栗野的視点(Kurino's viewpoint)

中小企業の活性化をテーマに講演・取材・執筆を続けている栗野 良の経営・流通・社会・ベンチャー評論。

資本金1億円を集めたシルバーベンチャーの「担保」は人柄

2017-04-27 11:34:55 | 視点
 先日、W社の創立15周年記念パーティーが福岡であった。
本社は東京だが、福岡で創業した縁もあり、記念パーティーは「思い出深い創業の地、福岡」で開催することにしたようだ。
席者は100人余り。その全員が招待だから事業の好調さが窺える。

 同社の主力事業はマンション管理員代行業務。それだけに対象は都市型マンション。
代表のS氏はリクルートで各事業部長を歴任し、最後は同グループのコスモスライフ専務取締役。
定年退職前後の起業だからシルバーベンチャーである。
普通なら退職後は悠々自適の生活。それを諦めてまで起業しなくてもと思うが、期するところがあったのだろう。

赤字続きで、毎年倒産の危機

 S氏の経歴を聞けばマンション管理のことを知り尽くした人物だから成功するのは当たり前と受け取られるかもしれないが、創業からしばらくはかなり厳しい状況が続いたようで、黒字経営になったのは比較的最近のこと。
「1億円以上の赤字を積み重ね、毎年が倒産の危機」(招待状の文面)だったというから、よく持ち堪えたものだと出席者の誰もが思ったに違いない。

 いままでいろんなベンチャー企業を見てきたが、シルバーベンチャーで成功したところはほとんどない。
 理由はいくつかあるが、一つは若い頃とのエネルギーの違いだ。
どんなに若いつもりでも30代、40代の頃に比べてエネルギーは弱くなっている。
エネルギーの弱さは即、突破力の弱さに繋がる。

 もう一つは豊富な経験知。
こう言えば、それはメリットだろうと言われそうだが、経験知が豊富だと「ムチャ」をやらなくなるし、ガムシャラさがなくなる。
過去の経験に照らしてターゲットや市場を見るから、結果がある程度「見えてしまう」。

 そうなるとリスクを冒してやろうとはしなくなるし、見切りも早くなる。
ひと言で言えば安全策に走る。

 起業分野も自身の過去の経験を生かした分野とか、趣味と実益を兼ねてなどと考えるから、事業に対する貪欲さやチャレンジ精神には欠けることがある。
別の言い方をすれば「面白さがない」のだ。

 そこそこやれればそれでいいという考え方は決して悪いわけではない。
むしろ強欲資本主義が幅を利かす現在では、その方が健全な考え方だとも言える。
だが、それでもスタート時にはかなりの負荷がかかるし、それをはね除けるだけの馬力(エネルギー)が必要なのは車と同じだ。

 必要なのはエネルギーだけではない。目新しさを通り越した奇抜さ、ユニークさ、大化けするか大コケするかという予測不能な面白さ。
こういうもの、ことを考え付き、実行に移すことができるのは残念ながらシルバー世代より若者世代の方に分がある。

 次に組織運営。
大企業を定年退職した人がベンチャー企業を起ち上げると、組織形態から組織運営、人員に至るまで何から何まで違う

          (略)

アイデアはユニークだったが

 シルバーベンチャーが失敗するのは上記のような理由からだが、S氏の場合はどうだったのか

          (略)


信用担保は経営者の人柄

 ここで疑問が生じるのではないだろうか。
毎月数千万円の赤字垂れ流しならとっくに倒産していてもいいはずだ。よく資金ショートしなかったものだ


          (以下略)



 全文は「まぐまぐ」内の「栗野的視点」

 「リエゾン九州」HP内の「栗野的視点」にも収録していきますが、「まぐまぐ」よりは遅れます。









言葉の短縮は思考の短絡を招く(2)~音節の平板化が思考を平板化する

2017-04-17 08:05:18 | 視点
音節の平板化が思考も平板化

 言葉(言語)は記号でも単語の羅列でもない。
思考の具であり、その人自身の思考でも、思想でもある。
人は母国語で思考する。
母国語がしっかり身についていないと思考ができないということは脳科学者などもよく指摘している。

 いい歳をして未だに「好きくない」みたいな言い方をしている人がいるが、言葉が変だと思考も変になると気付かないのだろうか。

 近年、言葉を短縮するのが流行っている。
なんでもかんでも短くしたがる。
同じような傾向は世界で見られるようだが、特に日本では顕著に見られる。

 だが常に言葉を省略したり短縮して使っていると、思考が短絡的になる。
なんでもかんでもアクセントを平板にしていると、思考も平板になる。
これは恐ろしいことだが、すでに社会にはそのような傾向が現れている。

 それはなにも日本に限ったことではないからよけいに恐ろしい。
中国語は音節の上がり下がりがはっきりしていて、その種類が4つあることから「四声」と言われているが、
いま第3声が使われなくなりつつあるという。
あと半世紀もすれば、中国語は四声ではなく三声になっているかもしれない。
ベトナム語もそうした傾向にあるというから、日本だけでなく世界中で思考の平板化が静かに進みつつあるのかしれない。

