白い彼岸花と我が家の珍客



 昨日、花壇の白い彼岸花が花開いた。

コスモスの影に埋もれて日当たりが悪かったので、

少し陽が当たるようにしてやったからか1日毎に花が開いていく。





 昨夕、岡山市で某社を取材し帰宅した後、彼岸花の様子を見に行くと

側溝でチィーチィー、ギャーギャーと鳴きながら小鳥が羽をバタバタしていたので

しばらく様子を見ていたが、どうやら飛べないようなので、怪我でもしているのかと

そっと掴んで、あちこち見てみたが小鳥のことはよく分からないが、片目を閉じている。

少し休めば元気になって飛んでいくだろうと思い、花壇のコスモスの下にそっと置いてみた。

しばらくして様子を見に行くと縮こまって身動きしないので、コスモスの下から取り出し

今度は庭に置いた。もしかすると親鳥か仲間が近くに来るかも分からないし、

翌朝には飛んでいっているだろうと思いながら。



 ところが今朝は雨。

起き抜け、庭に出て小鳥の様子を見に行くと昨日の場所にじっとしたままだったので

雨に濡れて体が弱ってもいけないだろうと家の中に招き入れた。

手でそっと掬い上げるように掴もうとするが、危害を加えられると思い

ギャーギャーと鳴きながら羽を広げて逃げ回る。

いや、飛べないから逃げ回れない。

そっと手で掴むと少し安心したのか指に止まった。



 お腹が空いているだろうとご飯粒を持っていくが知らんぷり。

ならと、こちらが朝食を済ます間、キッチンで自由にさせておいた。

しかし、昨日からおそらく飲まず食わずの状態のはず。

なんとかしなければとペットボトルのキャップに水をいれて置き、

その側にご飯粒やパン粉を置いておいたが全く口にしようともしない。



 そこで思い付いたのがミキサーに残ったジュースを水で薄めて皿に入れて置いてみた。

最初は近づきもしなかったが、しばらくして様子を見るように近づき

やがて皿にクチバシを近づけて飲みだした。

何度も何度も飲んでいる。

そうだろう、喉も乾いているはずだし、お腹も空いているに違いないのだから。



 特製フルーツジュースの効果はあったようで昼頃にかけ徐々に元気を取り戻してきた。

すると今度は外に出たいのか、しきりに窓辺に寄り、外を眺め、羽をバタバタとする。

だが、まだ飛べるほどには回復していない。

この状態で外に出て雨に打たれれば死んでしまうだろう。

もう1、2日は我が家にいるしかない。

小さな糞を3回もしたから間もなく元気になるだろう。





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福祉に生涯を捧げた男が造ったテーマパーク・太陽公園



 姫路観光といえば姫路城と好古園、それと中心部からちょっと外れるが書写山円教寺ぐらいしか知らなかった。

姫路城は何度か行ったことがあるし、書写山円教寺はもう一度行ってみたいとは思うが、夏場は避けたかった。

そこで色々探していると「ちょっと変わったテーマパーク」として「太陽公園」が紹介されていたので、

とりあえず行ってみることにした。

まず目に入ったのが山の上に聳え立つ西洋の城。

どうやらここが「太陽公園」らしいと車を走らす。

 入り口で入園料(1,300円)を払い、もらったパンフレットを見ると園内は「城のエリア」と

「石のエリア」の2箇所に分かれていて、入り口も別になっていると知る。

下から城が見えた方が「城のエリア」だが、先に「石のエリア」に行く。

パンフレットには「石のエリア」を見て回る時間は平均120分と書かれているから、

それだけでかなり広大な敷地と想像がつく。

 ★「石のエリア」の写真は「栗野的風景」に多数アップしているので、そちらをご覧ください。

   「栗野的風景」http://blog.livedoor.jp/kurino30/



 パンフレットを見て気になったのは裏面に「障がい者の社会参加と自立を願う

太陽公園は、観光と福祉の融合により新しい福祉を創造することをめざしています」

と書かれていたことだ。

 テーマパークと福祉、どういう関係があるのだろうか?

