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『やる夫が鎌倉幕府の成立を見るそうです』~“坂東”というフロンティア②

2012年02月02日 | 小説
【日本史】



▼(前回の記事):『やる夫が鎌倉幕府の成立を見るそうです』~“坂東”というフロンティア

▼泳ぐやる夫シアター:やる夫が鎌倉幕府の成立を見るそうです 巻第一


■坂東武士という存在

前回の記事で述べた「坂東は(古代~中世の)日本人のフロンティアであった」という主張に合わせて、ちょっとネット上から「アメリカ開拓時代」の写真を見つけて来て(↑)上に張ってみました。
ちょっと想像して欲しいのですが…まあ、イメージを利用した印象操作の話なんですが(汗)これが開拓時代の写真である事を知った上で、まず、彼らの“面構え”を見て下さい。そして、自らをフロンティアに投じていった彼らの胸に宿る希望や不安、そこから来る“気概”のようなものを感じとってみて欲しいです。
…どうでしょうか?……僕は、おそらく“それ”は、日本の「はじまりの武士たち」に宿っていいた“気概”と、ほぼ同じものだと思うんですよ。

いや、すみません。はじまりの『武士』では範囲が広過ぎですね(汗)『武士』の中でも、特別な意味を持つ『坂東武士』の話です。“坂東”というフロンティアに現れた、はじまりの『坂東武士』の“面構え”と“気概”といったイメージを、こういった写真から見出すことはできるんじゃないかと思っています。
…あ、鎌倉幕府成立期に入ると、もっと土地が安定した大地主の寄合の“面構え”になってくるのでしょうが(笑)…まあ、それもまだ充分に近い匂いを残していた事でしょう。

僕が、ここで話したいのは、こういったイメージの話なんですよね。『やる夫が鎌倉幕府~』の舞台となる平安中期から鎌倉時代にかけて、日本で何が起こっていたか?その出来事を知るだけであれば、それこそ教科書を読むだけでいい。しかし、それだけだと……なんと言うか、プロットを知っただけで、長い長い日本人の『物語』が見えてこないんですよね。
たとえば「武士のはじまり」という言葉が出た時に、おそらく、多くの人たちは、江戸時代の、あるいは戦国時代後期あたりの、支配者としての武士像をイメージすると想像します。でも、武士(のはじまり)を支配層に当たる者ってイメージすると、やがて確かに支配層になるとしても、この時代の武士について多くのものを見えなくしてしまう気がします。
鎌倉武士が支配者としての立場を確立するのは守護地頭の立場を手に入れた時でしょうね。しかし、その後も武士は半士半農という混在状態の者が大半だったわけで、やはり明確に武士=支配者(あるいは貴族?)が成立するのは江戸時代に入ってからだと思います。…というかこの場では武士がそういう混然とした“人間の勢力”である事を強調したいです。

大和朝廷を旧実力者にして旧支配者、鎌倉幕府を新興の実力支配者…としてだけ捉えると「ふうん、昔の王朝(支配者)を、新しい王朝(支配者)が追い落としたんだね。でも、その時、新王朝は、旧王朝を断絶させなかったんだ?なんでだろう?日本って不思議だねえ…」みたいな感想になってしまうでしょう。
でも、そうじゃない。“彼ら”が本来(あくまで本来ですが)、目指したものは、旧支配者の追い落しではない。源頼朝が目指したものは“革命”ではない。もっと別のもののはずなんです。

ちょっとここでWikipediaに都合のいい記事があったので引用してみましょう「寛平・延喜東国の乱」という平安中期の889年、に東国で発生した反乱なのですが…(↓)
8世紀末から9世紀にかけて軍団が廃止され、常置の国家正規軍がなくなったことから地方の治安は悪化し、国衙の厳しい調庸取り立てに反抗した群盗の横行が全国的に常態化するようになっていた。特に東国では9世紀半ばから後半を通じて俘囚の反乱が相次ぎ、群盗の活動の活発化と相まって、治安悪化が顕著であった。朝廷はこれらの鎮圧のために軍事貴族層を国司として派遣するとともに、国衙に検非違使等を設置するなどの政策をとっていったが、群盗の活動は収まらず乱が発生したものである。
乱の詳細は不明であるが、その鎮圧には10年余りかかったことが『扶桑略記』や『日本紀略』に記載されており、鎮圧後も、東国では「?馬の党(しゅうばのとう)」の横行が顕著であるなど安定しなかった。

(Wikipediaより)

