「巣籠もり」作戦は本当に正しいのか、事態を打開できるのか。

栗野的視点(No.685)                   2020年5月13日
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「巣籠もり」作戦は本当に正しいのか、事態を打開できるのか。
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 強大な相手に対して、まず籠城することは一定の効果がある。

しかし、籠城戦で勝った戦いはない。その多くは兵糧が尽きたり病人続出で自滅している。

籠城戦が効果あるのは短期間だ。長引けば長引くほど戦死者数より餓死者数の方が多くなる。

今、その時期に差し掛かろうとしているように思える。

 本当に「巣籠もり」作戦は正しいのか。ボタンの掛け違いはなかったのか。

データを収集・分析する方向性は正しいのか。そういうことを再度出発点に戻り冷静に見直す必要があるのではないか。

未知との遭遇で人が取る5つの行動

 人は未知のモノや予期せぬ出来事に遭遇した時、様々な行動を取るが、

概ね段階ごとに次のような行動パターンに分かれる。

1.身構えと様子見

2.右往左往

3.怯えと軽視

4.敵対と協調

5.反転攻勢

 

     (中 略)

 

怯えは増幅し、同調圧力は強まる

 

 時間(日数)の経過とともに人々は冷静さを取り戻し始め、対象や事態を冷静に見つめようとする動きが増してくる。

もちろん、この段階でも根拠の薄い怯えと楽観視は残る。

 いや、むしろ両方の動きはさらに力を増していく。怯えはどんどん強くなり、さらなる防御姿勢を強めていく。

方向性を与えられたベクトルは決してジグザグに進んだり、ましてや後戻りすることはない。

ひたすら進む。それも速度を増しながら。これは拡大であれ、膨張、収縮であれ同じだ。

 今、怯えのベクトルに力を与えているのがTVを中心としたメディアである。

 特に酷いと感じるのがTVの情報番組。

一度ある方向(今回の場合は「自粛」)に向かい出したベクトルは決して途中で速度を緩めたり、

立ち止まることをしない。もっと、もっと、というように、さらに先へ進んで行く。

 TVは特に極端な映像を求めたがるだけに、視聴者側の冷静な判断が求められるが、

そうした情報に引っ張られる形で「積極的に」動き出す者もいる。

 「みんなが自粛しているのに、お前はなんだ。営業自粛しろ」というわけらしいが、

背景にあるのは不安と怯え。その裏返しで「自分は要請に従い、我慢しているのに、

それに従わない奴は許せない」という他者への怒りの行動となっている。

 これは戦時中の隣組組織などで見られた行動と同じだが、権力に従順な人、

強い者に従う傾向が強い人にほどよく見られ、自身の内に権力志向、権威主義的傾向を秘めている

     (中 略)

見るべきは感染者数より死者数

「専門家会議」の副座長、尾身茂氏は「報告されているより数が多いのは間違いない。

それが10倍か20倍か30倍かは誰も分からない」と答えている。

 「専門家」が、報告されている感染者数を信用していないばかりか、

どれほどの人が感染しているか「誰も分からない」と言うのだ。

 ここで本メルマガNo.683で書いたことを思い出して欲しい。

私はそこで感染者数に触れ「検査総数中の感染者数と、実際に感染した人の数の2つがある」と指摘していたことを。

 データのどこを見ればいいのか、どのデータを比較すればいいのか。それは死者数である。

     (中 略)

 

都市封鎖、巣籠もりは有効か

 同研究チームによると「人々が集まるレストランやバー、レジャー施設、イベント会場の閉鎖も

感染拡大の抑制に寄与した」が、「これら以外の業種における営業停止は、感染拡大の抑制に

ほとんど影響がなかったとみられる」。

 また「外出禁止は、COVID-19の発生率の減少との相関がなく、むしろ外出禁止の日数が

増えるほど、感染者数は増加した」とのこと。

 興味深いのは「巣籠もり」する日数が増えるほど、逆に感染者数は増加したという点である。

     (中 略)

 

高齢者、基礎疾患持ちこそ巣籠もりを

現段階で可能な最も現実的な方法は何かを考えてみよう。

そのためには感染者数より死者数の方が重要になる。

 というのは感染しても軽症で終わる人(中には無症状でいつの間にか治っていた人もいる)と、

感染すると重症化する人がいるが、重要なのは後者を減らすことである。

     (中 略)

 蛇足でもう一言。第2波、第3波の世界的流行はない(小さな流行程度はあるかもしれないが)だろう。

     (以下 略)

 

 

  全文はHPに収録、「まぐまぐ」からも配信しているので、そちらでどうぞ

栗野的視点(No.685):「巣籠もり」作戦は本当に正しいのか、事態を打開できるのか。

 

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「COVID-19」関係の報道に感じるいくつかの疑問 Part2

栗野的視点(No.683)                   2020年5月6日
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「COVID-19」関係の報道に感じるいくつかの疑問 Part2
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 TVをつければ朝から夜まで「コロナ」「コロナ」の大合唱。

外出自粛を余儀なくされた身には勢いTVを見る時間が増えるが、どこのチャンネルでも

似たり寄ったりの内容で、そんな状態を1か月も続ければ自ずと結果は見えてくる。

気が付いた時には疑うことを一切しない、ある種「洗脳」状態に陥っている。


 かつて声高に反戦や反原発を叫んだ者達も相手がウイルスとなると、

「人類の危機」とばかりに、かつて歌っていた抵抗歌の代わりに「欲しがりません、

勝つまでは」の大合唱。

 いまや皆が一つ方向に向かい、突き進む不気味さ。

そして紙メディアも電波メディアも、それを後押しするように「緊急事態宣言」を

出すのが遅い、早く出せと、これまた大合唱。

   (中 略)

