栗野的視点(Kurino's viewpoint)

中小企業の活性化をテーマに講演・取材・執筆を続けている栗野 良の経営・流通・社会・ベンチャー評論。

三菱自動車が消える日

2016-05-12 17:51:06 | 視点
 三菱自動車が存続の危機に直面しているーー。

同社は過去何度か経営の危機に陥ったことがあるが、その度にダイヤモンドマークを冠した三菱グループに助けられてきた。
だが、今回はどうか。柳の下にドジョウはまだいるかどうか。
答えはノーだ。市場から三菱自動車の名前が消える日はそう遠くないだろう。

三菱自動車の問題体質


ユーザー視点がない三菱自


今後、一気に進むか業界再編成


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欲で変わる「二度目の仕事」~作品に垣間見える作家の人生(2)

2016-05-09 22:13:15 | 視点
書き手の人生が垣間見える

 言葉は思考である--かねがねそう考えている。
同じ言葉でも喋っている言葉より書いている言葉(文章)の方が相手のことがよく分かる。
それは時に人格や性格さえも窺わせる。
これが小説等になると登場人物に対する書き手の感情までが見えてくる(ことがある)。
それ故に引き込まれるように読み進んで行ったり、逆に途中で投げ出したくなるものもある。

 瀬戸内晴美の「美は乱調にあり」は後者に近い本だった。最初に断っておくが、ここで言っているのは瀬戸内寂聴氏のことではない。まだ寂聴になる前の瀬戸内晴美が書いた文章である。
 彼女が「美は乱調にあり」で大杉栄と関わる伊藤野枝の半生を書いたのは44歳の時。
当時、彼女は伝記小説と言われる分野ではすでに「田村俊子」「かの子繚乱」を書いていたが、「美は乱調にあり」は書き出しからして少し変わっていた。少し変わっていたというのは、一般的な伝記小説には見られない、執筆時の現代の取材過程に触れる所から入っているからだ。

 それはさておき、作者は小説の主人公にあまり好意的な印象を持っていないように感じ取れた。
中にはそうした小説もあるが、途中から主人公への愛が感じられるようになるものが多い。
だが、この作品に限って言えば、一貫して伊藤野枝への軽蔑、嫌悪感が作者に巣くっているようで、それが読者である私の心を苛立たせた。
 こういう場合は大概、途中で読むのをやめ放り出すのだが、それもなく読み終えたのは伊藤野枝への関心の方が勝ったからかもしれない。

 例えば書き出しに近い部分で伊藤野枝について次のように書いている。
「彼女の幼稚な詩や、固い文書で綴られた主観的な感想文や、小説以前の『小説らしきもの』に、何の魅力を感じることもなかった」
 「どうひいき目に見ても(略)野枝の文学的才能は大成したとはいえない。後には小説も翻訳も評論も一応ものしているし、文筆で結構稼いでいるけれども、彼女を一人前の作家と呼ぶには最後まであまりにお粗末な作品しか残していない」

 こうした手厳しい表現は最後まで緩むことがないが、手厳しいのは伊藤野枝の才能に対してだけではない。
むしろ、その生き方、大杉栄をめぐる三角四角関係を嫌悪している作者を感じる。
それは潔癖症から来る嫌悪感というものではない。むしろ自分と同じものを見る嫌悪感である。

 小説には作者の主観が入り込み、それが登場人物に反映される。時には色濃く、時にはさり気なく。
そういう意味では「美は乱調にあり」の伊藤野枝は瀬戸内晴美そのものである。
彼女がこれを執筆している当時、彼女自身が野枝と同じような生活を送っていた。
激しい不倫関係、三角関係の中に身を置きながら、執筆していたのである。
その思いが、自分に似た野枝の文学的才能や男との関係に厳しい目を向けさせていたのではないか。
その後、作家、瀬戸内晴美が出した結論は出家して男断ちをすることだった。

 両著ともに30~40年前に書かれた作品である。だからこそ、その後の作者の人生と照らし合わせて面白い(失礼)。
猪瀬直樹、瀬戸内晴美両氏の「二度目の仕事」はかなり対極に位置したように感じられる。

 前者は「二度目の仕事」をしなければ文壇でさらに高い評価を得ていたに違いない。
たしかに物書きで得られる収入は「二度目の仕事」で得られた収入に比べるとはるかに少なかったかもしれない。
 杉田女史は「欲もあるわね。物欲、案外深いでしょ」と忠告したが、彼にあったのは物欲というより名誉欲ではなかったか。それとも両方だろうか。
物欲、名誉欲を持つこと自体は悪いことではない。
問題は「分を知る」かどうかで、そのことを彼はかつてヒーローだった人たちのその後の人生をインタビューすることで明らかにしてきたはずだが、人間やはり自分のことは見えなくなるものらしい。それだけに「足るを知る」ことが大事だろう。

 後者は仏門に帰依することでそれまでの愛欲の生活に別れを告げ、物質的には質素でも精神の充足を感じる生活を送り、より人々に知られる存在になっている。

 人間は欲深いもので、一つ手に入れればもう一つ欲しがり、それが手に入ればさらに欲しくなる。かくして欲は際限なく膨らみ続ける。
強欲資本主義と言われる所以だ。バブル経済が崩壊しても、ブラックマンデーに襲われても、喉元過ぎれば何とやらで、しばらくすればまた欲しがる。

