人 6人と、雇い馬丁 7人
  町から3マイル さる有名な石碑(記念碑)の前を通る
           (2世紀前、キリスト教徒が追放・虐殺された時代に建てられた)(?)
  豊願寺で休憩 養蚕地へ入る
  夕方6時 原町田(村)に着く 茶屋の二階に宿泊 一晩中雨
6月19日 どしゃ降り
  午前10時30分 出発
  午後1時近く 八王子に到着
  八王子の茶屋に到着 町の散策
  夕方5時頃 八王子を出る 7時に原町田、着 宿泊
6月20日
  朝、出発 横浜へ戻る

1865年6月24日
  横浜のアメリカ総領事フィシャー氏からの招待状
  (江戸の代理公使ポートマン氏を訪問するよう)が届く
 「敬愛する友人たち、横浜のグラヴァー商会の友人たちの親切なとりなしのおかげ・・・」
  出発準備
  晩 荷物を江戸へ送り出す
  クラーク氏より馬を一頭借りる
6月25日(日) どしゃ降り
  朝 8時45分 江戸に向けて出発
  騎馬警護の役人 5人 別当(馬丁) 6人
  15分ほどで神奈川宿、着
  最初の茶屋での休憩 「お茶を16杯たのんだ」
  二番目の茶屋 食事休憩
  昼ごろ 江戸の港に着く(大森?、品川のこと?)
  午後1時ごろ 江戸の町(どこ?)に入る
  午後2時ごろ 善福寺にあるアメリカ公使館に到着
  代理公使ポートマン氏による「要塞」(公使館周り)の案内
  どしゃ降りの雨 入浴後、別の警備の役人5人と、ふたたび出発
  大名屋敷を通過
  愛宕山に着く 江戸の景観、展望する
  江戸城を一巡する
  夕方7時ごろ 公使館に戻る
  夕食のあとポートマン氏と、もう一度要塞(公使館周辺)を巡回
6月26日 一ヶ月ぶりに晴れ
  朝 他の公使館を訪問するために馬で出発
  警護の武士 5人付き添う
  済海寺にあるフランス公使館へ行く 無人、放置されたまま
  (公使は江戸の刺客を恐れ、いつも横浜にいる)
  長応寺にあるオランダ公使館へ行く(オランダ代理公使も横浜)
  東禅寺にあるイギリス公使館へ行く
   (1861年7月 オールコック卿、襲撃さる)
   (1862年7月 臨時公使オニール大佐、襲撃さる)
  アメリカ公使館に戻って昼食
  午後 別の5人の役人とともに浅草観音寺の見物に出かける
  商業地域(どこ?)での見物
  浅草観音寺の山門に着く 寺の脇の墓地で馬を別当に預ける
  警護の武士5人と寺内を見て廻る
  境内の見世物を全部見て回る とりわけ独楽の曲芸に感嘆する
  大劇場での大芝居見物(役人の猛反対を押し切って)
  夕方の6時 劇場を出る
  7時半 善福寺の公使館へ帰着
6月27日
  5人の役人とともに早朝出発
  予定 団子坂にある苗床と公園、王子にある茶屋、帰路もう一度、浅草観音寺
      35マイル(55、6キロ)の周遊
    「すべてを見物し、さらにメモをとる時間を得るためにはかなり早足で廻らなくては
    ならない。」
  大名屋敷、練兵場、江戸城の堀沿いを通り、城の北端へ
  「町の低地帯を下り、もっとも賑やかな界隈へ」(神田神保町(?))
  加賀前田加賀守の屋敷から別荘地帯(下屋敷)へ
  2時間半駆け、団子坂の苗木園に着く
  王子へ行く 王子権現(現 王子神社)に登る
  予約しておいた茶屋(扇屋?)に行く 昼食
  浅草観音寺へ向かう 途中、学校(寺子屋)と鍛冶屋へ立ち寄る
  浅草観音寺とまわりの娯楽場で過ごす
  善福寺へ戻る
6月28日
  4時半に鐘の音で目が覚める
  朝の勤行を見ようと、急いで身支度する
   (かぶ注: 築地のまぐろの競り見学と、心境はまったく同じだ!!)
  「寝室を出るやいなや、役人が三人付き添って寺までついてきた。」
  7時半 騎馬役人の護衛とともに出発 別当(馬丁)6人
  深川八幡宮をめざす
  大名屋敷、港近く、大きな商店街を通り、永代橋へ出る
  1時45分 深川八幡宮へ着く
  洲崎弁天へ向かう
  すぐ近くの岸辺の茶屋で休憩
  両国橋を渡って領事館へ戻る
  昼食後、赤羽の寺(光林寺)を訪問
  1861年1月15日に暗殺された、アメリカ公使館付通訳 H・ヒュースケンスの墓へ

