サプライズ

 ここ数日、新聞紙上やTVで「サプライズ」という言葉をやたら見聞きする。
サプライズとはsurpriseで「驚き」という意味らしい。
それにしてもできるだけカタカナ英語は使わないように、という政府通達があったと思ったが、ここ数日の「サプライズ」氾濫は一体なんだ。第一、カタカナ英語の使用に批判的な新聞各紙が競ってこの言葉を使っているのだから、いつまでたってもカタカナ英語の氾濫はなくならないだろう。

 それはさておき、第2次小泉内閣の人事は「サプライズなし」らしい。
ところが、私にとってはサプライズ(驚き)だらけだった。
まず、TVを見ていて驚いたのが幹事長に就任した武部勤氏が就任祝い(?)の席だったかなにかで挨拶の代わりに歌を歌ったことだ。
きっとこの人はカラオケが好きに違いないと思ったが、とてもまともに政治をする人間には思えなかった。

 そういえば、この人、BSE騒動の時の農林水産大臣だった。
熊本城で牛に「小泉HELP」と書いて放ったノー天気な人だったのだ。
そんな人が党の要の幹事長に就任させたのだから、これこそまさにサプライズ(驚き)以外の何ものでもないだろう。
 どうも小泉さんのやることはよく分からん。
郵政民営化にしてもしっかりした議論もなく、先に民営化ありきで突っ走っているように思える。

よく分からんといえば、この国の国民もそうだ。
小泉さんが「自民党をぶっつぶす」と言った時に、彼の中身ではなく、言葉にフィーバーし、小泉氏に幻想を抱いたのだから。
人は何を言ったかではなく、何をしたかで評価されるべきだ。
言うだけなら誰でも言える。
だからなのか、周囲を見回してみても、言うだけの人がいかに多いことか。
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やはりおかしい楽天の動き

 プロ野球球団への新規参入問題でライブドアに続き楽天も参入を表明したが、楽天の動きに不自然さを感じるのは私1人ではないだろう。
たしかにライブドアの堀江氏がTシャツ姿で現れて、近鉄球団買収や新規参入表明をTVの前でする姿に好感を持ってない人は多いだろう。
あるいはライブドアという会社のやり方に好感を持ってない人もいるだろう。

 話はちょっと脇に逸れるが、私が初めてライブドアの名前を目にしたのはウェブ閲覧ソフトOperaの日本でのライセンス所持者が同社に変わった時である。
それまでは同社の存在すら知らなかったが、ライセンス移行のやり取りを見ていて(といっても前所持者側の言い分だが)、同社にあまりいい印象は持ってなかった。
 因みに私はウェブ閲覧ソフトにマイクロソフトのインターネットエクスプローラは同ソフトでないと見られない場合以外は全く使ってない。
日常的に使っているのは、かしわぎ やすゆき氏が開発したフリーウェアのタブ型ブラウザ Sleipnirである。
インターネットエクスプローラとの互換性が高く、また操作性も非常に似通っているため重宝している。
セキュリティのことを考えるとOperaをメインで使いたいのだが、随分対応してきたとはいえ、まだ一部のHPでうまく表示されないなどの点がある。

 それはさておき、どんなにライブドアや堀江氏に好感が持てなくても、やはり楽天のやり方はおかしい。
球界全体のことを考えるなら、なにもメイン球場を仙台と表明しなくてもいい。
「後出しジャンケン」で勝たれたのではたまらない、と堀江氏が言うのも無理ない。
やはり囁かれているように一部球団オーナーとの密約があるのでは、と勘ぐりたくもなる。
 狼は羊の皮を被って現れると昔から言われるが、紳士然とした振る舞いの裏に狼の実態がないことを願う。
ことが野球だけに公明正大、フェアプレーを期待したい。
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同窓会

 お彼岸に帰省して墓参りをし、ついでに高校時代に通った町の旧商店街を通ってみた。
町は寂れて見る影もなかったが、通りの狭いのにはビックリした。
当時はもっと広い通りのような気がしたが、車1台がやっと通れるような広さである。
道が狭くなったわけではない。
人と車が大きくなったのだ。
高校の校舎を見てが、当時を偲ばせるものはなく、感慨もなかった。
同級生の名前もほとんど思い出せなかった。
そういえば高校の同窓会には一度も出たことがない。
中学の同窓会は4年に一度、オリンピックの年に開いているから、今年がその年である。
だが、こちらも過去二度程しか出たことがない。

 40代から同窓会への出席率が増えるという。
そういえば大学の後輩が電話をかけてくる度に同窓会の話をしていた。
ある時、同窓会に出る理由を聞いてみた。
「もう出とかないと会えなくなる奴がいつものですから、無事を確かめ合うためです」
と言う。
 そこで弟に同窓会に出ているかどうか聞いてみた。
若い時は出ていたが、いまは行かない、と言う。
理由を聞くと、「出てもメリットがない」と言う。
色々聞いてみると、結局、同窓会に出る人間は
1.自分のビジネスに役立つなんらかの情報を求めている人間で、自営業者が多い。
2.サラリーマンの場合は出世している人間
3.女性
 ということらしい。

 ひと言で言えば私は同窓会に興味がない。
同窓会で出る話はすべて過去の話である。
あの頃はどうだった、こうだったと、過去を懐かしみ、旧交を温め合うわけだ。
それが悪いわけではない。
ただ、私はまだ前を向いて進んでいるのであり、過去を振り返って懐かしむことにそれ程興味がないというだけだ。
反省をしないということではない。
反省は毎日している。
まだ、前進したいだけだ。
1歩でも半歩でも前に進みたい、と思っている。
ところが同窓会で出る話はほとんど過去の1時期の話だから、あまり興味がないのだ。
それでも、今年の同窓会は久し振りに出てみようかと思っている。
少し歳を取ったということかもしれない。
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オール素人の時代

