栗野的視点(Kurino's viewpoint)

中小企業の活性化をテーマに講演・取材・執筆を続けている栗野 良の経営・流通・社会・ベンチャー評論。

列車内で垣間見た光景に思う。

2015-12-31 11:45:28 | 視点
 最近、列車に乗ることがめっきり減った。理由は車での移動が増えたからだが、先日、久し振りに列車、電車、地下鉄に乗って移動したので、いつもの癖で社内を見回し人間観察。
 まず驚いたのが読書。昔は(10年一昔として二昔ほどか)車内で漫画本を読むサラリーマンが話題になったが、今はスマホ。見渡す限り皆、手元しか見つめていない。これは予想通りだったが、気になるのは見ている画面。一体何を見ているのか以前から気になっていたが、他人の手元を無遠慮に覗き込むわけにはいかない。そんなことをすれば「変なおじさん」と通報されかねない。そこでそれとなく見回してみる。
 早い話、見ない振りをしながら見るわけだが、指の動きを見れば案外分かる。指を上下に動かしているのは雑誌のパラパラめくりと同じ。頻繁に指をあちこち動かしているのはメール操作だろう。たまに画面を盗み見(?)ではなく、偶然目に入るとゲーム。ケータイ時代に多かったイヤホンで音楽を聞いている人はかなり少なくなった気がしたが、どうだろうか。

 そんなわけで読書などする人間はいないだろうと思っていたが、案に相違して1車両に3、4人いた。中には新聞を広げている人もいて、この光景には正直懐かしさを感じた。もちろん新聞を読んでいたのは中年のおじさんだったが、読書をしている人の中には若い人もいたし、そのうちの1人はテキストらしきものを広げて勉強していた。
 数は圧倒的に少ないとはいえ、まだ読書をする若い人もいるということに驚いたというか妙にホッとした。

 京都から神戸に向かったのが月曜日の朝という時間帯だったため満席で、こちらは立ったままだったが、自分が降りる駅になっても列車が駅に着いて扉が開くまで席を立たない若者(特に女性)が多いことにも驚いた。
 気が利く人なら駅に着く前に席を離れ他の人に譲るものだが、少しでも座っていなければ損とでも思っているのか、降りる素振りすら見せず、扉が開いた途端に突然立ち上がり人を押しのけるように降りていく。こういう芸当はちょっとできないなと腹立たしいやら、動作が遅くなった我が身を振り返り少し情けないやら。なんとも表現し難い気分に襲われた。

 もちろんすべてこういう人ばかりではない。席が一つ空いたので、そちらに移動して座るか、それとももう少し立ったままでいるかなどとぼんやり考えながら、空いた席の方を見ていると、その近くにいた男性が腰を下ろしかけた瞬間、私と目が合い、腰を再び伸ばして立ち上がったのはちょっと気の毒だった。
 察するに彼は年配の私を差し置いて、自分が座ることを恥じたのだろう。咎めるような目で私が彼を見つめたわけではないと思ったが。
 ああ、40歳前後の人にはまだそういう意識が残っているのだと感心していると、空いた席にずっと背を向けてスマホの画面を見ていた女性が、一度も後ろを確認することなく、そのままの姿勢で1、2歩下がって腰掛けたのには驚くというより、その芸術的な動きに感心した。歳は30代後半。
 こういう光景を目にすると、「道徳」教育を復活しろと叫びたくなる気持ちも理解できる。ただ、それを言う人達がマナーを守っているのかと言えば、これまたかなり疑問符が付く。自分がマナー破りをしていて、人にのみ求めるのはどうもね。
 さて、はて、日本人はどこに向かっているのか、どこに行くのか--。