1.なぜスペイン風邪と比較するのか

 なぜスペイン風邪を引き合いに出すのか。

死傷者数が多いからではないかと思うが、100年前と今では時代背景がまるで違う。

 まず、スペイン風邪流行時と今では医学の進歩がまるで違うので同列には論じられない。

さらに決定的に異なるのはスペイン風邪流行時は第一次世界大戦中であり、

兵士から感染が拡大していった。塹壕戦で感染が広がり、戦死者よりスペイン風邪による

感染死者の方がはるかに多かったと言われている。

 このようにスペイン風邪は特殊な条件下で感染爆発が起きているわけで、

今起きているCOVID-19の引き合いに出すのは妥当ではないし、間違ったイメージを植え付けることになる。

   (中 略)

2.データの使用法に疑問

   (中 略)

3.データ分析は行われているのか

   (中 略)

 現段階でもある程度分かっていることがある。女性より男性、若者より高齢者、

健康な人より気管支や肺に問題を抱えていたり、糖尿病、高血圧を抱えている人の方が

重篤になるリスクが高いということが分かっている。

 さらに細かく分析すれば、もっといろいろなことが分かるかもしれない。

そうすれば打つ手は随分変わって来るだろう。

 今のように全国、全国民一斉に籠城ならぬ自宅に籠もって人と接触するのを避け、

ひっそりと暮らす必要はないかもしれない。

古来、籠城戦に勝ち目はない。打開できるのは外から援軍が来て包囲網を解いてくれた時だけだ。

 今、「自粛」を緩めれば、爆発的感染が起きる可能性が高いと言われるが、

重篤化するリスクの高い層が分析できていれば、そこを重点的に守ればいいということになる。

全国民を対象にすれば対応医療機関・医療関係者やベッド数の不足だとか休業補償費

(中には休業補償費も出さずに休業要請をしている自治体まであり、後者は何をか況や

というか無茶苦茶以外の何物でもない)だってうんと少なくて済むはずだ。

 ましてや感染者がゼロの県や自治体、また感染者数が1桁の県が全国に倣えで

「自粛」する必要もなくなるだろう。

   (中 略)

4.エビデンスに基づいているのか

   (以下略)

 

  全文はHPに収録、「まぐまぐ」からも配信しているので、そちらでどうぞ

栗野的視点(No.683):「COVID-19」報道に接して感ずるいくつかの疑問 Part2

 

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「COVID-19」報道に接して感ずるいくつかの疑問

栗野的視点(No.682)                   2020年4月27日
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「COVID-19」報道に接して感ずるいくつかの疑問
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 新型コロナウイルス感染症(以下COVID-19)が猛威を振るい、どんどん広がっている--。

いや、猛威を振るい、広がっているのは人間界の対応の方だが。
 このところの報道に接していると、いくつもの疑問が湧いてくる。

以下、それらの疑問を列挙してみたい。

1.「政府専門家会議」の提言に対する疑問

 大体「オンライン」が多すぎる。

全国民がとまでは言わないが大半の国民がオンラインを使える環境にあると思っているのだろうか。

そうそう恵まれた環境にいる人達ばかりではないということに頭が廻らないのだろうか。

 たしかに1つ1つは正しいかもしれない。しかしマクロの視点で見れば「合成の誤謬」ではないか。

 いずれにしろ「10のポイント」などはわざわざ「専門家会議」が言うことなのか。

「専門家」なのだから、もう少し気の利いたことを言って欲しいものだ。

2.「3密」会議の「専門家会議」への疑問

 「3密」を避けろ、人との接触を8割削減しろ、と言っている専門家会議の様子をTVで見ていると、

参加者達の席は2m開いているどころか1mも開いているかどうかの「密接」状態。

 会議をしている部屋にはメンバー以外に記録係等の官僚達も机と椅子を並べていて室内は「密集」状態。

窓だって開いている風には見えなかったから換気もいいとは言えないだろう。

 これって「3密」ではないのだろうか。言っていることと、やっていることが違う気がするけど、なぜ。

3.スーパー入場制限に対する疑問

     (中 略)

4.屋外運動自粛に対する疑問

 不思議なのは各地の公園などが閉鎖していること。例えば岡山の後楽園や香川の栗林公園。

さらに言えば岡山県森林公園までGW明けまで閉鎖になっている。

イベント開催時を除けば、これらの公園が「密集」したのを私は知らない。屋外だから密閉空間ではない。

 「3密」ではないのに閉園する必要があるのか。

それより屋内に籠もっている方が危険だ。戸外に出ず、家に籠もってばかりいればストレスがたまる。

ストレスは免疫力を下げると言われている。免疫力が下がればウイルス等へも感染しやすくなる。

 それを防ぐためには屋外での適度な運動が求められる。

それなのにわざわざ「ジョギングは少人数で」と言うのは皇居周辺のことを指しているのか。

 いずれにしろ屋内に閉じ籠もっているとストレスが高まり、死に結び付くと言われているが、

「専門家会議」の医師達がそのことを知らないはずはない。

 また高齢者の場合、認知症になる、認知症が進む確率が高くなるということも言われている。

5.免疫力アップを言わない疑問

     (中 略)

6.政府のカネの使い方に対する疑問

 今回、政府の対応でもっとも疑問を感じ、納得いかないのはカネの使い方。

「アベノマスク」に要した466億円は壮大な無駄遣いと言っていいが、

なにより問題だと感じるのは対策がすべて受け身の防戦なことだ。

 防戦には受け身一方の防戦と積極的防戦がある。

前者の防戦は退却一辺倒で、最後には尻に帆を掛けて総崩れになる。どうも今それに近い状態になりつつあるように思う。

 一方、後者の積極的な防戦は戦いながら退く戦法。

この場合、重要なのは殿(しんがり)を務める部隊の存在で、ここが強いか弱いかで全軍の帰趨が決まる。

 今回に即して言うなら最前線に踏み止まり戦っているのは医療関係機関、医療関係者である。

ここへの支援を優先的、重点的にすることにより相手の攻撃を防ぎ、国民はひとまず安全な場所まで退き、

残った医学関係者等は総力を挙げて反撃の準備をしなければならない。

 反撃の準備とはSARS-CoV-2の正体を探ることである。

彼を知り己を知らば百戦するも危うからず、という孫子の兵法を持ち出すまでもないだろうが、

まず相手のことを知らなければ有効な対策が打てない。

 データを集め、分析し、情報を共有する。そうしながら抗ウイルス薬、ワクチンの開発に全力で取り組む。

その後押しを国が全力でする。

 要は最前線で戦っている医療機関・関係者への人的、金銭的支援である。

ここに輜重を注ぎ込まなければならないのに、逆に彼らを孤立させている。

やっと遅まきながらも少しそちらに動き始めたが、焼け石に水というか、砂漠に水一滴程の効果もない。

 466億円を初期段階で医療機関・関係者に回し、彼らの活動を支えていれば、ここまで国民が怯え、

退却一辺倒になることもなかったのではないだろうか。

 もう一つ国民が安心できないのは感染者数と死者数の発表ばかりで、内訳の分析がないこと、

後方の医療機関の動きに対する情報が出されないからではないだろうか。

     (以下 略)

