栗野的視点(Kurino's viewpoint)

中小企業の活性化をテーマに講演・取材・執筆を続けている栗野 良の経営・流通・社会・ベンチャー評論。

虫がよすぎる人達

2004-10-31 16:33:05 | 雑感
 世の中には虫がいい人というのもいるものである。
そういう人は大抵妙に馴れ馴れしく近付いてきたり、やたら人を褒めちぎる。
私のような人間は利用価値がないと思うが、それでもボランティア組織を主宰しているからか、たまにその種の人間が近付いてくることがある。
笑顔を一杯振りまきながら、彼ら、彼女たちは耳に心地よい言葉を並べ立て私をおだてていく。

 大体、初対面の時から急速に近付いてくる人間には用心している。
私とはタイプが合わないからである。
どちらかと言えば私はじっくり付き合う方である。
だが、たまには外れることもある。
それが異性だったりすればなおのことである。
つい気を許してしまう。

 私が主宰している会はボランティア組織である。
九州の経済を活性化するために各人の持てる能力を貸してくれるようお願いしている。しかし、不景気ということもあり、なんらかのビジネスチャンスを求めて入ってくる人達もいる。
そういう人達を拒否しているわけではない。
できればなんらかのビジネスの橋渡しをしてあげられたらと思っている。
だから頼まれれば、ビジネスの架け橋も行っている。
その代わり、営業手数料としていくばくかを会に寄付してくれるようお願いしている。
この点に関しては誰も異存はない。
どころか逆に相手からそのことを提案もされる。

 しかし、喉元過ぎれば何とやらだ。
仕事を獲得するまでは一生懸命に頼んでくるが、いざ仕事になると後は知らん振り。
そんな話をしましたかという顔をしている。
なんとも嫌な時代になったものだ。

安価なリチウム電池開発に向けて

2004-10-30 12:00:19 | 視点
 慶応大学・清水教授達が開発した電気自動車・エリーカが時速300km超をクリアし、来春には時速400kmに挑戦するということはすでに書いたが、実用化のためにはまだクリアしなければいけない問題がいくつかあった。
 その一つが電池で、国内産のリチウムイオン電池は非常に高価であり、電池価格が大幅に下がらないことには電気自動車の実用化は難しい情勢だった。
 ところが、中国ではすでに安価なリチウム電池を使った電気自動車がタクシーとして実用化されており、清水教授は中国のメーカーから共同開発の誘いを受けていた。
 というところまではNHKのドキュメント番組で報道されていたが、10月に入って安価な大型リチウムイオン電池開発に向けた国内プロジェクトが発足した。(参照:http://www.asahi.com/car/news/TKY200410180300.html)

 参加企業はKDDI、大和ハウス工業、竹中工務店、ジーエス・ユアサコーポレーション(蓄電池)、エネサーブ(発電機)、大日本印刷、三菱自動車、コクヨの8社。これで安価・コンパクトなリチウムイオン電池が開発されれば、電気自動車の実用化に弾みがつくのは間違いない。プロジェクトが成功することを望みたい。

 ところで、今回の電気自動車開発で浮かび上がったことが1、2ある。
1つは既存の自動車メーカーがそっぽを向いている(?)点である。
もう1点はモーターを開発したのも自動車関連メーカーではなかった点だ。
さらにいえば、中国・上海で電気自動車を実用化したメーカーは自動車メーカーではなく電池メーカーだという点である。

 昔から新しい革袋には新しいワインを入れろ、という言葉があるように、全く新しい概念でモノを作ろうとした場合、古い概念しか持ち合わせていない所は対応できないということだ。いや、もっと言えば古い秩序や概念の持ち主は邪魔にさえなるということである。
 こうしたことは社内変革でも言える。妨害するのは古い体質の社員である。
それは往々にして役職に就いていたり、実績がある社員の場合が多い。
つまり、重要なのは視点を変えることである。
そういう意味で異業種の視点は役に立つ。

 さらに見逃せないのが中国の躍進である。
安い人件費だけで中国の電池メーカーが実用的なリチウムイオン電池が開発できたのではないということを肝に銘じておくべきだろう。
夢を実現しようとするベンチャー精神(それは往々にしてハングリー精神と表裏一体になっていることが多いが)と、技術の裏打ちがいまの中国にはあるということだ。
現在の日本にはこの2つが欠けている。
技術はどんどん海外に流出し、国内は技術空洞化現象が起こりつつある。
 さらに悪いことにかつてのよき伝統、助け合いとか協力の精神もなくなり、自己の利益追求にのみ汲々している。
「先義後利」という言葉を死語にしたくないものだ。