 思考が平板化してくると考え方が同質化し異見を認めなくなる。
異見を言う者に対し排除の論理が働く。

かつての村社会で行われた「村八分」という名の異質な者に対する排除である。
その行き着く先は戦前戦中の日本であり、ファッシズムであり、共産主義、全体主義だ。

 いま、世界はそこに向かいつつある。
2つの世界に分断されながら、それぞれの極では同質化が極端に進んでいる。
あれか、これか、敵か味方か、賛成か反対かで、第3は認められない。

 そしてそれを煽る道具にツイッターのような短文が使われている。
なぜなら他人を攻撃(口撃)する時、人は理路整然とした文章(それは往々にして長中文になる)ではなく、
短文もしくは単語で表現するからだ。
それは時には「罵(ののし)る」という表現の方がピッタリくるような方法で。
「フェイク(偽)ニュースだ」「エセ知識人」。
何の根拠も示さず、そう決めつけるだけで、一部の人の感情に訴えられることを彼らはよく知っている。

 こうして人はますます自ら思考する力を失っていき、熱狂的に短い言葉(スローガン)を叫ぶことに同調し、
そう叫ぶことで高揚感、達成感のようなものを味わい、それがさらに次の行動へと駆り立てていく。

ツイッターを使いたがる政治家

 政治家の中にもツイッターを活用する動きが増えている。
代表的なのはアメリカ大統領になったトランプ氏だ。
彼は既存メディアをフェイクニュースを流すと非難し、自分の意見をツイッターで流している。
それだけならいいが、公式会見を開き表明すべき政策や見解までツイッターで発信しているのは問題だ。
これでは公私の区別がつかない。

 公私混同はトランプ氏の常套手段である。
彼には一国の大統領としての自覚もなければ、彼の辞書には「利益相反」「公私混同」という文字はなさそうだ。
その時の気分で、ほとんど怒りにまかせてツイートしている。

でなければ娘イバンカのブランド商品がデパートで取り扱い中止になったことに腹を立て、
ツイッターでイバンカは「非常に不公平な扱いを受けている」と発言したりするだろうか。
仮にも大統領である。
一私企業のトップではない。
一私企業のトップでも上記の発言は問題だろうが。

 日本でも短文使いの政治家はいた。
小泉元首相が有名だが、彼の場合は政治的な範囲に限られており、トランプ米大統領のように
プライベートや身内のことに関して言及することはなかった。

 既存メディアを含め、自分を批判するものに対し激しく攻撃するトランプ氏に似ているのは
小泉時代から少し下って、「200%ない」と言いつつタレントから出馬した関西の政治家だろう。
いまから思えば彼はトランプ氏に先駆けていたわけで、後に彼のような政治家が世界のあちこちで出現する前触れだったといえる。

 権力を握っている政治家、それもトップ権力を握っている政治家から名指しで非難されれば誰でも萎縮してしまう。
とりわけ経済界は。

 まずフォード自動車が従った。
トランプ大統領による度重なるツイッター攻撃でメキシコ工場建設を断念した。
当然、トランプ氏の方はツイッターを使った攻撃が効果ありと考えるから、次々に固有名詞を挙げて非難する(脅しをかける)。

固有名詞を挙げ、標的にされた(と思わせられた)企業はビジネスを天秤にかけて恭順の意を表す。
ソフトバンクは事前に擦り寄り、トヨタも続いた。

 アメリカ企業はまだ抵抗の姿勢を見せているところが多いが、それでも兵糧攻めにされると、
この先どうなるか分からない。

 ツイッターでツイートする方法は使える--。
そう考えた政治家がヨーロッパで見られ出した。
台頭してきた極右勢力の代表者達だ。
彼らはトランプ氏に倣えとばかりにツイッターを政治的武器にし出した。
短文で話す方が楽だからだ。
「楽だ」とは言葉の意味や概念を説明することなく喋れるからだ。

 短文だから短時間に繰り返し短い言葉を発するようになる。
しかもほとんど同じような内容を。
それはまるで連打するように「フォロワー」の感情(理性ではなく)に訴えかけることができる。

 本来、政治家は言葉を大事にしなければならないし、
また言葉を大事にしてきた(言葉に責任を持ってきた)人間だが、
近年、その傾向はどんどん少なくなっている。

かつて「軽薄短小」という言葉が流行ったが、まさに政治家の言葉こそ軽薄短小。
軽く、薄っぺらになってきた。
その結果が短文使いだ。
なんとも不気味な時代になってきた。








言葉の短縮は思考の短絡を招く(1)

2017-04-16 22:14:16 | 視点
 世の中SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)流行りである。
何をいまさらと言われそうだが、米大統領や都知事までがするのだから、全国あまねく広がり、皆が使っていると思っていいだろう。
例えるなら車の運転か携帯電話。まあ当たらずと言えども遠からず。それほど一般化しているのではということだ。