その謎は園内を見て回っている内に溶けたが、「城のエリア」では入ってすぐの場所に

下の写真の石碑が建てられている。

それらの石碑の文章を読んで「太陽公園」建設の理念、なぜ「太陽」と名付けたのかが分かった。

「愛の貫徹」と書かれた下には次のような文章が続いていた。

 <1947年4月1日、私は「愛の貫徹」をテーマにして

  生活に苦しむ人よ、障害に苦しむ人よ、

  ここに来たれ、太陽に向かって、明るく元気で

  共に生きようと宣言し、これからも永遠に愛の歴史

  を貫徹したい。>



 これらの碑文を記したのは門口(もんぐち)堅蔵氏。

太陽公園の設立者であり、太陽福祉グループの創設者である。

 2009年の碑文に「私の社会福祉60数年の戦いは、血は流れ、肉は飛び、骨は砕けるほどの

苦闘であったと振り返ってみた」とある。

 福祉事業の大変さ、ここまでくるのにどれだけ苦労されたのかが、この文字から読み取れる。



さらに次のように続く。

「今乱れる心、騒ぎ立つ思い、黒い心の影、醜い想いの影、これらの悪魔の襲来を打ち破り、

願わくば、私は差別と偏見、そして生活に苦しむ多くの人々、障害に悩む人々の安心と

安全の生活を保障し、完全参加と平等の社会をつくろうとしている」

 事業を拡大していくと様々な誘惑の手が伸びてくる。

なかには「黒い心」を笑顔で覆い近づいてくる者も少なからずいただろうし、

「差別と偏見」に満ちた目で遠巻きにし、陰でいろいろ噂していた人もいただろう

とは容易に想像できる。

 そのような「悪魔の襲来」を打ち破り、誘惑に打ち勝ち、ひたすら自らが信ずる福祉の道を

歩み続けるのはまさに「いばらの道」だったに違いない。



 門口氏が福祉の道に入ったのは20歳かららしい。

「死んでくる」と言って戦地に赴いたが、生きて返ったことから

以後の自分の人生を「生かされている」と考えたことから福祉の道に入ったようだ。

 門口氏の叫びにも似た碑文を読んでいると、できればお会いしたいと思うようになり

入り口で尋ねたが、すでに逝去されており、またテーマパークの入り口で

それ以上の質問をするわけにもいかず諦めたが、機会があれば後継者に取材してみたい。



 まあ、それはともかく、テーマパークとしても純粋に楽しめる施設である。

今回は時間がなく見て回るのを諦めたが「城のエリア」はトリックアートを楽しんだりもできるらしい。



 この羅漢さん、「やあ、いらっしゃい」と手を挙げて歓迎してくれているようにも見えるし

門口氏が手をかざし、福祉の行く末、この国の行く末を眺めているようにも見える。







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福岡市南区の鹿助池の蓮がほぼ全滅した理由



 福岡市で蓮の花と言えば福岡城址の濠に咲く大きくて白い花が有名だが

鹿助池(福岡市南区長住)の蓮は大賀ハスほど濃い色で紅くはないが、

程よい紅色で、池一面に咲くので見ごたえがある。

例年なら7月下旬から8月下旬ぐらいまでは咲く蓮が今年はほぼ全滅状態。

かろうじてガマの間に隠れるように咲いているのが認められる程度だ。

ガマが生えているのは池の5分の1程度で、それ以外の場所にぎっしり蓮が咲くのが例年の光景。

ところが今年はご覧のように蓮の花どころか蓮の茎も一切認められない。

一体何が起きたのだろうか。

朝のウォーキング中に池の周囲で出会った人に尋ねてみると、思わぬ答えが返ってきた。

「クサガメに芽を食べられたんです」

えっ、亀が蓮の芽を食べ尽くした?

俄には信じられない話だが、別の日に出会った人に尋ねても同じ返答が返ってきた。

う~ん。1人ではなく複数の人が言うから真実なのか。

だが、話の出処が1箇所なら最初の発信者が間違っていることになる。



 蓮の芽を亀が食い尽くしたなら亀が異常発生していなければならないが、

念入りに池の周囲を見て回っても亀は急増どころかむしろ数が減少しているとさえ思えた。

いずれにしろ亀が増えて蓮の芽を食べたとするには少々疑わしい。

 では、なぜか。

そこで考えられるのは10年近く前の集中豪雨で濠の蓮が大被害を受け、

全滅かそれに近い程減少した時のことだ。

今夏も集中豪雨に見舞われているし、猛暑の日が7月に続いた。

その影響が考えられるので、水面をつぶさに見てみると、何も生えてない箇所の水面は

下の写真のように一面緑色になっていた。

アオコの異常発生である。

これで水中が酸素不足になり、蓮が生えなくなったと考えられる。

 だが、ガマが生えている箇所では蓮が咲いているのはなぜか。

これも水面をつぶさに見比べていくことで合点できた。

ガマが生えている辺りの水はいつも通りに澄んでいたのだ。

ガマはほぼ年中生えているため、ガマの生育箇所はアオコが発生も進出してくることも

できなかったに違いない。

それはまるで縄張りで印を付けたように、水面の色がガマ生育地とそれ以外の場所で

はっきり分かれていたからだ。

 いずれにしろ異常気温の結果起きた現象で亀が食べたわけではない。





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異常高温の夏、それでも「甲子園」をやめない朝日新聞

 メディアも連日のように熱中症対策を促し、朝日新聞は7月15日付けの紙面で
「熱中症、ならないためにどうするか なったらどうするか」と題して次のような記事を載せている。

「熱中症は暑さや激しい運動で体内の水分や塩分が不足し、体温調節ができなくなる状態だ。
けいれんや頭痛、吐き気などを引き起こし、死に至ることもある。
室内でも起こり、体温調節が鈍くなりがちな高齢者や、子どもはより注意が必要だ。
 熱中症を防ぐには、暑さを避け、こまめに水分や塩分をとることが大切だ。
水分補給は塩分を含むスポーツドリンクなどが望ましい。
室温は冷房などで28度前後に保ち、外出時は帽子や日傘を使う」