 とはいえ、まだ国内にも素晴らしい技術は残っている。あるものはひっそりと。
もちろん九州にも素晴らしい技術が残っているし、ベンチャー精神も健在である。
例えば宮崎には本田宗一郎がポケットマネーで創った企業があるし、抵抗が少ない水着開発に一役買い、水泳王国日本を支えている企業が日本の最西端(最先端に通ず)に存在しているし、福岡にも超細孔加工技術では世界トップクラスの企業が存在している。
 そんな素晴らしい技術の数々はどのように開発されたのか。
本当のベンチャースピリッツを求めて、いま私は再度取材の旅に出ている。
未来を創る九州の技術を求めて!
来春には「九州の技術開発秘話」(仮題)と題して出版する予定だ。

糸をもつれれさす人、ほぐす人

2004-10-27 00:41:57 | 雑感
 人は2つのタイプに分かれる。
話でも何でも物事をややこしくする(考える)タイプと、簡単にするタイプがある。
日常会話の類では両者の違いはほとんど分からないが、会議などでははっきりする。
話をややこしくするタイプの人間はまず論点が明確でない。
しかも、話をしている間に論点がどんどん広がっていく。
そのうち当の本人も周囲の人も、そもそも何が問題だったのかさえ分からなくなってくる。
こうなると最悪である。
話をすればする程疲れ、消耗してくる。
さらに声でも大きければ、もう最悪を通り越して、その人の独壇場。
周囲はその人の発言に引きずられ、やがて収拾がつかなくなる。
最後にはまた日を改めて、なんてことになりかねない。

 私の周囲にもこのタイプがいる。
1人は話がやたら長い。
話そのものが長いというより、言いたいことに行き着くまでが長いのだ。
どうかすると話が寄り道するから、そのうち何が言いたいのかさっぱり分からなくなる。
 こういうタイプは話したいことを整理してから話せばいいのだが、それができないのだろう。
だから、文章を書かせても簡潔に書けない。
要点がまとまっていないから読みづらい。
レポートは枚数で勝負するというタイプである。

 昔、夏目漱石が鎌倉で海水浴を楽しんでいる弟子の久米正雄と芥川龍之介に宛てた手紙がある。
その中で漱石は「今日は忙しいから葉書でなく手紙にしました」というようなことを書いている。
凡人の我々なら忙しいから葉書で書き、時間がある時はたっぷり書ける手紙だろう。
ところが逆に、漱石は忙しいから葉書を書けないと言っているのだ。
 葉書は端書とも書くが、漱石にとっては端書どころか、葉書は文章のムダを省いて書く俳句のようなものである。
漱石の域にまでは達せなくとも、せめてその姿勢ぐらいは見習いたいものである。

 物事をややこしくするタイプの人に共通しているのは自分中心の視点で、相手の視点がない。
 ある時、セミナーとそれに続く懇親会を企画した時のことである。
受付はアルバイトを含め数人が担当することになった。
そういう場合の問題は参加者数と参加費のチェックである。

 厳密にするのが一番だが、厳密さを追求するあまり受付業務が煩雑になることもある。
そうなれば煩雑すぎて逆にミスを誘いかねない。
だから作業は簡単な方がいい。
そうすればバイトでも十分対応できる。
つまり、考え方はまず業務を簡素にし、誰でも分かるようにすることである。

 結局、物事をややこしくする人はいろんなものを詰め込み過ぎる。
省くことをあまり知らないようだ。
省く作業は物事に順番を付ける作業でもある。
絶対必要なことと、それ程必要でないことを分ける。
いますぐしなければいけないことと、後でもいいことを分ける。
このように順番を付ければ、難しく見えていたことも簡単に見えるし、事の本質が見えてくるものなのだが・・・。

「夢職」名刺に込められた思い

2004-10-14 14:55:56 | 雑感
 仕事をしていれば、どうしても名刺が必要になる。
私の場合は記憶力の問題だと思うが、名刺をもらわないとその人の仕事や、どうかすれば名前すら忘れてしまう。
私の記憶構造は聴覚の刺激ではなく、視覚的刺激、つまり文字という図形で大脳が覚えるらしい。
だから、別に名刺でなくてもいいわけで、とにかく何かに書いてもらえばいいわけだ。
ただ後から整理する場合に名刺の形態の方が便利なのは間違いない。

