4月23日(月)街道歩き3日目、今日は薄曇り、気温も10℃台となり、さわやかな街道歩きが期待できます。
朝食を6時30分から採り、7時過ぎには街道筋となるホテル前の国道102号線に立ちます。
今日は、今回の街道歩きで最長の距離30km程を歩く予定、宿数は二つ101番目七戸宿、そして102番目野辺地宿です。
十和田市は、安政6年(1859年)に新渡戸傳翁が不毛の原野であった三本木原台地を開拓、「碁盤の目」に整然と区画された「美しいまち並み」が建設されました。
その様な事から街道筋は真っ直ぐに延びています。
出発して直ぐに、左手に赤色の大きな鳥居が目に入って来ます。今日は、こちらの三本木稲荷神社で旅の安全祈願をしました。
少し進むと稲生川にかかる稲生橋を渡ります。
稲生川は、十和田市開拓の祖新渡戸傳翁が不毛の原野であった三本木原台地に、奥入瀬川から上水した人工河川です。
また、この近くには三戸と十和田を結ぶ十和田観光電鉄の十和田市駅があったようですが、平成24年4月に廃線となったそうです。
さらに20分程進むと右手に大きな樹木「土手山のケヤキ」が目に入って来ます。このケヤキの大木は松前藩主が参勤交代の折りに植えたと伝えられています。相坂から洞内茶屋まで奥州街道沿いの風雪が強く当た箇所に、高さ7尺(約2.1m)ほどの土手を築き、その上に木を植え風雪を防いだとの事。その土手が最近まで残っていたことから、土手山の地名が生まれた。(案内板より)
洞内(ほらない)入口交差点で国道4号線と合流、少し進むと左手に「真登内(まとぢ)一里塚」が現存する。残念ながら、昭和30年代の用水路建設のため西塚を失っている。
一里塚の先には、久々に見る「奥州街道道標」が建てられ、道標には「至 江戸日本橋百九拾参里拾八町」とあり、右は「至 蝦夷地松前 只今測量中ニ付候」と刻まれている。また、その裏手は小さな日本庭園が造られている。
その先、洞内小学校を過ぎ大沢田地区に入ると、所々に見られる奥州街道名残りの松並木「馬洗場の松並木」が近づいてきます。
この地点で、歩き始めて2時間程、時刻は9時30分になります。
暫く進むと、街道筋は4号線から左に分岐し十和田市と七戸町の境界となります。
七戸宿に入る少し手前に蒼前神社があります。御祭神は保食神、大正5年に盛田信家の先代によって建立と伝わるそうです。
高瀬川(七戸川)に架かる七戸橋を渡ると、旧奥州街道98番目の宿場・七戸宿に入ります。
写真は、宿内で見かけた盛田庄兵衛㈱の酒蔵「駒泉」と大町桂月文学碑です。
宿内を進み七戸城跡に登城しました。七戸城は、七戸南部氏の代々の居城で、往時の曲輪、土塁、水濠、空堀などが現存しています。
城跡にある柏葉公園の桜は満開、神明神社の狛犬さんも出迎えてくれました。
七戸宿を抜け、途中の十字路を左折し、なだらかな坂道を登って行くと国道394号線、さらに進むと国道4号線と合流します。
この間、日本橋から174番目の一里塚があった「天王一里塚」の説明版を見付けました。
合流地点から少し進むと道の駅「しちのへ」、「七戸文化村」が左手に見えてきます。
東北新幹線の「七戸十和田駅」は道の駅からも見えます。
時刻は12時少し前、ここまでで約14kmを歩いた計算です。ここで、少し休み、昼食を採り後半につなげていく事にします。
後半は、計算上で16km程となります。
これまでの平均時速3km程で計算すると5時間強、出発が12時30分過ぎなので野辺地宿の到着予定時間は18時頃となってしまいます。
七戸十和田駅を左手に見ながら、新幹線の線路を高架橋で渡ります。
右手に青森県営農大学校の広い敷地が続き桜が満開です。そしてここにも奥州街道の標柱と案内板があります。しかし、4号線は猛スピードの車が絶えず通過するので横断をあきらめました。左側には七戸の松並木が続きます。
大学校の隣は、サラブレッド系競走馬の名門牧場として知られている諏訪牧場が続きます
途中、旧街道に分岐するところもありますが、ほぼ4号線をたどって歩きます。
1時間弱歩き、七戸町道ノ上地区に来たところで、日本橋から175番目の「道ノ上一里塚」の案内板を発見しました。