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援けを待っている人がいます。善意の志を届けませんか。

2015-12-26 11:54:19 | 視点
 いよいよ今年も残すところ数日になりました。
大過なく無事に過ごせたことを感謝する一方、目を世界に向ければ住む場所すら奪われ、食べる物もなく困っている人も大勢います。
 フランスは今年、スーパーマーケットの食品廃棄処理を禁止し、売れ残りの食品を慈善団体に寄付するか肥料、飼料として転用することを義務付ける法案を成立させました。
飽食日本ではスーパー、コンビニから大量の食品が廃棄処分にされています。賞味期限が近いという理由だけでです。
あまりにもモッタイナイ話です。
もちろん中にはそれらをフードバンク等に寄付している企業もあります。
そうした行為でどれだけの人が助かっていることか。
できるだけこうした活動を広げていきたいものです。

 個人的には極々わずかばかりの金額を慈善団体に送るよう心がけています。
私が寄付をしているのは「国境なき医師団」と、ホームレス支援団体です。
もし同じような気持ちをお持ちの方がいらっしゃれば善意の志を届けてみませんか。

 「国境なき医師団」の活動はご存知だと思いますが(ご存じでない方は同組織のHP、http://www.msf.or.jp/を)、時には銃弾が飛び交う戦地で文字通り命をかけて、医療支援を待つ人達のために活動している組織です。
 先頃、米軍の誤爆で支援活動をしている彼らが犠牲になったことはご存知と思います。

 医療関係者でない私は現地に赴いて活動することはできないが、少しでも彼らの活動に協力できないかと考え、極々わずかばかりの金額を、それも一度にできず、年数回に分けて送り続けています。
 今年はもう少し有志を募りたいと考え、「チャリティ忘年会」を呼びかけたところ、 ”世界中で、これだけ紛争が起こると「国境なき医師団」の存在感が注目されるところです。微力ながらご協力出来れば幸いです”(Aさん)
 と即座に参加申し込みをいただいたり、

 ”その日は上海ですので忘年会に参加することが叶いません。その代わりに気持ち程度ですが、寄付金をお送りさせて頂きたい”(Iさん)

 ”「国境なき医師団」の献身的活躍は、崇高な行為で、チャリティー忘年会へ参加したいところですが、現在、化粧品のOEM製造の依頼で、休日なしで働いているところです。寄付金を送ることで、ご容赦願いたい”(Wさん)

 などという声が上がりました。やはり善意の志を持った人は多いのだと多少気をよくしたところです。


 もし、「国境なき医師団」の活動を支えたいとお考えの方は善意の志を同組織に直接、届けませんか。
 寄付はネットからでもできるようです。

「国境なき医師団」 http://www.msf.or.jp/


       ◇       ◇

 また、年末に路上で過ごさなければならない人達もいます。
ホームレスの人達ですが、食事や医療提供などで彼らを献身的に支えている組織もあります。
 私が会員(会費2000円)になっているのは福岡市博多区美野島にあるNPO法人「美野島めぐみの家」です。
 キリスト教の教会を毎週火曜日だけ借りて、炊き出し、食事、衣料その他を提供しています。
 ここの活動を知ってから、私も会員になり、コート等の中古衣料やタオル、アルミ缶を時々持参しています。
アルミ缶は結構金になるようです。
 食材はコストコがパンを、グリーンコープが野菜その他を毎週提供してくれているようです。


「美野島めぐみの家」 http://www.megumihome.sakura.ne.jp
  福岡市博多区美野島2-5-31
  tel 080-6439-3294(瀬戸さん)

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「2代目がキーになる」~読者から届いたコメント

2015-12-17 10:22:08 | 視点
 今回は、前号の「拡大資本主義はどこへ向かうのか」に対して読者から寄せ
られたコメントをお届けします。

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栗野様
お世話になります。

3代目がネックと言う話は身につまされます。
そのことは自分の身の回りで起きてるのを眺めての感想ですが2代目がキーになっ
てないかなと私は感じてます。

1代目は創業期社長で知恵と運で大きくし、その知恵で2代目を見つける(または継
がせる)。

2代目は成長または安定期社長で1代目の目も届きなんとか1代目の事業を継続させ
る。

この2代目社長が見つける(または継がせる)のが3代目社長なので3代目ネックの
キーが始まっている。

3代目が活躍する頃は1代目と時代が違うので2代目が1代目から教わった事業(商品)
自体が衰退期になっているが2代目は自分の経験から3代目に目を届かせ指導するの
で時代にそぐわない。