 スマートフォンの防災アプリからは「炎天下の外出を避ける」「屋外での運動禁止」を訴える警報も頻繁に届く。

 にもかかわらず、朝日新聞社はこうした状況に目を瞑っているのか、自社の利益を優先しているのか、
はたまた報道と事業は別と開き直っているのか


   全文は「まぐまぐ」内の「栗野的視点」あるいはリエゾン九州のHPからお読み下さい。




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崩壊するニッポン(5)~社会に蔓延している、「結果が全て」の風潮

 ついにここまで来たかーーという思いを強くした。
「正々堂々」「爽やか」という言葉はスポーツ、なかでもアマチュアスポーツ界を象徴する言葉だった。
しかし、今それらは死語となり、過去の歴史の中に葬り去られてしまったようだ。

 関西学院大学と日本大学アメリカンフットボール部の試合がそのことを如実に物語っている。
勝てば官軍、勝つためには手段を選ばず、という考えがアマスポーツの世界にも広がりを見せているということだ。
しかも指導者たる監督やコーチが「相手を潰してこい」と指示したというから驚く。

さらに驚くのは反則プレーした日大選手が主体的に記者会見をして謝罪までしているというのに、
日大と同大アメフト部の監督等が記者会見をしたのが同選手の謝罪会見に遅れたること1日の5月23日。

 この問題に関して関学大が会見を開いた12日から数えると10日以上遅れてやっと正式会見を
開いたわけで、対応の遅さにも驚くが、さらに驚いたのは会見内容。
口では「全て監督たる私の責任」と言いながら、「潰してこい」とは言ったが、
それは「ケガをさせろ」という意味で言ったわけではない。
受け取り方との間に「乖離があった」と言い、ある意味自分達に非はないと開き直ったことだ。

 さらに酷かったのが同日の会見司会者。
日大広報部職員らしいが、この種の会見では前代未聞の態度だった。
そういうところにも、この問題を引き起こした背景が見て取れる、と多くの人が感じたに違いない。

 問題がここまで大きくなると日大アメフト部の内田前監督は日大理事の職も辞めざるをえないだろうが、
先の会見でも自ら辞任と言わないところがなんとも。

 今の時代、文字や言葉より映像。
語っても語らなくても言葉のトーンや間、表情を映し出し全てを伝えてしまう。

 このところスポーツ関係が話題(悪い方で)になる事態が続いているが、
アマチュアレスリングのパワハラ問題での大学理事長の会見も酷かった。
どうも大学というところは知識も常識も教えるところではなくなったらしい。

 柔道、相撲、レスリング、アメフト、いずれの場合も社会と隔絶された閉鎖的で、上下関係の厳しい社会。
一般常識とは無縁の別社会を、ある部分、特徴としてきたところもある。

 しかし、その社会に変化が起き始めたのはやはりデジタル情報社会の影響が考えられるだろう。
「ベルリンの壁」も「竹のカーテン」も「北の空」も空を飛ぶ交う情報が穴を開け、崩れていった。

 そして今、スポーツの閉鎖社会がSNS(ソーシャルネットワークサービス)を使った
デジタル情報で風穴を開けられ、壁の中の「内部情報」が一気に外の世界と繋がったが、
そのことを理解できないのが旧世代の連中。
彼らはいまだに上からの指示(命令)で押さえ込めると思っていたようだ。
それが関学大の抗議会見から10日後の、謝罪にならない会見で、より多くの人の怒りを買ってしまったようだ。

 それにしてもなぜ、スポーツマンシップと程遠いことがアマチュアスポーツの世界で行われたのか。
実のところ、こうしたことが起きる予感は以前からあった。

 「参加することに意義がある」と言われたオリンピックでさえ「参加」より
「賛歌(結果)」を求められて久しい。
しかも、賛歌は国家のメダルの数に置き換えられている。

 要は今の世界、「結果が全て」、結果を出すことが求められている。
そのことは横綱、稀勢の里への評価の変わり様を見ても分かる。

 左胸と左上腕に大怪我を負い、とても相撲など取れる状態ではないのもかかわらず千秋楽に出場し、
本割、決定戦と連覇し優勝した時は奇跡と称賛し日本国中が稀勢の里を讃え、稀勢の里フィーバーに湧いた。
だが、その怪我が原因で休場が続くと今度は態度を一転させて「引退を」とすら言い出す。
そこにあるのは「結果が全て」という考え方であり、相撲界内部のみならず観客の側もその考えに支配されている。

 「勝てば官軍」意識は明治以降の日本人に特徴的に見られた精神といえる。
過程(プロセス)を問う声は「結果オーライ」の声に掻き消され、ほとんど聞こえない、唱えない。
それが顕著なのが相撲で言えば白鳳の相撲だ。

 横綱が下位力士との取り組みで張り手や猫だましを使う。
もちろん禁じ手ではないから誰が使っても問題はない。
それをいいことにしたかどうか、白鳳は一向にこうした手を改めるどころかエスカレートさせ、
平手ではなく拳打ちや肘打ちと紙一重の手まで繰り出していた。