  全文はHPに収録、「まぐまぐ」からも配信しているので、そちらでどうぞ

栗野的視点(No.682):「COVID-19」報道に接して感ずるいくつかの疑問

 

 

栗野的視点(No.680)                   2020年4月14日
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「コロナ」一色世界は「合成の誤謬」を生まないか
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外出禁止でDVの増加

     (中 略)

合成の誤謬が起きる

 集団が危機に直面している時、外に敵を求めるのは、いつの時代にも取られてきた手法である。


「巨大な敵が攻めてきており、我々が存亡の危機に瀕している。こんな時に内輪で揉めている場合ではない。

全国民が一致団結して事に当たるべきだ」

「そうだ我々も多少の不自由は我慢すべきだ」

「こんな時に贅沢を言ってはいけない」

「我々にできることがあれば言って欲しい。協力する」

「感染者は隔離しなければならない」

「陽性反応が出ても症状が軽い人間は自宅待機で様子を見て欲しい」

「感染者が全員、病院に来ると医療崩壊を起こす」

 これら1つ1つは正しいし、その通りだと思うに違いない。だが、手放しで喜べないのも事実だ。

 1つは最初の小さな善意も声が集まり大きくなると、どんどんエスカレートしていくことはよく見られる現象で、

やがて自発的な善意が他者への強制へと変化していく。

非協力者は「非国民」と言われ、有形無形の圧力、差別を受けだす構図はなにも日本だけに限ったことではない。

 2つ目は限定的な権力集中が、危機が去った後も居残り続け、それが既成事実として定着していくことだ。

 そして、それらは既に現実のものとなりつつある。

 

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栗野的視点(No.680):「コロナ」一色世界は「合成の誤謬」を生まないか

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法解釈を変更する危険性

栗野的視点(No.678)                   2020年3月18日
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権力者は災害を利用して独裁化を加速させる。
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変質したニッポン社会

  (略)

分断社会が独裁化の土壌

  (略)

 弱者への思いやりを欠いた社会はさらなる差別を生むことは様々な事実が示している。

弱者は他者にやさしくなると思われがちだが、実はその逆で、自分より弱者と

考えられる人を差別し、彼らより優位に立とうとする。

 人は平等な関係が維持されている時は強いリーダーを必要としないが、

社会が階層化されればされる程、強いリーダー=独裁者を受け入れる要素が強くなる。

自らが受けている服従、差別、社会的虐待といったものを、自分より下の階層へ

そのまま転化していくことで自らが受けている事態との間でバランスを取ろうとするからである。

  (略)