思うに3代目は時代を感じ、1代目2代目とは違う進路をとる社長であると理想かな
と思います。

すると2代目社長が次を検討する際に1代目とは違うことが出来る3代目を探せるか
がキーと言う理論が今の自分の感想です。


                    SuperITコンサルタント 平田


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 平田さん、
「2代目がキー」というのは重要な指摘ですね。
その視点をいままで少し見落としていました。
ありがとうございました。

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拡大資本主義はどこへ向かうのか。

2015-12-15 10:13:48 | 視点
 我々はどこから来て、どこへ行くのか--。

東芝の不正会計(粉飾決算?)に始まり、タカタの欠陥エアーバック問題、
旭化成建材による杭打ちデータの改ざん(その後、旭化成建材にとどまらず
業界全体へと拡大)と日本を代表する大企業の不正問題が次々に明らかに
なっただけでなく、ドイツを代表する自動車メーカー、フォルクスワーゲン
(VW)も排ガス規制逃れのためにソフトを改ざんするなど、今年に入って
世界的な大企業が次々問題を起こしている。

 いずれも業界を代表する大企業。
本来なら業界他社の模範にならなければいけない立場だ。
それが不正を働いていたのだから呆れてものが言えない。
企業倫理も地に落ちたものだ。

タカタ、旭化成建材は存亡の淵に

 これらの企業はいずれ高い代償を払わされることになるだろうが、タカタ、
旭化成建材は存亡の危機に立たされるかもしれない。
はっきり言えば数年を待たずに消滅しているのではないだろうか。

 存続できているかどうかはひとえに資金力にかかっている。
タカタはホンダ車とともに伸びてきたと言っても過言ではない。
ところが、そのホンダが今後発売する新モデル車にタカタ製の主要部品を使用
したエアバッグを使用しない方針を表明(11月3日発表)しただけにとどまらず、
三菱自動車、富士重工業、マツダもホンダとほぼ同じ対応を表明している。
11月23日には米フォードも同様の方針を発表。

 タカタにとってこれは非常に大きな意味を持っている

 フォルクスワーゲンも大きく信頼を失墜したが、タカタの場合と違う

 では、900億円もの営業赤字を出した東芝はどうか。

 それにしてもなぜ大企業で、こうも問題が発生するのか。
大企業に何が起こっているのか。
なぜ今なのか。なぜそうなるのか。
企業とは一体何なのか。
企業はどこに向かっているのか。どこに行くのか--。

           (中 略)

ゴーギャンの疑問と予見

 「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」
という言葉自体がキリスト教と無縁ではなく、「ヨハネによる福音」の次の言葉に
対するアンチ、あるいは皮肉を込めたものと思われる。

「たとえ私(イエス)が自分について証しをするとしても、その証しは真実である。
自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、私は知っているからだ。
しかし、あなたたちは、私がどこから来てどこへ行くのか、知らない」

           (中 略)

グローバル競争と拡大主義

 それにしても、なぜ、大企業は道を誤るのか。弱小零細企業は真面目に頑張っているというのに。
 背景にあるのは市場のグローバル化と拡大資本主義

           (以下 略)

 <余談>
 「我々は遠くから来て、遠くへ行くのだ・・・」は織田信長によって八つ裂きの刑に
処せられる「影丸」が最後に無声伝心の法で森蘭丸に伝えた言葉である。
 この言葉、白土三平氏がイタリア共産党のトリアッティの言葉を利用したものだ
という説があるが、ゴーギャンの言葉からヒントを得たと氏自身から聞いたという説があり、
出所ははっきりしない。

 タカタの会長兼社長の高田重久氏は3代目である。
「3代目が身上潰す」とは昔からよく言われてきたことだし、
「栗野的視点」で「会長兼社長」の権力独り占めの危険性についても過去何度か触れてきた。
タカタがそうならないことを願うが、多くの企業(中小零細も含め)にとって
対岸の火事ではなく、他山の石とすべきことだろう。