 私の欠点はサービス精神旺盛なことではないかと時々思う。
講演でも研修でも、引き受ければ自分が持っているものを全部出してしまう。
最初からそのつもりではないのだが、ついつい披露してしまうのだ。
特に聴衆がいいとこれでもかというぐらいに出してしまう。
普段は無口で通っている私だが、講演などでは一転多弁になってしまうから困ったものだ。

 何が困るかというとまず疲れる。
最近も、ある会社で社員研修をした時、午前午後合わせて4時間も立ちっぱなしで喋ったので、その後声は枯れるし、疲れてグッタリとなってしまった。
手を抜くということができないのだ。
これは非効率である。

 ある会で講師が「今日は参加料1,000円だから、話はここまで。これ以上の話は別途金額が必要になります」と言ったのには驚くと同時に、儲けようと思うとああいう風にしなければならないのかと妙に感心した。
ただ、自分はそんな風にはできないので、やはり金儲けはできないなと、これまた変なところで納得してしまった。
 実際、私は安い原稿料のものも高い原稿料のものも同じように力を入れて書いてしまう。かける時間はほぼ同じなのだ。

 ある時、羽振りがいいコピーライターと話をした時のことだ。
彼は仕事をする順位、力の入れ方を金額で決めると言った。
この仕事はいくらだと、お金に見えるからスイスイとやると言ったのだ。
この時は本当に飛び上がる程ビックリした。
それと同時に彼と私の収入の違いを納得してしまったのを覚えている。
私には欲がなかったのだ。
これは致命的な欠陥だと思った。
 だが、私には彼のように仕事が紙幣にはどうしても見えないのだ。
これは善し悪しではなく性分である。
だからどうしようもない。
不器用に生きるしかない。

 それでも時々思う。
その程度の話でそんな金額を要求するのか、それでプロと言っているのかと。
いまはプロとアマの境目がない時代、というより素人の時代である。
喋る方が素人なら聞く方も素人。
オール素人の時代だ。
だから、素人に毛が生えたような人達が横行する。

 それにしても呆れたのは件の講師だ。
自分が話をしている時に私語を交わしている人を厳しく注意しながら、自分の出番が終われば平気で横の人と私語を交わしていた。
この程度の講師を評価する人達は一体何だろう、とついつい考え込んでしまう。
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荒海に漕ぎ出せるか「BiVi福岡」

 福岡渡辺通の元RKB跡地に建設された大型商業施設「BiVi福岡」(23日オープン)のプレオープンに行ってきた。
当初計画の4月オープンを5カ月延ばしてのオープンであり、一部には「果たしてテナントが集まるのか」という声も聞かれたが、なんとかオープンには漕ぎ着けたようだ。

 「美と健康」をテーマとした都市型パワーセンター、というのが謳い文句のようだが、果たして言葉通りに「パワー」を発揮できるかどうか。
 各フロアを簡単に紹介すると。
 1Fはベーカリーの麹屋、高品質食材のラ・パレットにファッション関係のベルエポック。
 2Fはインテリア・カフェのアクタス、レディース・アクセサリーのip by INTERPLANET、リラクゼーショングッズ・ハーブ・雑貨のコンプレ/グラフィカにシスレー、Bセレクトなど。
 「美と健康をテーマ」にしたフロアということが明確に分かるのが3Fで、ここにはオーガニックカフェやサプリメント専門ショップ、リラクゼーション、審美歯科、脱毛サロン、ランジェリーショップ、ネイルサロンなどが入っている。
 4、5Fはベスト電器が若者をターゲットにしたB-STA天神。デジタル家電、DVD、携帯電話ホビー、自転車、コウメティック、ステーショナリーを。
 6Fはレストラン街。7Fは催事場。そして7Fの一部と8Fには一足先に4月からオープンしていたコナミスポーツクラブという具合だ。

 さて、BiVi福岡は狙い通りに「天神流通戦争」という荒海に船出できるかどうか。
狙い通りに行けばマスコミが言うように天神の南への拡大が実証されることになるが、果たしてどうか。
 私の感想からいえば、タイタニック(に例えるのは大げさすぎるが)と同じことになる。
つまり氷山にぶつかり沈没である。
あるいはBiVi福岡より北側(天神寄り)にあるジークス天神の二の舞になるのは必死だろう。

 では、以下にその根拠を。
1.集客に失敗。
 私が視察に行った時間は夕方5時前。館内の客は目を覆いたくなる程まばらだった。
各フロアともショップスタッフの方が多く、ベスト電器に至っては配達受付コーナーに5、6人配置し、その前にイスを10列以上も用意しているにもかかわらず客はゼロ。
担当者はパソコンを前に手持ちぶさたで欠伸をするしかない様子だ。レジも同じ状況。
 もちろん昼間の時間帯に大挙して押し寄せていれば別だが、ショップの人間に聞いてもそんな風はないから、各テナントとも肩すかしを食ったのは間違いない。

2.宣伝不足。
 これぐらいの規模の商業施設がオープンする場合、事前告知をするのが一般的だが、少なくとも私の知る限りではTV、新聞で事前告知を見たことがない。
 もちろん皆無と言うことはないだろうから媒体、放送時間を絞って告知をしていたのだろうとは思うが、いずれにしても事前告知が少なかったのは間違いないだろう。
 デベロッパーがRKBの関係企業ということから、ライバル各社が積極的に取り上げなかったのか、それともそこまでの話題性がすでになかったのか。
恐らく両方だろう。

3.核テナント不在。
 フロアスペースからいえばベスト電器が核テナントなのだろうが、核テナントとしての役を果たしていない。
 本来、核テナントは話題性があり、集客力を発揮するから核テナントたり得るのだが、ベスト電器の場合この両方に欠けている。
そのためベスト電器がBiVi福岡全体の集客に大きく貢献することはありえない。