  「現在江戸に住む唯一の外国人は公使館員、ポートマン氏、そして私である。」
6月29日 (閏5月7日)
  終日、手記「日本文明論」を書き留めていた(?)
  公使館周辺警護の警邏隊に所属していた高官の葬儀に列席(28日夜、死去)
  護衛の5人の役人と、馬で横浜へ戻る予定
7月4日 (閏5月12日)
  午前9時 イギリスの帆船エイボン号に乗船し、横浜、神奈川沖遊覧
  午後4時ごろ サンフランシスコに向けて出立。
           (世界周遊を完成したくなったため)

シュリーマン 43歳の時のことである。
その後、パリで考古学を学び、トロイア遺跡の発掘へとつながる。


(注1)参考 抜粋・引用
    『シュリーマン旅行記 清国・日本』
      ハインリッヒ・シュリーマン著 石井和子訳 講談社学術文庫
(注2)p.97 画像、についての補足
    『末廣五十三次 程ヶ谷』 朝霞樓芳幾・絵
    (『末廣五十三驛図会』(十四代将軍家茂公の東海道上洛図)芳年等 慶応元年)
    この錦絵に描かれた外国人の一人として、シュリーマンがいた!!(なんか、すごい!!)
(注2)補足の補足(そんなのあり?) 2010.7.15
 「横浜開港資料館」に寄ってみた。神奈川新聞社の記者らしき女性が、受付で、「横浜検定」の件で、と話を切りだしたところだった。こちらは「江戸検定」で、とノドまで出て、飲み込んだ。
 という話ではなくて、書籍販売所にあった『横濱 幕末明治横浜の目撃者たち』
(『横濱』 YOKOHAMA 2010年夏号 Vol.29 平成22年7月3日発行 神奈川新聞社 )をパラパラめくると、シュリーマンの記事(内心、オー)。思わず衝動買い。値段も600円と手頃だった。
 後で読んでみると、「末広五十三次 保土ヶ谷」(p.21)に似たような説明があった。「ほぼ同じ場所であろう」と断定を避けているが、シュリーマンの記述からして、これは断定してよい。
 
参考 『見る・読む・調べる 江戸時代年表』 山本博文・監修 小学館


[追記]
 著書に記述のない日。シュリーマンの行動を推測してみる。
6月5日、6日
 宿舎まわりから、そう動いていない。それに動ける情況でない。
 イギリス・アメリカ・フランス等、各国領事館への挨拶回り、江戸の情報収集。
 グラヴァー商会への挨拶と情報収集。
6月12日~17日
 来日早々、事件に出くわしたシュリーマン。
 より細かい日本および江戸の情報の収集につとめる。
 江戸への訪問ができるよう働きかけをしている。
 18日の行動から逆算して、イギリス人との親密な接触あり。
 八王子への同行イギリス人 6人とは誰のこと?(ここがポイントか?)
6月20日の午後~23日
 グラヴァー商会との接触。
6月30日~7月3日
 30日は移動日。以後、次の訪問国、アメリカ行きの準備。