 国や自治体のトップが多用するぐらいだから、よほど便利、有用なのだろうと思うが、私はSNSの類いを利用したことがない。
利用経験がないどころか使ってみたいと思ったことがない。
と言っても時代遅れのアナログ人間というわけではない。
一応PCもタブレットもスマートフォン(スマホ)も使っているし、スカイプも利用しているが、なぜかSNSの類いだけは使ってない。

SNSには潜在的な思考停止が

 ところで改めて「SNSって何?」と尋ねればどういう答えが返ってくるだろうか。
「ソーシャル・ネットワーキング・サービスのこと」と言われれば、今度は「ソーシャル・ネットワーキング・サービスって、どんなサービス」と聞かなければならない。
もっと分かりやすい言葉はないのかと思うが、「SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)」とか「人と人とのつながりを促進・支援する、コミュニティ型の会員制ネットサービス」ぐらいの説明しかないから、ひと言で表現できないのだろう。
ツイッターとかフェイスブックのようなものと言えばいいのだろうが、それらを利用していない人にはこの説明でもピンとこないだろう。

 なぜ分からないのか。
それは「ソーシャル・ネットワーキング・サービス」という言葉が概念化されてないからだ。
概念化されてないものは想像したり、思い浮かべることができない。
つまりイメージ化できないから理解できないわけで、集団の過半数がその言葉でイメージできるようになれば概念化できたことになるが、まだそこまで広がってないということだ。

 それはさておき、私がツイッターやフェイスブックを使わないのは次のような理由からである。
 まずツイッター。
最初の頃、日本では「つぶやき」と訳されていた(今でもそうだが)。
この言葉を聞いた時、まず自分には縁がないと感じた。
「つぶやき」は独り言とほぼ同義語である。
ネットで独り言を言おうとは思わないし、つぶやいてどうするのだという思いがあった。

 少し後にツイッター(Twitter)はツイート(Tweet)から来ていて、
Tweetとは鳥の「さえずり」のことだと知ったが、短文で次から次にチッチッチとさえずるのも趣味ではなかった。

 メールはずっとPCメール中心で、ケータイからメールを送るのはごく短い連絡文だけ。
スマホに代わった今も基本的には同じだ。

 ケータイメールを送ってくる人は一つの文章が非常に短く(短いから)、何度もメール交換をしなければならない(短文を何度も送ってくる)。
それで時間を取られて懲りた経験があり、以来その種のメールは使わない。

 しかし、ケータイメールで慣れている世代、言い換えればPCをほとんど使わないか使ったことがない世代(実はこの層が年々増えているようで、企業では入社後にPC操作を教えなければならなくなっているとか)にはツイッターへの違和感はない。
むしろPCメールよりツイッターの方が感覚的にピッタリくるようだ。

 もう一つは、こちらの方が決定的な理由だが、全画140文字以内という字数制限である。
この字数制限を知った瞬間、私には使えないと思った。

 物事をきちんと伝えようとすればある程度の字数が必要になる。
140字という字数はなんとも微妙だ。
待ち合わせ場所やちょっとした連絡とか、日常の出来事を知らせる程度ならそれで十分だろうが、意見や見解を書くには文字数が少ない。
つまり言葉足らずになる。
結果として相手にうまく伝わらず、誤解を生じやすくもなる。

 もちろん、ゆっくり文章を書いている書いている時間がない、緊急性があり、即座に状況を知らせなければならない時、
例えば戦場で取材をしているジャーナリスト達が眼下の出来事を生中継的に伝える場合などには重宝するだろう。
実際、ツイッターは彼らが多用し、その後の拡大に結果として一役買ったようだ。

 短文での言葉のやり取りは誤解を生じやすい。
それでも俳句や短歌のように言葉を練って、その字数内に納めるなら別だ。
そのためには思考する時間が必要になる。
だが、それではツイッターの利点が生かされない。
結局、荒削りの言葉をいきなり投げる人が増えてくる。
そうなればまさにツイート(さえずり)だ。

 ちょっとした言葉の行き違いから最初は2、3羽のさえずりが雀の群れのさえずりのように大きく、うるさくなっていく可能性が大いにある。
そう考えた当初の危惧はその後現実になっていった。いわゆる「炎上」だ。
最初に投稿したツイートも、それに群がるツイートも冷静な思考をなくし、面白がってさえずっていく傾向にある。

 次にフェイスブック。
「いちいちコメントを書かなくてもいいんですよ。“いいね”マークを押すだけでいいんですから」
ある人がそう言ってフェイスブックの利用を勧めてくれた。
それを聞いた時、「えっ、それって何」と感じた。
参加意識、仲間意識? それとも「うなづき」による同質化の促進?

 いくらなんでもそれは考えすぎ、と言われそうだが、いずれにしろ私には合わないと感じた。
ただ「友達」を増やすことにもフォロワー(追従者)を増やすことにも興味はない。