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「積読 収集」~読者から寄せられたコメント

2015-12-05 10:59:08 | 視点
 栗野さんのように、じっくり本を読みこむことができないタイプなのですが、突然ある事象や出来事にこだわってその関係の本ばかり集めながら読み飛ばしています。

 ポーランド旅行に関してはホローコストやアウシュビッツの関連の本、1月の上海旅行の後には、伴野朗の上海関連推理小説から文革の歴史物さらに江青の自伝そして毛沢東の回想録へと中古本を漁りました。

 今の習近平も江沢民達と昔のように、自己保身とヘゲモニー争いをしていると思うと、いろいろ起こっている出来事の裏を分析したくなります。

まさに遅れてきた青年よろしく、自分の過ごした時代を今頃振り返り、ああそうだったのかと妙な納得をしています。
文化大革命の前後の毛沢東を取り巻く劉少奇と4人組・そして林彪の謀反や?小平の失脚と復活を見るとまさに階級闘争というよりは、個人の権力闘争/覇権争いの凄まじさに唖然とします。
とりわけ江青のすごさと様々な手管には、恐怖すら感じました。

 意外と江青の自伝は少なく、古本漁りでようやく入手しましたが、これもよいしょの自伝(上海の紅いバラ)と批判的なものと二つあるようです。

未だにおそらく、中国の政治の本質は変わっていないのではないかと思っていますが、そうすると今、腐敗防止でやり玉に挙げられている連中も政敵の追い落としに過ぎず、天津の爆発も江沢民の反撃ではないかとも思いたくなります。

 真実は、時の権力者の影響が及ばなくなった時にしか明らかにされないのでしょう。
それを思えば、マスコミに圧力をかけてきたどこぞの政府も危険極まりないものです。

 アウシュビッツに関しては、本当に強烈(現地の印象だけでなく)だったので、また改めてお話させていただきます。

                             中原

  ---------------------------------------------------------

中原様、お久し振りです。

 私は中国現代史に関してはかなり知っているつもりでしたが、中原さんの読書量を知ると、私の「知っているつもり」は自己満足だったような気がします。

 「歴史の真実」が明かされるのに必要な年数は大体30年ではないかと思っています。今後は秘密保護法の影響などで、さらに年数が必要になりそうですが。

 中国文革期のことを表に出しだしたのはほぼ例外なく亡命中国人ですから、まだまだ中国国内では明らかにならないでしょうね。

 私が資料的価値も高いと考えているのは高文謙著「周恩来秘録」です。これを読み、ある部分では周恩来像が一変しました。それと同時に毛沢東の政敵に対するしつこさも思い知らされました。

 それよりなにより感心するのが、彼ら亡命者の記憶力と言うか、資料の持ち出し方です。

 私など元々記憶力はよくない方ですが、この頃ますます記憶力が落ち、親父が晩年「この頃本を読んでもあまり頭に入らない」とこぼしていたのを思い出します。段々、その年に近づいてきました。



エディー・バウアー・ジャパン

繰り返し同じ夢を見るのは

2015-12-03 15:03:48 | 視点
 いつの頃からだろう、夢を見なくなったのは--。40代までは、よく夢を見ていた。夢といっても、いわゆる「ドリーム」ではない。寝ている時に見る夢だ。
 見る夢はいつも同じで、2種類。なぜ、こんな夢を見るのか、どういう心理状態の時に見るのか分からなかったが、何度も繰り返し見ていた記憶がある。特に30、40代頃に。
 最初は皺くちゃの紙のようなものが見え、やがて皺が伸びて、紙のように見えるものがピーンと平らになっていくのだが、その過程がとても気持ち悪いというか、眩暈にも似たような感覚を覚え、吐きたいような気分になり、目が覚める。
 何度も何度も、繰り返し見るものだから、身体の異常かと思ったが、取り敢えず夢分析を行ってみた。まず、夢を見る前数日から1週間程の行動、心理状態を振り返って考えたが、これといって思い当たるものは見当たらなかった。