道ノ上地区から45分程進むと前方に坪川に架かる坪橋が見えてきます。橋を渡り、総合衣料「いいづか」さんの店で4号線から分岐し旧道に入ります。この辺りから4号線と離れて行くので、奥州街道の痕跡が無いと不安になってきます。
そんな時に、日本橋から176番目の「柳平一里塚」の案内板を発見し、ホッとする気持ちになりました。
県道245号線を渡り、道なりに進んで行くと千曳神社追分石(追分にある千曳神社追分道標で、中央に千曳神社、右 千曳、左 野辺地と刻まれている)を発見、進む道は良さそうです。
尾山頭地区で、舗装道は大きく右にカーブします。
事前の調べでは、旧街道は右にカーブする舗装道ではなく、直進する舗装していない山道となります。また心配しながら登って行くと右手に上北自動車学校が見えてきました。街道筋を進むと「尾山頭茶屋跡」の案内板があります。
また一安心して進むと雪山が見えてきます。これまでかと思いながら近づくと除雪した雪の置き場があったようです。脇を通り、4号線の高架下を潜り、千曳地区に入って行きます。
この辺りは東北町となります。千曳小学校前を通る旧街道をむと左手に「親巡蹟」があります。明治9年に明治天皇の東北巡幸の際に野立てをされた場所のようです。
石坂信号で4号線と合流します。4号線を進むと野辺地町に入ったようです。
下調べで旧街道は、野辺地IC.を迂回する形でIC.の手前で4号線と分かれ旧道に入ります。
写真左.が分岐点ですが、よく観察すると通れない感じがするのでそのまま4号線を直進しました。
ところが、歩道が無く信号もなく、またIC.から降りて来る車が4号線に合流するので、渡るのに大変な思いをしました。
4号線を進み、松ノ木平信号で右手に分岐し279号線を歩き、青い森鉄道を高架橋で渡ります。
時刻は17時過ぎ、スマホで野辺地駅の時刻表を調べると17時9分発青森駅行きがあり、それを逃すと1時間待ちとなります。
ここからは時速6kmにピッチを上げ、何とか野辺地駅に2分前に辿り着けました。
今日から三泊は、青森駅近くの温泉大浴場に入れる「青森センターホテル」に宿泊します。
明日からは、荷物をホテルに置き、身軽な街道歩きとなります。
本日の予定歩行距離31.0km、歩数計は53,991歩を示していました。
朝食を6時30分から採り、7時過ぎには街道筋となるホテル前の国道102号線に立ちます。
今日は、今回の街道歩きで最長の距離30km程を歩く予定、宿数は二つ101番目七戸宿、そして102番目野辺地宿です。
十和田市は、安政6年(1859年)に新渡戸傳翁が不毛の原野であった三本木原台地を開拓、「碁盤の目」に整然と区画された「美しいまち並み」が建設されました。
その様な事から街道筋は真っ直ぐに延びています。
出発して直ぐに、左手に赤色の大きな鳥居が目に入って来ます。今日は、こちらの三本木稲荷神社で旅の安全祈願をしました。
少し進むと稲生川にかかる稲生橋を渡ります。
稲生川は、十和田市開拓の祖新渡戸傳翁が不毛の原野であった三本木原台地に、奥入瀬川から上水した人工河川です。
また、この近くには三戸と十和田を結ぶ十和田観光電鉄の十和田市駅があったようですが、平成24年4月に廃線となったそうです。
さらに20分程進むと右手に大きな樹木「土手山のケヤキ」が目に入って来ます。このケヤキの大木は松前藩主が参勤交代の折りに植えたと伝えられています。相坂から洞内茶屋まで奥州街道沿いの風雪が強く当た箇所に、高さ7尺(約2.1m)ほどの土手を築き、その上に木を植え風雪を防いだとの事。その土手が最近まで残っていたことから、土手山の地名が生まれた。(案内板より)
洞内(ほらない)入口交差点で国道4号線と合流、少し進むと左手に「真登内(まとぢ)一里塚」が現存する。残念ながら、昭和30年代の用水路建設のため西塚を失っている。
一里塚の先には、久々に見る「奥州街道道標」が建てられ、道標には「至 江戸日本橋百九拾参里拾八町」とあり、右は「至 蝦夷地松前 只今測量中ニ付候」と刻まれている。また、その裏手は小さな日本庭園が造られている。
その先、洞内小学校を過ぎ大沢田地区に入ると、所々に見られる奥州街道名残りの松並木「馬洗場の松並木」が近づいてきます。
この地点で、歩き始めて2時間程、時刻は9時30分になります。
暫く進むと、街道筋は4号線から左に分岐し十和田市と七戸町の境界となります。