4.立地の悪さ、天神から人が流れない。
 決定的なのは立地の悪さである。
BiVi福岡が位置する場所は天神と渡辺通1丁目の中間であり、どちらから歩くにしても中途半端な距離である。
それでも途中に魅力的な施設があれば、まだ点が線でつながる可能性はあるが、現状ではそれがない。
 人の流れが考えられるとするなら、大丸・三越→ジークス天神(ビックカメラも一部入れてもいいかも分からない)→BiVi福岡という線だが、問題は途中に2つある信号だ。
 しかも、ジークス天神に近い信号は薬院新川をまたぐ交差点であり、バスセンターに出入りするバスが通る交差点だから信号待ちが少し長い。
これが南に向かおうとする人の気持ちも大きく遮ることになる。

 人の流れという意味で、川の存在は非常に大きいものがある。
川といっても橋が架かり道路は1本でつながっているから、そんなものがバリアーになるはずがないと思われるが、そうではないのだ。
例えば川端地区が寂れた要因の1つに天神と川端地区の間にある2本の川の存在が挙げられる。2つの川に挟まれた地区が中洲であり、かつてそこに存在した玉屋デパートもいまはないことを考えれば、川の存在が見えないバリアーになって、人の行動を規制しているのがよく分かるはず。

 BiVi福岡にとって唯一好材料というより期待したいのは、地下鉄新3号線の開通だろう。従来の地下鉄天神駅より南側に新天神駅ができるため、人の流れが南に寄り、その流れが来るに違いないという希望的観測を抱いていると思われるが、地下鉄
新天神駅の開通で潤うのは大丸・三越、ビックカメラであり、やはりBiVi福岡まではつながらない。
 結局、BiVi福岡が辿る道は「福岡の秋葉原」を謳い文句にオープンしたものの半年後には失速した商業施設(現在のジークス天神があるビルの前身)と同じだろう。
 1年後には撤退するテナントが出ているに違いない。それどころか、現段階でも3Fに1、2区画、6Fのレストラン街にも2区画空きがあるのだ。やはりグランドオープンを約半年遅らせてもテナントが埋まらなかったということであり、多難な船出なのは間違いない。



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マラソンか駅伝方式か。

 マラソンか駅伝か、と問われれば、私は駅伝がいいと答える。
マラソンが1人で42.195kmを走る孤独な競技なのに比べて、駅伝は次の走者にタスキを渡しながら走る団体競技である。
1人が受け持つ区間は5~20km。その距離を全力疾走すれば、あとは次の走者に託すところがマラソンとは違う。

 駅伝は古代に栄えた交通・通信制度で、中国では春秋時代に生まれ、モンゴル帝国が制度として帝国内に導入した。ヨーロッパではローマ帝国が駅伝制度を完備し、帝国の隅々にまで指令が行き渡るようにするなど、古代の交通・通信手段として大いに活用されたが、近代通信手段の発達とともに世界から消えた。

 競技としての駅伝が最初に行われたのは1917年、京都三条大橋~上野不忍池間である。
世界中に駅伝制度があったにもかかわらず、競技として残ったのはなぜか日本だけである。
最近は国際大会も開かれるようになり、「エキデン」として知られてきたが、日本で復活したのは、団体戦が得意な日本人に向いていたからと思われる。

 ところが60年以降、日本社会が急速にアメリカナイズしていくと、それまで得意としていた団体戦から個人戦へ、個人も組織も移り始めた。
その傾向はバブル崩壊以降、特に顕著に見られ、スポーツにおいても社会生活においても自己中心的な個人主義が幅をきかせ、「協力し合う」「助け合う」といった、本来、日本社会が持っていたいい面が失われていったのは残念でたまらない。

 この傾向はスポーツの世界で先に見られた。
例えばオリンピックでは、それまで日本が得意としていた団体戦でメダルが取れなくなった。
 しかし、アテネで見られたように、スポーツの世界は一足早くチーム力を取り戻したようだ。
 だが、一般社会ではまだ自己中心的な個人主義が幅をきかせている。
とりわけビジネスの世界では相変わらずというか、ますますというべきか、長引く不況の影響もあり、自分のことしか考えない人達が増えている。

 私は小さなNPO組織の代表を務めているが、メンバーにお願いしているのは全行程を1人で走り抜くマラソンではなく、受け持ち区間だけを走る駅伝である。
途中で疲れることもあるし、休みたいこと、仕事の都合である期間参加できないこともあるだろう。
そうした時、マラソンなら途中で棄権するしかないが、駅伝は自分の受け持ち区間だけを走ればいい。
疲れたら一時休んで、また参加すればいいのだ。

 福岡の博多地区には「祇園山笠」という祭りがある。
締め込み姿の男達が1つのヤマを担ぎ町中を走る抜ける勇壮な祭りである。
ヤマを担いでいる男達の周囲にはその何倍かの男達が伴走していく。
そして担ぎ手が疲れたら途中で入れ替わるのだ。
その間、ヤマは止まることがない。
 福岡の人達には駅伝と言うより山笠方式と言った方がイメージしやすいかも分からない。
駅伝にも山笠にも共通することは、全行程を走り抜く必要はないが、受け持ち区間は責任を持ち、全力で走るということだ。

 博多地区の男達は山笠で礼儀作法や責任感を教えられたとよく言う。
その博多地区はいま人口減でヤマの担ぎ手が減っているらしい。
そのことと関係があるのかないのか、福岡でも利己主義的・個人主義的な人達が増えてきたように思う。
せめて自分の受け持ち区間は責任を持ち、全力で走ってもらいたいものだ。
それが人間関係の基本ではないだろうか。

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物差しがないと生きられない人達

 世の中にはどうしても物差しがないと生きられない人もいるようだ。
その物差しは年齢だったり、役職の上下、学歴、財力や、時には背の高さ、体型、頭髪、顔の作りの善し悪しといった詰まらないものまであるが、相手との間になんらかの物差しがないとうまくコミュニケーションが図れない人もいるらしい。
しかも、その物差しは水平な関係を測る物差しではなく、上下関係を図る物差しであることが多い。