法解釈を変更する危険性

 「民主主義」国家では独裁化ははっきりと目に見える形では行われない。

それは一見ソフトな形で行われ、現在、一部の国で見られるような「ハードな独裁」

という形では現れないということは「栗野的視点(No.672)」で既述した通りである。

 ソフトな語り口で笑みを浮かべながら、様々な状況を捉えて巧妙に行われるから

よほど注意しないと騙される。

 世に独裁者と言われた人は最初から独裁者然として現れたわけではない。

最初は民衆の味方として、社会の難題を解決する救世主として、政治の混乱を収めた

名政治家として、新時代の革命児として現れている。

そして権力を掌中にした途端に仮面を脱ぎ捨て、軍を掌握し、国民を監視し、

私権を規制し、自分の思いのままに政治を操り出すのである。

 これは政治の世界に限らず、会社組織を含めたあらゆる組織で共通して見られることである。

 どのような人物であれ、権力の座に長く留まれば独裁化が始まる。

企業でも「中興の祖」と言われた経営者がいたが、ほぼ例外なく長期政権で、

トップの座に長く君臨し続け、人事を思うがままにし、組織を操つり、

陰では「老害」と言われている。

 近年、目に見えるハードな形の独裁を続けた経営者は日産自動車の

ゴーン元会長ぐらいで、これは逆に珍しい存在と言えるだろう。

 さて、この国の政治である。安倍政権は長期政権などと持ち上げられ、

その一方で政権に慢心と緊張感の緩みが目立つと批判されてもいる。

 これこそ独裁化への第一歩。長期政権=国民に支持という図式を作り、

故に何をしても許されると(意図的に)勘違いしてしまうのである。

 例えばこのところの閣僚の国会答弁には耳も目も覆いたくなる。

森法相に至っては本当に壊れたレコードかテープレコーダーのように、

同じことを繰り返し述べるばかりで、聞いていてイライラするが、

結局、言わんとするところは、その当時の解釈と今の解釈は違う。

法律の解釈を現政権に都合よく変え、検事長の定年延長をするということだ。

 法務大臣が法律の解釈を変える、ということを言っているわけで、

これがどれほど重要なことかを当の本人が理解していないところが怖い。

 さらに怖いのはマスメディアがそのことの危険性を声を大にして問題視し、

現政権はおかしいと指摘しないことだ。

 こんな重要なことを通り一遍の記事や報道で済まそうとするならメディアそのものもおかしい。

「ジャーナリズムは死んだ」とは以前にも書いたが、もはやマスメディアに

ジャーナリズムはないと言える。そして、そのことは二重に危険であり、恐ろしい。

 メディアの問題意識の希薄さは後述するとして、検事長の定年延長問題にもう少し触れてみよう。

 これは2つの問題を含んでいる。

1つは法の解釈変更の問題であり、もう1つは三権分立に関わる問題である。

 言うまでもないだろうが三権分立とは立法権、行政権、司法権を独立させ、

三権が1箇所(一人)に集中することによって起こる危険性(独裁化)を防ぐためである。

 司法権が行政を担う時の政権によって侵され、自由に操られるとどうなるか。

検察の独立性はなくなり、政権に不都合な事件は立件されず、与党議員はやりたい放題やれる。

 それは極端で、そんなことはない、と言われるかもしれないが、

司法の独立がなければ田中角栄はロッキード事件で逮捕されることはなかっただろう。

いや、そんな古い話はいい。もし検察トップの人事が政権の思うままに操られたら

「モリカケ」問題など問題にもされなかっただろう。今でさえ手心を加えたように見えるのに、だ。

 政権側が検察を味方に付けたいと思うのはどこも同じで、お隣の国、韓国では

代々、政権と検察の癒着が問題にされてきたため、検察改革を行う目的で

文在寅大統領が法務長官に任命したのがチョ・ググ氏。

ところが身内の不正で家族が逮捕され、チョ氏が就任間もなく辞任に追い込まれたのは

ご存知の通り。文大統領の検察改革は逆に検察組織に返り討ちに遭った形になったが、

見方を変えれば検察は三権分立を守り、政権に忖度しなかったとも言える。

 詰まるところ、三権分立が守られるかどうかは検察が政権と距離を置き、

独立性を保てるかどうかにかかっている。

日本の官僚組織は国を動かしているのは自分達だという自負があり、

政治家に動かされている風を装いながら実は政治家を動かしている面がある。

 それだけ自立心が強く、自分達の組織のルールは自分達が決めるとしてきたわけで、

それが長所でもあったが、安倍政権がそこに手を突っ込んできたから今後、

検察組織はどうするのか。黙って従うのか、それとも司法の独立を守る意地を見せるのか。

 それは組織としての検察の問題だが、これとは別に人の問題がある。

法の解釈を変更してまで定年を延長させられる方はどうするのか。

検察官の意地を見せ従来通りの定年で退官します、と辞める風はないし、

もともと安倍政権寄りと言われている人物だけに、むしろ定年延長に恩義を感じ、

より一層安倍政権に忖度した検察指揮を執るだろう。

 つまり今回の検事長の定年延長問題は

(1)法律は明文化された内容ではなく、政権が自分達に都合よく解釈でき(

2)人事も政権が好きにでき、三権分立は有名無実化されるということだ。

 これこそ独裁国家で見られる特徴である。

過剰に反応する各国リーダー

   (略)

災害が独裁化に利用される

   (略)

 

 

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栗野的視点(No.678):権力者は災害を利用して独裁化を加速させる。

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この国の無責任体質が権力者の独裁化を許していく。

栗野的視点(No.675)                   2020年2月27日
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この国の無責任体質が権力者の独裁化を許していく。
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 一体この国はどうなったのだろうか。頭から腐るというが、まさにその通りで、