 さすがにそれは行き過ぎと苦言を呈する声が大きくなりだしたのが日本人横綱誕生、
貴乃花「改革」等で白鳳人気への依存から脱却できそうな機運が生じてからだ。
つまるところ白鳳1強で白鳳人気に頼らざるを得ない時は「不正」にも目を瞑り、
代わりが見つかり出すと途端に叩きだすというなんとも潔くないやり方が、
どうもこの国を支配しているようだ。

 「結果が全て」という考えがスポーツ界を覆っている例は他にもある。
カヌー日本代表選手がライバル選手の飲料に禁止薬物を混入し、出場停止に追いやった事件がその典型だろう。
ついにここまで来たかという感じだが、これも「結果が全て」という風潮が
広く社会一般に広がっていたからといえる。

 要は個々の問題ではない。
産業界、経済界、金融業界等々、この国のあらゆる分野がこの考えに汚染されている。
いや、この国だけではないだろう。資本主義先進国も、成長著しい国も、結果を追い求める
強欲資本主義に汚染され、金を儲けることがいいことだという考えに捕らわれているのだ。

 金を儲ける→手段を選ばない→多少の不正、誤魔化しを行ってでも結果を出さなければならない
→不正、誤魔化しが常態化する

 こうした思考の循環に対し誰も問題を指摘しない。
あるいは指摘した人間は組織から弾き飛ばされるか閑職に追いやられてしまう。
そういう現実を目にしているから下の人間は「ヒラメ族」になり、
ひたすら上のご機嫌を見ながら仕事をしていくようになり、異議申し立てをしなくなっていく。

 例えば日大アメフト部の監督とコーチが会見を開いた時のコーチの様子がそんな感じだった。

 今この国は転換点に差し掛かっているようだ。
過去の精神論・情緒論的なものからシステム的・科学的な考え方に基づく指導へ、
封建的な思考を残した古い体制から新しい体制への転換点に。

 こうした転換はとっくの昔に終わっていると思われていたが、実のところ底流で
根深く残っていただけではなく、泡のように沼底からブクブクと湧きだしてきているようだ。
その典型は政治の世界だが。

 一体この国は変わるのか、変えるのか。
資本主義はどこに向かっているのか。
「終わりの始まり」が始まっているとすれば、その先にあるのは何か--。

 私見だが、一つは縮小均衡、コンパクト化を図ることだろう。
宇宙はビッグバン後、拡張を続けているが、その動きを停止するところもいくつか存在する、と言われている。
宇宙ですら無限に拡大し続けるものばかりではないようだ。
いわんや地球上の経済は無限に拡大し続けると考えるには無理がある。
拡大への動きを止める時期が来ているのではないか。




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歴史の歯車の気になる2つの動き~メディアの「強いものに巻かれろ」化

 次は「緩変」「ゆでガエル」の話題。
この頃、TVが面白くないこともあり、田舎に滞在中はほとんどTVをつけない。
せいぜい昼食時と、夕食時にニュースを観るぐらいだがニュース番組も面白くないので、最近はニュースも観なくなった。

 ニュースに面白いも面白くないもないだろうと言われそうだが、どのチャンネルでも
同じような事件を同じような切り口で繰り返し流されれば面白くないというかうんざりする。
だったら観なければいいではないかと言われればその通りで、このところ福岡にいる時でもニュースさえ観なくなった。

 まあ、TVに限らずメディアの画一化傾向は今に始まったわけではないが、
ますます酷くなるのを見ていると不安に駆られる。

 昔、キャビンクルー(客室乗務員)が機内食を運んできて「meat or fish?」と尋ね、
「meat」と乗客が言うと「fish.it's only」と客室乗務員が答えるCMが流れていたのをご記憶だろうか。

 人をバカにしたようなCM(の場面)だが、このCMの面白さ(小バカさ加減)は、
さも肉か魚を選べるような聞き方をしながら、実は魚しか選べないという点だ。

 笑えないのは、こうしたことが現実世界で案外見られるからである。
一見、選択肢があるように見せながら実は選択肢がないだけではなく、
その1つのものを自分で選んだと思わせられている。
そう、カードマジックでよく見られるシーンだ。
マジックの場合はマジックと分かりながら見ているからまだいい。それでも欺されるが。

 もし、これが現実世界で行われていたらどうか。
自分で選択したのではなく、選択させられていたのだとすれば。

 実はつい最近、それに似たようなことを報道各社が行っていた。
TOKIOのメンバー(当時)山口達也が起こした強制わいせつ事件の報道である。
どのチャンネルも繰り返し、この事件を取り上げるのには辟易したが、
疑問を感じたのは「山口メンバー」という呼称である。
なぜ「山口達也」でも「山口達也容疑者」でもなく「山口メンバー」なのか。

 恐らくこの呼称に対して違和感を感じている人が結構いたのだろう。
朝日新聞は5月11日付の紙面で<なぜ山口達也「メンバー」? あの事件、あの人の呼称は>
と題した記事を書き、次のように弁明している。