 何年か前、海外に団体で行った時のことだ。
ホテルに着き、その場で部屋割りが決められた。
私と相部屋になったのは某放送局の部長だった。
すると、彼がいきなり私にこう尋ねた。
「栗野さん、同じ部屋ですね。宜しくお願いします。ところで、栗野さんの歳はいくつですか」
私は少し戸惑った。
最初の会話にしてはちょっと変な気がしたし、歳をすぐ聞く相手の意図を図りかねたからだ。
「歳ですか・・・。歳が何か関係あるんですか」
私はこの後の会話がどう展開するのか分からずにいた。
すると、彼は
「私より上ですか下ですか」
と聞いてきた。
どうしても年齢を聞きたいらしい。
聞かなくても自分より年上か年下かぐらいは分かりそうなものだがと思いつつも、仕方なく
「○○社長と同じですよ」
とツアー主催者の社長の名を挙げて答えておいた。
すると、次の瞬間、彼は私に向かって「先輩!」と言ったのだ。
これには驚いた。

 私は彼の大学の先輩でも、会社の先輩でもない。
敢えて言えば人生を彼よりほんの数年長く生きてきたというだけだ。
だから「先輩」と呼ぶのは止めて欲しいと頼んだ。
しかし、彼は聞かなかった。
以来、旅行中ずっと私のことを先輩と呼び続けたのだった。

 面白いのは風呂に入るのにも、寝るベッドの位置も、すべてに私を立てようとしたことだ。
「先輩からお先に!」という具合に。
その言葉を聞きながら思った。
彼は私が年上だから立てているが、逆に年下だったら上から高圧的に物を言うのだろうなと。
礼儀正しさの裏にわざとらしさが見えるものだから煩わしくなり、風呂は交代制にするように提案した。
 元アナウンサーだけあり、よく喋るし、喋りはうまいのだが、本心が見えないだけに、最後まで心から打ち解けることはなかった。

 察するに、彼はフラットな人間関係を築けないタイプのようだ。
上に弱く下に強い、典型的なサラリーマン人生を生きている人間である。
過去、ここまで露骨なタイプを見たことはなかったので少々驚いたが、周囲を見回せば似たようなタイプは意外に多いことに気付かされた。
いわゆる世渡り上手という奴だ。
これも能力か、と多少のやっかみも込め、真似をしたくても、そんな能力もない自分を自嘲気味に眺めてしまう。
どうせ不器用にしか生きられない人生だから、最後まで不器用さを通し、愚直に生きるしかないか、と。
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私とベンチャー企業との関わり

 私がベンチャー企業と関わったのは、もうかれ20年前の第2次ベンチャーブームの頃からである。
第2次ベンチャーブームの前半の主役は技術系、後半は非技術系企業だった。
当時脚光を浴びたベンチャーにソードや電話の転送システムを開発した企業と、社名を忘れたがもう1社を加えた3社がいわゆる御三家として騒がれた。
いずれも技術の革新性やシステムの革新性という面では、現在のベンチャーとは比べものにならない程彼らの方が革新的だった。

 ところが、その後3社とも大手企業に吸収されるか倒産し、いずれも表舞台から消えた。
唯一、ソードのみが東芝の傘下で生き残っている(はず)が、創業者の椎名堯慶氏はその後ソードを離れ、現在は秋葉原でパソコンショップメーカー・プロサイドを開いている。
 余談だが、同社のパソコンは玄人受けする品質のいいもので、しかも低価格で提供している。ダイレクト販売も行っており、私も一度購入を検討したことがある。

 このように華々しかった第2次ベンチャーブームもその直後からバタバタと、それも花形といわれたベンチャーから潰れていった。
 九州で第2次(正確には2.5次)ベンチャーの生き残りといえるのは長崎県北松浦郡の西日本流体技研ぐらいだろう。
 因みに全国でいえばアスキーやソフトバンクが第2.5次ベンチャーブームの頃のベンチャーである。2.5次というのは2次ベンチャーブームが去った後にもう一度起こった小さな波というか、第2次の余燼みたいなものだ。

 この頃から私はベンチャーの取材を続けていたが、興味はなぜ「宴の後」になったのか、問題はどこにあったのかだった。
失敗の教訓程役に立つものはないし、失敗は教訓化しなければなんら意味を持たない。
 まず考えなければならないのは、その失敗は個に依存するものなのか、それともシステムの問題なのかである。
単純に個に依存する問題なら、それはせいぜい前車の轍を踏むな程度の戒めで事足りる。ところがシステム的な問題なら根底から変えなければ同じ過ちを何度も繰り返すことになる。

 物事を見る時に重要なのはパーツを全体の中で捕らえることであり、現在は歴史の中で把握するということだ。
 私にとって幸いだったのは大学で哲学を専攻し、弁証法的論理学を研究したことである。
弁証法とは物事を静止した状態で捕らえない。生成、発展、消滅の過程の中で捕らえる。つまり運動の中で捕らえるから、これほど現実社会を認識するのに役立つ学問はないと思っている。

 いずれにしろ、この頃から興味を持ち、取材を続けていたので、今回の第3次ベンチャーブームが仕掛けられた時に、まず最初に思ったことは第2次ベンチャーブーム後を反省し、その失敗の教訓の上に立っての第3次ベンチャーブームの仕掛けなのか
どうなのかということだった。
(*仕掛けられたベンチャーブームに関してはHP http://www.liaison-q.com 内の「栗野的視点」を参照)
 それで当時の通産局に取材に行ったのが今回のベンチャーブームと直接的に係わることになったきっかけだ。

 その時に分かったのが、資金面の整備はかなり行われているということだった。
ただ、準備されているのは大きな金で、実際にベンチャーが必要とする資金ではなかった。
 ベンチャーと一口に言っても大小あるし、発展段階によっても必要とする資金に差はあるが、概して数千万、どうかすれば1千万円以下の小口の場合が多い。問題はその小口資金を以下にスムーズに、担保なしで出すかだ。