組織は上に倣えで、上のやり方を見て下は真似て行くから、上に立つものは

よほどしっかりと自らを律していく必要がある。

横行する公私混同、横領

 ところが、どうだ。国も企業も上が公私混同、私利私欲に走るから、当然のごとく

下は上を見倣い公私混同、公金の横領を行う。接待と称して会社の金で飲み食いする

ぐらいはカワイイもので、経理を任されているのをいいことに馬主になって馬に金を注ぎ込み、

ブランド物を買い漁り、挙句の果てには家まで買ったり豪遊するなど金を湯水のごとく使う。

 いまさら「公僕」という死語を持ち出すつもりはないが、官僚の矜持などどこ吹く風で、

政治家とつるんでスィートルームに泊まりながら、医学の進歩に必要な予算をバッサリ削り、

イケシャアシャアと国会で答弁する女性官僚の姿などを見せられていれば、

あんなのに比べれば自分の横領など大したことないと思っていたかもしれない。

薄っぺらな言葉ばかりが

 「国家の品格」という言葉が流行った時があったが、今、どこを探しても国家に品格などない。

それはこの国だけでなく、世界中どこも同じだろう。

国の「トップ」に品格がないのに、国家に品格が備わるはずがない。

 大体、言葉に重みと真実性がなくなった。

「スピード感を持って取り組む」「丁寧に説明していく」などという言葉は何度耳にしただろうか。

その度に、あっ、今まではスピード感を持って取り組んできてなかったのだとか、

「丁寧」とは「これ以上説明しない」ということと同義語なんだと思い知らされ、

理解させられている。

 最近は「丁寧に説明」すら言わず、「そのことは国会で報告した通りです」で済ませ、

それ以上の説明を拒否する姿勢が目立つ。

 国会で飛ばされるヤジが時々問題になるが、あろうことか政権トップの地位にいる者が

ヤジを飛ばす。それも一度や二度ならず。本来ならヤジを飛ばす与党議員を諫める立場だ。

それが率先してヤジを飛ばす。それも品がないヤジを。

 その彼が得意とするのは「ご飯論法」だそうだ。

「ご飯論法」とは「今朝、朝ご飯を食べましたか」と問われ、朝食にパンは食べたが、

ご飯(米の飯)は食べてないから「ご飯は食べてない」と答え、質問を都合よく

すり替えて答える答弁のことらしい。

 そういえば、かのご仁は質問に対する返答のすり替えが実にうまい。

いや褒めているのではない。皮肉っているというのはお分かりだと思う。

公文書破棄の次は法の身勝手な解釈

公文書の廃棄は独裁化への第一歩である。

記録文書がなければ過去の出来事や歴史は検証できなくなる。

検証は権力者の暴走を防ぐ砦なのだ。


 第一歩があれば、当然、第二歩が続く。では、第二歩は何か--。それは人事である。

 古今東西、人事こそが政権維持の絶対条件であり、自分が思うがままに振る舞える

必要条件である。故に周辺に意のままに動く人物、自らの意思を忖度して実行する人物、

それは多分に恩を着せた人物だったり、お友達だったりするわけだが、

そういう人間を配置しようとする。

 以前から最高裁判事は政権に好意的な人物を据えるということが当たり前のように

行われてきていたが、今回はさらに一歩進めて東京高検の検事長人事を

恣意的に行おうとしている。

 63歳と決められていた検察官の定年を延長し、安倍政権寄りの検事に検事総長就任の

道を開こうというわけだ。

 ここまで露骨な人事は過去に例を見ない。

そこまでして独裁化を進めようとしている理由は何なのか。

 ところが、それに待ったをかけたのが公文書の存在である。

政府の説明に反し、検察官の「定年、特例定年、勤務の延長及び再任用の適用は

除外される」と明記した公文書が残っていたのである。

 こうした文書が廃棄され、残されていなければ、いいように言い換えられ、

定年延長だろうが任用だろうが政権の都合で好き放題にできるということであり、

公文書の保存がいかに大事かということが分かるし、身勝手な法の解釈防止に

公文書の保存が一定の役割を果たしているといえる。

 逆に言えば、そうであるからこそ権力者は不都合な公文書を残したくないわけで、

保管期間を短縮しようと画策もしているわけだ。

 それ故、国民は公文書の保存や法律の改変に対し、もっと注視する必要があるだろう。

蔓延る無責任体質が独裁を許す

   (略)

 

  全文はHPに収録しているので、そちらでどうぞ

 栗野的視点(No.675):この国の無責任体質が権力者の独裁化を許していく。

 

 

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2025年、2030年の社会は?~世界の製造業は半減する

栗野的視点(No.673)                   2020年2月12日
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2025年、2030年の社会は?~世界の製造業は半減する
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 製造業を取り巻く環境は厳しい。特に小零細企業は三重苦に喘ぎ、いつ倒産、廃業してもいい状態にまで追い詰められている。10年後の2030年の話ではない。いま中小企業が直面している状況である。
 では、10年後、20年後にはどうなっているだろうか。結論を先に言えば10年後に弱小零細企業は半数近くまで減少し、30年後には大企業を含めた製造業の約半数が世界から消えているだろう。

高齢化の波が中小製造業を襲う

 なぜ製造業の数は減少していくのか。それは製造業が直面している課題と、取り巻く環境の変化にある。
 まず国内の製造業、中でも中小企業が置かれている状況を見てみよう。彼らが今直面しているのは経営者と従業員の高齢化である。後者は技能の伝承をどうするかという問題にも関係してくるが、一部では熟練工の技術・技能を数値化し機械に置き換えることで熟練工の高齢化に対応しようとしている。

 たしかにこれは現実的だ。今のAIの進化からすれば、5年後には熟練工の技術・技能はAIで可能になるだろう。
 ただ、それで問題が解決されるかというと、そうでもない。AI導入コストの問題がある。AI化にかけた費用を何年でペイするのか、できるのかという費用対効果の問題がある。そのためには経営者の年齢も考慮しなければならないだろう。
 まだ若ければいいだろうが、シルバー世代になっているとAI化にコストをかけてもペイできないということにもなる。

 後継者がいれば話は少し違ってくるかもしれないが、大半の中小企業に未来はない。それが分かっていて後を継ぐ者はいないだろうし、仮に息子や娘がいたとしても彼らはすでに親とは違う道にほとんどが進んでいる。
 では社員の中から後継者をと考えても、負債を背負ってまで引き受ける者がいるかとなると、これまた疑問だ。第一、年齢的にもある程度若く、かつマネジメントができそうな社員がいるかどうか。
 となると残された道は廃業か売却しかない。ただ赤字企業や先の見通しがない企業を買うところはないから、結局、高齢化に直面した多くの中小企業は廃業するしかなくなる。

 中小の製造業が抱える問題はもう1つある。グローバル化で激化している価格競争である。もう浪花節的な義理人情が通用しないのは随分前から分かっていることだが、価格的な選別は年々厳しくなっている。

大手を待っているのは再編の波

   (略)

環境問題が製造業を追い詰める

   (略)

製造小売業も半減する

   (略)

 

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 栗野的視点(No.673):2025年、2030年の社会は?~世界の製造業は半減する