七戸宿に入る少し手前に蒼前神社があります。御祭神は保食神、大正5年に盛田信家の先代によって建立と伝わるそうです。
高瀬川(七戸川)に架かる七戸橋を渡ると、旧奥州街道98番目の宿場・七戸宿に入ります。
写真は、宿内で見かけた盛田庄兵衛㈱の酒蔵「駒泉」と大町桂月文学碑です。
宿内を進み七戸城跡に登城しました。七戸城は、七戸南部氏の代々の居城で、往時の曲輪、土塁、水濠、空堀などが現存しています。
城跡にある柏葉公園の桜は満開、神明神社の狛犬さんも出迎えてくれました。
七戸宿を抜け、途中の十字路を左折し、なだらかな坂道を登って行くと国道394号線、さらに進むと国道4号線と合流します。
この間、日本橋から174番目の一里塚があった「天王一里塚」の説明版を見付けました。
合流地点から少し進むと道の駅「しちのへ」、「七戸文化村」が左手に見えてきます。
東北新幹線の「七戸十和田駅」は道の駅からも見えます。
時刻は12時少し前、ここまでで約14kmを歩いた計算です。ここで、少し休み、昼食を採り後半につなげていく事にします。
後半は、計算上で16km程となります。
これまでの平均時速3km程で計算すると5時間強、出発が12時30分過ぎなので野辺地宿の到着予定時間は18時頃となってしまいます。
七戸十和田駅を左手に見ながら、新幹線の線路を高架橋で渡ります。
右手に青森県営農大学校の広い敷地が続き桜が満開です。そしてここにも奥州街道の標柱と案内板があります。しかし、4号線は猛スピードの車が絶えず通過するので横断をあきらめました。左側には七戸の松並木が続きます。
大学校の隣は、サラブレッド系競走馬の名門牧場として知られている諏訪牧場が続きます
途中、旧街道に分岐するところもありますが、ほぼ4号線をたどって歩きます。
1時間弱歩き、七戸町道ノ上地区に来たところで、日本橋から175番目の「道ノ上一里塚」の案内板を発見しました。
道ノ上地区から45分程進むと前方に坪川に架かる坪橋が見えてきます。橋を渡り、総合衣料「いいづか」さんの店で4号線から分岐し旧道に入ります。この辺りから4号線と離れて行くので、奥州街道の痕跡が無いと不安になってきます。
そんな時に、日本橋から176番目の「柳平一里塚」の案内板を発見し、ホッとする気持ちになりました。
県道245号線を渡り、道なりに進んで行くと千曳神社追分石(追分にある千曳神社追分道標で、中央に千曳神社、右 千曳、左 野辺地と刻まれている)を発見、進む道は良さそうです。
尾山頭地区で、舗装道は大きく右にカーブします。
事前の調べでは、旧街道は右にカーブする舗装道ではなく、直進する舗装していない山道となります。また心配しながら登って行くと右手に上北自動車学校が見えてきました。街道筋を進むと「尾山頭茶屋跡」の案内板があります。
また一安心して進むと雪山が見えてきます。これまでかと思いながら近づくと除雪した雪の置き場があったようです。脇を通り、4号線の高架下を潜り、千曳地区に入って行きます。
この辺りは東北町となります。千曳小学校前を通る旧街道をむと左手に「親巡蹟」があります。明治9年に明治天皇の東北巡幸の際に野立てをされた場所のようです。
石坂信号で4号線と合流します。4号線を進むと野辺地町に入ったようです。
下調べで旧街道は、野辺地IC.を迂回する形でIC.の手前で4号線と分かれ旧道に入ります。
写真左.が分岐点ですが、よく観察すると通れない感じがするのでそのまま4号線を直進しました。
ところが、歩道が無く信号もなく、またIC.から降りて来る車が4号線に合流するので、渡るのに大変な思いをしました。
4号線を進み、松ノ木平信号で右手に分岐し279号線を歩き、青い森鉄道を高架橋で渡ります。
時刻は17時過ぎ、スマホで野辺地駅の時刻表を調べると17時9分発青森駅行きがあり、それを逃すと1時間待ちとなります。
ここからは時速6kmにピッチを上げ、何とか野辺地駅に2分前に辿り着けました。
今日から三泊は、青森駅近くの温泉大浴場に入れる「青森センターホテル」に宿泊します。
明日からは、荷物をホテルに置き、身軽な街道歩きとなります。
本日の予定歩行距離31.0km、歩数計は53,991歩を示していました。