栗野的視点(Kurino's viewpoint)

中小企業の活性化をテーマに講演・取材・執筆を続けている栗野 良の経営・流通・社会・ベンチャー評論。

企業版勝手連

2004-09-10 12:10:20 | 視点
「企業版勝手連」

 Give & Giveの精神で活動することを念頭にして、会のネーミングを参加者全員から募ったところ、それこそ1人1案、いろんなネーミングが出た。
その中で最終的には東京のメンバー・HTP研究所の伊藤克彦氏(当時はリクルート映像在籍)が提案した「リエゾン21」の「リエゾン」と、九州を付けて「リエゾン九州」というネーミングにした。
 九州と付けたのは我々の存立基盤は九州であり、足元を大事にしたいという拘りと同時に、全国各地に同じような組織が出来ることを期待(例えばリエゾン中国、リエゾン四国、関西、東北)したからだ。

「風が吹けば桶屋が儲かる」

 リエゾン九州を立ち上げた時、「風が吹けば桶屋が儲かる」と皆に言った。
目先の直接的な利益を考えなくても、地元経済がよくなれば必ず皆もその恩恵を受けるはず。だから人のために活動しようじゃないか、と言ったのだ。
情けは人のためならず、だ。

 本来、日本人はドライな金の亡者ではなく、地域協同社会的な助け合いの精神を持った人間だった。それがいつの頃からか、アメリカ経済のドライな感覚(それも表面だけの)を信奉し、助け合いの精神を忘れていった。
 一体、いつの頃からそうなったのか。
恐らく狩猟民族、農耕民族という言葉がしきりに言われるようになった頃から、次第に農耕民族的なものは時代遅れ、マイナスというように見られ出したのではないか。
そして、日本人の心がそれ以前とそれ以後にはっきり分かれたのはバブル期を境にしてである。
バブル期は失われた10年と言われるが、失われたのは日本的な心である。

 どうも日本人は白人(アメリカ人)コンプレックスが強くて、なんでもかんでもアメリカに追随(見習うとも言いますが)しようとする。
とにかく極端だ。
日本的な経営は時代遅れで悪、アメリカ的な経営は善、義理人情、浪花節的なものは悪、ドライでビジネスライクなものは善。
そういう考えが企業のトップから身近な所に至るまではびこっている。

 リエゾン九州を立ち上げた時も散々言われた。ボランティアではダメだよ、と。
彼らの考えではボランティア=無責任、ビジネス=責任だ。
果たしてそうだろうか。
ビジネス優先の考えこそが現在、様々な問題を起こしているというのに。

個人の能力をフルに発揮する喜び

 ひと言で言えば、助けてもらいたい企業ではなく、助けたい企業を応援する、ということだ。
 こんなに面白い(ユニークな)商品があるのに、あるいはいい商品があるのに、どうして売れないのか。
こんなにいい技術を持っている会社にはもっと頑張って欲しい。
そう思える企業を応援したい。
だから、応援する方もワクワクする感動を味わえるのだ。
自分のことばかり考える利己的な世の中に、こんな活動があってもいいではないか。

 恐らく仕事では、誰もが自分の持てる能力のすべてを出してないし、使える環境にないはず。いわば密かに眠っている能力、それを使える場がリエゾンなのだ。
 例えばデザイナーなら、仕事ではデザイナーとしての能力を、会計士や税理士なら企業会計や税理面の能力を、弁理士なら特許関係のことしか期待されてないだろう。
だが、個人としてみた場合、仕事としては税理士をしていても、実は建築に関してかなり勉強していたり、照明について一家言持っているなどということがある。
 だが、そうした能力は自分の専門の仕事では生かされない。
つまり眠ったままなのだ。

 職業としての期待ではなく、個人が持っている能力への期待と、それを惜しみなく出せる環境。
企業版勝手連だから、それができるし、そんなことをしてみようじゃないか。
 報酬は自分の能力をフルに活用できる喜びと、時々仲間と一緒に歓談できる美酒・・・。それでは不満だろうか。