 我々は一体どこへ行くのか、どこへ行こうとしているのかーー。







欲で変わる「二度目の仕事」~作品に垣間見える作家の人生(1)

2016-05-08 21:32:59 | 視点
 このところPCから距離を置いている。理由は前回触れたが、代わりに増えたのが手紙とタブレット。お陰でタブレットの長所、短所も分かってきた。
 前回触れたようにPCに比べればまだ入力に時間はかかるがフリック入力で文章も結構書けるようにもなったのは大きな収穫だった。

電子書籍をタブレット、スマホで読む

 もう一つの変化は電子ブックを読み出したこと。
いままでタブレット、いわんやスマホで本など読めるものかと考えていたが、これまた食わず嫌いだったようで試しに読んでみると結構読みやすく、遅読の私にしてみれば珍しく短期間で1冊読み上げた。

 読んだのは「下町ロケット」。きっかけはソニークラブから届いたポイント案内。それにはポイントの失効期限と、電子書籍で使えるポイント数が表示されていた。せっかくのポイントをムダにするのもと思い、取り敢えずポイント内で購読できる本を2冊購入。その1冊が「下町ロケット」で、もう1冊は浅田次郎の「柘榴坂の仇討」。

 言うまでもないが、いずれも小説。線を引きながら読んだり付箋を貼る必要がないから電子ブックでもいいだろう、どうせ無料だしと軽い気持ちで購入した。

 結果は当初予想した以上に読みやすく、「はまった」。
とはいえ10.1インチタブレットでは単行本を読む感覚に近く、どこでも気軽に読むというわけにはいかないから私の読み方には不向きだった。

 ピッタリなのは7インチサイズのタブレットだが、こちらは手放したので5インチサイズのスマホで読んだ。サイズ的にもちょうど文庫本を読む感覚で、就寝前の一時、スマホで読み進めた。続いて「柘榴坂の仇討」。こちらは短編なのですぐ読み終えた。

多才が故に落ちる罠

 で、さらに次に、は行かない。
ここで紙の本に戻ってしまった。
理由はない。ただ手持ちの文庫本も読んでおかなければと思っただけで、何冊か書棚から取り出した中で、猪瀬直樹の「日本凡人伝 二度目の仕事」を読むことにした。

 猪瀬直樹氏についてはいまさら説明の必要はないだろうが、先の東京都知事である。だが、それは彼の「二度目の仕事」で本来は作家。それもノンフィクションを中心とする作家である。なまじ政治に色気を示したばかりに晩節(?)を汚したが。

 こういう経歴を知りながら「二度目の仕事」を読むと実に面白い。
内容はインタビューで構成されており、最初の仕事で注目を浴びた人の、その後(現在の仕事)についてインタビューしているわけだが、なかなか突っ込みが鋭い。
よくそういうことを聞くよな、という質問もあるが、彼のインタビュアーとしての才能は素晴らしく、なまじ政治の世界に近付きさえしなければと、他人事ながら思ってしまう。

 好事、魔多しとはよく言ったものだ。足るを知っていればと思うが、他人のことは見えても自分のことは見えないものだ。人の欲望は際限ない。

 文中でそれらしきことにも触れている(指摘されている)のに、いざ自分のこととなるとやはり先人と同じ失敗をしてしまうようだ。

 ちょっと引用してみよう。その項のタイトルは「占い師--婦人国会議員第一号 杉田馨子(けいこ)女史の戦後民主主義の方角」

 杉田 あなた、財運はあるわね。
 猪瀬 そうお! おカネ貯まる、ハハハ。
 杉田 貯まるっていうよりもね、ウフフッ、遺産をもらう可能性のある星なのね。
 猪瀬 ハッハッハッ。あんまりカンケイないけどな。
 杉田 わかんないわよ。だってねえ、遺産たって親の遺産とは限らないのよ。
 (中略)
 杉田 欲もあるわね。物欲、案外深いでしょ。
 猪瀬 ない、ない。
 杉田 でも出てんのよ。ま、とりあえず注意するってことは、あまり手を広げないことね。現状を充実させるようにつとめることね。それから、そうですね、東南とか東北ね、あなたが寝泊まりしてるところからの。そこからのいろいろなうまい話を持ってくる人があるでしょ。初めての対人関係は注意すること。

 上記インタビューが行われたのは1983年11月だから、いまから32年余り前。当たるも八卦当たらぬも八卦の世界だからと一笑に付すこともできるが、果たして杉田女史は見抜いていたのだろうか。とりわけ「あまり手を広げないことね」という女史の指摘は、その後の彼の人生を見ていると諫言だったように思えるが・・・。

 このインタビュー中、彼は二度に渡って自分に女難の相があるか尋ねているから、当時から色気はあったのだろう。
 もし、女史の諫めを聞き、政治の世界などに色気を示さなければと思うが、それは後の祭りというか、他人の要らぬお節介かもしれない。

 もう1点気になるのは彼の多少横柄とも思えるような質問の仕方だ。年長者には敬語とまではいわなくても、普通はもう少し丁寧な言葉遣いをするだろうと思うが、それがない。この本を彼が上梓したのはまだ40歳前である。そんなところに引っかかる私がおかしいのかもしれないが。