 一口に名刺といっても実に様々で、縦書きのものもあれば横書きのものもある。
以前は名刺といえば縦書きが一般的だったが、最近は横書きが主流になりつつある。
国際化社会の影響だろうが、インターネットの普及が横書き名刺を一気に進めたのは間違いない。EメールやHPのアドレスは横書きの方が見やすいからだ。

 もう一つはカラー時代を反映してカラー名刺が増えている。
中には自分の顔写真を載せる人もいるが、あれもなかなか効果的だ。
ほかにも表に一杯書かれた名刺、裏表の名刺、二つ折りのもの、色紙のものなど実に様々で、暇な時はもらった名刺を眺めているだけで面白い。
じっと眺めていると、何となくその人の性格まで見えてくるような気がする。

 中にはユーモアのセンスが感じられる名刺もあるもので、数年前、ある人からもらった名刺は肩書きの部分に「夢職」と書かれていた。
夢のある職業って何だろうと思いながら、もらった名刺を眺めていると、受け取った相手のそういう反応が面白いのだろう、しばらくこちらの戸惑ったような様子を見ながら「夢が一杯あり過ぎて困っているものですから、どの夢を実現するか、焦らずにじっくり行こうと思っています」と、ニコニコしながら答えるのだった。

 「夢職」と書いて「むしょく」と読ませるのだった。
年の頃は50少し過ぎ。早期退職かなにかで永年勤めた会社を辞め、次の仕事先を探している時なのだろう。
中高年の退職といえば暗い影がつきまといがちだが、彼はそんなものを感じさせるどころか、底抜けに明るかった。
それからしばらくして私が主宰する会にも参加するようになったが、1年程して高校の非常勤講師になった。
高校でパソコンの操作を教えているらしい。
だが、1、2年契約で、その後はどこか他のところを探すと言っていた。

 不思議なのは、その頃から彼の顔から笑顔が消え、いつの間にかユーモアのセンスまでもが消えていたことだ。
金はなくても夢が一杯ある「夢職」から、金の心配をしなくていいところに転職し、夢を失ってしまったのか、最近は音沙汰もない。
会社勤めは彼から夢さえも奪っていく「ベニスの商人」だったのかと思うと、会社とは一体何なのか、人が働くとはどういうことなのかと考えてしまう。

電気自動車を巡る国際的攻防

2004-10-11 12:17:42 | 視点
ポルシェもぶっちぎり
世界最速時速400kmを


 10月2日の夜、いつものように焼酎の入った徳利を片手に、2時間ドラマでも見る予定でTVのスイッチを入れると、目に飛び込んできたのが「世界最速への挑戦~スーパー電気自動車誕生」というタイトルだった。
 面白さに思わず引き込まれ、9時から10時前までの約1時間、TVの画面に釘付けになってしまった。

 慶応大学電気自動車研究室・清水浩教授(環境情報学部)の電気自動車への挑戦の記録だが、引かれたのは電気自動車という部分ではなく「世界最速への挑戦」という部分だった。
 番組中でも清水教授自身、「電気自動車が普及しないのはガソリン車に比べて弱いパワーで、この点を克服すれば電気自動車は普及する」と語っているように、電気自動車が魅力に欠けるのはパワー不足なのは間違いない。
それを世界最速に挑むというのだ。

 当初、私は最速の意味を「電気自動車の中で最速」と捕らえていた。
ところが違った。
清水教授が挑んでいたのはガソリン車をも上回るスピードであり、見事それをクリアしたのだった。
スピードは時速300km超。
運転した元F1レーサーの片山右京自身がビックリしていたが、300km超が目一杯の速度ではなく、国内のサーキットではこれ以上出すと危険だから、その速度でやめた
のだった。
そこで、来年3月にイタリアのサーキットで時速400kmに挑戦するという。

 「Eliica(エリーカ)」と名付けられた、この電気自動車は流線型をした8輪駆動車である。
車輪が前後に4つずつの8輪だから、見た目にはちょっと大きい。
出足は鈍そうだが、なんとポルシェと出足を競ってぶっちぎりの圧勝だった。