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地名のいわれ、古い地番の確認が防災に役立つ

ここ数年、台風に限らず豪雨による被害が各地で起きている。

岡山県真備町を中心に広範囲に及ぶ水害が発生したのは記憶に新しいところだ。

そこで今回は水と地名の関係について少し考えてみたい。

 私が生まれ育ったのは岡山県北東部の田舎というのは本メルマガでも何度か触れたと思うが、

地名を美作(みまさか)市江見(旧英田郡作東町江見)という。


 実はこの地名に以前から疑問を感じていた。

山間(やまあい)の地で見えるのは山ばかりというか、山に囲まれた小さな盆地で、海や大きな湖沼はない。

それなのに「江見」という地名が付けられているのが不思議だったのだ。

 何が不思議なのかと言えば、「さんずい」が付く文字は水に関係しているからである。

「江」は中国では揚子江など大きな川に対して使われる文字であり、日本でも入江など湖や海で水が陸地に入り込んでいる所を指している。


 それから考えれば「江見」という地名は水に関係する「江」と「見る」という文字から作られており、

「江(川や入江)」を「見る」とは「水の動きを監視する」地域だったことから付けられた地名ではないかと想像される。


 だが、私が知る限り近くに海はおろか大きな湖沼も存在しない。

小さな池はあるが、農業用水の溜め池だから、そんな小さな池の存在で「江」の字が付けられたとは考え難い。

 では、なぜ水に関係する「江」の字が地名に付けられているのか。そのことが私にはずっと謎だった。


 水に関係することで言えば、近くに川があるにはあるが川幅は60m前後。

子供の頃は夏になると、その川で泳いだというか潜って遊んでいたが、

もし、その川が「江」の由来だとすれば、その川を「見る」とはどういうことなのか。

 この程度の川(の水)を監視する必要があるとは思えなかったが、思わぬことから謎が解けた。


 今春、親戚の土地だった隣接地の売却が決まり、土地家屋調査士がやって来て、境界線の立ち合いをすることになった。

いままで家の境界がどうのというようなことには全く関心がなく、そういうことは弟に任せていた。

弟は建設関連の仕事をしていたということもあるが、それ以上に家系とか伝統、しきたりなどに

詳しかった(うるさかった)ので不動産のことは全て任せていた。

 その頃は歳の順に逝くと思っていたから田舎の不動産などに関心はなく、親の代からのものは

全て弟に丸投げで任せていたから地番なんて確認したこともなかった。

第一、土地に地番があるということすら知らなかったくらいだから。

 その弟が先に逝ったものだから、土地家屋調査士の測定に立ち合ったり書類を確認したり

ということが全て私に回ってきた。

そして、その書類ではじめて土地に地番があることを知り、自宅の地番が「江見字打波」になっていると知ったのだ。


 「打波」とは文字通り波打ちの所であり、実家周辺は波打ち際の土地だったと知らされた。

これで「江見」という地名が付いているいわれが分かった。

やはり水に関係していたわけだ。

 ついでにいえば江戸は「入江の門戸」を意味し、徳川家康が駿府から江戸に拠点を移した当時は

寂しい漁村だったようで、湿地や入江を埋め立てて江戸の町が作られた。

つまり江戸、現在の東京は元々湿地帯が多く、また「谷」と付く地名が多いことからも

水害と無縁ではないことが分かる。

 地名のいわれが分かると次々と色んなことが分かってくる。

「打波」というぐらいだから、昔はもっと川幅が広く、水量も多かったのかもしれない。

もしかすると高瀬舟の往来もあったのではないだろうか。

 そう考えていくと「船曳(ふなびき)」という名字の家があったことを思い出した。

私が子供の頃は内科医だったが、船曳という名字は先祖が船を曳く仕事に従事していたことを表している。

 いまのような動力がない時代である。船を川上に移動させるためには川岸から人力で、

あるいは牛馬を使っていたかも分からないが、曳くことを仕事にしていた人達がいたわけで、

その職業の人を船曳きと呼び、やがて船曳姓になったと思われる。

 というわけで実家近くの川は案外大きな川だったのではないかと想像される。

小さな川が波打つとはあまり言わないだろうから。

 ところで、私の実家は昭和30年代と2009年の2回、床上浸水の被害に遭っている。

いずれも支流からの逆流(最近ではバックウオーター現象などと言われているが、無理にカタカナ文字を使う必要はあるまい)によるものである。

 「江見」の町は吉野川と山家川の合流地点になっており、2009年の水害は山家川上流の雨量が多く、

その流れが吉野川にぶつかり、堰き止められた形になった水流が手前の堤防を越えて

町に流れ込むと同時に、吉野川への排水が出来なくなった用水路の水が下から逆流して

町一帯が浸水被害を受けた。

中学時代の同級生は翌朝まで電柱にしがみ付いて難を逃れたと言っていたが、

ここ数年、各地で起きている水害もほとんど同じ形である。

 大水害後に取られる方法は全国大体同じで、堤防の建設と堤防の嵩上げである。

もちろん、これは必要である。

しかし、これは人間と自然が繰り広げるイタチごっこのようなもので、万里の長城のようなものでも

造らない限り、どこかの堤防が崩れて、あるいは堤防を越えて水が襲ってくる。

 堤防の高さにしても1mでいいのか2m必要なのか、何mなら安全と言えるのか分からない。

それに経費の問題がある。

地方の小さな自治体では危険個所すべてに対応することは難しいのが現実だろう。

 だからといって生命を危険にさらせていいのかということになるが、すべてを満足させる解決策はないだろう。

 となると個人でできることは自治体のハザードマップを検討し、早めの避難を心がけるぐらいしかない。

ハザードマップも必ずしも被災箇所と一致しているとは限らないようだから、古い地名や地番を調べ、

サンズイが付く地名の所は水害が起きやすい地域と認識しておくことも必要だろう。

 特に新興住宅地は新しい地名が付けられ「〇〇丁目」に変更され、古い地名が分からなくなっているから注意が必要だろう。

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2025年、2030年の社会は?~世界は独裁化していく

帝国をやめた米国と帝国化に進む中国

 激動の1年という言葉があるが、昨年はまさにそんな年だった。

第2次大戦後生まれの政治家が各国のトップに就いてくると、戦争に対する実感がなく、

戦争を映像で見ながら操作するゲームと同じような感覚なのか、まるで花火でも打ち上げるように

ミサイルを次々と発射する北の若者がいる。

 それでも「彼は友達」と言い、自分も負けじとドローンを飛ばし「敵」司令官を暗殺する

米大統領がいるかと思えば、ポーカーフェイスで、おとなしそうな顔をしながら、

北の若者と同じようにちょっとでも見解が違う人間はスパイ容疑で逮捕・長期拘留をする中国の指導者がいる。

 そうなると身体を鍛えることが大好きなKGB出身の彼も柔道着など着ている時ではないとばかりに

軍服に着替え、いつでもミサイルを飛ばせる準備にかかっている。

 なんともはや危険な時代になったものだと思うのはこちらだけで、「指導者」たる政治家や、

「賢明な」大人達は「今そこにある危機」から目を逸らし、「カネのことと経済発展がいつまで続くか

というおとぎ話」のことにしか関心がないようだ。

 この星が消滅の危機に直面しているというのに、ミヒャエル・エンデの「モモ」も、

ジョージ・オーウェルの「1984年」も読んだことがない彼らは、

相変わらず時間と資源を食い尽くしながら、地球の果てまで経済発展を求めて進もうとしている。

 大国の中で一人遅れてやって来た中国の指導者は今までの遅れを取り戻すべく

全速力に全速力で走れと自国民を焚き付け、不動産バブル崩壊もインフレ危機も何のその、

国土は広いと、沿岸部から内陸部へ、内陸部から山間部へと開発に駆り立てている。

 中国には「愚公(ぐこう)山を移す」という諺があるが、習近平にはそんな呑気で長期的な思考はないらしい。

「時は金なり」とばかりに時間で駆り立て、笛を吹き、踊らされた人々は新幹線を世界最速で

走らせたかと思えば、自動車、スマートフォンで世界を席巻し、

「一帯一路」の呪文でアジアばかりかアフリカにまで進出する始末。

 かつての帝国アメリカはトランプ大統領になって帝国の拡大をやめ、「自国第一」に徹している。

代わりに帝国化を進めているのが中国で、いまやかの国の拡大欲は留まるところをしらないようだ。
 いまでもこれだから2030年にはどうなっていることかと思うが、恐らく1980年代のアメリカと同じ状態、

