長野県は下の地図のように4つの区域に分かれている。区域の名は東信(とうしん)、北信(ほくしん)、南信(なんしん)、中信(ちゅうしん)である。一応地名なので読み方を加筆。その中の中信(ちゅうしん)という言葉は佐久に来た時に直ぐに耳にして覚えた。位置的に中信は松本と佐久や小諸辺りのことだと思ってた。それが数年前に大きな勘違いだと知った。北部の白馬村や小谷(おたり)村も中信だったのだ。東信についてはそう呼ばれる事があるくらいに思っていた。でも下の地図を見てて何故中信のところは西信ではないのかという疑問。
長野県の4つの区域@長野県旅行業協会より
佐久に住み始めて直ぐに長野県に関する本を買ったり借りたりした。長野県内では長野市と松本市の仲が悪いというのを知った。だから松本の人は西信という名を嫌って松本が長野県の中心なのだという意思を込めて中信になったと俺は思った。その推測はドンピシャ。北信、東信、南信ときて西信ではなく、なぜ中信?には下の様に書かれていた。俺も長野県を理解出来るようになったもんだなとシミジミ。
つい最近、長野市と仲が悪い松本市と隣の塩尻市は仲が悪いというのを塩尻市に住んでる人から聞いた。でも塩尻市が長野市と仲が良いということは無いんだろうな。
佐久に住み始めて直ぐに長野県に関する本を買ったり借りたりした。長野県内では長野市と松本市の仲が悪いというのを知った。だから松本の人は西信という名を嫌って松本が長野県の中心なのだという意思を込めて中信になったと俺は思った。その推測はドンピシャ。北信、東信、南信ときて西信ではなく、なぜ中信?には下の様に書かれていた。俺も長野県を理解出来るようになったもんだなとシミジミ。
筑摩県が長野県に統合されて、筑摩県民は長野県に対抗意識を持つようになった。筑摩県と旧長野県が統合された明治9年当時、松本の人口規模は長野に匹敵したので、松本の人としては、「われわれこそ位置的にも人口規模的にも長野県の真ん中だ」という意識は非常に強かったはずだ。にもかかわらず、県庁を長野に奪われることになってしまった。中信という名前には自分たちこそが中心だという筑摩県民の対抗意識があらわれているんだと思う。筑摩県こそが統合した長野県の中心で、そうした中で中心の「中」という字を使うようになったのだろう。
つい最近、長野市と仲が悪い松本市と隣の塩尻市は仲が悪いというのを塩尻市に住んでる人から聞いた。でも塩尻市が長野市と仲が良いということは無いんだろうな。