既存の概念に捕らわれず
ゼロからの電気自動車造り


 一般的に電気自動車の売りは環境にやさしいエコカーという点のみで、燃費、スピード、価格は犠牲になっている。
 それを清水教授は燃費とスピードの面で打ち破る電気自動車を開発したのだが、その開発のポイントにとても大学人らしからぬものを感じた。
 まず、従来の電気自動車は既存のガソリン車のボディーを流用し、ガソリンの代わりにモーターを使うというのが大半である。
つまりガソリン車の燃料を電気に、駆動部分をモーターに換えただけだ。
だが、清水教授の発想は360度違っていた。
既存の車の延長線上ではなく、全く新しい発想、ボディ構造も含めゼロからの車作りを考えていた。

 この発想が非常に難しい。
多くの人は既存の概念の延長線上にものを考えようとするから、どうしても既存の概念に縛られてしまい、新しいものを生み出せない。
 話はちょっと横道に逸れるが、21世紀になり既存の社会システム、体制が通用しなくなり、新しいシステム・体制が求められているが、いまだ新しい組織形態が生まれないのも同じことだ。
私はNPOという形態に既存組織とは違う新しい組織形態の萌芽を感じてはいるが、この形態も過渡期の形態だろうと思っている。
もっと違う、ネットワーク時代にふさわしい組織形態が生まれた時、我々の社会は飛躍的に進むに違いないと思うが、それにはもう少し時間がかかるかもしれない。


中国の電気自動車は
タクシーとして走行中


 スピードを出すために、モーター一体型のタイヤとか、8輪駆動とか様々な点で画期的な技術が使われているが、それら開発に関することは清水教授の著書「電気自動車」や論文に詳しいので、そちらを参照してもらうことにして、私が興味を持ったいくつかの点を挙げてみたい。
1.25年かかったこと。
 まさに「継続は力なり」で、飛躍的な技術や真に革新的な開発は一つテーマを追い続けることで生まれるに違いない。
 清水教授の姿勢から学んだ研究室の学生の中から今後日本の技術を支える技術者が生まれるだろうと思う。
2.リチウム電池の価格と中国の技術力

 実は私が番組中、最も驚き、かつ最も興味を持ったのはリチウム電池と中国の技術力の高さだった。
 清水教授が開発した画期的なこの電気自動車の唯一のネックは販売価格である。
量産できてもコストが下がらない部分があったのだ。
それはある意味で電気自動車のコア部分ともいえる燃料の問題である。
燃費そのものはガソリンと比較して5分の1と安いのだが、初期投資で電池の価格が破格なのだ。
 電池は持ちがいいリチウム電池を使うというのが業界でも一般的になっており、清水教授自身、リチウム電池では日本が世界の最先端だと語っている。
 ところが、中国で開かれたモーターショーに出展された電気自動車を製造したのがリチウム電池メーカーだったのだ。
しかも、すでにタクシーとして中国では電気自動車が稼働していたのだ。
これには正直、TVを見ていた私もビックリ。
日本では商業ベースの利用はないからである。


急速にアップする中国の技術力

 なぜ、中国でタクシーに電気自動車を利用できたのか。
答えは一つ。
性能がよく、価格が安いリチウム電池が中国では実用化されていたのだ。
このリチウム電池を使えば電気自動車の価格は一気に下がる。
電気自動車を開発した中国メーカー(実はリチウム電池を開発したメーカーが電気自動車の製造メーカーになっている)の技術者は清水教授には早くから注目しているし、教授の論文は読んでいる。
ぜひ共同開発を行いたいとの申し出が番組中でもあった。
 共同開発を行えば間違いなく電気自動車は一気に実用化すると思われる。
だが、清水教授はまだその一歩を踏み出すのに躊躇していた。
理由は製造拠点を海外に持って行くことで起こる空洞化への懸念からだ。

 製造拠点の海外移転に対して、私は20年近く前から非常に危機感を感じている。
一介のフリーのジャーナリストである私がリエゾン九州という組織を立ち上げたり活動をしているのは、この危機感があるからである。
 最近、私は国内、特に九州の製造業に対し、技術力をアップしないと中国に太刀打ちできないと強く訴えているが、日本が先を進んでいると思われていたリチウム電池でさえこれである。
 それにしても、中国は賃金が安い労働集約型で、そのほかでは日本の方が進んでいるとノー天気に思っている経営者がいまだに多いことこそ問題だろう。
そんな考えで中国に工場を造っていたのでは廂を貸して母屋を取られる時も近い。