 その部分が欠けている(用は運用の問題なのだが)と感じたのと、ベンチャーが最も望んでいる販路面のサポートが皆無だということだった。
 ベンチャーサポートといえばいまでもそうだが、すぐ専門家と称して「士業」を揃えて、経営のサポートをしたがる。
たしかに経営サポート体制は必要だが、ベンチャーの発展段階に応じたやり方が必要で、畳の上の水練は必要ない。
必要なのは実務経験者だ。
きれいな泳ぎ方を畳の上で教えてもらうより、犬掻きでもいいから水中に入った時、溺れない方法を教えてくれた方がいいのだ。
ところが○○士という人達は経営コンサルタントを含め、実務が乏しいのと、融通が利かない輩が多いから、言うことは立派だが、あまり役立たない。

 要は必要なものを必要な段階で、必要なだけ提供できるかどうか。これは運用の問題で、非常にきめ細かなやり方が必要になる。それを行政に望んでも仕方ないことだ。
では、どこがするのか。結局、民間の組織しかない。
そういう思いが伏線になり、リエゾン九州の立ち上げへと私自身が動かされていったのである。
とはいえ、リエゾン九州の現状は我が思いにはほど遠い状態である。それでも100万kmの道もまず1歩から。行動するジャーナリストであり続けたい、と思っている。
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実年齢はなんの尺度にもならない。

 博報堂生活総合研究所が年齢感覚について調査していた報告書がある。
それによると実年齢と精神年齢にはズレがあり、30代~40代は実年齢より平均7.6歳、50代~70代は平均11.1歳、自分の歳を若いと感じているそうだ。 
 いまさらという感もするが、こういうことを真面目に調査するところに総合研究所の存在意義がある。
 要するに40歳の人は自分を32、33歳だと思っており、60歳の人は48、49歳と思っているわけだ。

 たしかに自分が子供の頃に見ていた大人の年齢といまの大人の年齢にはイメージ的に随分差がある。
昔は35歳と聞けば「随分おっさんだな」と感じていたのが、自分がその歳になると、おっさんどころか「まだまだ子供」だと思ってしまう。
それはなにも思い込みのせいではない。
一つは寿命がどんどん延びてきているということ。
そのため実年齢が絶対的尺度にならず、相対的尺度にしかならないということだ。
 どういうことかというと、人生50年、60年の35歳と、人生80年の35歳ではそのまま比較できないわけで、比較するなら60分の35、80分の35だろう。
およそ実年齢に0.8を掛けた年齢がいまの年齢と考えればイメージと合う。
この数字は上記、博報堂生活総合研究所の調査報告数字とも合う。

 私は女性に歳を聞いたことがない。
エチケットとして聞かないのではない。
聞いても尺度にならないから聞かないのだ。
逆に相手の歳が分かることで、ガッカリすることも多い。
えっ、その歳でそんなことも知らないのか、と。
歳を知ることは百害あって一利なし、とまでは言わないが、それに近いものはある。
だから、女友達に一度も年齢を聞いたことがないし、いまでも聞かない。
妻の年齢だって分かったのは付き合ってから随分後だったのだから。

 私が歳を聞かないから、相手も私に齢を聞かない。
第一、歳をしつこく聞きたがる相手とは付き合わない。
理由は簡単だ。
そういう人はある種の尺度を欲しがっているのであり、自分の中に人を見る尺度を持ち合わせてないのだ。
よく血液型を聞いて「あなたは△型だから○○ね」と人をパターンに押し込めて安心するタイプがいるが、あれと同じだ。
特に日本人はレッテルを貼ったり、パターン分類をしたがるようだ。

 私は年齢不詳で通している。聞かれても答えない。
「何よ、男のくせに」と時には言われるが、年齢を聞きたがる相手は年齢というパターンで分類しないと、その後の話ができないらしい。
結局、自身の中にきちんとした判断基準を持ち合わせてないということになる。
自分の目と耳で判断すれば済むことなのだが、最近ますます自らの中にきちんとした判断基準を持たない大人が増えているような気がする。
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企業版勝手連

「企業版勝手連」

 Give & Giveの精神で活動することを念頭にして、会のネーミングを参加者全員から募ったところ、それこそ1人1案、いろんなネーミングが出た。
その中で最終的には東京のメンバー・HTP研究所の伊藤克彦氏(当時はリクルート映像在籍)が提案した「リエゾン21」の「リエゾン」と、九州を付けて「リエゾン九州」というネーミングにした。
 九州と付けたのは我々の存立基盤は九州であり、足元を大事にしたいという拘りと同時に、全国各地に同じような組織が出来ることを期待(例えばリエゾン中国、リエゾン四国、関西、東北)したからだ。

「風が吹けば桶屋が儲かる」

 リエゾン九州を立ち上げた時、「風が吹けば桶屋が儲かる」と皆に言った。
目先の直接的な利益を考えなくても、地元経済がよくなれば必ず皆もその恩恵を受けるはず。だから人のために活動しようじゃないか、と言ったのだ。
情けは人のためならず、だ。

 本来、日本人はドライな金の亡者ではなく、地域協同社会的な助け合いの精神を持った人間だった。それがいつの頃からか、アメリカ経済のドライな感覚(それも表面だけの)を信奉し、助け合いの精神を忘れていった。
 一体、いつの頃からそうなったのか。
恐らく狩猟民族、農耕民族という言葉がしきりに言われるようになった頃から、次第に農耕民族的なものは時代遅れ、マイナスというように見られ出したのではないか。
そして、日本人の心がそれ以前とそれ以後にはっきり分かれたのはバブル期を境にしてである。
バブル期は失われた10年と言われるが、失われたのは日本的な心である。

 どうも日本人は白人(アメリカ人)コンプレックスが強くて、なんでもかんでもアメリカに追随(見習うとも言いますが)しようとする。
とにかく極端だ。
日本的な経営は時代遅れで悪、アメリカ的な経営は善、義理人情、浪花節的なものは悪、ドライでビジネスライクなものは善。
そういう考えが企業のトップから身近な所に至るまではびこっている。