自国製造業が衰退し、輸入超過で貿易赤字に陥り国力低下という状態になっていることだろう。

 そうなると国内情勢が不安定になり、国内の「反革命」分子の鎮圧に躍起にならざるを得ない。

それが見えているから今の内から「テレスクリーン」を全土に張り巡らせ、

少しでも不穏な動きをする人間は自国民、他国民を問わず「中華人民共和国反間諜法

(日本などでは反スパイ法と呼称されている)」を適用して逮捕、長期拘束を行っている。

 香港人が中国大陸に行ったまま行方不明になったり、香港から突然姿を消し、

数か月後に中国大陸にいることが分かった例は後を絶たないし、数年前から日本国内の大学人が

中国で開催される学術研究会に出席したところ突然、反スパイ法違反容疑で逮捕されたという例も結構ある。

政権による恣意的な解釈で逮捕

 気になるのは「反スパイ法」の内容だが、同法では「スパイ行為」を次のように定義付けている.

 1.国家の安全を害する活動

 2.スパイ組織への参加またはスパイ組織・その代理人の任務の引き受け

 3.国家機密の窃取、探索、買収または不法な提供

 4.国家業務に従事する人員の反旗の扇動、勧誘、買収

 5.攻撃目標の指示

 6.その他スパイ活動を行なうもの

 これらを行ったと見做されれば、即逮捕、拘留されるわけだが、

スパイ行為と定義されている上記の内容自体が実に曖昧である。

 例えば「国家の安全を害する活動」とは具体的にどのような活動を指しているのか、

何が「国家機密」に当たるのか等々が判然としない。

それでいきなり逮捕されたのではたまったものではないが、日本人を含め多くの外国人(欧米人も多い)が逮捕、

拘束されているのはほとんどが身に覚えのない「スパイ活動」によってである。

 もう少し具体的に見て行こう。

私事になるが、日中国交回復5年後の1978年に私が訪中した時のことである。

まだ個人旅行、自由旅行は認められていない時代で、旅行といっても行きたい所に自由に行ったり見たりすることはできない。

 各地の訪問先ではまず中日友好協会に行き挨拶し、お膳立てされた小学校や幼稚園を訪問し、

そこで生徒や園児のかわいい遊戯の歓迎を受けなければならない。

今、北朝鮮に旅行すれば、ほぼ同じような内容になるはずである。

 「中国旅行」というより「訪中」という言葉の響きの方がピッタリな感じがする。

旅行中は現地の通訳が同行するが、もちろん中国共産党員である。

私は旅行中、あることからその通訳に「反中国分子」と睨まれ、マッチを貸して欲しい

(当時、私は喫煙していたので)と頼んだら、マッチをテーブルの上に放り投げてよこされた。

礼儀を重んじる中国社会で、こんな失礼な態度をされることはまずない。

彼は私を「危険分子」と見たのだろう。

それまでは中国事情に詳しい私に親近感を抱き、言葉遣いも丁寧だったのが、この時から態度が一変したのである。

 きっかけは私のある質問が中国共産党の公式見解に疑義を挟むものだったからだ。

それは林彪事件に関するもので「林彪の”人民戦争の勝利万歳”(という著作)は

毛沢東思想に反するものではないと私は思うし、中国でも林彪の行動は別にして、

あの論文自体に対する批判はされてないが、あなたはどう思うか」と雑談の中で彼に尋ねてからだった。

 当時、林彪は反革命分子とされ、「批林批孔(林彪を批判し、孔子を批判する)」運動が行われたあとで、

「林彪は毛首席暗殺を試みた反革命分子」というのが党の公式見解だった。

私の質問はその公式見解に反するものと受け取られたわけだ。

 もう1つの「事件」は武漢で起きた。

私とカメラマン(当時30代)は昼食後の休憩時間を利用してホテルを抜け出し街に繰り出していた。

ところが武漢で突然、警官に警棒を振り回されて文句を言われ、群衆に取り囲まれてしまったのだ。

警官が怒鳴っている言葉は全く分からなかったが、私達の行動のなにかが問題に

されたようだということだけは分かった。

 当時、鄧小平が2度目の失脚から復活した後で、鄧小平の復活を支持するというような

横断幕が通りに張られていた。それを私が写真に撮った行為がどうも問題にされたようだ。

 たしかに出発前、写真撮影に対する注意があった。

まず空港は上空からも飛行場も空港内部も撮影禁止と言われた。

民間専用ではなく軍も利用しているから飛行場は「軍事機密」である。

写真を撮っていると軍事機密を盗もうとしていると見られ逮捕される危険性があるから

絶対にカメラを持ち出すな、と。もちろん軍事施設はすべて撮影禁止である。

 私がカメラを向けたのは軍事施設でも、それらしい場所でもなかったし、解放軍も居なかった。

ごく普通の街の風景で、壁新聞を写したわけでもないし、鄧小平の復活は

すでに世界中に知らされているニュースで、それを歓迎する横断幕を写すことが

「スパイ行為」になるとは思えない。

 だが、私達は警官に激しい剣幕で迫られたのである。

幸い逮捕されることにまでは至らなかったが、これが今だったら間違いなく「スパイ行為」と

断じられ逮捕、拘束されたことだろう。

 「反スパイ法」が怖いのはスパイ活動と断じ、その法律を適用するのは中国当局、

さらにいうなら中国共産党幹部であるという点である。

いくらでも恣意的に解釈、適用される恐れが強いのだ。

 実はこれ、中国や北朝鮮に限ったことではなく、世界のあらゆる国で反対意見を封じ込めるやり方が横行している。

それが巧妙かどうかだけで、巧妙であればあるほど人々はそれに気付かない。

映画は未来を映す鏡

    (略)