顔が重要

2004-10-06 17:16:06 | 雑感
 男も女も顔だ、というのが私の持論である。
といっても顔の作りのことを言っているのではない。
例えば「味のある顔」とか「品がある顔」、「性悪そうな顔」「のほほんとした顔」と言うように、顔は内面を映す鏡であり、その人の人生が表れるものである。

 昔は20歳過ぎたら自分の顔に責任を持てと言われた。
だが、いまの20歳はとても自分の顔に責任を持てるような歳ではない。
では、いつ頃から自分の顔に責任を持たなければならないのか。
大雑把に言って女性は30歳から、男性は35歳ぐらいからではないだろうか。

 男性と女性では顔に表れるものが多少違うようだ。
女性は生活態度がよく表れるように思うし、男性は仕事面のように思える。
特に女性の場合は生活の乱れが肌に出るだけに、いまどのような生活を送っているかすぐ分かる。
 といっても、昨日の生活が今日表れるわけではなく、20代の過ごし方が30代になって表れ、30代をどのように過ごしたかで40代の顔が決まるというわけだ。
その歳になって慌てても遅いので、40代で輝く人はその前の30代を有意義に過ごしている人である。
20代を遊んで暮らしておいて30代になってから慌てても、それは遅いというわけだ。

 私は取材相手を顔で選んでいる、と言うと多少言い過ぎだが、少しはそのようなところがある。
 同じ取材するなら、その人が最も輝いている時に会いたいし、会いたいと思わない時に会うより、会ってみたいと思える時に会いたいからだ。
いわば、その人が旬の時に会いたい。
旬とは大体、事業がうまく行っている時が多いが、必ずしもそうとも限らない。
それよりは無理をせず、ある意味自然体に近い時の方が旬ではないかと思っている。
その人の中で自分自身に折り合いが付いている時、そんな時が自然体で、人生の旬ではないかと思う。

 がむしゃらに頑張っている時のようなギラギラしたものには欠けるが、力で押さなくても事が思うように運ぶ。
そんな円熟味が出始める時がある。
私はそんな時の相手に魅力を感じる。
ジャーナリストという職業柄から言えば、本当はもっとギラギラしている相手に興味を感じなければならないのだろうが。

 ある時、以前から興味を持っていた経営者に会いたいと思った。
成長企業でマスコミ各紙にもよく登場していたが、その頃はさほど興味がなかった。
理由は顔である。
顔が経営者と言うよりはやり手の営業マンという顔をしていたからだ。
それから10年近くたち、ある時新聞記事の写真を見て、いま会いたいと思い取材を申し込んだことがある。
 決め手はやはり顔だった。
以前のやり手の営業マンから経営者の顔になっていたのだ。

 もちろん顔だけで判断しているわけではない。
その会社に関するデータは10年近くスクラップしていたし、業績や評判等も含め判断したのは言うまでもない。
だが、何度も言うが決め手になったのは本人の顔だった。
 正確に言うと写真に写った顔である。
昔の人が写真に撮られると魂を抜かれると恐れたという話があるが、あながち間違っているわけではないと思っている。
なぜなら、写真はその人の内面まで写し取るからだ。

 ともあれ、それまではいくら社員教育に力を入れているという記事やコメントを目にしても、文字通りには信じてなかった。
そんなことはないだろう。歩合制の給与と営業数字で社員の尻を叩いているに違いないと思っていたからだ。
写真の顔がそのことを物語っていた。
それがある時、実にいい顔で写っていたのだ。
それもポートレートではなく、社内のある光景を写した写真だった。
取材した結果は間違いなかった。

 逆にパッと見にはいい顔なんだが、よく見ると要注意という顔もある。
口元がゆがんだ顔、喋る時に口元がゆがむ顔だ。
男で言えば修羅場をくぐってきたというか、言葉を字義通りには信じられない。
そんな気にさせる顔である。
個人主義、利己主義、わがまま、腹に一物ありそうな顔など色々あるが、会っている時はその時の雰囲気やこちらの感情も入るから正確に読み取れないこともある。
だから私は写真に写すようにしている。