皺がなくなる恐怖

 それでは紙のように見えるものは何なのか。なぜ、皺くちゃで現れ、やがて皺がなくなっていくのか。それは何を表しているのか、それとも何かを象徴しているのだろうか、と考えていくうちに、あることに気付いた。
 皺がある状態とない状態では明らかに後者の状態、つまり皺がなくなっていく状態に非常に不安を覚えているわけで、その不安が常に私の精神(こころ)を襲っていた。皺がなくなり、のっぺらぼうの様になることを私は極度に恐れていたのだ。

 抑圧となって私の精神を襲っている原因さえ分かれば、恐らく精神は解放され、嫌な夢からも解放されるに違いない。
 しかし、そこまで分かっても、その先が分からない。皺が何を象徴し、紙のように見えるものは何なのかが分からないのだ。だが、ある時、これは自分自身の脳みそではないか、夢の中で自分の脳を見ているのではないかと気づいた。
 紙のように見えたものは脳みそであり、最初は脳に一杯皺があったが、皺がなくなっていく。つまり自分がバカになっていくわけで、これは私にとって恐怖以外の何物でもなかった。
 その頃なぜそれ程自分がバカになることを恐れていたのか分からない。知的欲求に飢えていたわけでも、精神的満足感が得られない環境にイラついていたわけでもなかったはずなのに。

 当時、懇意に付き合っていた友人に九州大学理学部教授がいった。私より8歳年上だったが、まるで同年配のような付き合いをしていたというか、魂が乾いてくるとどちらからともなく誘い合い、喫茶店で、スナックで、時間を忘れて話し合った。魂の餓え(かつえ)を癒すように、文学から社会、政治、時には彼の専門の大気物理の問題まで幅広く話し合ったものだ。
 だから知的欲求、精神的充足感はある程度満たされていたはずだが、もっともっとと餓えていたのかもしれない。その思いが脳の皺が減っていくという形で夢に現れたのだろう。
 無二の友人、話し相手の彼が肝臓がんで他界して20年近く。以来、魂の渇きを癒す相手はいなくなった。そしていつの間にか皺がなくなる夢を見ることはなくなった。

足が動かなくなる恐怖

 もう一つは足が動かなくなる夢だ。最初は軽快に歩いているのだが、やがて何かに追いかけられている感じがし、必死に足を前に動かそうとするのだが、足は重りを引きずっているように重くなり動かない。それでも両手で持ち上げ、なんとか歩を進めようとするが重くて重くて・・・。
 何かが追って来ているようにも思えるが、相手の姿を見る前にというか、何かに捕まれそうになる直前に目が覚めるから、まだ相手の正体は見ていない。

 一体、この夢は何を暗示しているのか、何を象徴しているのか。精神を抑圧しているものは何なのかが分からない。分からないから今でも時々この夢に悩まされている。
 現実的な答えは膝痛。腰痛は持病のようになっており、長年これに苦しめられ、整骨院とも何十年という付き合いになるが、どこに行っても一向に治らない。歩かないと腰や膝が痛くなる。かと言って歩き過ぎると(せいぜい8000歩程度で)翌日足腰が痛む。骨盤の歪みから来ているのではないか、というのは長年整骨院と付き合ってきた自己診断で半ば当たっていると思っているが、最近はマッサージ中心の整骨院ばかりで、対症療法みたいなものだから一向によくならない。デスクワークを止めるのが一番なのだが・・・、。
 もしかすると膝痛で脚が動かなくなることを恐れ、それが精神的抑圧になっているのかもしれないが、フロイト流に言えば夢が象徴していることはもう少し違うようだ。

 いずれにしろ何かから逃れようとしている、何かに追いかけられていると精神が感じているのは事実だろう。最初の夢は脳の皺であり、知的欲求に飢えていることが原因だと、無意識の意識化はできた。
 だが後者の夢の無意識の意識化はまだできていない。できていないから今後も恐らく同じ夢を見続けることだろう。精神(こころ)の断捨離が必要なのかもしれない。