 <朝日新聞ではかつて、刑事事件の容疑者を原則として呼び捨てで報道していたが、
人権への配慮から1989年、逮捕された人を原則として「容疑者」と呼ぶ方針に変わった。
書類送検の場合は、事件事故の報道の際の表記のガイドラインに基づき、
事案の軽重や当事者の属性などを踏まえて実名か匿名か、
どのような呼称にするかを個別に判断することとしている。>

 一見もっともらしい説明である。
しかも「どのような呼称にするかを個別に判断する」と逃げている。

つまり明確なルールはない。
その時々で呼称を変えるから「メンバー」と表記しようと「容疑者」と表記しようと自由だ、
と言っているのだ。

 第一、そんな弁明を紙面でいちいちしなければならない方がおかしい。
これがスポーツ新聞なら(失礼)まだ分からないことはない。
だが、天下の朝日新聞が、いやお堅い一般紙がわざわざ紙面を割いて
弁明しなければいけないところにこそ問題がある。
朝日新聞も芸能新聞になってしまったのか、朝日の矜持はどこへ行ったのだ、
というのは大袈裟過ぎるだろうか。

 朝日新聞に限ることではなく他紙やTV各局は一様に「メンバー」という呼称を使っている。
例外は読売新聞の「容疑者」と日刊スポーツの呼び捨てだった
(もしかするとほかにもあったかもしれないが、私の知る範囲では)。
朝日新聞より系列スポーツ紙の方が余程潔い。

 今回の事件は強制わいせつ事件である。
最終的には被害者と示談が成立しており不起訴となったが書類送検もされた事件だ。
しかも相手は未成年。それなのにメディア各社の「メンバー」連呼は何だ。

 ここでちょっと前の事件、草彅剛氏が酔って公園で裸になったとして逮捕された事件
(不起訴)を思い出して欲しい。
公然わいせつ罪だったが、草彅容疑者という呼称が使われている。
この2つを比較するだけでも、今回の「メンバー」呼称に違和感を感じた人は多いだろう。

 ついでに言うと、無理矢理キスを迫って「強制わいせつ」という表現にも疑問を感じるが、
その点は置くとしても、強制わいせつで書類送検された
(少なくとも不起訴処分になる前)段階でさえ「山口メンバー」という呼称を
連呼するのには強い違和感を感じる。
そして前述の朝日新聞のような「言い分け」を鵜呑みにしている人達がある程度いたことに対しても。

 メディアによる呼称の使い方は強いものへの「忖度」である。
タレントを抱える芸能事務所にしてみれば所属タレントが「容疑者」と呼ばれるのは好まない。
タレントはイメージ商売だから、そのイメージが著しく傷付くことになるのは
なんとしても避けたいところだろう。

 一方、メディアの方は芸能事務所との良好な関係を続けたい。
逆に言えば、芸能事務所から今後、他の所属タレントも出演させないと
言われることを恐れるわけだ。
特に力のある芸能事務所の機嫌を損ねることは営業上極力避けたい。

 かくして双方の思惑が一致し、「忖度」が行われ
(芸能事務所からの圧力とまでは言わないが)、今回のような呼称が使われることになる。

 怖いのはメディアのこうした姿勢が深く静かに、そして急速に広まりつつあることだ。

 たかがタレントの呼称1つと思うかもしれないが、ひとたび矜持を失ったメディアは
次から次へとなし崩し的に後退していく。
気が付けば強いものに巻かれてしまい、言われるがままの情報を流し、
国民を選択肢がない「it's only」状態に導いていく。

 メディアが本来果たすべき「権力の監視」を放棄すれば、それは自らの死を意味する。
その瀬戸際に今立たされているという自覚がメディアに欠如していることが怖い。

 大政翼賛会のようになるなという野中広務氏の警告、遺言を我々は、
なかでもメディアに従事している人々は思い起こし、肝に銘ずべきだろう。
かつてメディアは大本営発表の情報を鵜呑みにし(強いものに巻かれ)、
国民に誤った情報を伝え、戦争への道を突き進んでいった。
いままた同じ過ちを繰り返そうとしているように見える。

 野中広務、山崎拓、古賀誠といった自民党員ながらも筋を通してきた政治家が亡くなったり、
1線を退いた今、自民党や政府で活動している政治家は戦争を知らない世代、
「ノーと言えない」世代ばかり。
禅譲を期待したり、空気を読んで動向を決めてどうする。
理念、信条はないのか、と言いたい。

 今、「ダメなものはダメ」と言い、「やるっきゃない」と、
それこそ「岩盤に穴を開ける」政治家はいないのか。
辛うじて野田聖子氏あたりがそれに入るか入らないかという程度だろう。

 政治家がこれだからメディアは推して知るべし。
考えているのは視聴率とスポンサーのことだけ。
その結果が愚にもつかない言い分けで、国民を「ゆでガエル」にしてしまう。