最近、気になる言葉遣い

2004-09-10 12:09:18 | 雑感
 歳を取ったせいだとは思いたくないけれど、最近、妙に気になって仕方がないことがある。
 ある観光地に行った時のことである。
某資料館に入り、陳列品を見ながらちょっと説明を求めたところ、係の女性が丁寧に説明をしてくれる様子に感心してしまった。
人間不思議なもので、相手の態度に好感を持つと姿形まで美しく見えてくる。
まあ、それはさておき、丁寧な説明に聞き惚れていたのだが、その女性が突然、口にしたひと言でガッカリしてしまい、それを機に資料館を後にしたのだった。
彼女が口にしたひと言とは「私は好きくないんですが」という言葉だった。
その女性は40代半ばから50前後ぐらいに見えた。
本来ならきちんとした言葉を喋られる年代である。
それなのに「好きくない」と言うのである。
その言葉がおかしいということすら気付いていない様子だった。
そういえば、「好きくない」という言い方が一時期流行ったことがある。
やはり一時期流行った女子大生言葉と同じで、ある年齢に達すると使わなくなる消耗語だと考えていたが、いまでも時々この言葉を口にする人達がいるのは正直驚きである。
ともあれ、それまでは知識もありそうな女性に見えていたのが、この一言で途端に薄っぺらな女性に見えてしまった。

 このような経験はままある。
50代のある人と話していた時、相手が言葉の語尾を一々上げるのに閉口したことがある。
語尾を上げると質問になるからだ。
そのため、こちらは何か尋ねられているのかと思ってしまうばかりか、非常に耳障りで、話の中身よりそちらの方に気を取られてしまった。
どうも若い社員と仕事をしているうちに、彼らの喋り方を真似てしまったらしい。
真似たというより若者におもねったと言った方がいいだろう。
ただ、それから数年して社長になった後に会った時は普通の喋り方に戻っていたのでホッとした。

 最近、このように耳障りな言葉が本当に多い。
「私的には」という言い方もそうだ。
発生源は長嶋茂雄ではないかと思うが、この言葉は30代以下の人がよく使う。
ちょいとイイ女でも「私的には」なんて言われると、途端に幻滅してしまう。
 因みに「栗野的視点」の「栗野的」は中国語表記で「栗野の」という意味であり、最近の流行り言葉を真似たわけではないのでお間違いのないように。

 多いといえば、過去形の言い方もそうだ。
「よろしかったでしょうか」とやられる。
誰が、あるいはどの地域で言い出した言葉なのか分からないが、いまではどこでも耳にする。やがて「よろしいですか」という言葉の方がなくなりそうな勢いで広まっている。
 「言葉は生き物だから変わっていく」という人もいる。
別に否定はしない。
だが、最近の言葉の乱れはあまりにひどすぎる。
あまりにも耳障りな言葉はやはり注意し、訂正していかなければ、悪貨が良貨を駆逐することになる。
口うるさいと思われても、私はできるだけ訂正するようにしている。
訂正し、正しい言い方を教えてあげると、若い人は存外素直に聞く。
知らないから間違った使い方をしているだけで、正しい言葉遣いを覚えれば言葉は治るということだろう。
だが、「よろしかったでしょうか」という言葉は、最近の「大人」からもよく耳にする。
そういう「大人」は言葉を知らないのか、それとも若者におもねって若者言葉を使っているのか。
大人が若者におもねると社会は乱れてくる。
しっかりしろ、と言いたい。

 冒頭の観光地に行った時のことだ。
今度は70代と思しき男性が「おごちそうさま」と言うのを耳にした。
これを漢字で書けば「御御馳走様」となる。
本来、「馳走になりました」という意味の言葉に接尾語の「様」を付け、それに接頭語の「ご」を付けて「御馳走様」。それにさらに「お」を付けて言っているわけで、本来の言葉からすれば三重丁寧語になっている。
この類の言葉に「おみをつけ」がある。漢字で書けば「御御御付け」だ。
なんでもかんでも「お」をつければ丁寧な言い方になると勘違いしている、にわか貴族みたいなものだが、最近「おごちそうさま」という耳障りな言い方もよく耳にするから困ったものだ。

 まあ、声高に言うほどのことではないのかも知れないが、言葉はその背景にある世相を映している。
アクセントをわざと平坦にした若者言葉は、実はその裏に物事を平坦・平板に考えてしまおうとする無気力さの表れではないかと思う。
 こんな若者が増え、そんな若者におもねる大人が増えていく日本が、中国を筆頭とするアジア諸国に追い越されていくのはある意味当たり前かも知れない。
これが私一人の思い過ごしでなければいいが・・・。