 リエゾン九州を立ち上げた時も散々言われた。ボランティアではダメだよ、と。
彼らの考えではボランティア=無責任、ビジネス=責任だ。
果たしてそうだろうか。
ビジネス優先の考えこそが現在、様々な問題を起こしているというのに。

個人の能力をフルに発揮する喜び

 ひと言で言えば、助けてもらいたい企業ではなく、助けたい企業を応援する、ということだ。
 こんなに面白い(ユニークな)商品があるのに、あるいはいい商品があるのに、どうして売れないのか。
こんなにいい技術を持っている会社にはもっと頑張って欲しい。
そう思える企業を応援したい。
だから、応援する方もワクワクする感動を味わえるのだ。
自分のことばかり考える利己的な世の中に、こんな活動があってもいいではないか。

 恐らく仕事では、誰もが自分の持てる能力のすべてを出してないし、使える環境にないはず。いわば密かに眠っている能力、それを使える場がリエゾンなのだ。
 例えばデザイナーなら、仕事ではデザイナーとしての能力を、会計士や税理士なら企業会計や税理面の能力を、弁理士なら特許関係のことしか期待されてないだろう。
だが、個人としてみた場合、仕事としては税理士をしていても、実は建築に関してかなり勉強していたり、照明について一家言持っているなどということがある。
 だが、そうした能力は自分の専門の仕事では生かされない。
つまり眠ったままなのだ。

 職業としての期待ではなく、個人が持っている能力への期待と、それを惜しみなく出せる環境。
企業版勝手連だから、それができるし、そんなことをしてみようじゃないか。
 報酬は自分の能力をフルに活用できる喜びと、時々仲間と一緒に歓談できる美酒・・・。それでは不満だろうか。

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最近、気になる言葉遣い

 歳を取ったせいだとは思いたくないけれど、最近、妙に気になって仕方がないことがある。
 ある観光地に行った時のことである。
某資料館に入り、陳列品を見ながらちょっと説明を求めたところ、係の女性が丁寧に説明をしてくれる様子に感心してしまった。
人間不思議なもので、相手の態度に好感を持つと姿形まで美しく見えてくる。
まあ、それはさておき、丁寧な説明に聞き惚れていたのだが、その女性が突然、口にしたひと言でガッカリしてしまい、それを機に資料館を後にしたのだった。
彼女が口にしたひと言とは「私は好きくないんですが」という言葉だった。
その女性は40代半ばから50前後ぐらいに見えた。
本来ならきちんとした言葉を喋られる年代である。
それなのに「好きくない」と言うのである。
その言葉がおかしいということすら気付いていない様子だった。
そういえば、「好きくない」という言い方が一時期流行ったことがある。
やはり一時期流行った女子大生言葉と同じで、ある年齢に達すると使わなくなる消耗語だと考えていたが、いまでも時々この言葉を口にする人達がいるのは正直驚きである。
ともあれ、それまでは知識もありそうな女性に見えていたのが、この一言で途端に薄っぺらな女性に見えてしまった。

 このような経験はままある。
50代のある人と話していた時、相手が言葉の語尾を一々上げるのに閉口したことがある。
語尾を上げると質問になるからだ。
そのため、こちらは何か尋ねられているのかと思ってしまうばかりか、非常に耳障りで、話の中身よりそちらの方に気を取られてしまった。
どうも若い社員と仕事をしているうちに、彼らの喋り方を真似てしまったらしい。
真似たというより若者におもねったと言った方がいいだろう。
ただ、それから数年して社長になった後に会った時は普通の喋り方に戻っていたのでホッとした。

 最近、このように耳障りな言葉が本当に多い。
「私的には」という言い方もそうだ。
発生源は長嶋茂雄ではないかと思うが、この言葉は30代以下の人がよく使う。
ちょいとイイ女でも「私的には」なんて言われると、途端に幻滅してしまう。
 因みに「栗野的視点」の「栗野的」は中国語表記で「栗野の」という意味であり、最近の流行り言葉を真似たわけではないのでお間違いのないように。

 多いといえば、過去形の言い方もそうだ。
「よろしかったでしょうか」とやられる。
誰が、あるいはどの地域で言い出した言葉なのか分からないが、いまではどこでも耳にする。やがて「よろしいですか」という言葉の方がなくなりそうな勢いで広まっている。
 「言葉は生き物だから変わっていく」という人もいる。
別に否定はしない。
だが、最近の言葉の乱れはあまりにひどすぎる。
あまりにも耳障りな言葉はやはり注意し、訂正していかなければ、悪貨が良貨を駆逐することになる。
口うるさいと思われても、私はできるだけ訂正するようにしている。
訂正し、正しい言い方を教えてあげると、若い人は存外素直に聞く。
知らないから間違った使い方をしているだけで、正しい言葉遣いを覚えれば言葉は治るということだろう。
だが、「よろしかったでしょうか」という言葉は、最近の「大人」からもよく耳にする。
そういう「大人」は言葉を知らないのか、それとも若者におもねって若者言葉を使っているのか。
大人が若者におもねると社会は乱れてくる。
しっかりしろ、と言いたい。

 冒頭の観光地に行った時のことだ。
今度は70代と思しき男性が「おごちそうさま」と言うのを耳にした。
これを漢字で書けば「御御馳走様」となる。
本来、「馳走になりました」という意味の言葉に接尾語の「様」を付け、それに接頭語の「ご」を付けて「御馳走様」。それにさらに「お」を付けて言っているわけで、本来の言葉からすれば三重丁寧語になっている。
この類の言葉に「おみをつけ」がある。漢字で書けば「御御御付け」だ。
なんでもかんでも「お」をつければ丁寧な言い方になると勘違いしている、にわか貴族みたいなものだが、最近「おごちそうさま」という耳障りな言い方もよく耳にするから困ったものだ。