 立憲民主党の支持が広がりを見せているのも、筋を通さない政治、
「強いものには巻かれろ」化のメディアに対する反発からだろう。

 我々は「居心地のいい社会」に慣れすぎて、あまりにも警戒心を失い過ぎている。
今必要なのは研ぎ澄まされた獣の精神を取り戻すことではないだろうか。




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歴史の歯車の気になる2つの動き~独裁者も豹変す

 皆さんGWはいかがお過ごしでしたか。私はGWが終わるまでの1か月間を岡山県北東部の田舎で、
新聞、TVもほとんど見ず、ノンビリ(?)と過ごしていました。
 とはいえ、こちらとは無関係に世の中は動き、その間にも様々な事件が起きており、
田舎でノンビリ、田舎は長閑などと、それこそノンビリとしてばかりもいられないのが現実。

 花の写真を撮りに行けば季節の異常さ、環境異変を思い知らされるし、
庭先でハナモモの写真を撮らせてもらった民家の主人との立ち話では限界集落化について
考えさせられるし、奈義町の民家の軒先でたまたま立ち話をすれば、相手が町長と分かり、
つい地域おこしの話になりコーヒーを振る舞われながら縁側に腰を掛けて20分近くも
話し込んだりと、それなりに刺激的で面白い日々。

 困ったのは物忘れの進行と集中力、持続力の衰え。
最近、頻繁に帰省し、ある程度の期間、滞在しているものだから地元の人の対応にも少し変化が見られだした。
お客さん、よそ者対応からの変化と言えば分かってもらえるだろうか。

 ある時、庭木の剪定をしていると、近付いてきて声を掛けられ、そのまま道端に座り込み、
しばらく話したことがあった。
先方はこちらのことをよく知っている風で色々話してくるので話しは合わせていたが、
最後まで相手がどこの誰か分からなかったのには参った。

 まあ、それでも相手が帰る段になり軽トラックに乗り込んだ時になって、
やっと相手の素性が分かりホッとしたのは笑い種なのか笑えないことか。
軽トラックのボディーに先方の屋号が書かれており、それで分かったのだが、
もしその後も分からずじまいだったらと思うと、我が身の先行きがちょっと悲しい。

 というのも、その数日後、またやって来て、剪定した枝を「捨てに行ってあげる」
「車を使ってもらってもいい」などという親切な申し出を受けたからだ。
彼の話し振りから、なんとなく私が田舎に帰ってくるのではないかと感じているようなところがあった。
それもこれも、この1、2年頻繁に帰省している姿を見ているからだろう。

独裁者も豹変す

 さて、そんな私の生活とは無関係に、気になる動きが起きていた。
ともに歴史の歯車を動かしそうな出来事で、1つは突然、表舞台に飛び出し、
もう1つは静かに進行している。

 人は前から来るもの、変化がはっきり見えるものに対しては身構えたり、
受け入れたりの対応ができるが、後ろから静かに、徐々に来る動きには気付きにくい。

むしろ警戒すべきは激変より「緩変」。

緩やかに進行する変化である。

気付いた時は「ゆでガエル」というやつだ。

 まず激変の動き。
今春、世界を驚かせた大きな変化と言えば朝鮮半島情勢。
「君子は豹変す」とはまさにこのことで、いままで暴君の限りを尽くしていた
金正恩朝鮮労働党委員長がハト派に豹変したのだからビックリ。
恐らく世界の人々が驚き、南北首脳会談のTV中継を刮目して見たに違いない。
 (君子は豹変す=徳の高い人物は自分の過ちに気付けば即座に改め、
  よい行いへと転じることが、きわめて素早く、はっきりしていること)

 かく言う私自身もそうだったが、ニクソン・毛沢東会談のようなことが
朝鮮半島で起こると予想した人がいただろうか。
金正恩委員長の異母兄、金正男氏がマレーシアのクアラルンプール空港で毒殺されたのが
1年前の2017年2月。
金正日総書記の後継者の地位に就いた後、残虐の限りを尽くしてきた男が、
わずか1年後、満面に笑みをたたえた「平和のハト」に変身するとは思いもしなかった。

 ただ、彼の変化には少し前から気付いてはいた。
後継者に就任後、政敵となりうる相手を次々に残虐な方法で処刑してきたが、
その頃は(あくまで映像で見る限りだが)どこか落ち着きがなく、
演説中、身体が左右に揺れるのが見て取れた。
それが金正男氏暗殺以後は顔からオドオドした表情が消え、態度も自信に満ちていた。
後顧の憂いがなくなったのと、相次ぐ核とミサイルの発射で軍事的にも自信を持ってきたからだろう。

 その後に待ち受けているのはさらなる強攻策。
国際的な緊張感、危険性が高まると多くの人が感じていたに違いない。
その矢先に政策を180度転換し、アイドル然としたにこやかな顔で国際舞台に
登場したのだから驚かない方が無理だろう。

 もちろん一直線にこのまま進むとは思われないし、北朝鮮の核廃棄に至っては
実現までにかなりの紆余曲折があると予想される。
それでも世界は彼の豹変と、平和への動きを歓迎するだろうし、そうすべきだ。
端から疑いの目で見、平和への歩みを邪魔するのではなく、
平和に向かって1歩でも2歩でも進むように働きかけることこそが重要だ。