 女性でも会食をしている時は意気投合したり、いい女だなと思っても、後で写真を見るとそれ程でもなかったという経験の1つや2つは誰しもしたことがあるだろう。
あれと同じである。
 ともあれ「いい顔」になるように日々気を付けたいものだ。

人も色々・・・。

2004-10-05 01:22:54 | 雑感
人には様々なタイプがある。
熱しやすく冷めやすいタイプ、人当たりのいいタイプ、取っつきにくいタイプ、口先だけの人、責任感の強い人等々。
最初からその人がどんなタイプなのか分かっていれば付き合い方も選べるが、初対面ではもちろんのこと、ある程度付き合っていてもなかなか分からないことが多いから困る。

 例えば昔、コピーライターという売り込みの男がいた。
話をすると専門用語がぼんぼん飛び出すし、業界のことなどをよく知っているものだから感心して教えてもらったりしたこともあった。
ところが、ある時、実際にコピーを作る段になって、図らずも彼の実力が露見してしまった。
えっ、これでコピーライターか、と疑う程出来が悪かったのだ。
もちろん1回で評価を決めるのはフェアではない。
たまたま、その分野は弱かったとか、たまたま、その日は出来が悪かったということがあるからだ。
だから、私は何にでも3回チャンスは与えるようにしている。
分野を変えて3回やっても、3回とも評価が低ければ、これは実力がないと言われても仕方がないだろう。

 これに似たようなことは多い。
だから私は人が言う言葉はあまり信用していない。
その人が何を言ったかではなく、なにをしたかで判断するようにしている。
例えば、その人に何かをお願いした時に、その人の真価がよく分かる。

 数年前、理事として会の運営に協力してもらっていた人がいた。
ところが、私が妻の病気でどうしても従前通りに力を割くことができなくなった。
そこで、やむなく、今後は持ち回りで運営を担当してもらえないかと頼むと、自分も忙しいのでと断ったばかりか、やがて会からも離れていったのだ。
これには正直驚くと同時に、情けなかった。
苦しい時に助け合うような会にできなかった私自身の力のなさに。
 どこぞの首相ではないけれど、本当に人も色々だ。

ファミレスで垣間見る人生

2004-10-03 00:13:49 | 視点
 1人ファミレスで食事をする時は、料理を注文してから出てくるまでがなんとも手持ちぶさたというか間が抜けている。
そこで手帳とか本、あるいは原稿の校正とか何か持って入るのだが、なにもない時もある。そんな時は仕方なく周囲の人をそれとなく観察している。
これが結構面白い。

 イスの上にあぐらをかいて食べている人がいれば、半身になり足をもう一方の膝の上に置いて食べていたり、両肘を付いて食べている人、茶碗の持ち方がとても変な人など様々だ。
1人で食事をしている人には一様にある種の寂しさみたいなものが漂っているが、逆に1人という開放感というかくつろぎ感からその人の日常がそのまま出るようなところがある。

 例えば半身になり片方の肘をテーブルに付いて食べている人は、きっと帰宅時間が遅く、毎夜、遅い食事を1人で食べているのだろうと想像してしまう。
恐らく話し相手の代わりにTVを見ながら食べているに違いない。
 テーブルに両肘を付いて食べている人も個食に違いない。
もし小学生ぐらいの子供がいて一緒に食べていれば、そんな食べ方はできないはずだ。
私などは子供の時食卓に肘をついて食べたりしようものなら、父の片手が無言で飛んできて付いた肘を激しく叩かれていた。その直後に「行儀が悪い」と怒鳴られたものだ。
こうして行儀作法を教えられたが、家族がバラバラに食事をしていれば、誰もそんなことを教えてもくれないのだろう。

 居酒屋で4人で食事をしていた時のことだ。
ある人が目の前の皿を箸で手前に寄せるのを見て、帰りがけに他の人が「あんな箸使いをする人とは二度と一緒に食事をしたくない」と不快感を露わにしたことがあった。
箸で皿を手前に寄せるのは寄せ箸といって和食では不作法とされていることだからだ。
 昔はというほどで昔ではなく、つい最近までそうだったのだったが、家族で食卓を囲み、その場が親子・夫婦のコミュニケーションの場であり、躾の場だったのが、個食の時代になり、日本人がどんどん「ジコチュー」になりだしたように思う。
 毎夜、家族で共に食卓を囲むのは難しいかもしれない。
でも、せめて週に1日でも家族で共に食卓を囲むようにしたいものだ。