 まあ、声高に言うほどのことではないのかも知れないが、言葉はその背景にある世相を映している。
アクセントをわざと平坦にした若者言葉は、実はその裏に物事を平坦・平板に考えてしまおうとする無気力さの表れではないかと思う。
 こんな若者が増え、そんな若者におもねる大人が増えていく日本が、中国を筆頭とするアジア諸国に追い越されていくのはある意味当たり前かも知れない。
これが私一人の思い過ごしでなければいいが・・・。
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ベンチャー・中小企業の商品をマーケットに「橋渡し」

 リエゾンとはフランス語で「橋渡し」「懸け橋」を意味する言葉で、英語表記ではliaison(リエゾンと発音)となる。
 なぜ、会の名称に「リエゾン九州」とネーミングしたのかといえば、九州のベンチャー企業・中小企業の商品をマーケットに「橋渡し」したいと考えたからだ。

 そこで、いまから6年前の1998年7月、たまたま私の事務所(当時は中央区今泉)に集まった仲間10数人に私の考えを話し、協力をお願いした。
 また後程、詳しく説明するが、活動の基本は「企業版勝手連」、精神はGive & Giveというのが私の考えだった。
 つまりボランティア精神だ。ただ、ボランティアといえば無料報酬とよく勘違いされるが、ボランティアという語は本来、「自主参加」という意味で、ボランティア=無料報酬ではなく、報酬を期待してする活動のことではないということだ。助け合いの精神である。

 なぜ、私がこの考えに立ったかと言えば、バブル期の反省からだった。
バブル期の日本を支配した行動原理はTake & Takeだ。
とにかく相手から取る(Take)ことばかりで、与えようとしない。

 英語にはGive & Takeという言葉があるが、Take & Giveという言葉も、ましてやTake & Takeという言葉はない。
飽くまでGiveが先なのだ。日本語には「先義後利」といういい言葉が昔からある。
 これは余談だが、異業種交流がうまくいかないのはGive & Takeではなく、Take & Giveを考えているからだ。
 何かうまい話があれば乗ろう、という姿勢で参加しているものだから、積極的に自社の内容や情報を開示しない。互いに相手の出方を待っているわけだ。
ズルイというか、受け身である。

 人の交流はすべからくGive & Takeであるべきだ。いわんや技術の交流は。
いずれにしろTake & Giveの考えで臨んでいるから、異業種交流会で2つ目の商品が開発されたという話は聞いたことがない。
それでも1つの商品開発が出来ているのは補助金が出るからで、それもなければ恐らく皆無のはず。

 話を元に戻そう。
バブル崩壊後の不況から脱出するには中小企業を元気にするしかないと考えた。
幸いなことに真面目な技術系の中小企業はバブル期にそれほどチヤホヤされなかった代わりに、バブル崩壊後の落ち込みもあまり大きくはなかった。
 しかも、九州には探せば「キラリと光る技術」を持った中小企業が存在していることを、私は20数年間の取材を通じて知っていた。
それと同時に、それらの企業にはあまり光が当たらないことも・・・。

 これらの企業の技術を紹介することで技術交流を促す一助にしたい。
そう考えて一般経済誌で「九州テクテク物語」と題して、九州の技術をシリーズで紹介し始めたのが1994年春からだ。
 シリーズ1回目には「九州のテクノロジーに未来はあるか」と題して概論を展開した。これはホームページ(http://www.liaison-q.com)にも掲載しているのでご覧頂きたい。

 技術は持っているが荒削り。
 製品は作っているが商品にまでなってない。
 モノを作った後で販路を考えている。
 消費者・ユーザーの視点が欠落している。
 あちこちで似たようなものをつくり、互いに得意になっているが、情報交換が出来れば開発のムダが省ける。
 資金不足

 これが九州の中小企業の現実だ。
最後の資金の問題は私にはどうしようもないが、それ以外の点はなんとか対応できるのではないか。そう考えた。
 私個人でさえ部分的にはアドバイスをしたりできているのだから、もっとマーケットの近くにいる人間を集めれば、つまり10人集まれば今の10倍のアドバイスが出来るではないか、と考えたのだ。
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「リエゾン九州」とは

 今回は私が代表を務める「リエゾン九州」についてちょっと紹介したい。

リエゾン九州の理念

 九州には素晴らしい技術を持った中小企業、頑張っているベンチャー企業が数多く存在する。
ところが残念なことに、それらの多くはヒト・モノ・カネ・情報の面で不足している。とりわけ技術系企業の場合、開発力はあるが商品力がない、販路面の開拓が弱い、つまりマーケットを意識した商品開発を行っていないために、せっかく優秀な技術、いい商品を持っている企業も埋もれたままになっている。
 そこで各分野の異能の人々が集まり、知恵と力を出し合えば不足しているリソースを補うことが出来るのではないか。いわば経営戦略、販売戦略、マーケティング、広告戦略のアウトソーシングであり、それをNPOで引き受けているのが「リエゾン九州」だ。
 リエゾンとはフランス語で連結とか連携、橋渡し、架け橋という意味で、ベンチャー企業や中小企業が開発した商品とマーケットを結ぶ懸け橋をするのが目的である。
 名称に九州と付けたのは、九州の企業を元気にし、九州経済を活性化させたいという想いからである。

異分野・異能の知恵を結集

 会員は主に技術系企業の取材・執筆をしているフリージャーナリストの私、栗野をはじめ、マーケティングのプロ、広報・販促関係のプロ、デザイナー、カラーコンサルタント、弁護士、弁理士、公認会計士、設計事務所やソフト開発会社、建築・建設関係の経営者、ベンチャー企業など、様々な業種の人達、いわゆる異能の人間が集まっている。

活動内容

定例会
 毎月第3土曜日の午後(1:30~5:00)に会合(参加は誰でも自由)。
 勉強会と企業の案件発表の2部構成。

 案件発表:ベンチャー企業が開発した商品を発表したり、自らの事業内容を発表し、その内容についてその場で意見交換をする。
 具体的に支援を要請されれば、プロジェクトチームを編成して、依頼者とともに問題解決に向けた活動をする。