独裁者は味方の顔をして現れる

    (略)

「ソフトな独裁」の方が怖い

    (略)

残酷極まりない「鳥取の飢え殺し」

    (略)

歴史は改竄され、「真実」が作られる

    (略)

公文書の廃棄は独裁化の始まり

    (略)

 

  全文はHPに収録しているので、そちらでどうぞ

 栗野的視点(No.672):2025年、2030年の社会は?~世界は独裁化していく

 

 

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辺境の反撃が社会を変える。

 「東京が中心で地方は従」「地方は黙って中央の言う通りに従っていればいい」--。

そんな空気が長い間この国を覆っていた。

それは各県知事の多くが中央官僚出身者で占められていることからも分かる。

知事は中央からの派遣と同じなのだ。

 地方を中央に従わせているもう一つの側面は「カネ」である。

様々な名目のカネが中央から地方へ流されている。

財政難の地方は、中央から流れてくるカネを当てにしなければならない。

言うならばカネの力で地方を従わせているわけだ。

辺境が動く時、時代が動く

 その関係にこのところ変化が起き始めた。

いくらカネを積まれても「ノー」と地方が言い始めたのだ。

原発事故後の東北がそうだし、沖縄は象徴的だった。

「所詮はカネ目でしょ」と考えていた中央の「常識」が外れた。

翁長氏が前知事を破り当選した当時はまだそれでもそのうち何とかなると考えていたかもしれない。

だが、その後の頑強な抵抗に遭い、中央政府は考えを少し改めざるを得ないかもと考え始めたようだが、現実には何も変わらなかった。

 しかし、翁長前知事急逝の後を受けた選挙で中央政府が推した候補が敗れ続けるに至って「カネ目」ではなく、地方の反乱だと思い知らされたに違いない。

 それでも中央に対する反乱がオキナワに留まっている限り、中央はまだ安心していられた。

それは1辺境で起きている「特異な」例でしかなかったからだ。

あるいは彼らの口を突いて出る言葉とは裏腹にオキナワを異境の地と、どこかで捉えているのかもしれない。

 だが、ここに来て、辺境からの反撃の狼煙はオキナワを越え、列島のあちこちで上がり始めている。

 「辺境」とは中央から遠く離れた地理的な地方を指しているのではない。

中央の政策が届かない、中央から見捨てられた場所、コト、人などマイノリティーな存在を意味している。

 時代の変革期に主役を演じたのはいつも辺境だった。

武家が公家社会に反乱を起こしたのは中央の公家社会から遠く離れた辺境の地、鎌倉だったし、

幕末の変革期に主役を演じたのは、これまた江戸中央政府から遠く離れた九州の最南端に位置する薩摩や、

江戸中央政府からは辺境と見られていた長州や四国・宇和島、土佐の下級武士、いわゆる辺境の者達だった。

さらに言えば、後に新撰組と言われた浪士隊や長州の奇兵隊に集まった者達も武士階級ではなく、

当時の社会構造から弾き飛ばされた、あるいはそれらとは関係ない所で蠢(うごめ)いていた辺境の者達である。

 絶対的な権力を握り歴史を作っているのは中央政府である。それは洋の東西を問わず同じである。

だが、生が死を内包し、成長が滅亡を内包しながら拡大していくように、平家やローマの滅亡を例にとるまでもなく、

絶頂期を境に両者の位置が逆転していくと歴史は教えている。

そして変革の狼煙は必ず辺境から上がっているのだ。

長崎新幹線は求めていない

 

リニア新幹線建設と水量減少問題

 

辺境からの反撃が政治を変える

 

世界各地で起きている辺境の反逆

 

 全文はHPに収録しているので下記から

  http://www.liaison-q.com/kurino/fromHenkyou1.html

 

 

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多発するあおり運転とカーフェイスの関係

 車が怒っている! どの車も目をつり上げている。なかには顔をフェイスマスクで覆い、まるで鎧武者さながらに他を威嚇している車まである。かつては円らな瞳をしたカワイイ車が多かったのに、いまでは軽自動車でさえ目をつり上げた睨み顔に変わっている。
 なぜ怒っているのか。何に怒っているのか--。

コワモテ顔の車が激増

 車のヘッドライトが他を威嚇するつり目になってきたことに少し前から違和感を感じていた。最近は若者も高齢者も皆、なぜかイラついている。だが車までイラつき、怒ることはないだろう。
 目をつり上げているだけならまだましで、ミニバンに至っては「オラオラ顔」をし、そこどけそこどけと他を威嚇しながら走っている。これでは事故も増えるはずだ。その顔からは譲り合いの気持ちなど微塵も感じられないのだから。当然、そんな車に乗っている人も同じ気持ちになり、ちょっとしたことで「俺の進路を邪魔した」と怒り、あおってくる。

 

オラオラ顔が売れる

 「オラオラ顔」をした車が後ろから迫ってくると気持ちが悪いが、「オラオラ顔」をしたミニバンの方がよく売れているらしい。

 デザインだけで車が売れるはずはないだろうが、売れ行きにデザインが大きく関係しているのは他の商品同様に事実だ。
 商品は市場に初めて登場した頃は機能で売れ、しばらく機能競争が続くが、成熟段階に入るとデザインが優先される。

付加より「省く」技術で

 

 システムは複雑になればなるほど事故を防ぐどころか逆に大惨事を招く。「Simple is best」。

それをある部分で証明する動きが今年、アメリカ海軍で起きている。1年前、駆逐艦に装備されたタッチスクリーン式のインターフェースを廃止し、従来の機械式コントロールに

 

  全文はHPに収録

   http://www.liaison-q.com/kurino/Carface1.html

 

 

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