 もしかすると、逆行し始めている歴史を再び前進させられるかもしれないではないか。

 残念なのは日本が蚊帳の外に置かれているということだ。
圧力一辺倒で、柔軟な外交戦略をなくしている安倍政権故と言える。
その反省に立ち、自民党政権にはかつての柔軟さを取り戻して欲しいと願う。



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崩壊するニッポン(4)~社会に蔓延する虚偽と保身

 あれは共産圏、独裁国家のことで日本ではそんなことはない、と思っている人がいるなら、その人はよほどのお人好しかもしれない。
 そういう人にはミルトン・マイヤーの著書「彼らは自由だと思っていた」を紹介すれば充分だろう。
 マイヤーは同書の中でマルティン・ニーメラーの詩を引用しながら次のように書いている。

 ナチスが共産主義者を攻撃した。
 彼はやや不安になったが、彼は共産主義者ではなかったので、何もしなかった。
 そして彼らは社会主義者を攻撃した。
 彼は不安だったが、社会主義者ではなかったので何もしなかった。
 それから学校が、新聞が、ユダヤ人がとなり、彼はそのたびに不安になったが、
 やはり何もしなかった。
 そして彼らは教会を攻撃した。
 彼は教会の人間であった。だから彼は何かを行なった。
 しかし、それは遅すぎた。

 いかなることも最初は小さなことから始められる。
25億円着服した男が数日前、台湾で逮捕されたが、彼もいきなり25億円横領したわけではない。
最初はもっと少ない金額を着服し、徐々に着服金額と回数が増えていき、
14年間で合計金額が25億円に達したのである。

 それにしても14年間もよく気付かなかったものだと思う。
よほど管理がずさんだったのか、よほど儲かっていた会社なのか。
いずれにしろリスク管理ができていなかったことだけは間違いない。

 犯罪であれ、歴史の改竄であれ、最初は小さなことから行われる。
いかに早く小さな段階で気付き是正するか、これぐらいはいいだろうと見過ごし、
いよいよになって声を上げた時は「遅すぎた」と後悔することになる。

 公文書の改竄、「モリカケ」問題はその一歩である。
次は「存在」を「不存在」とし、「なかったことにする」。
巷で流行っているダイエットなどのCMに習ったわけではないだろうが、
自衛隊の日報や官僚のセクハラを「なかったことに」されたのではたまったものではない。

 昔は(といってもせいぜい20、30年前だが)国会で証人喚問に呼ばれば
極度の緊張のあまり宣誓書へ署名する手が震えたほどだが、
この頃は高を括って、「刑事訴追の恐れがあるので答弁を差し控えたい」と
平然と証言を拒否する始末。
この戦術を編み出した弁護士自身が「最近はやり過ぎで、許せない」と憤慨している程だ。

 昨今、平然と嘘をつく人が増えているが、官僚も信じられないとなると、
本当にこの国には信ずるものがなくなってしまう。
人を見れば嘘つきと思わなければいけないようでは安心して住むこともできない。

 佐川宣寿・元理財局長、福田淳一・財務事務次官という官僚トップが平然と、
あったものを「なかったことにする」のだから、こうした権力を嵩にきたパワハラ、
セクハラ、保身のために嘘をつく風潮は社会全体にますます蔓延していく危険性がある。

 この国に再び「安全・安心」は戻るのだろうか、戻せるだろうか。









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崩壊するニッポン(4)~独裁国家は歴史を改竄する

 公式記録から抹消と聞いて思い浮かべるのはかつてのソ連邦、中国などの共産圏諸国が行った公式文書・写真からの削除、改竄である。
劉少奇や林彪は失脚後、毛沢東と一緒に写った彼らの姿は写真から削除され、その場にいなかったことにされた。
歴史から抹殺されてしまったのだ。

 そして彼らの功績は歪め、貶められ、党への反逆を目論んだスパイ、根っからの悪人として
新たに記録され直し、人々の記憶からも抹殺された。
代わりに彼らの功績はスターリンや毛沢東といった党指導者のものに書き換えられていった。

 こうなると公式記録はどこまでが真実か、何を信じていいのか分からなくなる。
同時代を生きてきた人でも年数を経れば記憶が薄れていく。
そうなると頼れるものは記憶ではなく記録だが、その記録が、真実を伝えていなくても
記録として存在している以上、そこに記されていることが「真実」になる。
まさに歴史は勝者によって創られる、だ。

 こうした現実をジョージ・オーウェルは「1984年」で書き、人々に警告した。
それから70年近く、中国文化大革命からでも半世紀が経つ。
もはや人々は記憶ではなく「記録」に頼るしかない。
ところが、その記録が真実を伝えていない、改竄されたものなら、真実は「藪の中」どころか、闇の中だ。