セミナー
 企業経営に役立つ内容を企画し、年数回の割合でセミナーを開催。
 リエゾン九州発足1周年記念セミナー
  「九州のベンチャーに喝!」と題したパネルディスカッション。
 3周年セミナー:「福岡流通戦争の行方を占う!」と題して3回連続セミナー
 5周年セミナー:「続け、ベンチャー! 頑張れ、中小企業!」と題してパネルディスカッションを開催。

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最近増えた胴長短足の若者

 最近、なんとも説明のつかないことが多いような気がする。
ここ数年の異常気象もそうだ。
記録的な熱帯夜が続いたかと思うと、局地的な豪雨になる。
台風も当たり年で、日本海に抜けたかと思うと再上陸する。
自然が人間に仕返しをしているのか、それとも意地悪をして楽しんでいるのか。
地球温暖化の影響だと言う人もいるが、正確なところは分からない。

 分からないと言えば20代の若者の身長もそうだ。
一昔前に比べて間違いなく身長は伸びている。特に女子の平均身長はかなり伸びているように見える。
一般的に言えば、身長が伸びれば、それに比例して足の長さも伸びているはずである。
ところが、不思議なことに身長の伸び率程には足が伸びてないのだ。
というより、足は全くか、あるいはほとんど伸びてない。伸びているのは胴だけなのだ。
いわゆる胴長短足型が若者に増えているのだから、「これはなぜっ?」て首を傾げざるを得ない。

 この傾向が顕著なのは20代の男女である。
かつて日本マクドナルドの社長、藤田田氏は日本人が20年(30年とは言わなかったと思う)ハンバーガーを食べ続ければ、アメリカ人のように肌も白くなる、と言ったが、肌が白くなるどころか、逆に足が短くなったのだから、この現象はどう説明すればいいのだろう。

 胴長短足傾向は若い女性を後から見るとはっきり分かる。
女性でなく男性でもいいのだが、男性はズボンを下げて履いていたりするのでよく分からない。その点、女性の方がヒップの位置は分かりやすい。それに同じ見るなら同性よりは女性を見る方が好きだから、ここでは敢えて女性を中心に論じることにする。
まあ、そんな私の個人的な趣味はさておくとして、背がスラリと高くスタイルがいい女性でも後ろから見ると足が短くてガッカリすることが多い。

 このことがはっきり分かるのは若い母子連れだ。
母親より娘の方が5cm以上背が高いのに、ヒップの位置を見比べてみると同じなのだ。
40代の母親より20代の娘の方が足が短いのだから、これって何? と思ってしまう。
日本人が胴長短足なのは畳の上に座る生活だからだ、と昔よく言われた。
畳に座り正座をするから足を圧迫し、足が伸びない、と。
それから50年が経過し、畳みに正座という日本人の生活スタイルは大きく変化し、イスに座る文化が根付いている。
いわゆる腰掛ける生活スタイルになり、食生活も藤田田氏が推奨するハンバーガーや肉食が定着している。
だとしたら、足は長くなっていいはずだ。
実際、身長はどんどん伸びている。にもかかわらず胴長短足の若者が増えているのだ。
胴長短足といえば、かつては中高年が若者からバカにされた言葉だ。
それが「胴」だ、いや、どうだ。
なんという皮肉。胴長短足を笑った若者がそれ以上に胴長短足だったのだ。これをパラドックスと言わずになんと言おう。

 しかし、解らないのはその理由だ。
肉食中心という食生活も、腰掛けるという足を圧迫しない生活も、足の長さとは関係なかったことになる。
と言うことは欧米人と日本人の身長に対する違いは、少なくとも食生活や生活スタイルから来るものではないというになる。
 そこで考えられる最もまともな答えは「地球の重力説」である。
近年、地球の重力が増える傾向にあり、その影響は若い人程受けやすいというものである。
もちろん、そんな学説はどこにも存在しないが、仮にそうだとしてもおかしなことになる。
胴長短足は日本人特有、いや韓国の若者にもその傾向が見られるから、日韓特有の現象らしいということだ。
 地球の重力が日本と韓国だけで強くなっている? そんなバカな。

 では、中国人はと言うと、中国人の体型は欧米型で、足は長いのだ。
実際、ある中国人から「なぜ、日本の若者は足が短く胴が長いのか。昔は畳に座るからだと言われたが、いまはイスに腰掛けているのに」と質問されたことがある。
つまり、中国人の目にも日本の若者は胴長短足と映っているのだ。

 結局、理由はよく分からない。
だが、胴長短足の若者が増殖しているのは事実だ。
このことは裏を返せば、中高年は決して胴長短足ではないということであり、母親は娘に、父親は息子に背の高さで劣等感を感じる必要はない、ということだ。
むしろ、足は親の方が長いのだから。

 ただ、唯一納得できる答えは、若者と親世代の生活態度の違いがそのまま足の長さに表れたということではないだろうか。
地に足をつけ、しっかり頑張って生活している親世代に比べて、太く短く今の楽しみだけを追求して生きようとしている若者世代の違いが。








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ちょっとおかしいダイエー包囲網ほか

 ここに掲載している内容以外にもリエゾン九州のHP(http://www.liaison-q.com)の中に
「栗野的視点」と題して以下のような内容の記事を書いています。
そちらもご覧下さい。
 因みにリエゾンとは架け橋、橋渡しという意味のフランス語で、リエゾン九州はベンチャー・中小企業の支援を通して九州経済の活性化を目的に活動しているNPO組織です。

「ちょっとおかしいダイエー包囲網」
「どうなる、ダイエーの行方?」
「Mr.MAX撤退で露呈したFJ都市開発の中途半端な戦略」
「リクルートに見る社内活性化の方法」
「長崎バイオパークの破綻に思う」
「銀行の制服に思う」
「中小企業活性化のために」
「このままで本当にベンチャーは育つのか」
「ベンチャー企業が陥る甘い罠」
「日本のゴルフ場が危ない」
「九州で初の会員による自主運営が誕生するかも・・・」
              リエゾン九州
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