どうも桓武天皇の治世の頃、坂上田村麻呂の東北蝦夷征伐が一段落したあたりから、常備軍を削減する動きがはじまり、太宰府や東北といった国境付近の兵力以外はほとんど解体、京都には検非違使、各国には国司の施設を護衛する必要最低限の人員が配備される程度になっていったようなんですよね。なんでか…って僕もよく分からないのですが、まあ、つまる所「もう戦争しないから」とでも思ったんですかね?(´・ω・`)
しかし、この頃の軍隊は防衛と警察を兼ねているわけで、これって要するに平安時代の政府は平安京以外、警察的行為による治安維持を放棄したって事です。少なくとも皇族貴族たちの尻に火がつくまでは、ほとんど腰を上げなくなっていた。大事になって、はじめて「軍の編成」を行なってこれに当たる。大事になるまでは、ほとんど放置し「各々の自衛に任せた」。
それが、土着の自衛集団=武士のはじまりであり、また、朝廷にある程度わたりをつけられる源氏や平氏が、朝廷からの突発の軍の編成や、国司の施設の護衛などの請け負いをはじめるのもこの頃です。…戦争はしなくても乱はあるワケでね。…どうも、この頃の平安貴族はかなり夢想に生きているというか、素で「それは自分とは関係ないもの」と思っていた疑いがあります。

しかし、坂東というフロンティアは、フロンティアであるが故に、元々、治安はそんなによくなかったと思います。しかも、そこは西国とは違って、異民族(蝦夷)が残存する最前線でもあったワケです。上述の「寛平・延喜東国の乱」の項にある“俘囚”って蝦夷の生き残りの事です。
たしかに坂東に根を下ろした者たちは、ここで生きここで死ぬ覚悟をし、自衛する気概も持っていた。同時に彼ら自身が荒くれもので無法な所もあった。正に西部開拓時代の開拓者たちのようなものだったとイメージします。だけど、既に騎兵隊は引き上げていて保安官は自分の身しか守らない。にも関わらず税は払え、労役に出ろ、寄進しろと、都合のいい要求だけしてくる。そういう者たちに、相当、腹に据えかねる思いが生まれたであろう事は想像に難くありません。
その彼らの思いが「俺たちが平氏を追い落とすんだ!いや、大和朝廷に成り代わってこの国を治めるんだ!天下を取るんだ!」なんて権力闘争的論理で説明しきれるはずがないと思う。僕の話が上手く伝わっていれば、そんなものとは別の彼らの願い「何とかしてくれ!」という思いがイメージできると思います。

いや、彼らだって「何とかしてくれ!」で一つにまとまってるわけじゃない。むしろ、勝手に自衛するって事は、予防的防衛(やられる前にやる的な)もやるし、半無法化している連中でもあるワケです。それぞれが相手を出し抜こうとしている。だから“権力”に利用される。「平氏の清盛って奴は上手くやったみたいだ。しかし、俺たちには何もしてくれないという意味で“やつら”と変わらない」…。
そんな中で、昔、戦役で世話になった、死生を共にした上司の一族の御曹司が旗を上げると言う。「…まあ、世話になった、源氏のぼっちゃんが言うんじゃ、しょうがねえなあ…」と、運命づけられていたかのように、一つになれた僥倖なる物語。それが源頼朝と……鎌倉幕府成立の物語なんです。

……その物語が、なぜ、長い長い擾乱の物語となっていったのか?『やる夫が鎌倉幕府~』で、源頼朝や、北条政子、そして足利義兼たちが目指したものは、遂に物語が幕を引いても手に入る事はなかったと僕は思っています。…何故か?を、さらに書いて行くつもりだったのですが、ちょっと時間的に厳しくなって来たのと(汗)まあ、ここまでで掲題の「坂東というフロンティア」の意味の説明としては一段落ついているので、早めに切り上げようと思います。…ここはまた機会があればと言う事で。

743年の墾田永年私財法の発布により、古代日本に大開拓時代が生まれ、日本列島を人間が埋め尽くしはじめた。列島の最も大きな人間の苗床であった坂東では、次第に“人間の勢力”が畿内の勢力を脅かし始める。939年、平将門が乱を起こし、新皇を名乗るが、この時はまだ畿内の勢力の方が上だった。
それから、さらに250年後、畿内を凌駕する勢力を経て、ようやく坂東の台頭の物語が成ります。しかし、それは坂東武士たちが持っていた火種が~他の坂東以外の小さな苗床の萌芽に合わせて~全国に波及して行く物語のはじまりでもありました。…まあ、それはまた別の物語です。(`・ω・´)


まあ、そんな感じでラジオしますね?(↓)

▼漫研ラジオ:http://www.ustream.tv/channel/manken


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