自転車操業日記

自転車と組版ソフトについての備忘録。

登場人物紹介

ゆかり:長女。アルミの入門車。52-42-30×13-25。ひたむきでまじめな性格。2009年8月29日,失踪。誘拐されたものと見られる。引き続き情報求む。荻の葉:次女。スチールのオーダー車。50-34×12-25。自分を甘やかすバイク。といいつつ脚使わされる。外面如菩薩内心如夜叉。ダフネ:三女。養女にきたスチール車。ラグつき。44×13-28。見た目は派手だけど実直なよい子。じつはいろいろマニアック。犬君:四女。量産型小径車。Giant escape miniってやつです。養女に出したので,今はいないよ。roadman:廃車にされかけていた30年近く前のフレームを拾ってきてレストア。いろいろ問題はあるけど,基本いいですよこのフレーム。びっくり。おじょうさま:筆者の雇用主。しっぽのあるメカニック。基本的に何もしない。2017年8月18日,ご逝去。享年19ちゃい。コネコ:ねこ3代目。まだキャラクターがはっきりしていない。チュウネコくらいになったら名称が変わるかも。……もうコネコというサイズではないけど,いまのところまだコネコで行く。ひたすらノーテンキで,やってることはまだまだコドモ。筆者:動力発生器。燃費,性能とも悪い。最近坂が登れない。

本日操業。

2009-10-27 22:44:50 | 泡沫
きょうは乗ったよ。
うーん……たぶんかなりケイデンス落ちてるな。
でもしばらく,追い込む機会は持てないと思う。
冬の間,精進せねば。

「歌の話」を続けて読んでいる。
秋萩を踏みしめて山道を行った人のあとを行った人の,さらにそのずっとずっとあと,すっかり広くなった道を眺めているわけだから語る言葉を持たないといえば持たないのだけど……研究者折口信夫と歌人釈迢空の関係って何なのだろう。わかんないなあ。
子ども向けに極端な言い方をしている,というふうでもないんだよ。
貫之をぼろくそはまあ措くとして,業平がこれ? 友則さんは?
新古今なんか,定家も俊成卿女もぶっとばしてるし。実朝も。このひとなんかは,品も良いし柄も大きいしすなおだし,お眼鏡にかなうのではないかという気がするのだけどねえ。近代的すぎるのがいやってワケでもなさそうだ。
後鳥羽ももっといい歌があると思うよ。このセレクションはわからん。
で,江戸の国学者のうたにページを割いてる。で,これがいいの? なんかせせこましくないですか。
文学史,和歌史の体裁をとりながら,アンソロジー自体にはほとんど触れてないんだよね。アンソロジーに練り込まれた祈りのようなものに,気づかない人であるはずはないとおもうのだけど。
アンソロジーは作品ではない,という評価だったのかしら,当時は。
子ども向けだから? そんな遠慮,感じないけどな。
ふしぎなひとだなあ。全集買っておかなかったのがつくづく悔やまれるよ。

そういや,俊成の作とか歌論(?)を少し読みたい。
冷泉文書の展示会も始まるし。これには財布握りしていくようかもな。
自転車用GPSほしかったけど,本の方が大事だ。

昨日の深夜から朝にかけて,台風の低気圧が抜けていったらしい。
きのうは,比較的早く床に就いたのだけど,起きたら6時半だった。うそみたいに寝ている。5時には起きられるなーと思っていたですよ。
メカニックのおじょうさまのように,お天気が悪いときは寝るカラダになってきているようだ。
気候に逆らわない生活,といえば聞こえはよいけど,不規則になるのは嬉しくない。一応,朝やることの予定は立てておいたのにさあ。
あと明るさに反応するところが少しあるから,やっぱ冬は目覚ましかけないとだめだ。
朝やることが少ない日は,ちょっと自転車に乗る努力もしよう。
せっかくパフォーマンスが上がってきたのに,また低下するのはかなしいよー。

雨天休業。

2009-10-27 07:00:48 | 泡沫
雨でおやすみ。

最近,雨の休日は寝てばかりいる。この週末も,おそうじをして力尽きた。髪切りにいったらもうくたくたで起きてられない。動いてる方が楽だ。
でもものを読むことはできるので,わりと落ち着いて仕事をしたりした。

冬ものカットソーを出して着てみたら,腕がゆるくなっていた。きちんと数字をとってはいないのだけど,上腕,前腕,どっちも細くなっていると思う。
ハンドルバー恐るべし。

ダフネは,ほぼフラットなところを楽に走るギアはわかったけど,ちょっとの勾配ですごく感じが変わる。ゆかりのときみたいに,陸橋ののぼりくらいならギアチェンジなしでそれほどスピードも落ちません,ってわけには全然いかない。
でもこれは自転車のせいなのかなあ。 アタシがのぼれなくなってるだけの気がする。

ゆかりと比べると,車体はちょっと重い感じ。ただ,たぶんこれはハブがいいのだと思うのだけど,動き出すといつまでーも停まらない。ころころころって転がっていく。ああ,ハブの摩擦が小さいってこういうことなんだなーって。このとき,車重がモノを言ってる感じがするのよね。
荻の葉も停まらないバイクなのだけど,その停まらなさかげんがだいぶ違う。荻の葉は軽くても転がる……転がるというより,すべるのかなあ。

ああでも,クロモリいいなあ。安いフレームにも乗ってみたくなってきた。サイズが厳しいけど,深谷のランドナーのフレームで480ってのがあったはず。105でつくれないかな。ブレーキだけアルテかデュラでにして,前1速,44か42で,うしろは9速でも8速でも。都内走るだけなら,下25でいい。18とか19くらいで固定,ってのもありか。ちょっと軽めのホイールをつけてあげて,感じ見てみたい。

岩波文庫の新刊に折口の本があったので,けさから読み始めた。子ども向けに書かれたものらしい「歌の話」という文学史エッセイがはじめにある。
まったく,どいつもこいつもアタシの貫之さんをぼろくそに言いくさって……。
子規のはまあプロパガンダみたいなものだろうけど(アタシは威勢のいい啖呵は信用しないのです),折口はほんとにだめだっていってるっぽいです。
折口がどうしてそういう見方をしたのかがとても不思議。貫之,ヘタか?
屏風歌みたいなのがきらいだったみたいなのはわかる。でも,技巧的だから,題詠だから,屏風歌だからそのおうたがすぐにだめってことはないと思う。
子ども向けにわかりやすく書いてるせいかもしれないけど,そういう歌の例にあげてるのがまたひどいのばっかりでさあ。

折口がはっきり書いてないことは,うたをだれが読むのか,ということかな? 「読む」ですよ。「詠む」ではないの。受け手側を問題にしてないんじゃないかなって思う。
個人的なうたなのか,社会的なうたなのか。両者は分離しているのか,いないのか。分離の度合いはどのくらいなのか。どのくらいの受け手──コミュニティを相手にしているのか。
それがわかったら不思議感は解消されるだろうかねえ。
あと時代のちがいを差し引かないとだめか。