 つまり公文書の改竄はそれほど恐ろしい犯罪行為だということである。

にもかかわらず当の官僚達にその意識がない。
そのことに恐ろしさを感じる。
「戦前の軍部独裁と同じ」という指摘は大仰でもなんでもないだろう。

 歴史を自分に都合よく書き換えるのは独裁者・独裁国家の常套手段である。
彼らはあらゆるものを支配しようとするが、最も支配したいのは人の頭脳と精神である。

 自由な思考を奪われる怖さと監視社会の怖さはすでに70年近くも前に
ジョージ・オーウェルが「1984年」で描写している。
読んだことがない方はぜひ、読まれた方ももう一度同書を一読されることをお勧めしたい。
併せてスノーデン氏の告発も。

 「1984年」はフィクションで、現実世界のことではないと思われる方は、
つい先頃行われた朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の党中央委員会総会の光景を思い出して欲しい。

 数か月前まで核とミサイル開発・保持を主張していた金正恩委員長が4月21日の同総会で
「核実験とミサイルの発射実験中止」「核実験場の廃棄」を唱えると満場一致で承認された光景に驚いたことだろう。

 党の方針の急変。コペルニクス的転回、驚天動地。
当の国民は腰を抜かさんばかりに驚いたのではないだろうか。
それともかの国では朝令暮改は当たり前、真実なんて端からないと無関心を決め込んでいる(装っている)のか。

 同じことは中国でも言える。
先頃、中国共産党が全国人民代表大会(全人代)で習近平氏の主席永続化に道を拓く
憲法改正案が提案されたが、賛成2958票、反対2票、棄権3票の圧倒的支持で承認された。
反対したのはたったの2人だけというのは異常すぎる。
全人代議員は党の決定をただ承認するだけの組織、セレモニーになっている、とはいえ、
かの国の10年後に思いを馳せると精神(こころ)が寒くなる。
どうかすると習近平時代は毛沢東時代より独裁化が進んでいるかもしれない。

 いずれの国でも党が発表する数字、事実こそが「真実」である。
それは数年、数か月前と違う数字、事実であっても、
新しく発表された数字、事実こそが「真実」であり、
それに異を挟むことは許されない。
許されているのは拍手で「指導者」の決定に賛意を示すことだけだ。

 このような体制下で人はどうなるのか。
「1984年」の最後の件(くだり)を再読して欲しい。
オーウェルの予言を読み暗澹たる気持ちになることだろう。
だからこそ、早いうちに「ノー」の声を上げるべきだと。



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崩壊するニッポン(4)~日本型システムの崩壊

 日本人は概して真面目である。
「概して」と表現したのは近年、必ずしもそう言えない人達が増えてきたからだ。
犯罪の国際化と同じく、悪しき国際化があらゆる分野で見られるようになってきた。

 それはさておき、真面目な人種(?)の一つに官僚がいた。
彼らは職務に忠実であるだけでなく、自らの立場をわきまえている。
つまり政権が変わっても(この国ではあまり変わらないが)自らがなすべきことをきちんとなしていたし、職務上では政治的中立の姿勢を貫いていた。
だから安心できた。

 ところが、この日本型システムが安倍政権下で崩れ始めた。
政治的中立の姿勢を貫いていた官僚が政権トップの意向を「忖度」し、
政権トップにおもねった判断を下したのだ。
しかも下位の者達ではなく、官僚組織のトップクラスか、それに近い幹部達が。

 縁故主義、権力者へのおもねりがモノを言うのは洋の東西を問わず、いつの時代でも同じだ。
これを完全になくすことは難しいが、問題はその幅の範囲だ。
民主主義は上記の幅を極力狭めることにあった。
ところが21世紀になってからまるで時代に逆行するようにトランプのアメリカを始め、
プーチンのロシア、韓国、そして安倍の日本で「お友達」が幅を利かせている。
その「お友達」の輪に官僚までもが入ろうとしているのだから、
この国のシステムは崩壊しつつあるといえるだろう。

 それにしてもなぜ、いままで職務に忠実だった官僚が政権トップにおもねりだしたのか。
 人が動くものに3つある。
利と理に義だ。

「利」は言うまでもないだろう。利益、カネのことだ。
「理」は道理、理屈、理性、「義」は道義、義理の義だ。

 本来、官僚は「理」で動いてきた。
それが「り」は「り」でも、「理」ではなく「利」の方で動いたのが今回だ。
直接的な金銭が彼らの懐に入るわけでも入ったわけでもないが、省庁利益と強弁しようとも、
つまるところは自分に跳ね返ってくる利益のためだ。

 その「利」のために、「ある」ものを「ない」と言い、虚偽の返答をしたものだから、
今度は辻褄を合わせるために、あろうことか記録文書を書き換えた。公文書の改竄である。

 それもどうやら権力者の書き換え指示・圧力で行ったのではなく自ら積極的に行ったようだ。

 自主規制の類いと同じだけに、よけいに嫌なものを感じる。
圧力に屈してなら、まだ救われる。と言うか許される。
「許される」というのは、そういう行為に走ったのは少しは「理解できる」という意味であり、
だからといって本当に許されるわけではない。
裁判で言えば「情状酌量の余地」が全くないわけではないが、
それで罪1等を軽減する程のものではない、ということだ。



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